軌跡

01 花散る空のエトランゼ 


 1年前の入学式の日、舞い散る花びらが酷く憐れに感じられた。
 ぷつりと母体からの繋がりを断たれて、宙に投げ出されて。地面に落ちてしまえばあとは見向きもされず、踏みにじられるだけなのだから。

 既に2年目に突入した学院生活の中で、そんな考え方が変わる事はなかった。あえて付け加えるとするならば、今も箒を持って掃除をする用務員の姿に、散って掃除が大変なだけの木をよくもまぁ植えようと思うな、と感じるようになった。そんなところだろうか。
 授業を終え、校舎を出て図書館へ向かう道中にそんな事を考えていたシェリルは、木へと向けていた視線を前方へと移し直す。こんなもの、さして長時間も思考を割く事象でもあるまい。

 トールズ士官学院。帝都ヘイムダルの近郊にある小都市トリスタに、大帝ドライケルス・ライゼ・アルノールによって創設された伝統ある士官学院。
 元はその名の通り軍事学校であったはずが、時代が移るごとにその在り方は変化し、現在は『名門高等学校』として広く知られるようになっている。

 身分格差が未だ激しい帝国には珍しく、この学院の門戸は広い。入学試験で一定の点数を記録したならば、貴族や平民の如何に関わらずそれは開かれるのだから。
 しかしながら、入学した後にクラス分けや制服の色などで“区別”をつけているならば、そこにさしたる意味など生まれはしないのだろう。そして、“一応は”貴族という身分に属するシェリルは、そんな学院の2年U組に属しているのだった。

 放課後、クラスメイトらは部活動へ向かっているところだろうが、自身はいわゆる“帰宅部”所属──特に、部活動というものに興味をそそられる事がなかったため、当然の無所属である。
 その代わりに、図書委員長という役に立つのだか立たないのだか……おそらく何の役に立つこともない身分を与えられたシェリルは、毎日の放課後には図書館で本の整理や手入れをして過ごしている。部活動と違って興味をそそられたのかと問われたならば、否と答えるつもりだ。が、それでも本は嫌いではない。少なくとも、言葉を発することがない分、向き合うのに気が楽なことは確かだ。

 しかし、新学期が始まって間もない時分であるからだろうか。4月に入って、図書館にやってくる人間の数は随分と増えていた。
 そしてその人間の殆どが、学院生活に対する──どうせすぐに消えて無くなる──気概を抱いた新入生であるとなると、必然的にこの本は何処にあるかだの、貸出返却の方法を教えろだのと問い合わせも多くなる。
 ああ、煩わしい。図書館よりも学生会館や町のカフェの方が楽しいと、早く気が付いてくれないものだろうか。そうしてさっさと寄り付かなくなればいい……けれど、それで慌てて試験前に駆け込んで来られるのも面倒くさい。兎にも角にも、こちらの手を煩わせないで欲しい。

 人が増えると本棚の乱れも著しく増えるのも、また必然。シェリルは刊行番号の連ならない雑誌コーナーの前で、じとりとその並びを見つめていた。
 1、2、5、3、6、7、4……これを見て、戻した人間達は何も思わなかったのだろうか。多少の気持ち悪さすら感じないというのなら、余程雑に生きてきたのだろうという感想を抱く他ないが。
 正しい昇順に並べ直し、そしてその隣に突っ込まれた帝国史の文献へと目を留める。……だから、何故このハードカバーの書籍をわざわざ雑誌の書架に戻して良いと思ったのか。その心理が不思議で仕方がない──まぁ、別にどうでも良い。気を割くだけ、やはり時間の無駄だ。

 逸れたその本を抜き取って、元あるべき場所へと向かう。歴史関係の書物を取り扱った棚の前。帝都やらにあるような巨大な図書館と比べ、蔵書数が然程あるわけでもないこの場所では、元の在り処を探すのに苦労をする事もあまりない。
 棚の上部に不自然に空いた隙間──本に振った整理番号と照らし合わせてみるに、この本の居場所と呼ぶべき位置だろう。本を持った片手をぐ、と伸ばしてみる。

