小説 | ナノ

液化した心臓が溢れる前に


やけに明るい三日月だけが暗闇に浮かぶ夜。たった一つで夜空を照らす月にちっぽけな星屑が隠される夜。
薄い唇を小さく開き、怖いんだ、と彼は言う。

「血を見ていないと、戦ってないと、俺は俺ではなくなるんだ」

眉を潜めて少しだけ俯く、その表情は笑顔なのに泣きそうにも見えた。

「俺が弱いから。弱いから、何も守れなかった。俺が強くなりたいのは、そんな単純な理由さ」

鼻にこびりつく鉄の匂い。
彼の服に付いた、変色した血の色。
美しい顔立ちが切なそうに歪む、それが堪らなく狂おしくて息が詰まった。
同様に、張り詰めたような夜風がひんやりと頬を撫でる。
優しく冷たいそれは、まるで彼のようだとも思う。

「でも、守りたいものを捨てたら強くなれないよ」

喉に溜まった言葉を精一杯吐き出すように声にした。
彼は何も言わず、無音の時が流れる。
普段見る、薄暗い闇に煌々と光る月のような彼は、その面影さえ見せず、道に迷って独りぼっちで泣いている子供のようで、困ったように笑うだけだった。

「…苦しそうに笑わなくていいよ。辛いときは泣いていいんだよ」
「…苦しいのが安心する。辛くなんてないよ、ただ幸せが分からないだけで」

そう言ってまた微笑む彼は、闇に微睡んで消えてしまいそうにも思えて、つい、いや、反射的と言った方が正しいだろうか。
その腕を掴んでいた。
細くて白い、だけど筋肉質な腕。
悲壮感を漂わせ、いつか過去という重みに潰されて死んでしまいそうな、兎みたいな人。
本当に泣きたいのは彼のはずなのに、何故か涙がぽろぽろと溢れてきた。
彼を知る度に、私の中の何かがちょっとずつ決壊していって、今にも崩れてしまいそうなのだ。

「泣くなよ。女の子の扱い方、よく分からないからさ…困る」

ふわりと彼の三つ編みが浮いて、私は優しい温度に包まれた。
抱き締められていると理解したのは、思ってたよりも小さいね、と耳元で囁かれてからだ。
嫌だとは感じなかった。寧ろ、嬉しさを噛み締めている自分が居た。
突然涙を流した私を慰めてくれている。
優しい人だ、やっぱり。
彼の腕は、闘っているよりも、こんなふうに優しく包み込むためにあるものだと思う。
その腕は温かくて、心臓の鼓動はとても落ち着く音で、どんなに無慈悲を演じたって本来持つ慈しみは隠しきれないのだから。
でもきっと彼が本当に抱きたいのは、私じゃなく、彼に優しさを教えた"家族"なのだろう。

(幸せなんて、とっくに知っているくせに)

知っているからこ、そのことに臆病になっている。自ら遠ざけている。
自分はあたかも何も無いように"笑顔"というポーカーフェイスを貼り付けて、その裏側で孤独に泣いているのだ。
悲しい人。私のことではないのに、彼を思うと張り裂けそうに胸が痛む。
彼の整った横顔が、滲み出る哀愁をより一層濃くしてるような錯覚さえあった。

ゆっくりと流れる灰色の雲が月に掛かり、忽ち光を覆いつくしていく。
暗闇の訪れと同時にそっと離れていく手を、離してはいけないような気がして腕を伸ばした。
勢いよく、冷たい風を切る。だけど。

「じゃあね」
「…っ、やだ」

咄嗟に握った掌には何も掴めず、 彼の、いつもとは違う驚くほど柔らかい低音が鼓膜に木霊していつまでも脳を痺れさせていた。
月は、彼がどこかへ行ってしまってから雲を従わせて顔を見せる。
もしかしてあの月を喰らえば、闇の中から彼がひょっこり現れてくれないかなんて、有り得ない事を考えながらそっと瞼を閉じた。

だけど瞼の裏に彼が刻み込まれていて、心臓が彼の鼓動を記憶してしまって、もう、どうにも消えてくれそうにない。



title by 子宮