memo
各方面に謝罪と感謝と感動を(追記)

 覚悟をしていなかったか、といえばそんなことはない。
 けれど甘く見ていたことに、きっと間違いはなかった。


 ──私は“私”として……似非人間の“レイチェル・ラウィーニア”としてここに居る。

 ──スラムで育って、オリビエに名前を貰って、そしてZ組の皆と必死に青春と戦乱を駆け抜けた。それが“私”なんだ。


 語った言葉には、何の嘘はない。心の底からそう思っていた。だから後悔はないのだ。けれど──


「…………ッ!!」


 夢を見る。夢じゃなくても、幻を見る。否、幻じゃなくてそれは現実。過去。確かにあった自らの記憶。
 焼かれ爛れる大地、力尽き崩れ堕ちていく自分の身体、穢され朽ちていく魂。抱き上げてくれた力強い腕も、逃げ出した果て、投げ出された光の中で離れていく指先も──


「おい、レイ……!」
「あ、……クロ、ウ、わたし、」
「また“視えた”のか」
「う……ん。ごめん、ね、心配、かけちゃって……」


 目の前の彼の眉が寄る。そして気がついた。また、自分の境界が曖昧になっていると。慌てて首を振って取り繕う。「もう平気だ、気にしないでくれ」と、いつも通りの男口調を装って。

 故郷の騒動の鎮圧へ発たざるを得なくなってしまった彼は、側につけなくなることへ随分と心配をしてくれていた。けれど、やはり「平気だ」と言って送り出した。
 彼の方の問題が片付くまでに、既に辞した自身の護衛職に関する事後処理や方々への挨拶を済ませておくと約束した。その後で合流して、そこからは2人で旅に出よう──と。兼ねてから決めていたことだ。

 だから、そう大した別れでもない。なのに彼は毎日毎日、通信を掛けてくれる。自分だって大変なくせに、きっとそんな余裕などないはずなのに。


『今日は何もなかったか?』
「うん……大丈夫」


 言葉選びは慎重に。間違えないように。混ざった過去の自分に塗り替えられないように。違う、それが自分の“本当の姿”なら、これは一体何を装っていると言うのだろう。
 “本当”を隠して、自分は彼を──愛を誓ってくれた夫を、騙し続けているのだろうか。


『もし何か変わったことがあればすぐに連絡しろよ。なんなら俺じゃなくたって、近場にいるリィンやトワでも構わねえ。とにかく誰かに──』
「私は大丈夫だよ。それよりクロウは? そっちの状況はどうなんだ?」


 これまでの自分が塗り替えられる。大きな記憶が、根底が覆る。何も知らずに駆け抜けた青春が消えていく、曖昧になる。
 混ざって、混ざり合って、作り変えられてしまう。自分に、“偽物”の自分が。


「オリビエが新婚旅行から戻ってきたら、私もそっちに行くよ」
『ま、それまでにはどうにかしてみせるっての』


 通信機の向こうで声が聞こえる。喧噪だ。舌打ちを一つして、彼は「また連絡する」と告げたまま通信を切った。

 ──連絡は、それを最後に途絶えた。それは彼の問題ではない。遠隔での通信を可能としていたはずの古代遺物に“何か”が起こったからだと、思考の端が直感した。
 この帝国に、また何かが起ころうとしているのだろうか。皮膚がざわつく。微かに歪んだ霊力の気配を、誰よりもこの身体が感じ取る。

 帰路に着いた黄昏時、眩暈とともに“視えた”それは幻か否か──長く波のように揺蕩う花の色の髪、淡い水面の輝きを灯す瞳、人のものでは到底ない白い肌──幻か、否、“彼女”はいつもの記憶の断片とは明らかに何かが違う。
 眩暈がする。吐き気がする。どうにも久しい感覚に、取り出した通信機能を失った機械を片手に呟いた。


「あ、あ……証明の、良い機会、なのかも」


 微笑んだのは、一体誰なのだろう。私は、……“私”は、

 “絆”を繋ぐ証は力を失って、今のこの手には何が残される。曖昧な自己を紡ぎ融解する記憶を囲ってくれるものなどどこにある。崩れていく思考の果てに見つかるものは、“者”は、一体誰だ。
 確かにこの世界には何かが起ころうとしている。ならば為すべきことは決まっている。この国を、ここに住む人を、仲間を守ることが“私”が“私”である理由のはずなのだ。


「それが“私”、のはずなんだ。どうしたって、どうだって、何であっても、私は──」


 そして“レイチェル”は家を出た。愛用していた手甲鉤は置き去りにしたまま、大気が、自身に従属する水の気配達が告げる不穏な気配を追いかけて。
 左手には、愛する男と交わした指輪を唯一の楔のように留めたまま。