 届きそうで届かない。なら仕方がない。面倒だが、そこらにあるだろう踏み台を持ってくるとしよう。そう、目的を切り替える。

「大丈夫か?」

 不意に、下ろす手前で手の中の本が消えた。と思えば、それは思っていた通りの場所へと静かに収納されていく。
 それは見慣れない褐色の大きな手の仕業で、シェリルは眉を寄せて人の気配を見遣った。

 立っていたのは1人の青年だった。女子生徒の中では高身長にあたるシェリルよりも、頭の天辺は随分と高い位置にある。恐らく学院の中で1、2を争う長身ではないだろうか。
 腕と同じ褐色の肌に彫りの深い顔立ちが乗っていて、帝国人ではないなと冷静に分析した。留学生だろうか、それにしても珍しい見た目の男である。
 そして、その身に纏っているのもまた珍しい。赤い色のトールズの制服──学内でも数えるほどの新入生しか身に付けていない、貴族と平民の区別をさせない“それ”は、学内でも随分な好奇の目を向けられる対象だった。
 特科クラス、1年Z組だったか。あまり興味がなかったため知らなかったが、留学生だなんて変わり種まで擁しているらしい。

「…………どうも」

 挨拶と礼を3文字だけに込めて、シェリルは踵を返す。さっさと書架の整理を済ませてしまわなければ。

「何かあったのか?」

 そんな中で聞こえてきたのは、先の青年から発せられる声だった。不可解な言葉に、思わず足を止める。

「貴女は、随分と寂しそうに見える」
「………………はぁ?」

 思わず応えるような声と怪訝な視線を以って相対してしまい、シェリルは内心舌打ちをした。
 青年の青い瞳は、こちらをじっと見つめている。まるで回答を求めるかのように──次に口を開く番はシェリルであるとでも言いたげに、続く言葉も新たな言葉すらも放たないその姿は、理解できなければしたくもない。

 無言でもう一度背を向けて、シェリルは歩き出す。返却棚にも本がかなり溜まっているようだから、さっさと片付けなければ。
 もういっそ、貸出後のものだけでなく館内で利用した本も全て返却棚に戻すという仕組みに変えてしまった方が、後々下手な場所にあるものを探して戻す手間が省けて良いのではないだろうか。元から彼らに期待をかけることがまず間違っているのだ。

「また、ここに来てもいいだろうか」

 ……図書館なのだ。勝手に来て、帰ればいい。
 聞こえてくる言葉に、心の中だけで返す。本を丁寧に扱い、そして正しい位置に戻してくれるというのならば、シェリルが特段咎める事はない。

「何故だろう、貴女の笑った顔が見てみたいと思ってしまった。……なるほど、これを世間では“一目惚れ”と言うのだろうな」

 足は止めない。今度は決して、振り返りはしなかった。

 邪魔を意識から外し、館内で蠢く生徒達を無いものと扱いながら、淡々と業務をこなす。本の貸出処理を行い、返却処理を行い、返却されてきた本を元の棚に戻して、ついでに乱されたままの書架を整理する。
 黙々と作業を行なっているうちに生徒達はほとんどが帰路についたようだった。一通りすべきことを終えて、専任司書のキャロルに一言挨拶をしてから外に出る。
 授業が終わり数時間経ったこの時間帯は、まもなく夕闇に呑まれる太陽の朱が目を灼いて痛い頃だ。

 正門へ続く道へ向けてふと顔を上げると、すぐ向こうに2人連れの男女の姿が見えた。夕陽が射し、赤い残光が刺し貫いたその片方のシルエットが見慣れた人物のものであった事が、シェリルの眉を顰めさせる。

「……あれは」

 バンダナを巻いた銀髪の男子生徒は思いの外長身で、この学院内でもよく目立っていた。こうして遠目でも見つけられるため、避けやすくて便利だと思う。その青年のお喋りはどうにも好かないから、正直あまり関わりたくはないのだ。

 彼は隣に随分と華奢に見える少女を連れていた。制服の色は、赤──先程の異国人と同じ、Z組所属の生徒らしい。
 肩口までの長さの揺れる髪は、辺りに舞い散るライノと同じ色をしている。彼女も、きっと地面に落ちたのなら花弁と同じように踏みにじられるのだろう、なんて。そんな詮無い感想を抱いた。

