ベッドに座って、ひたすらに自分の手のひらを見つめる。洗面台で自分の姿を見てから数時間、少しずつ、でも着実に俺の体は色を失い始めていた。時期に俺は消えていってしまうんだろう。最初からタイムリミットは一年だ、と設定されていたんだろうか、俺の知らないところで。あっという間だった。何度も二人で眠ったベッドのシーツに触れる。温もりは感じない。ベランダに目をやると洗濯物を干す名前を邪魔しながら抱き締めたことを思い出す。たまらなくなって目を背けた。キッチンが目に入る。もうすぐご飯できるからもうちょっと待っててね、と声が聞こえた気がして、名前を考えないことを諦めた。ほとんどの思い出がここにある。思い出さないなんて無理な話だ。帰ってくるまであと6時間ほどある。それまでもつかどうか分からない。それまでに何か、できることはないのだろうか。何か、残せることは、
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駅から家に戻るまでの坂道は考え事をできる私にとっての大事な時間。もう難しいことは言わずに、ごめんね、と一言を伝えようと決めた。あわよくば、好きだから不安だった、なんて伝えたりしちゃおうか、なんて考えて。私がそんなことを言ったら驚くかな。正直怖いけど、向きあうしかないんだ。クラウドとも、自分の気持ちとも。我が家の扉の前で息を吸い込む。よし、と心の中で気合いを入れてドアを開けた。今日はクラウドの目を見て、ただいま、って言うんだ。あれ、部屋がまっくら。寝てるかな?少し驚かそうかな、なんて悪戯心が芽生えて、足音を立てないようにワンルームへと続く扉を開けてる。勢いよく電気のスイッチを押した。突然明るくなる視界。細めた目に映ったのはクラウドがベッドに腰掛けて、俯いている姿だった。具合、悪いのかな?心配になり傍へ行くと、驚いた私は目を思いっきり開く。クラウドが、透けて、見える。見えないはずの、体の向こう側にあるカーテンの柄が鮮明に私の目に映る。ふと、私は彼の手に触れた。もうほぼ色はないのに温かい。確かに血は、流れてる。
「…間に合って、良かった」
「何、言ってるの?どういうことこれ。ねぇ」
「多分、俺はもう少しで消える」
鈍器で頭を殴られたような衝撃。クラウドに触れている手を力いっぱい強く握った。それでもクラウドは淡々と、これが当たり前だと言うように告げた。確かにいずれこうなることは当然だったのかもしれない。でも、そんないきなりなんて、受け入れられない、受け入れたくない。そうだ、まだ仲直りだってできてない。
「一時的なことかもしれない。元に戻るよ、きっと」
「俺だってそう思いたいんだ」
クラウドが珍しく大きな声を出した。つい、びくりと体を震わせる。クラウドは一瞬はっとした表情をして、しゃがみ込む私の髪の毛を指でとかした。すまない、と呟きながら。顔を上げると、口をきゅっと結んで、薄く笑っているクラウド。何だか泣きそうな顔してるね。私はもう、泣いてるけど。
「名前には感謝しても感謝しきれない」
「うん」
「幸せに暮らせよ。…あんまり酒は飲みすぎるな」
「…あんなこと言ってごめんね。私」
「不安、だったんだろ?」
ほら、分かってくれた。何ですぐに謝れなかったんだろう。数秒で仲直りできたのに。ごめんね、ってあの時謝れていれば、この数日間きっと幸せに過ごせたのに。せめてものお願い、あの時に戻して。そう願った瞬間、同じ目線の高さにクラウドがいた。私の頬を両手で包みこんで優しくキスをする。嘘みたいに温かかった。そのまま私の腕を掴んでクラウドは自分の胸の中へ私を閉じ込める。こんなくっついてるんだから、神様、一緒に連れていってくれないかなぁ。どれくらいの時間抱き締めあってただろう、段々とクラウドの体温も感じなくなってきて、でも感じたくて、もっと、ぎゅっと力を入れるけど、何も変わらなかった。
「ねぇクラウド」
「…ん?」
「ずっと言いたかった、私、クラウドのこと」
好きだよ、の言葉は放たれず宙に浮いた。私を支えていた腕が、体が、なくなって、私はそのまま前に倒れていったから。間に合わなかった。たった二文字。一番伝えたくて、一番言えなかったこと。急激に鼻の奥がツンとして、視界が歪む。流れる涙を私は拭おうともしなかった。何とか体を起こして、無意識に辺りを見渡すと、テーブルの上に一枚の紙を見つける。私がいつもクラウドに言付けするために使っていたものだった。私のものではない字が書かれている。読むために、ようやく涙を拭って、そのメモを手に取った。
「好き、だ…思い出すのが、辛くても、一生、忘れ、な…い…」
クラウドの字でそう、書かれていた。私は、子どもみたいに声を上げて泣いた。ずるい。ずるいよ。自分はいなくなったくせに、愛だけ残していくなんて。ねぇ、こんなのいらないから戻ってきてよ。なくたって、言わせてやるから。私を好きだって。そして伝えるから、大好きだよ、って。結局私は、愛を伝えそびれた。でも確かに、恋をしていたんだ。
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寝坊した。やばい。急いで化粧を済ませて、髪の毛を巻いて、あぁ、もう朝ご飯は会社で食べる。間に合わない、無理、歯磨く。カバンを手に取る前に、ベッドの横の引き出し、一番上を開けて、一年前、自分の涙で濡らした一枚のメモを手に取った。少し、シワシワになってる。
「いってきます。今日も忘れてないよ。…辛くても」
あ、やばい。本当に遅刻するってば。大事に引き出しにメモを戻して、雑にカバンを持った私は今日も足早に駅へと向かう。
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