失踪事件





・雪男と燐
・ほんのり雪燐




「なぁなぁ奥村君、知ってます?」

「あ?なんだよ」

「奥村君と若先生が住んではる旧男子寮にな…出るらしいんよ」

「…出る?何が出るんだ?」

「何ってそりゃ、お化けですやん」

「……はぁ?」




ぐつぐつといい匂いの立ち込める調理場の中、燐は深い深い溜息を吐いた。昼休みに購買帰りの志摩達と出会った際に言われた言葉なのだが、思い返すだけで心底馬鹿馬鹿しい気持ちになる。そもそも祓魔師はそういった霊(ゴースト)や悪魔を祓うことが仕事であって、訓練生といえどもう何度も授業でそういった類を目にしているため耐性が出来ている。今更そんなものが出たところで驚くわけがない。第一、この正十字学園町にはメフィストの結界が張られていて中級以上の悪魔の侵入を許すことはそうそうない…はずだ。多分。それにこの寮には雪男もいる。霊なんて秒殺だろう。勿論この秒殺というのは、俺が雪男より早く秒殺しているという重要な前置きがあるわけで。まぁ、つまりはそういうことだ。


「うん、いい感じ!クローそろそろ出来るぞー」


いつも自分が料理をしているときに隣で味見待ちをしている猫又を呼ぶ。今日はいつもよりも少し上手くできたかもしれない。煮物だから熱いけど少し意地悪をしてそのまま小皿に入れてやろう。

なんて、呑気なことを考えていたのも束の間。


「…あっれ?クロー、味見しねぇのかー?」


念のためもう一度声をかけてみるが返事は全く聞こえてこない。それどころか姿さえ見当たらない。…おかしい。クロは燐の作るご飯が大好きで、いつもはこちらが呼ばずともすぐに飛びついてくるはずなのに。


「おーい、早く来ねぇと味見させねぇぞー」


脅しをかけてみるが、やはり帰ってくる返事はなく。これが飯時でなければ燐も不思議には思わなかったのだが、状況があまりにもイレギュラーすぎた。火の元を切って鍋の蓋を閉じ、エプロンを脱いで調理場を出る。


「クロー、どこだー?」


名前を呼びながらまずは自分達の部屋へと足を運ぶ。もしかしたら部屋で寝ているのかもしれない。そう思って部屋の扉を開けてはみたがそこに使い魔の姿はなかった。部屋以外にもクロのお気に入りの昼寝場所や屋上、挙句の果てには風呂場まで探した。それでもクロは見つからなくて。募るのは嫌な考えばかりだ。


『出るらしいんよ』

『何ってそりゃ、お化けですやん』


…ぞくり


志摩に言われた言葉が突然脳内を駆け巡り始めた。いやいやいや、ねぇって。クロだって悪魔なんだからそんな簡単にやられるわけがないだろう。不安要素を蹴散らすかのように頭をぶんぶんと振る。そうだぞ俺、前にもクロが家出したことがあったじゃねぇか。飯に食いついてこなかったからってだけで、そんな大げさに考えるのはよくねぇって。
自己完結した燐はくるりと方向転換して再び調理場へと戻る。


ギィ…


「っ!?」


誰かが階段を上ってくる音が暗い寮に響いて燐の心臓がどきりと跳ねた。ま、ままままさかまじで霊…!?メフィストの野郎…全然結界が役に立ってねぇじゃねぇか!しっかりしろよ理事長!旧男子寮には俺らしかいねぇからまだなんとかなるけど、これが一般生徒の寮だったら大事だぞ!…だ、大丈夫大丈夫。俺はいつか必ず聖騎士になるんだ。こんなことでびびってられるかってーの!


「…っ、そこだぁぁあっ!!」
「えっ!?ちょっ、痛っ!?」

「…あり?雪男?」


勢いよく飛び掛かりすぎたせいでそのまま相手を下敷きに倒れこんでしまった燐は声の主を恐る恐る見上げる。そこには額を抑えて苦痛に顔を歪ませる弟の顔が。メガネをかけていないことに驚いて周りを見渡せば、倒れた時の衝撃で吹っ飛ばされた雪男の眼鏡が近くに落ちていた。慌ててそれを拾い雪男に渡せば、苛立ち交じりの声で「レンズには触らないでよ」と忠告が放たれた。


「わ、悪かったって」

「本当にそう思ってるなら僕の上から降りてくれない?重いんだけど」

「…悪ぃ」


明らかに怒っている雪男はすっくと立ち上がり、祓魔師のコートをぱんぱんと叩いてほこりを落とした。疲れ切って体を引きずって帰宅したと思ったらこの扱いだ。雪男が怒るのも無理もない。燐も立ち上がって訳を説明しようと口を開く。


「あ、あのよ…」

「まさかとは思うけど兄さん、例の噂信じてるの?」

「え、は?噂?」

「うん。この旧男子寮に霊が出るって噂。あれ?兄さん知らなかった?」


てっきり志摩君辺りからもう聞いてるかと思ってた。と、きょとんとした顔で言われてハッとする。雪男はこういった噂話に疎いため、そのような言葉が雪男の口から出たことに逆に燐の方が驚いてしまった。


