軌跡

03 無味空論のモノローグ 


「つーわけで、オレ、1年Z組に編入することになったから」
「馬鹿なんですか?」

 開口一番、切り捨てて。シェリルは噛み終えたガムよりも鬱陶しい男のあっけらかんとした笑顔に顔を歪めた。

 8月に入ってまだ日も浅い時のことだった。次の計画の仕込みの確認とそれを踏まえた微調整のために集った後、常の通りに飛行艇からトリスタまでの夜道を行く中で、彼は唐突に言ったのだ。「単位が足りないから、1年のクラスに仮所属することになった」と。
 何の冗談か、そもそもここで冗談を言う意味が分からない。と、シェリルがただ眉を顰めただけだったのは、最初のうちだけだった。
 話を聞くうちに、冗談がどんどんと信憑性を増し──果てに、冗談でも何でもないと理解したシェリルは、最大の侮蔑を込めた眼差しを目の前の男に送る。呆れに呆れて、もはやそれしか出来なかった。

「そもそも、出席不足は言い訳にならないでしょう。最低限授業に参加したなら、試験でその可否が問われるはずですが」
「や〜……試験の点が、な〜……」
「何のために私から授業のノートを奪っていったのですか、クロウ・アームブラスト」

 中間試験の1週間前ほどに、えらく深刻ぶった声で呼び出してくるものだからどんな大事かと思ったら、その要件が「勉強のためにノートを貸してほしい」だったことに対して、蔑みの眼差しを向けた記憶は随分と新しいものである。
 その言い訳が、「お前だってオレが試験勉強にかまけるよりも、“別のこと”に力を入れてる方が良いだろ」だとか「これもリーダーのサポートの一環だって」だとかだったことを、忘れたとは言わせない。

 特段アーツを使ってもいないのに、まるで周囲が凍り付いたような気がした。怒っている側のシェリルが感じているくらいだから、怒りを向けられている張本人はもっと顕著に寒気を覚えていることだろう。

「いや、ほら、聞けって」

 分かりやすく慌てふためいて──恐らくはそれもポーズであるが──男はふ、と声を潜める。

「……宰相殿が、《鉄血の子供たち》のガキをZ組に編入させるらしい。他にも狙いはあるのかもしれねぇが……まぁそのうちの一つは確実に《C》の調査だろう」
「それは……そうでしょうね」

 トールズ士官学院の関係者──というのが、情報局で挙げた《C》のプロファイルの一つであることは、既にこちらでも把握済みの事実だ。鉄血宰相が自身の肝煎りの《子供たち》をわざわざ送り込むというなら、きっとこれ以上の理由もあるまい。
 その前提を聞かされたなら、シェリルも彼の主張に理解を示すしかない。元来頓着する必要もない“卒業”を引き合いに出して教官に泣きつき、自らもZ組への編入をもぎ取ってみせたのは流石の口八丁と言うべきか。

「そして私が、“少々”餌を撒くということですね」
「よく分かってんじゃねぇか」

 かたや同じクラスで行動を共にするクラスメイトの、明るくて気さくな劣等生。かたや違うクラス違う学年の、周囲との交流を持とうとはしない優等生。少女は注視すべきを、無意識によくは知らない存在へと定めるはずだ。
 加えてシェリルは、基本的に《C》が学院に不在となる時には共に行動するようにしている。だから、疑うべきタイミングは必然的に重なる。その中で、彼に一つでもアリバイを与え、代わりにこちらでアリバイを作らなかったなら──そういう単純な話だ。

 あからさまにならないように。けれど確実に、不審の胤を撒くとしよう。シェリルはそう、目を伏せる。
 ……とは言え、

「最初からそんな作戦だった、は通りませんよ。クロウ・アームブラスト」
「あ、やっぱり?」
「当たり前でしょう」

 結局それが良いように利用できたというだけで、この男の学業不振成績不良は男自身の怠慢に他ならないのだ。
 ふう、と自然に息が漏れた。……そして同じように自然に、ぽつりと言葉が溢れた。つい先程合わせていた人物の顔が、頭に過ぎってしまったのだ。

