02 昏き終わりのコッペリア その家はあまりに広く、暗く、そして寒い場所だった。所用で近くに赴いて、そして義理とばかりに立ち寄る度に後悔する。ああ、来なければよかったと。そう。 ──ああ……ああ、××××! 愛している! ──いや……やめてください、お父様……! ──愛している、君を、君だけを! だからどうか、 「“愛していると言ってくれ”」 遠い記憶を唇がなぞった。そして過去に触れたそれは、忌々しく歪めて吐き捨てられる。 「……言うわけないじゃない。馬鹿みたい」 そうして積み重なった呪詛は、目には見えない亡骸ばかりを積もらせるのだ。たった一つの調度品すらも失われた床の上に、塵芥よりも深く、深く。 シェリル・アデレードは、その名が示す通りアデレードという名を持つ男の元に生を受けた。 ラマール州の南部に領地を有する男爵──それがアデレードの身の上であった。所有する土地は然程大きいわけではなかったが、土壌が豊かで日当たりも良く、鮮やかなオレンジがよく育つ場所。それらを育て収穫する農民たちに寄り添い、知恵と力を尽くしたお陰で、男爵が治める土地のオレンジはやがてラマール州の名産として帝国各地にも出回るようになったのだ。 そして土地はますます潤っていく。領地はますますの発展を遂げて、男爵はその名を広く知られながらも穏やかに日々を過ごしていた。 ──と、ここまでは過去の出来事だ。 果樹栽培に関する本で数ページほど割いて説明されていることもある、誰もがとは言わないが誰かは知っている、分かりやすいとある貴族の歴史。 そして現在は、ほとんど誰も知らないような、目も向けないような──そんな小さな衰退の終点に立っている。 アデレード男爵家は、今は“非公式”的には存在していない。というのも、領地の運営に係る全ての実権を、四大名門であるカイエン公爵家に委譲したからだ。 当主として領地の運営に力を入れていたはずのアデレード男爵は今、医学の発展が目覚ましいと言われるレミフェリア公国で“療養”の生活に身を置いている。病名は──まぁ、あの手この手と様々名付けられたものだが、一つの事実を端的に表してしまうのなら病んでしまったのだ、心を。 仕事ではなく、プライベートの話だ。社交界でも有名な愛妻家であったアデレード男爵は、愛する夫人との間に娘も設けて絵に描いたような幸せな日々を送っていた。 けれどそんな幸せがある日瞬く間のうちに崩れてしまった。栄枯、と対の意味の言葉が図らずも並べられて熟語を作るように。全てを順風満帆のまま生きられると思うこと自体が間違いだというのに、彼はそれを受け止めることができなかった。 現在から遡ると、10年前の出来事である。男爵夫人の乗った導力車がエンジントラブルを起こし、そのまま崖から転落したのだ。男爵の元に帰ってきた妻は物言わぬ亡骸。己の愛した髪は血で染まり、瞳は顔ごと潰れて無残な姿。愛妻家であった彼は、突然の悲劇に大層ショックを受けた。 そして男爵は心を病んでしまった、と。まぁ──そんな物語にもならないようなよくある話である。 先にも述べたように、男爵と夫人の間には一人の娘がいた。名などあえて示すまでもないだろうが、それは夫人と同じ髪、夫人と同じ瞳、そして夫人の面影をよくよく宿した子だった。 夫人の葬儀を終えたその夜。屋敷に戻った男爵は、自分の娘をその名では呼ぼうとはしなかった。 ──××××。愛しているよ。 彼は、彼女を自身の妻の名で呼んだのだ。 穏やかで理知的な反面、屈強とは程遠い位置にいた男爵には、愛する妻を突然に失った事実があまりに耐え難かったのだろう。幻覚を見るように、幻聴を聞くように、彼は妻を求めてしまった。 だから、“そう”だと信じ込んだのだ。まだ妻は生きているのだと、夢を見たのだ。そして十にも満たない自分の娘を夫婦の寝所に連れ込んで、暴れる小さな身体をねじ伏せて愛を囁いた。妻に、ただただ、愛する妻だけに。 そうして男爵が“妻”を求めることだけに固執するようになってしまってからというもの、本来の執務をすっかり省みなくなってしまった。 そのために領民たちは混乱し、領地はみるみるうちに荒れ果てて、見かねた使用人らも次々と屋敷を辞して、取り残されたのは“父”と“妻”の2人だけだ。 そこにやって来たのが、州の統括を務めるカイエン公爵であった。 彼は、止まっていたアデレード家の時計の針を強引に動かしてみせた。 