猫、己の名を知る。
月がぼんやりと照らす夜。
俺は廊下を歩きながら昼間の出来事を思いだしていた。
それは不思議な光景だった。
「これからは、ここが君の居場所だ。 よろしく頼む、ねね子。」
近藤さんの言葉を聞いた猫は、ないた。
涙を流して泣きながら、彼の言葉に応えた。
その声は、妙に凛と響いた。
その後は、ただひたすら静かに涙を流していた猫を近藤さんや雪村、平助なんかは心配していたが、実際には大丈夫な様だった。
幸せそうに喉を鳴らしていたのだから。
「近藤さん、ちょっといいか。」
部屋の中に声をかければ、間を置いて声が返ってくる。
「ん?どうしたんだトシ。こんな夜遅くに。」
部屋の中に入り、その場に腰を下ろす。
「悪いな、いきなり邪魔しちまって。俺のところに近藤さん宛の文が手違いで届いてたからな。持って来たんだが。」
「そうか。わざわざすまんなぁ。そういえば、ねね子は今夜は雪村君の部屋で寝ているそうだ。今日一日疲れていたんだろう。」
「ああ、そういえば平助がそんな事言ってたな。」
「はは、平助はもうねね子の事がお気にいりなんだな!」
それは、あんたも同じだろう。
笑っている近藤さんを見ていれば、彼は文机の上から畳まれた紙を手に取った。
「なあ、トシ。俺は今日、あの猫にねね子≠ニ名を与えただろう?」
「…ああ、そうだな。それなりにいい名前だと思うぞ?」
猫の名前がどうしたというのか。
「実はな、ねね子の名は俺がつけたわけじゃないんだ。」
「自分じゃないって、だったら誰がアイツに名前をつけたんだ?」
近藤さんが畳まれた紙を開く。
「これは…絵か?この猫、ねね子にそっくりじゃねぇか。」
そこには、香箱座りをした猫の絵が描かれていた。
ねね子にそっくりの猫が。
いや、見れば見るほどねね子にしか見えない。
あの見た事のない複雑で左右対象の縞模様に、長い尻尾、丸い大きな目…。
その猫の横にはねね子≠フ文字。
近藤さんとは長い付き合いだ。
彼に絵の趣味は無いし、紙の色や折り目から見てこの絵はだいぶ年季が入っている。
だが、どこか見覚えがある様にも感じる。
「…この文字に見覚えはないか?」
「……まさか…。」
どこか堂々たる風格を感じさせる達筆な筆遣いの文字。
この文字には見覚えがあった。
「…これを描いたのは、芹沢さんだっていうのか?」
彼はもういない。
それは自分が一番知っている。
あの猫と芹沢さんが出会えるわけが無い。
ありえないのだ。
しかし、この紙に描かれているのはあの猫で、文字は芹沢さんのもので間違いないのだ。
「本当にあの人は不思議な人だな、トシ。」
「…普通は、信じられねぇだろうな。」
「ねね子を飼おうと思ったのは俺の気持ちもあるがな、…あの子を見た時これは運命じゃないかと思ったんだ。」
「………そうか。」
…いったいあの人の目は何を写し、何を見通していたのか。
今はもうそれを知る術は無い。
だが、彼の見ていたであろう新選組のこれからに、辿る道に、ねね子≠ニいう猫が共に写っていたのなら。
「…本当に、運命なのかもしれねぇな。」
静かな夜は、月の光に答えを隠すように、ただ穏やかに時間が過ぎていった。
ー猫、己の名を知る。
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