「……この話、《G》の前でしなくて良かったですね」
「ああ……確かに、すげぇキレられそう」

 地頭が良く回転も速いとはいえ、故郷を出てからの数年間は座学に通じる教養に全く触れていなかったリーダーが、高等教育機関であるトールズ士官学院に入学すると決めた時。自ら進んで教鞭を取り、文字通りの鞭で扱き上げるようにして彼を入学試験合格に導いたのは、それを生業ともしていたギデオンだった。
 入学後も、何かと宿題の面倒を見てやっている様子を目撃したことがあるが──それが彼なりに、我らがリーダーが留年の憂き目を見ないよう気を回したが故の行動だったとするならば、その怒りは容易に沸点に到達することだろう。

「つーわけで、ギデオン先生にはこの件は内密にな」
「納得はし難いですが、賛同はしましょう。……あの人の気を揉ませる事は、私も望みません」

 8月31日に、クロスベルで開催されることになった西ゼムリア通商会議。彼は、その地を襲撃する部隊を率いると自ら立候補してみせた。
 自身の最大の得物でもあった《降魔の笛》を失くしたからと。己の身は、後は捨て石として扱うのが相応しいと。実直に、堅物に、そして賢明に察してしまったからこそ、彼はクロスベルへの片道切符を自ら手に取った。
 誰も、その決断に口を挟むつもりはなかった。ただ黙って頷いた。シェリルはともかくとして、目の前の男は──リーダーを名乗る青年は、自らが引きずり込んだ地獄へと先に向かう“先生”に、決してどんな情を抱かないはずもないのに。

 とはいえ、わざわざ深入りはしないし、したくもない。シェリルは内心呟いて、言葉を紡ぐことを止めた後頭部を見つめる。
 分かっていてなお、人と関わる道を選んでいるのは彼自身なのだから。そうやって関わる事が作戦のために有用だからなどという言い訳は、彼自身の実益すら孕んでいるのだから。
 自ら折り合いをしっかりとつけると本人が決めている以上、シェリルが口を出すことではないのだ。

「ま、お前が仲良くしてる留学生のこともしっかり探ってきてやっから、元気出せって。女の好みとか性癖とか、知りてぇだろ?」
「…………はぁ」

 どっと疲れがきた。それが本心を隠すための戯言なのだとしても、鬱陶しいことはこの上ない。
 深く溜息を吐いてニヤリと気持ちが悪いほどに歪められた顔の横をさっさと通り抜ける。無視すんなとかなんとか、煩い声を無視して、夜の闇と眠りに包まれた遠い町を見据えた。

 この季節になると、日が暮れていても蒸し暑い。肌に纏まりつく不快感に、シェリルは気が付かないふりをして歩みを進める。
 そんな憂いなど、自身に赦すつもりは毛頭なかった。





 ──目を開くと、そこには既に見慣れてしまった褐色が見えた。
 ぼやけた視界が焦点を結んで、向かいの席に座っていた1人の青年を形取る。肌の色が白いワイシャツと赤の制服に齎すコントラスト。シェリルは、やたらと凝っているように感じる自身の首に対しても全て引っ括めて、顔を顰めた。

「起こすべきか悩んだんだが、下手に声を掛けたものか迷ってしまってな。先輩がうたた寝をするのも珍しい」
「…………お気遣いどうも」

 きっと疲れているんだろう、早く帰って休んだ方がいい。そんな事を宣って微笑むその顔には全くもって純粋な厚意しか読み取れなくて、厭に癪に触った。

 椅子に掛けたまま意識を落としていたせいで、不自然な体勢で固まってしまったままの首を一つ回して鳴らす。パキ、と骨が音を鳴らすと多少はマシにもなった気がする。所詮は気がするだけ、なのだが。
 額を抑えて、シェリルは開いたままだった書物に栞を挟むと、それを丁寧に閉じた。複数名の政治学者による共著として10本の論文が掲載された文献だ──残念なことにまだ、最初の2名分しか読めていない。

 実際に疲れているのだろうとは思った。最近、どうにも夢見が悪い。理由など、特段思い当たることはない。思い当たるつもりもない。
 表紙のタイトルに書かれた編者名の隣に示された“他”の文字を密やかに指でなぞってから、シェリルは立ち上がった。

