朝起きて一番にすることは、写真立てに入れられた一枚の写真に挨拶すること。それが2年前に決めた私のルール。朝日が入る窓に立てかけて、今日も正しく礼をする。

「おはようございます!跡部様!」

小学6年生の時、一度だけ見に行ったテニスの試合で撮った写真だから、ピンボケでお世辞にも綺麗とは言い難いけれど、写っているのはまぎれもなく跡部様だからそれでいい。写真を見て呆けていた思考にふと学校がよぎって、虹子は急いで制服をハンガーから引きずり下ろした。


2年前のあの日、初めてみた跡部様の試合に圧倒された。美しかったのだ。素晴らしく、隙がなかった。その後は、一時期ストーカー紛いのことをしていたがそれは若気の至りとして墓場まで持っていくと決めた。今は清く正しくだ。
清く、正しく、跡部様を信仰している。

中学は兄と同じところに進むと信じてやまなかった私の心に、突如として希望の道が現れた。それが跡部様であり、氷帝学園中学だ。庶民である両親に生まれた私は、必死に勉強して、必死に頼み込んで、特待生としてこの学園にかろうじてぶら下がった。それは今も変わらずだ。バカみたいに高い学食には一度も手をつけられたことがないが、それでも私はこの学園に来られたことを誇りに思っている。


朝、跡部様(の写真)に挨拶できたことで、部活へ向かう私の足取りはとっても軽やかだ。朝は走りこみからしよう。学校を2周ほどして、そしたらきっと朝練は終わりの時間になるだろう。私は長距離は苦手だけれども、知っていた。1周終わるごとに、私の頭の中では跡部様がよく頑張ったね、とそう言ってくださることを。大変おこがましいことだけれども、それがあるから頑張れる。頭の中でだけ、勝手を許してください。


「虹子ちゃん、おはよ」
「おはよう!」

朝練を終え、教室へ入り、クラスメイト達と挨拶を交わし、そして手帳を取りだす。名付けて跡部様手帳だ。中身は単純、今日の練習メニューがかいてあるだけだが。

「今日も跡部様手帳?」
「うん!」

ページの中を覗いてくる友達から、見ちゃダメー!と手帳を遠ざけると彼女はちょっとつまらなそうにした。この手帳のジンクスは誰にも見られちゃいけない、だ。それも勝手に決めたことだけれど。執拗に見ようとする友達を、チャイムを口実に追い払って、HRの間中はずっと手帳を見返していた。そうして、きっと昨日より成長している自分を見つけ出すのだ。

そのまま1時間目の授業が始まって、私は渋々手帳を机にしまった。朝練の疲れと、朝独特の眠気が脳を刺激するけれど、授業は聞かなくてはならない。氷帝の授業はそれなりに難しいのだ。先生の間のびした声の間に、上の階で授業を受ける先輩の椅子を引く音や歩く音がかすかに聞こえる。板書の内容を理解するよう努めながら、耳は上の階の音を聞き洩らさないようにと、注意深く澄ます。何て言ったって、上の階は跡部様の学年の階だ。もしかしたら、偶然に声だって聞けちゃうかも。

「コラ!!!斎藤寝るな!!」

ひ…っ
漏れかかった声を口を押さえて受け止める。ああ、びっくりした。上に集中しすぎて、先生の動向までは気が回らなかった。周りに変に思われてないかな、と見える範囲を見渡しても、誰も私の方なんて見ていなかった。よかったぁ。少し懲りて、私は大人しく数学の世界へと入り浸ることにした。それから授業が終わるまでの30分なんて、地獄みたいだった。


「一徳、これ落としたぞ」
「え?あ、ありがとう!」

後ろの席からコロ、と机に転がされたのは、角がとれて丸くなった私の愛用の消しゴムだ。いつ落としたのだろう。いそいそと筆箱に消しゴムをしまう私に、後ろの席の彼はもう一度、なあ、と言って呼び掛けた。

「跡部様手帳って、何だ?」
「えっ!なんでそれを!」

彼は席後ろだから聞こえる、となんだか不機嫌そうな顔で言った。焦る。非常に焦る。何故ならその人がテニス部の、しかもレギュラーの座を勝ち得ている日吉くんだからだ。もしかしたらひょんなことから、跡部様にこのことが伝わってしまうかもしれない。それこそ一大事だ。見せろ、と言って手を伸ばす日吉くんから最大限に机を遠ざける。

「これ、見せちゃいけないの!絶対!」
「何でだ」
「ジンクスだから!」

日吉くんは、訝しげな顔をして机と私を見比べると、小さくため息を吐いた。

「ストーカーみたいな真似は止せよ」

何か勘違いされていることは流石に勘づいたが、本気で嫌悪感を露わにした表情に、過去の自分が震えあがって口を開くことはできなかった。だから、あれは若気の至りなんだってば。


130202
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