キンモクセイが香る日に





・雪男と燐




金木犀の香る季節となった。



「うわ…いい匂い」


夕焼けと徐々に顔を出し始めた夜が混ざる時間、雪男が食堂へ続く寮の廊下を歩いていると、なにか甘い匂いが鼻をかすめた。香水や芳香剤などの作られた匂いではなく、ふんわりと優しく香る自然の匂いだ。少しだけ開かれた廊下の大きな窓から風と共にその匂いが入り込んでくる。愛用している卵色のカーディガンもそろそろ寒くなってきたかな、と思いながら雪男は窓に近づいた。


(あ……この匂い…金木犀だ)


目を閉じて鼻から息を吸えば、冷たい風と金木犀のほのかな甘い香りがすぅっと雪男の体の中を通り抜けて口から出る。まだ息が白くなるほどではないが鼻の奥が風のせいで冷たく感じられた。
自分達の育った南十字男子修道院にもあまり大きくはないが立派な金木犀があった。あの頃は今ぐらいの時期になると金木犀の木の下で燐と昼寝をしたり、雪男一人で本を読んだりもしていた。正十字学園は全寮制であるため許可のない外出は出来ず、久しく帰っていない。懐かしい匂いだなぁ、と感慨深く窓の外を見ていると突然背筋を何者かにつぅっとなぞられた。


「!!ちょっと、くすぐったいからやめてよ!」

「センチメートルに浸りまくって気付かないお前が悪い」

「センチメンタルね。浸ってもいないし」

「ふぅーん?」

「………なに、もう晩御飯できたの?」


エプロンを着けた燐は尻尾をゆるりゆるりと左右に振って雪男の顔をまじまじと見つめる。燐の言っていたことがあながち間違いではなかった雪男は、少しばつが悪そうに話題を逸らす。そのことに燐も疑うことなく雪男に今晩のメニューを告げて早く食べようと促してきたので、雪男は内心ほっとしながら食堂へ足を進める。


「あ、」


数歩後ろを歩いていた燐が立ち止まる。


「どうしたの?」

「ここ夜になると寒いから閉めとくぞ」

「そうだね。うん、お願い」


先程雪男が閉め忘れた窓を燐が閉める。錆のついた鍵独特の音が廊下に響いてきちんと閉められたことを確認した二人は、今度こそ食堂へ行こうと並んで廊下を歩く。食堂に近づくにつれて今度は燐の作った食欲を誘う晩御飯の良い匂いが鼻をかすめる。雪男の気持ちが金木犀の思い出から晩御飯へシフトし始めた頃、隣を歩いていた燐の足が再び止まる。


「あ、」

「今度はなに?」

「今日な、しえみにこれ貰ったんだけどよ」


部屋着のズボンのポケットから燐はちりめんで出来た小さな巾着を取り出した。途端にふわっと甘い香りが燐の掌から広がる。


「金木犀だね」

「そうそう。なんかキンモクセイの花を乾燥させたやつだってさ。お前の分も預かってたの忘れてた」

「忘れんなよ…」

「ちゃんと思い出したんだからいーだろ!」


燐から受け取った金木犀のポプリは持っているだけで優しい香りに包まれる。どうせなら燐にもさっきの話をしようと口を開いたが、それよりも先に燐が口を開いていた。


「これ修道院の匂いだよな」

「…そっか、そういう言い方もできるね」

「俺らよくこの木の下で昼寝したり本読んだりしたよな」

「本を読んでたのは僕だけだよ。兄さんはその隣で寝てたのが正解」

「え、俺昼寝しかしてねぇの…?」

「本を開いたらすぐに寝てたじゃないか」

「あれ…まじで……?」


燐が振ってきたのは自分がさっき考えていた話とほとんど同じ話で。雪男は緩む口元を隠すことなく歩き始めた。燐もつられて雪男の隣を歩く。燐はあまり納得がいかないのかうんうんと唸っている。


「…そういや兄さん、神父さんに金木犀の匂いをプレゼントしてなかった?」

「……そうだっけ?」

「うん。近所のお庭に立派な金木犀があって、それがあまり良い匂いだからってさ、こう…両手で空気を閉じ込めるみたいにして修道院まで走って帰ったことなかったっけ」

「っ!!…んなの無ぇよ」

「えー?絶対あったよ。帰ってすぐ神父さんのところに行って『きんもくせーのにおいつかまえた!』とかなんとか言ってなかった?」

「おまっ…何でそんな余計なことまで覚えてんだよ…!」

「あの時から兄さんってバカ丸出しだったよね」

「バカじゃねぇよ!!あと、それは子供の頃の話だろーが!!」


ぴぃぃんと尻尾が逆立っている上に顔が赤くなっている。燐が恥ずかしがっている証拠だ。何よりも今自分が墓穴を掘ったことに気付いていないのだろうか。
食堂に着いて二人で食器を出すべく奥の厨房へ向かう。その間もそんなことあっただの無かっただのと無駄な言い合いが続いて、結局ご飯を食べ終わるまでそれは終わらなかった。


「兄さん」

「だから無ぇよ!」

「その話じゃないってば」


食器を洗う雪男の隣で燐が皿を拭いていく。ジャージャーと水がシンクを打つ音が二人の声を覆う。


「兄さんから修道院の匂いがする」

「それを言うなら雪男からだってするぞ、修道院の匂い」

「自分じゃわからないよ」

「俺ら一緒の匂いなのにな」

「ふはっ、ほんとだ」


きゅっと蛇口を捻って洗い物を終えたことを告げる。燐も拭き終わった食器を半分雪男にも持たせて片づけの最終段階に入る。動く度に互いから金木犀の匂いがして、それが凄くくすぐったかった。


「いつかさ、」

「うん」

「絶対元気な顔見せに行こうな」

「うん、一緒にね」

「おう、一緒にな」


楽しそうに笑う二人をひっそりと見守るかのように窓の外を小さな小さな金木犀の花がひとつ、ふわりと飛んだ。





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