「帰るのか?」

 帰るはずがない。少し居眠りはしたとて、まだ委員の仕事は残っている。愚問には、特段言葉を返す必要もないだろう。

 返却棚には見ない間に10冊は本が溜まっていた。それを2冊ずつ掴んで左腕に抱えて、更にもう2冊──と手を伸ばしたところで、5冊ほどが大きな手に掴み取られて消えていった。無言で付いてきていたらしい誰かさんの手が、追加で残りの3冊も掻っ攫っていく。
 本はオレが運ぼう、と端的な声。近くにいた司書のキャロルもにこやかに「よろしくね」と既に日常のように声を掛けてくるから、その場で渋い顔をしているのはシェリルだけだった。
 もう良い。さっさと済ませて、今日はさっさと部屋に戻って本を読み直そう。内心舌を打って、シェリルは自分の手元にある本のジャンルが小説であると確認してから、迷うことなくその棚の方へと足を運んだ。

 本を全て元の位置に戻し、書架の整理を終えた頃には、いつもの帰宅の時間になっていた。読みかけの本の貸出手続きを行って、身支度を整える。
 鞄に本を仕舞う前に、表紙をまた一つ撫でた。表紙をめくって、表題紙を捲って、目次へと。その中の一つの行に書かれた名前を、指でなぞるのだ。きっとこの本は、まもなく図書館から無くなるだろうから。焚書とされる。共著者達の列に連なるあの人の名前が見つかったなら、きっとすぐに。

 ──あの日、ガレリア要塞付近で待機をする飛行艇の中で、最初に連絡を受けたのはシェリルだった。そして、“最期”の連絡を受けたのも。オルキスタワーを襲撃する部隊との連携のために繋げたままにしていた通信機が、非常事態を伝えたのだ。
 ノイズの向こうに聞こえる銃声。無線の向こう、いくら呼び掛けても応えはなくて。悲鳴と絶叫の果てに、耳を打ったのは苦しげに咳き込み血を吐く音と、微かに一言。あの人の声が「無念」と。

 要塞内で工作を行うヴァルカンとスカーレットにその情報を伝えたのはシェリルだ。いつもの通りに淡々と、業務報告を行った。作戦の進行状況と時刻の経過を告げる一環として、淡々と。


 ──《G》が、クロスベルに向かった部隊が全員、殺されました。どうやら宰相が猟兵を雇っていたようで、それで、


 その結末を伝えようとした時、口の中が何故だか乾いていた理由を、シェリルは今もこれからも、知らないことにしている。

 図書館の扉を開いて外に出た。その隣にもう1人居る状況を、そろそろ“よくある事”と認知するようになり始めた自分の脳が腹立たしい。しかし数ヶ月に亘って、週に2回以上のペースでこうされていては、脳だって錯覚はするだろう。つまり腹を立てるべき相手は、やはり隣の青年だった。
 ふぅ、と嘆息してシェリルは帰路に就く。──否、就こうとしたところで足を止めた。いつかのように、視線の向こうに2人連れの男女の姿が見えたからだ。

 無駄に高い位置にある銀髪の下で、花の色がひらひらと揺れている。大袈裟なまでに戯けた男の身振りに少女が静かに首を傾げると、彼はその“大根役者の演技”をそっと収めた。そして随分と大人びた様子で言葉を交わし始めるのだ。
 眉が寄った。矢鱈によく喋ってみせる、“誰とも仲良くできる軽薄な男子学生”らしからぬ姿に。以前は「随分と、楽しそうに話していましたね」と告げたが、その言葉はもう通用しないだろう。次に釘を刺すならば、それは「嬉しそうに過ごしていましたね」になるか。

「先輩はクロウと親しいのか?」

 最初の時よりも近づいている距離を静かに目で追っていると、声が掛かる。こちらも無駄に高い位置にある青い瞳が、シェリルを見下ろしていた。
 振り返ったことで交わった視線をすぐに解く。その間に、件の2人は図書館と交わる道を通り過ぎて正門へ向けてその肩を並べているようだ。もういいか、とようやく歩き始めることにした。

