軌跡

44 過ぎし白夜と遠雷の呼び声に 1/5 


 どんな状況であろうと日は暮れ夜が更け朝がやってくる。
 たとえリィンが与えられた選択に悩み眠れずに過ごしたとしても、レイチェルが艦の厨房から盗っ人よろしく夕飯を頂戴して勝手な自己嫌悪に陥ったとしても、だ。

 硬い床の上で転がり仮眠を取っていたレイチェルの体調は、幼少期から慣れ親しんだ寝床に酷似した環境に割と好調だった。……いや、単純に乗り物酔いでプラスマイナスゼロどころかマイナスに100は振り切れてはいたけれど。
 余分に盗んでおいた林檎を齧りながら、新しい一日に動き出した艦内の様子を見て回る。とはいえ、昨日と特段何かが変わるわけでもないが。

 唯一の“変更点”と言うべきだろうか。そしてレイチェルの現在の最たる懸念であり最も動向を窺うべき彼の元へと向かうのは、他を全てを見終わった後にした。時間を確認する限り、もう昼も近い11時手前になってしまっていたが……無駄にこの船が広いのがいけないのだ。
 貴賓区画の一室を用意されたリィンは、きっと昨晩見た時と同様に所在なさげにソファに掛けて、色々と頭を悩ませているのではないだろうか──なんて、そんな予測を立てながら足を向ける。

 が、予想に反して耳を打ったのはどことなく楽しげな声で、同時に漂ってくるのはどこか食欲を誘う良い匂いだった。
 ん? と首を傾げて、レイチェルは一層の気を遣いながら部屋の上までやって来た。よいしょとその場に腹這いになり、通気口から見下ろしてみる。

「てっきり昨日の夜みたいな宮廷風の料理かと思ったよ」
「なんだ、そういうのが好みか? だったらコックに頼んでちゃっちゃと用意させるか」
「いや、その必要はない」

 そこに見えたのは黒髪ともう一つ、銀髪の頭頂部だった。このたった一日でパンタグリュエル内のありとあらゆる頭を見下ろしてきたレイチェルにはすぐに分かる。
 どうやらクロウが、リィンを気にしてこの部屋を訪れていたらしい。

「ハンバーガーも美味しそうだし、ありがたくご馳走になるさ」
「おう、食え食え」

 2人が囲んだ机の上には、ランチボックスが置かれていた。その周りに豪勢にも広げられているのは、レイチェルの元にまで漂ってきている匂いの、主たる要素達。
 揚げたてと思しきフライドポテトと、オニオンリング。炭酸が弾けたジュースに、大きなハンバーガー……

「……お腹減ったな」

 昨晩は厨房に忍び込んで無駄に多く作られた料理の余りを拝借したわけだから、なんだかんだと普段よりも豪勢な食生活を送ったのだが。個人的には、ああいう上品な食べ物よりもこういうジャンクフードの方が舌に馴染むのだ。なんせ、根っからの貧民なもので。
 いいなぁ、美味しそうだなぁ。

 ぼやいたレイチェルは、まるでおやつ替わりにでもするかのように、取り出した酔い止めを口に放り込んだ。こういうのは薬が切れる前に継続的に飲むのが大事なのだ……が。
 ……足元では豪華な部屋で美味しそうなバーガーに2人して齧りついているのに、かたや天井裏で薬を飲んで過ごすなんて。悲しい。格差だ。今すぐにでも通気口を突き破って降り立って、「私にも一口ちょうだい!」と叫びたい。いや、しないけど。

「これは……普通のハンバーガーじゃないんだな。白身魚のフライを挟んでいるのか」
「フィッシュバーガーってやつだな。なかなかイケるだろ?」
「ああ、タルタルソースもちょっと珍しい味付けで……これは凄く美味いな」

 フィッシュバーガー! 何それ余計に美味しそう!

 どちらかと言えば肉より魚が好きなレイチェルは、思わず前のめりになった。じゅるり、反射で唾液が普段より多く分泌されてしまう。
 ああ、美味しそう。それが涎になって溢れてしまわないよう飲み込むと、同時に薬は胃の中に落ちて消えた。

「お気に召したようで何よりだ。久々に厨房で腕を振るった甲斐があったぜ」
「これ、クロウが作ったのか!?」
「ま、さすがにシャロンさんの足元にも及ばないけどな。オレの故郷──“ジュライ”のソウルフードみたいなもんだ」
「あ──」

 美味しい、と顔を綻ばせていたリィンは、ふ、とその表情を翳らせた。
 目の前の人があまりにも自然に口に出した、“ジュライ”という地名。それは、彼の中にある故郷が決して色褪せたものではないことを示して──同時にその郷愁が、今まであまりにも綺麗にその胸の内で秘められ続けていたのだということを伝えたのだ。

 クロウはそんなリィンの表情に気が付いたようで、ああ、と少しバツの悪そうな顔をした。まるで気まずそうな様子から察するに、本人としてはリィンがこんな反応をすることなど予想していなかったのだろう。
 リィンは伺いを立てるような慎重さで口を開いた。ジュライ、という言葉を主だって耳にした数ヶ月前のことを。8月の実習地で、クロウとレイチェルを含んだB班が向かった土地の名前がそうであったことをなぞった。

「……クロウは、自分の故郷に行ってたんだな?」

 応えるクロウの顔は、リィンの神妙な声にまるで反するように穏やかなものだった。偶然にもな、と頷いて、彼はどこか遠い目をする。

「街並みも結構変わっちまったから少しばかり戸惑ったが……懐かしかったのは確かだぜ」

 ──あの時、列車から海を眺めるクロウは、きっと今と同じような顔をしていた。他の誰にも見えない何かを見つめて、寂しそうで、それでもどこか楽しそうな、そんな顔。
 リィンよりずっと前から知っていた彼の故郷のことを、今初めてレイチェルは彼自身の口から聞いたのだと、気が付いてしまった。寝起きと乗り物酔いでぼんやりとしながら見上げたあの瞳を思い返して、少し目を伏せる。