「いや、知ってるけどよ。今はそれどころじゃねぇんだ」

「何かあったの?」

「…クロがいねぇんだ。いつもは飯の時間になったら必ず厨房に来るのに」


しゅん、と尻尾を垂らした燐を見て雪男まで心配になってくる。クロが夕食前には燐の隣で味見役をかって出ようと律儀に待機していることは雪男も知っていたし、燐の様子からして心当たりのある場所はもう既に捜索済みなのだろう。


「じゃあ何で僕に飛びついてきたの」

「そ、それは…その…不審者かと思って」

「ふーん…。まぁ、霊と勘違いしてあんな飛びつき方をしてきたならお仕置きしようと思ったんだけど…そういうことならお説教で許してあげるよ」

「それは許すっていうレベルなのか…?」


つーか、お仕置きって何するつもりだったんだ雪男の奴…。想像して背中に冷や汗が流れ、思わず身震いをする。…説教で済んだことがとても軽く思えたのは何故だろう。

その時、


ギィ…ギィ…


「「っ!!」」


燐の背後から床の軋む音が聞こえてきた。ゆっくりと確実にこちらへと近付いている。これには流石の雪男も驚いたのか、胸元から対悪魔用の銃を取り出して構える。降魔剣を部屋に置いてきてしまったために丸腰だが、燐もその隣で臨戦態勢をとる。悪魔の力は使えずとも、悔しいが雪男のサポートぐらいにはなれるだろう。
そうこうしている間にも音はどんどん大きくなり、二人の間にも緊張が走る。


「あ、あの…ゆきちゃんと燐、だよね?」

「しえみ!?」

「しえみさん…どうしてここに…」


音が止まったことにより一層緊張感に包まれていた二人は、思わぬ人物の登場に思わず呆けてしまった。そこには祓魔屋の一人娘であるしえみが立っていたのだ。


「会えて良かったぁ。この寮広いから会えないんじゃないかと思っちゃったよ」

「でも、何でこんな時間に…母ちゃん心配してんじゃねぇのか?」

「ふふふ、心配しなくても大丈夫だよ燐。私はクロを連れてきただけだから」

「え!?クロ!?」


よく見ると、しえみの腕の中では気持ち良さそうに眠るクロの姿があった。見た限り怪我をしているようでもないので燐はほっと息を吐く。


「どこに行ったのかと思えばしえみのとこにいたのかよ、心配させやがって…。わざわざありがとな、しえみ」

「ううん、お礼を言うのは私の方だよ。クロはね、私と遊んでくれてたの」

「…クロが?あなたと?」


ずっと黙っていた雪男が慎重な面持ちで口を開く。しえみはそんな雪男を見て一瞬何かを考えるかのような素振りを見せたが、すぐにいつもの優しい笑顔を浮かべてクロの頭を撫でた。


「うん、すっごく楽しかった。…でも、クロと遊べるのは今日で最後かな」

「あ?何でだよ。また遊びに来ればいいじゃねぇか。クロだってしえみと遊びてぇだろうしさ」

「えへへ、そうだったら嬉しいな」


はい、起こしたら駄目だよ?と、クロを燐に優しく手渡すしえみ。燐はどこか違和感を覚えながらも、ぐっすりと眠っているクロを腕に収めた。


「それじゃクロもお家に帰ったことだし、私もそろそろ帰るね」


暫しの間眠っているクロを優しい目で見つめていたしえみは元来た道を帰るべく、くるりと燐達に背を向けた。


「しえみさん」


凛とした雪男の声がしえみを呼び止める。


「どうぞ、僕の祓魔屋の鍵を使ってください」

「……ありがとう、ゆきちゃん。でも今日は楽しかったから歩いて帰りたい気分なの」

「それなら俺が送ってくって。危ねぇぞ」

「大丈夫大丈夫!平気だよ」


にこっと笑ったしえみはそのままと暗闇に消えていってしまった。


「さてと、クロも雪男も帰ってきたことだし飯にすっか!」

「…うん、そうだね」


燐はクロを起こさないように抱え直してからゆっくりと調理場へ足を進めたが、雪男はしえみの消えた方向を暫く黙って見つめていた。







「よぉ、しえみ!昨日はありがとな。ちゃんと家まで帰れたか?」

「え?昨日?」

「ほら、眠っちまったクロを寮まで届けてくれただろ?」

「えぇ!?で、でも、私昨日はずっとニーちゃんと一緒に店番してたよ?」

「何言ってんだよ、クロと遊んで楽しかったってあんなに……っ、え、ちょっ…まじで?」

「どうしたの燐…?私、何か変なこと言ったかな…?」

「も、もしかしてあれって…!!」

「…燐?顔色悪いよ、大丈夫?」

「…で、ででで出たぁぁあぁぁあああ!!!」



「……僕は気付いてたけどね」


二人のやり取りを見ていた雪男が呟いた言葉は、燐の叫び声によってかき消されてしまった。






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