猫、掌中の鈴と首輪。
「…………。」
某は猫である。
「…やめてくれよ、ねね子!くすぐってぇよ!!」
これは、やめろと言われてもやめられない。
斎藤のおかげで煮干と少量ではあるが鰹節という朝餉を頂くことができた後、某は平助の部屋に訪れていた。
某はいま藤堂の背後に座っている状態だ。
平助は刀の手入れをしている最中なのだが、彼が動く度に結い上げた長い茶髪がゆらりゆらりと揺れるため、触らずにはいられない。
これが実に愉快に感じてしまうのは、猫の本能であろう。
探検に訪れたこの部屋だが、汚くはないが少々物が散らかっている。
予想通りというのか、年相応の男の部屋≠ニでもいうような印象を受ける。
それと、平助の部屋には書物が少ない。
まあ、ここの前に訪れた部屋には大量の書物が置かれていたため、よけいに少なく感じるのだろう。
…実は、その部屋で某はとある罪を犯してきたために平助の部屋に身を隠しているのだ。
「藤堂君、入ってもよろしいですか。」
「おう、どうしたんだ山南さん。」
…早速、その部屋の主が来てしまったらしい。
今はちょうど平助の背中に隠れてはいるが、どうしたものか。
「いきなりで申し訳ないのですが、猫を見かけませんでしたか?」
「ねね子?」
平助の背後から障子の方へとそろりと覗いてみれば、逆に恐ろしいと思える程度には穏やかな笑みを浮かべる山南と目が合った。
某は平助の部屋の前に、山南の部屋を訪れていた。
彼の部屋は綺麗に整頓されていて、大量の書物が置かれている。
部屋に訪れた時、彼は文机の前で筆を執っていた。
「おや、ねね子ですか。」
部屋に入り普段通りに障子を閉める。
そんな某に向けて山南がとある言葉をかけた。
「猫なのに、まだ悪戯などはしていない様ですね。」
最初はその言葉に気分を良くしながら部屋を観察していたのだが、よくよく考えてみれば遠まわしに猫らしくない≠ニ言われている事に気がついた。
人間に違和感≠竍不審感≠ニいう感情を抱かせると某の立場が危うくなるのは経験上知っていた。
そして、最近の某の行動はこの人間に違和感を抱かせているらしい。
確かに、山南は初めて出会った際にも某を怪しんでいる節があった。
好き勝手をして人間に害しても厄介な事になるのに、人間に気を使って行動していても逆にそれが原因で自分の首を締める事もあるとは、本当に難儀なものである。
とにかく、この問題は早くにその感情を相手から払拭することが大事なのだ。
『猫らしく≠オなくてはな。』
そこで某は、恐る恐る自分のすぐ傍にある障子に、さくりと爪を食い込ませた。
某の爪の数だけ開いた小さい穴を確認し、山南が声を上げる前に部屋から飛び出してきて今に至る。
山南の言う通りに猫らしく∴ォ戯をしたわけだ。
某は生まれて初めて障子に手をかけた。
少しでも傷をつければその部屋の主から問答無用で怒りを買う事になるのだから、障子とは本当に恐ろしい紙である。
「ええ、ねね子が私の部屋の障子に爪を立てたのですよ。」
「ねね子が?今までコイツそんな事しなかったのに、ついてなかったなぁ山南さん。」
「ええ、まったく。…私がねね子に何かしてしまったのかもしれませんね。」
困った様に溜息をつく山南。
そうか、このままでは某は山南にだけ嫌がらせをした様な状況になるのか。
自分だけというのも、山南は気分が悪いだろう。
こうなれば解決策は一つしかない。
「おい、ねね子!何してんだよ!?」
パンッ!!
障子に一つ、某の拳一つ分の穴。
それを見た平助の叫びを聞きつつ、急いで山南の横をすり抜けて廊下を走る。
平助には申し訳ないが、仕方のない犠牲だったと思ってもらうしかない。
それにしても、慣れとは恐ろしいもので、障子を破く感触は非常に気持ちがいい。
これは少々癖になりそうな感覚だ。
刀の手入れを途中で放り出したのか、廊下を走る某の後方から平助の声と足音が近づいてくる。
…どうせ叱られるのなら、最後に思い切りやってしまおうか。
適当な部屋に狙いをつけ、某は目の前の障子に飛び込んだ。
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