冬の海



・雪(→)(←?)燐




「うーみーはー広いーなおおーきーいなー」

「ちょっと兄さん、はしゃがないでよ」


正十字学園の都心部から離れた場所を走る電車。早朝の冷たい空気を感じさせない車内には二人以外に誰も乗ってはおらず、なんだか異質空間にいるようなそんな不思議な気持ちにさせられる。まるで遠足に行く小学生のようにわくわくと窓の外を見る燐を横目に雪男も外を見れば、昇り始めた太陽の光を反射させた広大な海が広がっていた。
突然海に行きたいと燐が言い出した時はわけが分からず驚きもしたが、結局こうして貴重な休日を利用してまでついてきている辺り自分は相当兄に甘いのかもしれない。


「窓開けてもいいかな」

「えー…寒いからヤだ」

「俺とお前しかいねーんだからいいじゃん」

「わっ、ちょっと!寒いって!」


燐が座席に膝立ちして両手で窓を持ち上げる。途端、びゅんびゅんと身を射すような冷たい風が車内に流れ込んできた。ダッフルコートを着込みマフラーを首に巻いている雪男は咄嗟に体を縮こまらせたが、燐はケラケラと楽しそうに風をその身に受けている。
自分よりも軽装のはずなのに何でそんなに楽しそうなんだ。寒いから閉めてよと燐の背中を小突くと、つまらなそうに口を尖らせながらも渋々とそれに従う。
がこん、と重たい音を立てて窓が閉められると同時に冷たい空気もピタリと止まる。すぐに暖かさを取り戻し始めた車内にほっと息を吐くと、燐が雪男の隣に腰を下ろした。


「俺が海に行きたいって言った理由聞かねーの?」

「え、何で?」

「いや…フツーは聞くとこじゃね?」

「そりゃ驚きはしたけど…聞いてほしかったの?」

「んー…聞かれたくはない、かも…?」

「何それ。どうせこれといった理由はないんでしょ」

「んなわけねーだろ!ちゃんとあるっつーの!」


お前は兄ちゃんをバカにしすぎだ、とぶつぶつ悪態を吐く燐に今更だろとメガネのブリッジを上げる雪男。車内アナウンスが停車駅を告げ、走行スピードが徐々にゆっくりとしたものへとなっていく。
こんな寒いに日に海へ行こうなんて輩はやはりというかなんというか自分達しかいなかったようで。電車と同様誰もいない駅のホームに降り立つと、燐はすぐに改札口へ向かって走り出した。


「待ってよ!」

「俺が先に海に着いたら帰りに肉まん奢れよなー!」

「なっ…!なに勝手に決めてるんだよ!」


そうこう言っている間も燐はどんどんと雪男との距離を離していく。もともと身体能力の高い燐の足は修行も始めたこともありとても速くなっている。けれど鍛えているのは雪男だって同じだ。すぐに燐の後を追いかける。走って走っていくらか差は縮まったものの、それでもなかなか燐を追い抜くことは出来ない。初めはただ負けるのが嫌で走っていたのに、いつの間にか目の前の背中を夢中になって追いかけて追いかけて。


(ふざけんなよ…!)


ぎりりっと奥歯を噛んでマフラーがほどけるのもかまわずに走り続ける。燐は一度も後ろを振り向かず前を向いて真っ直ぐに突き進んでいく。あと少しで追いつけそうなのに全然追いつけない。歯がゆくて悔しくて、そのもどかしさをいつしか昔の自分に重ねていて。


「兄さん!!!」


ぜえぜえと息絶え絶えになりながらも声の限り兄を呼ぶ。聞こえているはずなのに燐は全く反応を見せなくて。
海はもうすぐそこだ。電車から見た景色とは違って潮の香りが全身を包み込む。


