03.車の中で




燐が目を覚ますと、見慣れた天井が目に飛び込んできた。窓からは太陽の光が射しており、寝起きの燐にとってはそれすらも眩しいと感じる。枕元に置いてある目覚まし時計を手探りで掴み、時間を確認する。どうやらまだ目覚ましのアラームは鳴っていないようだ。アラームよりも先に起きるなんていつ以来だっけ、と頭の隅で考えながら燐はベッドを出る。時間に余裕があるのでシャワーでも浴びようと浴室に向けて足を運んでいたのだが、燐は寝室から出たところではたと足を止めた。というより、止まってしまったと表現した方が正しいか。


「…………おい、まじか…っ!!?」

「おはようございます、奥村さん」


昨日とはまた違う卵色のカーディガンを羽織ったラフな格好の雪男が、さも当たり前といった顔で燐を出迎えたのだ。流石のこれには燐も戸惑いを隠せない。燐が住んでいるマンションは都内でも指折りの高級マンションだ。勿論セキュリティーの面でも群を抜いている…はずだ。各部屋ごとにエレベーターが直通だし、ましてやオートロックなのだから仕事で疲れていて鍵を閉め忘れたということは絶対にない。なのにこの男は少し焦った顔で「時間が押しているので早く準備をしてください」と、燐の考えていることとは少々ズレた催促をしている。


「余裕か!?」

「全然余裕じゃありませんよ!時間押してるんですってば!」

「時間の話じゃねぇよ不法侵入者が…っ!どっから入ったんだよコラ!!」

「フェレスさんに鍵を預かったんですよ。マネージャーなら持ってて当然でしょ」

「当然でも何でもねぇ!つーかメフィストの野郎も何で持ってんだ…変態かよクソが…」

「とにかく、僕はエントランスに車を寄せておくので早く降りてきてくださいね」


雪男は言いたいことだけ言い終わると、ウエストポーチから車の鍵を取り出してエレベーターへと消えて行ってしまった。雪男に従うという形になると思うと不服ではあったが、燐は急いで顔を洗い、ソファに乱雑に脱ぎ捨てられていた服の山からいくつか引っ掴んで雪男の後を追った。


■■■



エントランスを出るとすぐに雪男の言っていた通り黒いワゴンが停まっていた。燐はすぐに後部座席へ乗車し、雪男がそれを確認すると間髪入れずに車は現場へ向けて発射した。
急いで家を飛び出してきたものの、雪男に時間を押しているとしか聞いていなかった燐は車に備え付けの電波時計を見てぎょっとした。自分が目覚まし時計で確認した時間と全く違う…ということはあの時計は壊れていたのだろうか。


「そういえば…今日僕が迎えに行かなかったらどうやって移動するつもりだったんですか?」

「んなのお前には関係ねぇだろ。無駄口叩いてる暇があったらもっと飛ばせよ」


燐は仕事のスケジュールを確認するべく手帳を開いた。少年らしさの残る少々乱雑な字でぎっしりと書きこまれたそれを燐は順にチェックしていく。雪男はその様子をフロントミラー越しに眺めていてふと思った。
まだ出会って今日で2日しか経っていないためはっきりとは言えないが、奥村燐はどこか奇妙な人間である。雪男は前もってメフィストから燐の本性についてある程度話を聞いていたのでそこまでではなかったが、それでもテレビ画面越しに見ていた燐とは180度違う燐を見た時は多少なりとも驚いた。頭のどこかでメフィストの話を信じられない自分がいたのかもしれない。そんな幻想を打ち砕くかのように、実際に会った本物の奥村燐は言葉遣いも行動も乱暴で、売りともいえる愛想の良さなんて最早皆無だった。


(…でも……)


燐のことはマネージャーになる前から知っていたが、まさか自分のような新人が大物アイドルである奥村燐のマネージャー…しかもボディーガードの兼任まですることになるとは思っていなかった。だからこそ顔合わせの時はやっぱり物凄く緊張したし、実際そういう風に見られたと思う。そんな雪男が奥村燐という人間を奇妙と表現したのには理由があった。


「仕事好きなんですか?」

「…………はぁ?何言ってんだ、お前」

「だって凄く真剣だから。奥村さんって真面目ですよね」

「………べつに。好きでもねぇよ。つーかもっと急げねぇのか」

「無理言わないでください…信号が赤なんです」

「………チッ」


車内には燐がページをめくる音とエンジンの音だけが響いている。これ以上何か話しても、かえって燐との仲を悪くしてしまうような気がして雪男は黙り込んだ。
昨日も現場で燐の仕事中の顔を見ていたのだが、やはり燐は仕事に対してとても真剣でまっすぐだった。失礼な話になるが、燐はもっと仕事にルーズな人間だと思っていた雪男にとって、なんだかその姿がいやに奇妙に見えてしまったのだ。


「あ…そうだ忘れてた。奥村さん、後ろの座席にある袋を取ってください」

「悪ぃけど俺今手がふさがってるから」

「……朝何も食べていませんよね。そこにおにぎりが入っていますから食べてください。今日のスケジュールは結構ハードですからね。今を逃せば次はいつになるかわかりませんよ」


カチンときた雪男が捲し立てるように一息で言い切ると、燐も一日絶食は嫌だと思ったのか舌打ちをしつつも袋に手を伸ばした。雪男はビニール袋の擦れる音を聞いて口元に笑みを浮かべる。やれやれといった顔だ。


「飲み物はこちらの水筒をどうぞ」

「つーかこれ……手作り?」

「毒見されたくないのなら我慢してください」

「…うっぜぇな」


それでも雪男に毒見をされるのがよっぽど嫌なのか、燐はラップされたおにぎりを口へ運ぶ。…と、ほぼ同時に燐が盛大にむせた。


「ぶふぉっ!!?おっま…これはねぇわ!!」

「えぇ!?そ、そんなに不味いですか…?」

「よくこんなもんを出せたよなっつーレベルだな。しかも、この俺に」

「……すみません…」

「…まぁ、このお茶はまだ飲める方だけどな」


庇ってくれたのだろうか。雪男は驚いて後部座席を覗きそうになったのをぐっと堪えた。…なんだ、思ったよりちゃんと話せば上手く付き合えるのかもしれない。


「それ、僕が調合したお茶なんです」

「なに、お前そんなこともできんの?」

「これでも大学を出ているので。それなりの知識はありますよ」

「へー。あっそ」


おにぎりには一切手を付けなくなったが、お茶の方はそれなりに気に入ってもらえたみたいだ。
もしかしたら燐はわかりやすい人間なのかもしれない。さっきは奇妙だなんて言ったけれど、言葉が乱暴で本心を言わないだけであって行動はそれをカバーするかのように、しかも無意識のうちに素直な面を見せているのかもしれない。
上手く付き合っていくコツはこれかもなぁ、と雪男は頭にメモをして車を走らせた。



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手直しとか入るかもしれないです…((ぼそぼそ


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