「お前、これ捨てとけよ」
「話しかけんなクソが」
「おい車はまだか」
「いい加減にしろホクロメガネ!!」
「…いい加減にしてほしいのはそっちだっつーの」
雪男は大きな大きな溜息を吐いた。雪男の視線の先には溜息の元凶でもある燐が若い女優と楽しそうに話している。雪男に見せる顔とは全く別の顔。ニカッという表現が似合いそうな元気な笑顔は皆が知っている奥村燐だ。燐の性格を知っていなければ今頃「あぁ、本当に奥村燐だ」なんてありふれた感想を述べていたのかもしれない。
……じゃなくてっ!
どうにかならないのか!あの呼び方!!もうあのガキ……ではなく奥村さんのマネージャー兼ボディーガードになって早くも3ヶ月が過ぎたが、未だに一度も名前で呼んでもらえたためしがない。大体「お前」か「おい」と呼ばれるのだが、最近は「ホクロメガネ」なんて悪口以外の何ものでもない呼ばれ方をされるようになってきた。なにが素直だ。やってられるか畜生!…といった心の叫びはこれで何度目だろうか。
「おい!そろそろ移動の時間じゃねーの?」
「えっ、あ、はい!そうです、行きましょう!」
燐に声をかけられてはっとする。たしかに雪男の腕時計は次のスタジオ移動の時間が迫っていることを示していた。
「早く行こーぜ!次は雑誌の撮影だろ?」
「えぇ、そうですがその前にその雑誌のインタビューが入るみたいです」
「はぁ!?俺そんなの聞いてねーぞ!?」
釣り目がちの目が見開かれている。自分と二人きりなら今頃舌打ちをかましていたんだろうなぁ、と雪男は苦笑いをこぼした。若い女優が燐の後ろで二人の様子を見守っている。まさに知らぬが仏ってやつだな。
雪男は自身のスケジュール帳を取り出して燐に見せた。
「急遽前後の予定が入れ替わったんです。他の仕事には影響は出ませんので問題ありません」
「はぁー…じゃあどっちにしろ無理だな」
「?無理って、何がですか?」
「お前にはカンケーない話。んじゃ俺そろそろ移動だから、またな!」
燐が手を振ると若い女優も嬉しそうに手を振り返している。燐に気があるということが明白なそれに雪男はやれやれと肩を落とした。自分がボディーガードとして雇われた理由も女性関係だと聞いているのに全く懲りていないのか、この人気アイドル様は。
「表はファンの方が大勢いますので、遠回りにはなりますが裏から車を出します」
「お前が決めんな、俺が決める。表から出ろ」
「っ、……はぁ…その代わり絶対に窓は開けないでくださいよ。…あ、そうだ」
雪男は燐の顔を見ずに淡々と車を出す準備をする。燐は燐で雪男の持って来ていた水筒のお茶を飲もうと座席を漁っていた。
「奥村さん僕の名前覚えてます?」
「テメェ…バカにしてんのか。覚えてるに決まってんだろ」
「じゃあ名前で呼んでくださいよ。じゃないといざという時すぐに反応できません」
「そもそもボディーガードなんてめんどくせーことしなくていいって言ってんだろーが。だから呼ばねぇ」
「………あぁ、そうですか」
無駄なのかもしれない。雪男は諦めて車を発進させた。バックミラーで後ろを見ると丁度燐が雪男特製の熱いお茶を冷ましながら飲んでいるところで、ますますやるせない気持ちになる。気に入ってもらえたのは嬉しいけど…複雑だ…。
車を地下駐車場から出して表に出ると燐の出待ちファンが大勢押しかけてきた。こちらは車だというのにそれをものともせず燐の顔を見ようとするファンの熱意は凄い。警備員達が慌てて抑えようと走ってきてくれたが、なんだか申し訳ない気持ちになってしまう。彼らもそれが仕事なのだとはいえ、やはりファンに揉みくちゃにされている姿を見るとどうにも…。
「つーかさ」
「はい?」
燐は控えめに笑顔でファンに手を振っている。言葉と表情が全くあっていないアフレコでも見ているようだ。
「お前俺と同じ苗字だろ」
「そうですが、それが何か…?」
「なんか自分を呼び捨てにしてるみてーで気に入らねぇんだよ」
「何なんですかそれ……」
「だから嫌だ。ホクロメガネでいいだろ。俺は結構この呼び名気に入ってんだしよ」
「奥村さんが気に入っていても僕はそっちの方が嫌です。悪口じゃないですか、それ」
「お前にぴったりでいい名前じゃねーか。贅沢言うな」
万が一ファンが飛び込んできたときに怪我をしないようにロースピードで走らせていた車を、雪男はファンが警備員達に抑えられたのを確認してスピードを上げる。燐も飲みかけだったお茶を飲もうと水筒を探しているようだ。
「それならもう下の名前で呼んでください。僕は構いませんので」
「はぁ?下の名前?……何だっけ」
「ちょっ…覚えていてくれたんじゃなかったんですか!?」
「嘘だっつーのボケ、俺をみくびんな。ゆきお、だろ?ゆきおとこ、と書いて雪男。…ハッ、地味な名前」
「そりゃ、燐なんてカッコいい名前ではないですけど…僕は気に入ってるんです」
「……………」
「…どうしたんですか?」
急に燐が黙り込んだので、何事だろうと雪男は信号待ちに乗じて後部座席を覗く。そこにはぽかん、とこちらを見ている燐がいた。素の性格の時に見せるのは珍しい燐の表情に雪男もつられてぽかんと呆ける。
「………なんでもねーよ」
「そう、ですか…?」
信号が青に変わり雪男は車を走らせる。フロントミラーでわざわざ確認せずとも、見られているということが分かるぐらい燐の視線を感じる雪男はすぐに居たたまれなくなってきた。自分は何かこの人の地雷を踏むようなことを言ったのだろうか。だとしたら一体何だ。何が地雷だったんだ。悶々としながらもハンドルをきびきびときる雪男に燐は「おい、」と声をかけた。
「はい」
「そこまで言うなら下の名前で呼んでやるよ」
「え…あ、ありがとうございます…」
地雷を踏んだわけではないのか。なんだかかえって状況は良い方向に向かったような気がする。
「その代わり条件がある」
「…条件ですか?」
まさかの交換条件にうっすらと冷や汗が流れる。まさかボディーガードをやめろ、とか言い出すんじゃないだろうな…。この人ならやりかねないところが怖い。もしもそう言った類の条件が提示された場合は呼び名変更を諦めよう。
「お前も俺のこと燐って呼べ」
「……………は?」
「ついでにそのウザってぇ敬語もナシな。次言ったら殺す」
「…ちょっ、ちょっとちょっと!何を勝手に…っ」
「分かったな、雪男」
何が燐に雪男の名前を呼ばせようという気にさせたのか全く分からないが、有無を言わさない燐の物言いに雪男はただ力なく「分かり、…分かった」と答えることしかできなかった。
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会話文がどんどん増えていきます
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