「兄さんってば!!!」


ぐっと手を伸ばしてみる。捕まえたい。あの、誰よりも優しくて強くて脆い背中を捕まえたい。乗り出すようにして伸ばされた右手はあと少しで燐に届きそうだ。

ぐらり、と燐がぐらついた。


「う、わ、わわわ!!?」

「えっ」

「ぎゃんッ!!!」

「うわあああ!?」


随分と間抜けな声を上げたかと思えば目の前にいた燐が地面に突っ伏している。足がもつれて転んだのだろう。全速力でしかも燐と近距離で走っていた雪男が急に止まれるはずもなくて。転んだ燐の上に覆いかぶさるかのように雪男がダイブした。燐がぐえっと奇声を発する。


「痛たた…兄さんごめ」

「……ブッ、」

「……?」

「あひゃひゃひゃひゃ!!」

「なに、どうしたの!?」


転んだかと思えば突然笑い出した燐に雪男は困惑する。頭でも打ったのか?これ以上バカになってしまったらどうするつもりなんだ。
些か的外れな心配をする雪男とは逆に何がおかしいのか笑い続ける燐。人通りはないが、もしこんなところを誰かに見られてしまったらきっと口を揃えて「何をやっているんだ」と言うだろう。現に当人である雪男だってそう思っているのだから。
それにしても燐はどうしてこうも可愛げのない笑い声を上げているのだろうか。いや、実の兄が可愛かったらそれはそれでどうしていいのかわからないのだけれど。


「兄さん頭大丈夫?」

「はぁ、はぁ……あーおっかしー」

「ねぇ、頭大丈夫?」

「だから何でお前は頭ばっか心配してんだよ!!大丈夫だっつーの!つか、早くのけよ重い!」

「あ、ごめん」


燐の上から起き上って服に着いた砂埃を払う。起きて地面に座り込む燐に手を差し伸べた。


「はい、立てる?」

「…俺は女じゃねーよ」


それは手を差し出したことに対して言ったのだろうか。雪男が手を引っ込めると燐は自力で立ち上がった。同じようにぱんぱんと砂埃を落として雪男と向き直る。が、そこで一度引っ込んだはずの笑いが再発した。


「ブフォッ…!お、おまっ、メガネ曇ってる…ッ!」

「……は?」

「しかも、メガネずれて、る…ッ、ギャハハハハ!!」

「……ッ」


あれだけ走ったのだからずれたり蒸気でメガネが曇ってしまってもしょうがない。雪男は眉根をぴくりと動かしてメガネを拭きかけ直す。それでも燐は笑い転げ続けているのだから腹立たしい。箸が転んでもおかしい年頃ということわざがあるが、あれは燐のような男性に使うよりしえみや出雲や朴といった十代後半の女性に向けて使った方が正しい。
いつまで笑ってんだよ!と、加減なしに燐の頭を叩く。笑い声からぎゃんぎゃん喚き声にシフトしたが、どちらにしろ静かな今の時間帯にはうるさいことに変わりはない。
その声を無視して先へと足を進める雪男に燐はハッとした。その足は徐々にスピードを上げていく。


「ズリィぞ雪男!!」

「策士と呼んでほしいね!!」


海岸へと続く階段を下りるのが面倒で、スピードはそのままに堤防を乗り越える。高さはあったが難なく砂浜に着地した雪男は目の前に広がる青い海を見て立ち止まった。
電車の中から見たものと同じものを見ているはずなのに全く違う景色を見ているようだ。キラキラゆらゆらと揺蕩う水面に思わず心が奪われる。


「ゆ・き・おおおおお!!」

「うげッ!!?」


そんな非日常にも思えてしまう光景を目にして感傷に浸っていた雪男の背中に突然強い衝撃が走る。勢いよく砂浜へ顔面スライディングを決め込んでしまった雪男は苦々しく後ろを振り返る。そのこめかみにはたしかに青筋が浮かんでいた。
口の中に入ってしまった砂を吐き出してとび蹴りを食らわしてきた燐にゆっくりと近付く。流石にやりすぎたと気付いた時にはもう遅くて。凄む雪男に顔を青くさせた燐が謝罪の言葉を繰り返した。