病気の男爵は他国の病院に送られ、領地はたちまち公爵の名の下に吸収された。手始めでもありそれが全ての決着でもある。幸か不幸か、アデレードの領地に成る果実は、ラマール州の統括でもある彼にとっても捨て置くに惜しい存在だったのだ。 残された娘は、アデレード男爵家の名目上の当主となり、今後その一切を公爵に委ねることに承諾する書面にサインをした。それは、当時11歳だった身が出来得る行動としては最も的確なものに、違いなかった。 時折戻る“故郷”の地は、過去の景色と特段変わることはない。一時期の混乱と比べるならば、格段に発展し領民達も一層農作に励んでいる様子だ。 そこにアデレード男爵が戻ってくることは、二度とないのだろう。あれからもう10年も経っているのだから、病もおそらくは快癒に向かっていると思われるが──ともすれば、人として……否、“貴族”として相応しくない穢らわしい罪を露呈するところだった彼を、カイエン公爵は一生の狂人として扱うに違いない。 そして娘は──貴族としての枠組みから外れてしまったシェリル・アデレードは、領地への支援と父の療養を施してもらう対価として、カイエン公爵の指示の元に種々様々なことをした。 貴族の世を取り戻すためと高らかに唱える男の利になることを、なんでも。《帝国解放戦線》と名乗るテロ集団に与し、そのリーダーである青年の補佐役兼お目付役として付き従っているのもそのためだ。 別に、義理堅いわけではない。父や領地に思い入れがあって従わざるを得ないというわけでも、特にない。 ただ、“する”ことが思いつかなかったから。そうやって空虚だと嘆いてみたところで、世を儚んでしまうほどの悲しみに暮れる心もないなら、生き続けるしかなくて。それでも、何もせずに生きていくには人生は長すぎるから。 だからただ粛々と、そうやって過ごすことに決めた。それだけの話である。 ──愛しているから、愛していると言ってくれ。 父がいつも、悲鳴のように叫んでいた言葉の意味はどうだって理解できない。あの人が愛していたのは、娘ではなく妻でしかなかったのに。 もしもシェリルが、それでも父へ家族愛だなんて丸められる綺麗ごとを吐けていたのなら、彼はその見返りを娘に与えていたのだろうか。 そんなもの、今となっては考察する余地すらもないのだが。 季節は初夏へと移り変わっていた。衣更えを経て、学院生達は我先にと夏服に袖を通す。 堅苦しい制服から解き放たれたいのか、それとも単純にまだ盛りでもない暑さに既に根を上げようとしているのか。理由など特に興味はないが。 そんな中、シェリルは特段夏服への切り替えを検討せずに日々を過ごしている。わざわざ普段と違うブラウスを取り出す手間をかけるほど、涼に飢えてはいない──端的に言うと面倒なのである。 加えて、シェリルが主な居城としている図書館は、その性質上、他の建物よりも随分と涼しく空間を保っている。室温を下げる空調設備などというようなハイテクノロジーがあるわけではないが、図書館は本が焼けないよう日陰に、だからと言って湿気が溜まらぬよう風通しを良く。そういった立地と構造になっているのだ。 昨年は滅多に役に立つことのない図書委員という肩書きを珍しく存分に利用し、夏中をこの館内で読書をして過ごしたお陰で楽をしたものである。だから、今年も当然そうするつもりでいた。 ──が、 「先輩はいつでもここにいてくれるから、とても見つけやすくて助かる」 「……私はちょうど、自分の居場所の再検討を考えていたところです」 阿呆か白痴か知らないが、ニコニコと飽きもせずに図書館を訪ねてくる青年がどうにも煩わしくて、シェリルは舌打ちをした。それは、件の留学生だった。 4月の入学当初にやってきて以来、彼は週に3日はかくやという頻度でこの場所に訪れている。基本的には館の片隅で大人しく本を読んだり宿題や自習をしていたのだが、最近──図書館が閑散としてシェリル自身も読書に勤しめる頃合となってきた頃から──シェリルの近くにやってくるようになったのだ。 今日も今日とて、彼はシェリルの目の前の席を陣取って、そこで課題をすることに決めたらしかった。ペラペラと無駄口を叩いてくるタイプではないようだから、多少は許容している。けれど、いつもいつもこうされると、やはり鬱陶しいことに違いはない。 シェリルは溜息をついて、その褐色の肌を視界から外すべく、手の中の本に視線を落とすのだった。 