その日は何だか朝から胸騒ぎがして、ざわざわと俺を苛立てるように襲い来る不安感が何なのか分からないまま過ごしていた。

朝、出かけ間際に名無しをきつく抱き締めて今日も熱いキスを降らして来たばかりなんだ。きっと、帰って名無しを色んな意味でまた抱けばこの不安感なんて消える。決まってる。今日は給料日前だから夕飯は粗末なカレーライスだろうけど、それだって名無しを胃に詰めたらこの不安感なんて消える。決まってるんだ、分かってんだ。



「…名無し?」



だから玄関を開けて、くっせぇ革靴も脱がないままに俺はその場に立ち尽くした。不安感が大きな波になって、されど足元から水溜まりに浸かった様にゆっくり、俺を濡らす。間違いだと、不安感は当たってはいないと、誰か言ってくれないか。なぁ、嘘だろ?だって帰って来ればいつも可愛い出迎えがあるじゃねぇか。買い物なんて俺と休日に行ってる訳だから、必要ねぇだろ。それに今日は金曜だ、21時からやるジブリ映画を観ようって水曜に約束しただろ?だから嘘だって言ってくれよ。

名無しが家にいないなんて。



「ふざけんじゃねぇっ!!家からあれ程、俺無しで出るなって言ったじゃねぇかよぉおおおお!!!」



買い替えたばかりの冷蔵庫に手を掛けてベランダへ投げる。

轟音。

名無しが家から持って来た31インチのテレビを、ダブルベッドが置かれた方へ投げる。不意にベッドがある部屋から、臭くて臭くて臭くて堪らない匂いが鼻を擽った。

不安感は的中した訳だ。

上等じゃねぇか。

なぁ、名無しは本当に攫われる天才だな。笑っちまうよ。

俺は野次馬が集まって来た中、携帯から名無しの名前を幾度となく呼び出しながら部屋を飛び出して脇目も振らずに臭くて堪らない街へ向かった。臭くて臭くて、あの蟲の匂いがそこらに充満した…新宿に。




♂♀♂




「…少しは落ち着きなさいよ」

「うるせぇっ!!名無しを返しやがれ、居場所知ってんだろうが!!!」



しかし着いてみると、新宿の巣穴の1つは1人の女を残してもぬけの殻だった。女が怒りに任せて部屋を荒らす俺に冷たく軽蔑するような眼差しを向けてくる。俺はそんなうざってぇ視線は嫌と言うほど受けて来た。今は名無しだ。名無しを助けに来た。



「あの女なら、臨也と一緒よ」

「…何処に居るのか吐け」

「知らないわ。本当に知らないのよ。暫くの間、仕事は休むから君も休んで…って私にもそれだけ。大金を詰まれたら理由を聞かずとも休ませて貰うのは人間として妥当じゃないかしら。私、名無しって女にも…臨也にも、興味は無いもの」

目の前にある銀色のアタッシュケースに入っている大勢の福沢諭吉を、手入れの行き届いた綺麗な指先が撫でる。俺の中で冷たくて真っ黒なモノが身体を突き抜けて、柄にも無く震えてしまった。女の言葉は、まるで液体窒素のように俺の怒りを急速に冷やし、それから興味の無いというフレーズで俺の希望を粉々に壊した。女は本当に知らないのだ。だとしたらどうすればいい。

オリハライザヤを知る人物なんて、1人もいないじゃないか。



「名無しを、…っ」

「頭冷やしなさいよ」



女は、紙切れに自分の知っている上司の携帯電話の番号を書いてから俺に差し出した。かかるかは分からないと付け加えて。俺は情けない自分を何とか立ち上がらせて、無我夢中でその番号に電話をかけた。数回、規則的に音が響く。女は飽きれたように事務所を出ていってしまった。



「………シズちゃんだろう?」



頭を冷やす、その意味を理解するには時間がかかるみたいだ。





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