「今更謝っても遅ぇんだよ…!!」

「で、でもさっ!メガネにひびが入らなくてよかったなーって……」

「それ、本気で思ってる?」

「……ゴメンナサイ」


あぁもうこれは全力で殴られるな。燐はぐっと目を閉じて歯を食いしばった。この優秀で可愛さなんてちっともないホクロメガネな弟は兄を殴るにしても容赦がない。こいつは本当に「兄さん兄さん」と自分の後ろをついてきていた小さくて泣き虫で可愛い弟なのかと疑いたくなる。


「そんなに構えなくても殴らないよ」

「えっ!?まじで!?」

「兄さんは僕を何だと思ってるの」

「鬼畜ホクロメガネ」

「一応言っとくけど許したわけではないんだからね?」

「すすす、すまん!つい口が勝手に…ッ!!」


しまった、と口を両手で覆っても発した言葉が再び口の中へ返ってくるはずもなくて。
雪男のこう言うのだからきっと許してもらうためにはとんでもない要求を呑まなければいけないのだろう。例えば課題をテキスト一冊分増やすとか、軟禁状態で勉強をさせられるとか。そういった燐の不得意な分野での要求だと思われる。


「ところで兄さん、賭けのことは覚えてる?」

「……ゲッ!?ま、まさか俺に肉まんを奢れと…?」

「いやいやそんな。一か月の生活費が二千円ぽっちの兄さんに肉まんを奢れだなんて酷いこと、僕が言うわけないじゃないか」

「さり気なくバカにしてんじゃねーぞコラ…!つーか笑顔が嘘くせぇ!」

「それとさっきのとび蹴り分を上乗せして…うーん、どうしようかなぁ」

「うぐっ…」


物凄く楽しそうな笑顔で思案する雪男に燐の中の危険信号が光る。…ヤバい。なんだか俺の想像を遥かに超えるようなスゲー嫌な要求をされそうな気がする。
雪男が小さく「あぁ、そうだ」と呟いた。どうやら処罰の内容が決まったようだ。知らず知らずのうちに燐の喉がゴクリと鳴った。


「兄さんの写真を撮らせて」

「…写真?んなもん撮ってどうすんだよ」

「だって僕ら正十字学園に入ってから一度も写真撮ってないからさ。修道院の皆に手紙と一緒に送ろうかなって」

「…俺の写真を?」

「うん。あぁそうだ、神父さんのお墓にも持って行こうか」

「お前の写真は?撮らねーの?」


ていうか、そんなことでいいのか。と続きそうになった言葉はなんとかすんでのところで留まった。下手なことを言って雪男の気が変わってしまったらそれこそどんな罰が待っているか分からない。
燐の言葉に、ぽかん、と雪男の口が開いたまま止まってしまった。燐は純粋に疑問に思ったことを口にしただけなのだが、それが何か雪男の癇に障ってしまったのだろうか。いくら頭の出来がよろしくない燐でも今の流れで自分が失言してしまったとは思えない。
どうした?と、雪男の顔を覗きこむと小さな声で何かをぼそりと呟いた。


「兄さんを撮る気だったから、僕が撮られるっていうことは考えてなかった……」
「お前はバカか…」

「兄さんにだけは言われたくないよ」


そうか、僕も映るのか。本当に盲点だったのであろう、珍しく的を射た燐の質問に雪男は暫し考え込んでしまった。燐からしてみれば何言ってんのコイツ、状態である。
きょろきょろと辺りを見渡して燐は浜辺に打ち上げられていた手頃な石を数個手に取って並べ始めた。何度か試行錯誤して出来上がった台座に自身の携帯電話を置く。


「雪男!三脚作った!こうしたら俺とお前二人で写れるんじゃね?」

「うわぁ凄い…流石兄さん、変なところで器用だよね」

「だっろー?もっと褒めてもいいんだぜ!」

「でも携帯のカメラだとセルフタイマーが使えないから意味ないよ」

「あ……」


雪男の言う通り燐の携帯のカメラ機能にセルフタイマーは搭載されていない。言われてみればそうだ、折角作った台座が台無しになってしまった。
一度は項垂れた燐だったがすぐに何か別の方法を思いついたようで、携帯を手に取り残念そうな目を向けてくる雪男に走り寄る。