時計の針が19時を示しても、この季節は未だ日も沈まずに周囲は明るいままだ。 閉館作業を行って、まだ残っているキャロルに挨拶だけしてから図書館を出る。……その隣には、何故か図書委員の仕事まで手伝う物好きぶりを存分に発揮した青年の姿もあって、シェリルはこの数ヶ月で4割は増えたであろう溜息の数をもう一つ増やしてから、歩き出した。 にわか雨でも降っていたのだろうか。図書館前のしっかりと舗装されているとは言い難い細道はぬかるんで、幾ばくか大きな水溜まりが出来ていた。 気にせずにそれを踏みつけると、跳ねた泥水が靴下を濡らす。不快感、もあまり気になりはしない。現在の居心地の悪さと比べれば、余計にだ。 「先輩にこれを渡そうと思っていたんだ」 鞄を漁り、青年が何かを取り出す。掌に乗るくらいの大きさの小さな紙の包みだった。特段何かを渡してほしいと、頼んだことはおろか思ったことすらない。 一瞥だけして、シェリルは歩みを止めるつもりはなかった。 「先日、特別実習で故郷の──ノルドの地に帰ったんだが、たった数ヶ月離れていただけだというのにどうにも懐かしくてな。……郷愁とはこのような感情を指すのだと、身を以て学んでしまった」 そうですか、それは良かったですね。とも、返すことはしなかった。正門を漸く潜る。 「その時に、ふと思ったんだ。先輩にも、オレの愛するこの景色を見てもらいたいと」 「そうですか。私は全くもって興味ありませんが」 「ああ。貴女はきっとそう言うと思っていた」 静かに、けれどどこか楽しげにも聞こえたその声に、思わず眉が寄った。何を知ったようなことを。 もう学生寮への岐路だ。これ以上の会話は──否、最初からこの会話は全て──なんの益にもならない。 重ねていても無駄ならばさっさと終わらせようと、ローファーの爪先を第一学生寮の方へと向けようとした時だ。 「だから、まずは“お土産”からだ。受け取ってくれ」 おもむろに伸ばされた手を、シェリルは何故か避けることが出来なかった。鞄を持たない左の手首を掴まれて、持ち上げ平を向けて返された上に、先の小袋が乗せられる。 それだけの一方的な行動の後、彼はその目尻を綻ばせると一言「また明日」と言って、さっさと自分だけの帰り道を歩み始めていった。 思わず、呆然と、その背中を見送ってしまう。沈み始めた夕日が、その背と濡れた地面を照らしていた。 一体、なんなんだ。 「なんだなんだ? 何貰ったんだよ?」 「……この時期は、やはり虫が多いですね」 「ああ、夏だしな……って、オイ」 いつのまにやら背後に立っていた“虫”を片手で払う。……ところで、その銀髪や緑の制服が随分と濡れているのは何の冗談だろう。まさか雨に打たれていたとは言うまいな──こんな大切な時期に、万が一にも体調を損なうことになったらどうするつもりだ。 自覚が足りない、なんて小言は面倒だから胸の中に秘めて、シェリルは今度こそ寮の方へと足を進める。 帰ってきた自室の中、不覚にも手に包みを握ったままだったことに気が付いた。そのまま部屋の隅のゴミ箱に投げ込もうとして、その手を止める。 逡巡し、とりあえず開いてみた包みの中には一本の組紐が入っていた。赤い色、と単純に表現するならそうなのだろうが、緋や紅、朱、臙脂に蘇芳。様々な色合いの“赤色”が縒られた、どうにも複雑な色味だ。 ふぅんと一声だけ漏らして、それを袋に仕舞い直すと適当に開いた引き出しの中に、ぽいと投げ入れた。 そこに特段深い意味はない。まぁ少し、簡単に捨てるのは忍びないかという程度は、綺麗な色だと思っただけだった。 ──以前に本で読んだことがあるのだが、組紐はノルドの伝統的な工芸品らしい。 手首に結んで願掛けのブレスレットにしたり、更に複雑な形に結びあげてキーホルダーにしたりと多様な使われ方をしているようだが、シンプルなだけのあの紐は基本的な髪結いに使うべきものなのだろう。 流れる髪をぶよぶよとした大きな手に撫でられながら、心の中で呟くのは「無用の長物」という表現のみだ。結ったところで、きっと解かれてどこかへ放り投げられて、あんなものすぐに失くなってしまうのだから。 懇意にしている男の裸の腕に抱かれながら、ぼんやりと思う。 カイエン公は、しばしばシェリルにこういった営業をさせた。営業活動と言うと少しビジネス感が出るだけの、ただの欲のやり取り。自身の陣営に取り込んだ下流貴族──どちらかと言えば“誇り”よりも“利益”を取りたいと思う成り上がりが、公爵家に寄りつくようにするための手段の一つとして。 