どうせ、いなくなるくせに。昨日の夜、名前は消え入りそうな声でそう言った。確かに、そうかもしれない。でも、俺は今ここにいる。アンタの目の前にいるんだ。言葉では表せないほど感謝してる。だから、幸せでいてほしい。いつか一生会えなくなっても、どこかで笑ってくれていればそれで構わない。誰かこの感情に名前をつけて欲しかった。人に対してそう思ったのは初めてだったからだ。昨日遮られて言えなかった言葉も、口にしてしまえば、また、ほっといて、と返されてしまうかもしれないな。きっと、怒らせてしまった。俺は、本気で人を好きになったことがないから、名前の気持ちを分かってやれなかったのかもしれない。言葉選びを間違えたか?後悔だけが募る。名前は今日、いってきます、とも言わずに、いつもより静かに扉を閉めて出て行った。でも、昼食は用意されている。名前はそういう奴だ。何故か少し、頭が痛い。雨のせいか。ベッドに寝転んだまま窓を見ると、サアサアと音をたてて雨が降り注いでいる。

『喧嘩した時って、いつもどう仲直りしてます〜?』
『ベタですがプレゼント買って帰ったりします…ケーキとか。すぐ機嫌直るので…』
『もう!』

気を紛らわすために電源を入れていたテレビから聞こえた会話。自分に関連性のある話題に珍しく耳を傾けて、重たい体を起こす。テレビの中では二人の男女に司会であろう男がおかまいなく質問を投げかけていた。きっとこの二人は恋人だろう。纏う雰囲気がその事実を醸し出している。文句を言いながらも箱の中で笑う男女は幸せを形にしたそのものだった。

「プレ、ゼント」

それがこの二人の仲直りの方法らしい。いや、俺達にそれは当てはまるのか?そもそも俺達は恋人ではないからな。でも、やらないよりはマシだ。だがどうする?俺は金を持っていない。何も買えない。ならどうする?俺は、いざという時にしか使わないで、と口うるさく言われていた物の一つであるこの部屋の鍵を持って雨の中を飛び出した。考えるより先に体が動いたのは、久しぶりだった。

**

朝と同じく静かにドアを閉める音が聞こえる。名前が、帰ってきた。この様子だときっと俺達の間を流れる空気は朝のままから何も変わらず平行線だろう。靴を脱いでこちらへ向かってくる名前は、まるで俺を視界に入れたくないとでもいうように、少し下を向きながら帰り道に買ってきたであろう荷物を置いた。一人でいる時と変わらない部屋の静けさの中、無機質なビニールがガサリ、と音を立てる。その横にあるものに、気付いてくれ。

「…なに、これ」

名前の目が、俺の願掛け通りにそれを捉えた。道端で摘んできた花だ。お世辞でも綺麗と言えるものではないかもしれないが、それでも、俺の精一杯だ。歩き回ってようやく見つけたもの。やっと口を開いてくれた名前に少し安堵する。

「俺が、見つけた。勝手に家から出た事は謝る。でもこうする他に何も思い浮かばなかったんだ。仲直りするには、プレゼントが良いと聞いた、だから…」
「私と仲直り、するために?」

当たり前だ。今の俺には名前しかいないんだから。まだ少し俯いたままの名前に、俺は、ああ、と頷いた。自分でも何でこんな馬鹿げたことをしたのか分からないし、上手く説明できそうにない。ただ前のように戻りたかった、それだけだった。言えなかったことも、そのためなら、きっと言える。

「アンタには幸せでいてほしいんだ」
「それ、本当に言ってる?」
「嘘を言う理由がないだろう」

言い終えた瞬間、俺と名前の距離がゼロになった。物理的に、だ。立ったまま勢いよく抱きつかれた。いつもより近く感じる名前の匂いで実感する。二の腕あたりに腕を回す名前。やはり名前は俺より少し甘い匂いがする。

「…どうしたんだ」
「ごめん、なさい」

違う。謝らせたかった訳じゃないんだ。俺は…、そう口にしようとした瞬間、鼻を啜る音が聞こえた。俺の胸に埋まるように顔を隠しているせいで、表情は見えない。でもきっと、泣いている。なんでだ、どうして。俺のせいか?また余計なことを言ってしまったか?

「ありがとう」

震えた、でも優しい声で呟く名前に痛くなる胸の奥。初めて感じる痛みだった。怪我をしたり、血が出た時の痛みとは違う。息がしにくくなるような、苦しい、そんな痛みだ。名前に出会って、自分で自分の思っていること、考えていることが理解できなくなることが多くなったような気がする。世界を飛び越えて、おかしくなってしまったか?

「ね、体、冷たくない?」
「雨が降ってたからな」
「傘指さなかったの?本当、ほっとけない」

冷たい?俺は今、体の芯に火が灯ったように熱い。雨に打たれたことを忘れてしまうぐらいには。俺を抱き締める細い腕に更に力が込められた。腕に痛みは感じないが、胸の奥がまた、きゅう、と音を立てて痛む。

「あのさ、そんなこと言われたの生まれて初めて。ドラマみたいだね。嬉しくて、感動しちゃった。ひどいこと、言ってごめんね。私、自分で思ってるより今の状況、辛かったのかも、あはは」
「無理に笑わなくていい。アンタらしくない」
「時々、何でそんなに鋭いかなぁ。慰められると余計涙出ちゃうから、やめてよ」
「…顔、見せてくれ」

名前が、へ?、と間抜けな声を出すから思わず笑ってしまいそうになる。いや、笑えることを言ってるのは俺の方か。泣いている顔が見たい、だなんて。でも、俺がそうさせた名前の表情を見たかった。俺だけのものだ、俺だけが見ていいんだ。少し強引に腕に力を入れて拘束を解いて、名前のアゴを掴んで、無理矢理こちらへと顔を向けると、ようやく顔を見ることができた。やだ、と聞こえたような気がしたが、聞こえない振りをして、じっと見つめる。鼻と目が赤い。気まずそうに目線は逸らされ、伏せられた睫毛で光る涙の粒が、とても綺麗だ。触れたい。たまらず指でその粒を掬うと、名前がピクリと動く。

「クラ、ウド」

俺とは違う、黒っぽい瞳。年齢の割に幼く見えるのは、それのせいなのか。もっと名前を知りたい。どんなみっともない姿でも、不思議とアンタなら受け入れられる気がする。それを口にして、この微かに震える唇に触れたら、また俺だけに見せてくれる名前がいるのか?欲が膨み、頬に手を添えようとして思い出す。名前がそうされたい相手は、俺じゃなかったな。

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