 そっか、懐かしかったのか、そう、だよな……。

 ……というか、ジュライに実習に行った時、フィッシュバーガーなんて食べなかったよな。折角ならそれとなーく皆で食べようってプレゼンしてくれたら良かったのに。意地悪。フィッシュバーガー、食べたい。
 そんな権利などないくせに勝手にアンニュイになった思考を、食欲方面へと無理矢理捻じ曲げて首を振った。
 今更、どのツラを下げてその心の内に同情などしているのだか。そう、あの夜の海で昏く輝いていた紅い色が咎めた気がしたのは、果たしてレイチェルの妄想なのだろうか。

 「気になっていたんだ」と、リィンは言った。その正体を知らされたときからずっと、何故《帝国解放戦線》に入ったのか、一体どんな事情でオズボーン宰相に憎しみを抱いたのか、それが気になっていたのだと。

「──教えてくれ、クロウ。クロウが辿ってきた道……ジュライがどういう場所で、クロウがどう過ごしてきたか。士官学院に入って、会長たちと知り合うまで何をしていたのか」

 それ、もう洗いざらい全部なんじゃないか、と。レイチェルが思ったことと同じことを、恐らくクロウも思ったのだろう。
 クロウは「ハッ」と鼻で笑ってリィンを見遣る。

「野郎の過去なんか詮索したって面白くねぇだろ」

 まるで気まずそうな言葉だった。そして一瞬現れてしまったその感情を掻き消すように、彼はニヤリと唇を吊り上げる。いつも教室でじゃれついていた時のような、食えない笑みだ。

「そういうのは、Z組の中の気になる子くらいにしとけよ。アリサか? ラウラか? 委員長ちゃんにフィーあたりか? まさかミリアムってことはねぇだろうし、やっぱレイ──」
「知りたいんだ、クロウ」

 ペラペラと立て板に水のように紡がれた言葉を、リィンは遮った。クロウのそのまくし立てるような弁舌が、話を逸らそうと意図されたものだと分かっていたからだろう。
 もしもそれがいつもの、休み時間の教室での出来事だったなら。リィンはきっと「何馬鹿なこと言ってるんだよ」なんて呆れて、困った顔をして、そのまま有耶無耶にされていたに違いない。けれど、今は休み時間でも放課後でもない。

「今度こそ……50ミラの利子代わりだ。それを知らない限り、俺は……俺たちは先に進めないと思うから」
「……お前……」

 クロウは呻く。余裕ぶって見せていた笑みは引っ込めざるを得なかった様子だった。誤魔化すように立ち上がって、リィンに背を向ける。

「言っておくが、そんな大層な話じゃねえぞ?」

 そうして視線の先に向けられた窓の向こうに広がる青空は、どこまでも遠く続いているのだろう。昨日発ったばかりのユミルにも、トリスタの士官学院にも、そしてクロウの故郷であるジュライにも。
 見つめて透けて見えるわけでもないくせに、愁いだけを呼び起こさせながら、それはどこまでも果てしなく続くのだ。

 彼が放った断りの言葉は、この場においてはほとんどただの前置きでしかない。「ならいいや」なんて返ってくるはずがないと分かってなお、言い訳のように連ねられる枕詞。
 頭を掻いて、肩を竦めて、クロウはなおも言葉を続ける。

「お前やレイなんかの過去に較べりゃ、こんなモンかっていうくらいの……平凡で、ささやかな昔話。それでも良いのかよ?」

 ……って、あれ、私? 不意打ちで呼ばれた名前に少しびっくりした。まさかここに隠れていることがバレているのかと思ったものの、矛先がこちらへ向くことはなくて、杞憂だったと一息つく。
 まぁ確かにZ組のクラスメイトの中でも、平凡とは到底呼べない過去を過ごしてきた1人だとは自覚している。ここで一例に挙げられるのも致し方ないだろう。

 リィンは頷いた。真っ直ぐにクロウを見つめて「それが知りたいんだ」と、伝えていた。それは、例えば帝都の旧スラムに彼らを招いた時のレイチェルに向けたものと同じ、真摯な瞳だ。
 何も変わらない。まるでクラスメイトへと対するままの表情の彼に、クロウは苦笑の中で少し眉を下げる。まったく、と呆れたように吐き出したままに、彼は空を見つめたまま口を開いた。

「……ま、よくある話さ。歴史の教科書あたりには、それこそ幾らでもありそうな……そのまま忘れ去られちまっても、おかしくないような話だ」

 純粋な眼差しに絆されたのだろうか。その身の上話は、存外すんなりと彼の唇から零れ出ててくる。
 もう正体を隠す必要がなくなった今では、わざわざ隠し立てする理由もないというのも当然だが──“それ”は、リィンがその想いを伝えた故に聞き届けることを許された言葉なのだろう。

 だから、盗み聞きをするのはあまりにも不義理が過ぎる。自分がここで聞いていてもいいものだろうか、とレイチェルは少したじろいだ。……けれど、結局その足を、身を動かすことはしなかった。耳を塞ぐことすらもしようとは思わなかった。
 そっと体勢を変える。膝を抱えて、その場に座り込む。低い声が紡ぐ言葉を一文字すらも聞き逃さないように、耳を澄ませる。
 その胸の内を、心の中を、何故だか少しでも多く知りたいと思う気持ちには勝てなかったから。


過ぎし白と遠雷の呼び

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