若い女を抱く、という行為自体に得を見出す者もいるだろう。もしくはそういう本能が曝け出される場だからこそ漏れ出す本音を、拾い集めて質とすることだってできるだろう。シェリルに求められているのはそういう役割だった。 幸い、愛想と媚びを売る、などという行動を求められることはなかったから──おそらくカイエン公もそれをシェリルに求めても無駄だと分かっているのだろう──楽な仕事である。 どれだけ不愛想に接したとしても、触れられてわざとらしく喘いでみせたなら、彼らは忽ち上機嫌に鼻息を荒くする。鉄面皮を自分の技巧で崩したのだと、コロリと騙されてくれるのだから。 すべきことを終えて服を整え、最後は義務的に口付けをして部屋を出る。“こんな”ことをするには勿体ない、高級ホテルの絨毯をヒールで踏みつけながら、外を目指す。 さっさと帰ってシャワーを浴びて眠ってしまいたい。けれどここはオルディスだ。学院の寮に帰るには、少々時間がかかりすぎる。仕方がないから適当な安宿に泊まろう。湯を浴びて、仮眠を取って、始発の列車に乗ったなら学院の授業には間に合うはずだ。 ホテルを出てすぐ、路地のところに半分ほど身を潜めるように、青年が立っていた。 「……何故ここに居るのですか、《C》?」 「お前と“同じ”だよ。《V》がこっちに足を寄越してるから、ついでに拾いに来た」 「……それはどうも」 今の言葉については、特段おべっかというわけでもなく。飛行艇なら、シャワールームが備えられていたか──なんてことをふと考えたが故に零れ落ちた言葉だった。 先導するその姿を追いかけるように歩き出す。街中をこんな風に無防備に歩いて見咎められるのでは──と思いもしたが、ここはカイエン公が幅を利かせる都市だ。 多少夜が更けた頃だろうと、“若い男女が2人で歩いているだけ”なのだから、大した問題にはなり得ない。 「悪いな。お前にこんなことやらせちまってさ」 「別に構いませんよ。《C》も同じでしょう」 「差別するわけじゃねぇが、やっぱ男と女は違うだろ」 違うだろうか。まぁ、勝手は違うだろう。少なくともこの男の場合、求められているのはシェリルとは真逆で、“愛想と媚び”で貴族の婦人方を喜ばせることのはずだ。 相手のしたいことに従うだけで良いシェリルと、相手のされたいことを汲み取って行動しなければならない彼とだと、気苦労は確実に後者の方が嵩む──し、こちらとしては前者で良かったと心から思っているのに。 「別に構いません」 わざわざ気を遣われる意味も分からない。再度同じ言葉を繰り返して主張したシェリルに、青年はそれ以上の言葉を続けることはなかった。 飛行艇に乗り込んで、そのままシャワールームへと足を向けたシェリルの背中に、彼は言った。 「……“お前はまだ”、引き返せるぜ」 シェリルは答えた。構いませんよ、ではなく。もっと端的に。 「引き返す先など何処にもありませんから」 脱衣所の扉を閉めて、纏わりついていた服をさっさと脱ぎ捨てた。シャワーのコックを躊躇なく捻ると、にわか雨の比ではないほどの冷水が溢れ出して、頭上に注ぐ。 それはやがて、湯に変わる。温度の調節など気にも留めていなかったから肌が焼けるような熱さを感じて、視線を向けた腕や下半身は赤い色に変わっていた。 まぁ、いいか、と天を仰いだ。いっそ焼け爛れてしまったところで、何がどう変わることもない。熱湯に打たれた髪が、背中へと流れ落ちていく。 ギデオンが言っていた。ノルド高原で計画の邪魔立てをしたのは、赤の制服を纏った学生だったのだと。その地の遊牧民の出とも思しき褐色肌の青年も混ざっていた学生達の集団だった、と。 可哀想に、“彼”は知らないのだ。自分が、自身の愛する故郷を脅かした者に、その故郷の土産なんてものを買って帰ったことを。ああ、なんとも滑稽だ。 そして“彼”はやはり知らない。嬉しそうに故郷を語って聞かせた相手の抱くその場所は、唾棄すべき暗い大地でしかないということを。 「……だからって、どうという事もないですけれど」 ──そして、来たる7月26日。帝都ヘイムダルの夏至祭で、《帝国解放戦線》は名乗りを上げる。 後方で各種工作の手引きを行っていたシェリルは、速報を流すラジオのノイズが、騒動を鎮静しようと奔走する学生達の情報を流しているのを、ただ思考の片隅で聞いているのだった。 昏き終わりのコッペリア |