 けれど、それにしたって──





「随分と、楽しそうに話していましたね」
「ああ?」
「Z組の少女と」

 夜に紛れ、空を駆ける一機の飛行艇。冷たい夜空の外気を切り裂いているくせに、その内部は存外快適な室温を保っていた。

 機内に簡易的に設けた談話スペース──机と椅子と、軽くコーヒーや紅茶程度ならば淹れられそうな一式のみを取りそろえた小さな部屋で、今しがた着替えを終えたばかりの青年にシェリルはそう視線を向けた。
 シェリルが纏っている白い制服とは色違いの、緑の制服を着た彼。先の黒装束の時と比べると随分とその空気を軟化“させていて”、眉が寄る。

「んだよ。何の話だ?」
「その浮ついた口調を止めていただけますか。不愉快です」
「いや、話しかけたのお前だし」

 だから彼は、話すことを止めはしない。行儀も悪く、椅子ではなくあえてテーブルの上に腰掛けると、ミリタリーブーツの爪先をぶらぶらとさせながら「Z組の……」と少し悩んだ素振りを見せた後、ああ、と声を上げた。

「レイのことか? そういやあいつと帰った日、お前こっち見てたもんな」

 ペラペラとよく喋る。ああ、わざわざ話しかけるんじゃなかった。面倒くさい。
 後悔は先に立たず。ならばそれは、以降に存分に活かすことにしようと決めたシェリルは、カップに淹れていたコーヒーを啜ることで自らの口を塞ぐことにした。必要以上、この男のお喋りに付き合うつもりは更々ない。

「別に、特に仲良くしてるわけでもねぇけど。あ、でも美人だとは思うぜ? そりゃ可愛い女子と一緒に帰る機会がありゃ、男なら誰だって飛びつくだろ」

 この珈琲豆はギデオンが取り寄せたのだろうか、いつもよりも深い味わいがある。紅茶についての造詣はスカーレットに軍配が上がるけれど、こちらはやはり珈琲党を地で行く学者肌に分があるらしい。
 後で礼を言っておこう。かの教授は話が長いものの、中身のない話はしない。無駄を削ぎ落として自らの主張のみをひたすら語られる方が、余程話していて気が楽だ。

「あいつ、入学式の日にオレの顔見て『気持ち悪い』とか言いやがったんだぜ。こんなイケメン捕まえて何言ってんだよって感じじゃねぇか? ま、結局それは乗り物酔いで気分が悪かっただけらしいんだけどよ」

 とはいえ、スカーレットとの会話もさほど嫌いというわけではない。流石、元々シスターを目指していただけあって、彼女の距離感は中々絶妙だ。
 深入りは決してしない。こちらが不快に思わないだけの距離を見極め保ちながら、言葉を投げてくる。まぁシェリルの場合、その距離が人よりも随分と遠い自覚はあるが。

「しかもゼリカやジョルジュは先輩って呼ぶくせに、オレのことだけ呼び捨ててくるんだぜ? 生意気な後輩だろ? ま、美人だから許してやるけどな、」

 それで言うならヴァルカンも。まぁ、彼の場合は少しお節介とも感じるタイプではあるが。その経歴上か、その経歴すらも性分に基づく故にか、どうにも面倒見の良いきらいがあるのだ。
 しかし、やはりその経歴と性分に裏付けされた豪快で竹を割ったような物言いのためか、接しやすいと感じるのは確かだった。

「……えっ、何? もしかして妬いてんの?」
「はぁ……季節外れの蚊の羽音が煩わしいですね」
「こいつ」

 シェリルから反応を得ることをようやく諦めたらしい青年は、溜息と共に口を噤んだ。よっこらせ、と年齢よりも随分と老け込んだ掛け声と共に立ち上がり、自分の分のコーヒーを淹れるつもりなのだろう、給湯器へと歩み寄る。
 いつの間にやら──恐らくはスカーレットが買ったのだろう──置かれるようになっていたマグカップの1つを手に取り、青年は「つーか」と相変わらずその軽薄な声で会話を続ける。