「ちょっ、兄さん!いきなり何!?」

「こうすれば問題解決じゃん!俺ってあったまいいー!」


雪男の首に腕を回して自分の方へ引き寄せる。なるべく顔を近づけて、すかさずカメラのシャッターを切った。回された腕はそのままに写真を確認する燐の横顔を見て雪男の心臓がばくばくと音を立てる。


「あっちゃー…微妙に雪男が見切れちまってんなー」

「微妙っていうか僕思いっきり見切れてない?」

「んじゃもう一回だな」


今度は失敗しないように、と更に顔を近づけられて雪男の顔が熱くなる。あれ、あれれ?どうしちゃったんだ僕は。落ち着けよ心臓、何をそんなに急いているのさ。もっといつものようにゆっくり動いてくれよ。
ぎゅっと目を瞑って静かに深呼吸をしてみるが、カシャリ、とシャッターを切られた音がして慌てて目を開ける。


「今度は雪男が目ェ瞑っちまってんな」

「えっと…ごめんね?」

「じゃあ次は雪男がやってみ?ここを押したらシャッター切れるから」

「う、うん…」


燐から携帯を受け取ってシャッターを切ってみる。が、確認した写真はぶれてしまっていて燐が撮ったものよりも更に酷い出来になっていた。これには燐も噴き出さずにはいられない。


「どんだけ不器用なんだよお前は」

「…距離感がつかめなくて難しいんだよ」

「まったく…もっかい俺がやるから貸してみ」

「うん」


携帯を燐に返して互いに体を寄せる。今度は雪男も燐の肩にこわごわと腕を回してみた。燐は小さく驚いて雪男を見たが、すぐにニカッと笑って「お前もノッてきたなー」と、雪男に体を引っ付けた。


「四度目の正直っつーことで!」

「うわぁ…兄さんがことわざを使ってるよ…正しくは三度目だけど」

「うっせーな!!失礼なこと言ってねぇでお前もカメラに向かって笑えよ!」


言われた通りカメラに向かって微笑めば、四度目のシャッター音が浜辺に響いた。






「あー疲れた、スゲー疲れた」

「まさかこんな時間まで海にいるとは思わなかったもんね」


二人を乗せた電車には行きと同じく他に乗客はおらず、向かい側の窓からは夕日を反射させたオレンジ色の海が波打っていた。


「でもいっぱい撮れたな」

「だね。帰ったらデータをパソコンに移してコンビニに現像しに行こうか」

「おう!」


燐は携帯を閉じて雪男に寄りかかった。目を丸くして自分の肩に頭を預ける燐を見やる。遊び疲れて眠くなったのだろうけど、今はあまりそういった行動をされては困る。自分でもよくはわからないが変な気持ちになってしまいそうだから。


「そういえばさ、結局兄さんが海に来たがってた理由って何なの?」


意識を逸らせるように話題を振ってみる。燐は既に瞼を閉じかけていたが、雪男の言葉を聞いて内緒と答えた。


「強いて言うなら兄弟孝行したかった、みたいな?」

「何それ…」


意味が分からないよ。と溜め息を吐いた雪男にも睡魔が襲い掛かっていた。ガタンゴトンと揺れる電車に揺られて雪男の目もとろんとしてくる。寝ては駄目だ、僕が寝たら兄さんは誰が起こせばいいんだ。万が一にも乗り過ごしてしまったら帰るのが遅くなってしまうだろ。言い聞かせるようにしながら眠気と闘う雪男に気付いた燐が、雪男の頭を自分の方へと引き寄せた。


「お前も寝とけよ。折角の休みだったのに、俺のわがままに付き合わせちまったからさ。少しでも寝れるときに寝とけって」

「う、ん…」


ぽんぽんと頭を撫でられたのを決め手に、睡魔はいよいよ雪男を陥落させることに成功した。


「おやすみ、雪男」




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