「2人はあまり話しそうにないタイプだから、交流があるのは少し意外に感じるな」

 他意はない発言だ。そう分かっていても眉を寄せかけて、止める。否、逆に眉を寄せた方が自然かと思い直して、素直に表情に出した。

「同じ学年ですから。ある程度、顔くらいは合わせます」
「ふむ……そういうものか」

 知り合いと称されることへ不本意である旨を暗示してやると、彼はそれ以上何を聞くこともなかった。元からそこに特段の興味を示していなかったのかもしれない。
 言ってしまえば一つの話題の提供でしかないだろう。簡単に答えたなら、それ以上の話は膨らみはしない。不毛なやり取りは、分厚い壁を隔てた先の真実に光を当てることなど決してないまま、終えられる。

 それよりも、あの2人の帰る先は隣にいる青年と同じはずだ。級友、だなんて呼び方をされる立場にいるのだから、合流なりして共に帰ればいい。その方がシェリルとしても都合が良い。

「彼らの邪魔をするのは褒められたことではないだろう。それに、オレは先輩と帰りたいからな」

 特段口に出したわけではない事案は恐らくは視線の元に明らかになって、否定された。彼らの邪魔はしないのに、シェリルの邪魔は平気でするらしい──随分と可笑しな話だ。

 とは言っても、彼との帰り道はいつだって静かなものだった。これまでの、1人で辿るものとそう変わりはないと感じられるほど。だから気にする必要など本来は無い。シェリルはただいつもの通り、真っ直ぐに寮への道を黙って辿れば良いだけなのだから。
 けれどそれはそれで、この青年の意図が読めなくて不快だった。ただ1アージュ離れた隣を数分間歩くためだけに、眉を寄せられて邪険に扱われながらも寄ってくるなんて。

 何故そんなことを、と問うたなら、彼は何を答えるのだろう。
 ──好きだから、とでも宣うのだろうか。なんて、馬鹿馬鹿しい妄想だ。そんな想像をした自分のことを、むしろ蔑みたくなる。

 いつの間にか正門を抜け、第一学生寮への分かれ道へと辿り着いた。青年はいつもの通り静かに微笑んで、

「また明日」

それだけ口にして、去っていく。小さな町の片隅にある、彼らの住まう寮の方へと。

 かの“顔見知り”の青年が、数日前に得意満面で話していた言葉を思い出す。
 あいつの好みのタイプを聞いてきてやったぜ、と。嫌がらせか何なのか知らないが、戯言を実行してきたままに1人で話し続けていた。確か──


 ──見た目は特にこだわらないってよ。胸のデカさとかも特に興味ないんだとさ。
 ──「心惹かれたなら、その人が“好きなタイプ”というものだろう」って、あいつらしいよなぁ? って、Z組の連中は全員そーゆー模範回答ばっかなんだけどさ。オレは当然胸がデカい女が好みだぜ? 小柄で華奢な奴より、程よく肉感がある方が抱き心地も良いしな、うんうん。
 ──つまりは中身が大切なんだと。要するにあいつは、


 ああ、そうだ。要するに、あの青年は。


 ──お前の内面に惚れてるってことらしいな?


 見る目がない、ということだ。
 あの男が何をどうしてそんな結論に至ったのかなど、さっぱり分からないが。一方的に聞かされただけのこの独り言が大方事実だとするならば、真実はそういうことだろう。

 赤い制服の背中が遠ざかっていくのを見つめながら思う。
 恐らく彼は節穴の目を持っている。何を勘違いしたのかは知らないが、勝手に虚像を作り出してそれを愛しているだけなのだ。独りよがりに好意を寄せて、そこに見合う何かを求めているだけの愚かな人物なのだ──馬鹿馬鹿しい。
 顔が歪む。舌打ちをして、寮へと踵を返す。振り返りたくもない大昔のことを、意味もなく思い出してしまった。

 ……もし仮に。本当に、仮にだが。彼が妄想ではない“シェリル”に好意を寄せていると言うのならば。
 異国の文化はやはり相容れないものだと嘲笑するべきだろうか。それとも彼個人の趣味があまりにも悪いのだと憐れむべきだろうか。はたまた相当厄介な性癖でも抱いているのかと心配でもしてやればいいのだろうか。──なんて。

 心の隅で、そんな意味があるとも思えない問答を、呟いたりもした。


無味空論のモノローグ



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