「……お前、“オレ”に対する態度はどうにかならないのかよ?」

 おや、とカップをテーブルに置いて、シェリルは青年の後頭部を見遣った。
 軽薄を装う彼はその実、存外に冷静で思慮深く、そしてドライな人物だ。シェリルは、彼のそういうところだけは認めている。例えば“リーダー”と呼んでその指示に従っても良いかと思うくらいには。

「これでも、“誰とも仲良くできる男”でやってんだからさ。営業妨害」

 けれど、それとこれとは話が別だ。今の彼と話をする気だけは持ってやることにして、もう一度カップを手にするとズ、と啜る。

「私は“誰とも仲良くできない女”でやっていますので」
「いや、それ演技じゃねぇだろ」
「……貴方もでしょう? クロウ・アームブラスト」

 軽薄を装う彼は冷静で思慮深く、そしてドライで。けれどこの場にいる誰よりも、人好きする男なのだから。
 そもそも、家族や故郷のためだなんだで自ら武器を取ることを決めるような人物は、そうやって“誰とも仲良くできる軽薄な男”を装っていないと自己と他者の境界を隔てる術すら持てないのだろう、ご愁傷様だ。

 彼は顰めた顔で戻ってくると、今度は真面目に椅子に掛けることにしたようだった。白い湯気の立つマグカップに息を吹きかけるその表情は、熱さに舌を火傷したから歪んだのか、それとも。

「……こういうの、矛盾っていうんだよなぁ。どんなものも貫く矛と、どんなものでも破れねぇ盾」

 こういったものは、基本的には保守側が勝利するものなのだ。ただ動かず、受容すればいい。結果を目に見える形で示さねばならないものよりも、余程やりやすい。

「お前が満っ面の笑みを浮かべてる姿とか、怖いもの見たさで一回くらいは見てみてぇのにな……っと。今のはナシで」

 じと、と視線を返したシェリルの姿に、男は肩を竦めて素直に謝った。ここまでの深入りなど、許容した覚えはない。
 あくまでシェリルは、彼に協力するためだけにこの場所にいるだけだ。他の面々とは訳が違う。だから彼がそこまで踏み込み、他の幹部らと同様に接する必要などどこにもないのだから。

 《帝国解放戦線》──かの鉄血宰相、ギリアス・オズボーンを討つために集ったテロ組織。宰相への恨みや怒りを抱いた者達がその牙城を崩さんと蠢く、帝国の闇の一部を担うような場所だ。
 ギデオンは自身の職と居場所を奪われ、ヴァルカンはかつての仲間達を殺され、スカーレットは住んでいた故郷を失った。リーダーである彼も、その祖父が宰相にやり込められた結果として、愛する家族の誇りを砕かれることになった。
 出向者であり協力者でしかないシェリルには理解できない絆がきっと、彼らの間にはあるのだろうと思う。理解など、別にしたいと思わないが。

 ステルス機能で夜闇に紛れた黒い機体は、やがてとある小さな町に程近い丘陵の陰へと降り立った。学生服を着た2人の、ほんの一時の住まい。その身分を証明させる、学び舎にほど近い土地へと。

「着いたみたいだな。行くぞ、シェリル」
「……ええ、《C》。お供します」

 街道を包む夜の帳には、一片の花弁が舞っていた。
 遠く町から、風に運ばれてやって来たのだろう。どこに運ばれようと、後は朽ちるだけの身だというのに、ああ、憐れだ、なんて。

 そうだ、憐れだ。“私が満面の笑みを浮かべてる姿”、なんて。
 独り言ちて自嘲する。そんなもの、自分だって覚えていない。気が付いた時にはこれだったのだから、何故も何もないくらいには遠い記憶の底の出来事だ。

 だから、

「……“何かあったのか”、なんて愚問も良いところですね」
「ん? なんか言ったか?」
「いいえ、何も」

 問い掛けた異国の青年の瞳を嘲って、シェリルの視線は宙を舞っていたはずの花弁へと再び移る。
 朽ち逝くを待つだけのそれは闇に溶け消え、僅かな残りの命すらも誰に認めてもらうことはない。ああ、何故──なんだって、どこまでも、滑稽なのだろう。


花散る空のエトランゼ



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