揺らぐ心、走る蝶

夜空に浮かぶ、月を見上げる。

新選組屯所周辺の警備にあたっていた斎藤一は、数人の隊士を引き連れ静かに夜道を歩いていた。
本当ならば、捕物が無事に終わったという情報が既に届いているため、警備をある程度切り上げても問題はないのだが、念のため捕物に出た部隊が屯所に帰還するまでは警備を続けていた。
今夜は、月明かりのおかげで普段よりも警備がしやすく感じる。
最近は厚い雲が立ち込め、月のない夜が多かったためだろうか。
今回の捕物は、多くの不逞浪士を捕らえ、武器も押収でき、新選組屯所襲撃の阻止も成功した。
怪我をした隊士に重傷の者はいないと聞く。
ひとまず一安心と言ったところか。
空に浮かぶ月から夜道に視線を戻せば、遠くから何者かがこちらに向かい走ってくるのが目に映る。

「…北上、か…?」

高い背、頭に被る袈裟と口布、長い前髪、背中に背負う野太刀。
新選組の隊服も羽織っている。
間違いなく、北上清虎だ。
…副長達と共に捕物へ向かったはずだったが。
何故、一人で行動しているのか。
まさか、捕物へ向かった部隊に何かあったのか。
しかし、北上が向かっている先は八木邸ではなく、その先には、

「斎藤組長、今の者は…?」

隊士達が怪訝そうな声を上げる。

「…幹部達を呼んできてくれ。」

「ですが…。」

「いいから、お前達は幹部を呼んでくるんだ。幹部なら誰でも構わぬ。…奴は俺が追いかける。」

隊士達にそれだけを伝え、北上の後を追う。
奴が走っている先には、前川邸。
多くの新撰組隊士が詰めている場所だ。

「…想定外の事態、か…。」

北上の足は思いの外速く、案の定、前川邸へと踏み込んでいく。
…何故、奴は前川邸に。
前川邸へ踏み込もうと戸に手をかけてみるが、力を入れても戸が動かない。
良く見れば、戸が歪んでいた。
…一体どんな力で閉めればこうなるのか。
こんなところで時間を食うわけにはいかないというのに。

「斎藤君、北上君は…!?」

戸を開けるのに手こずっていれば、元来た道の方から源さんと土方さんがこちらに駆け寄る。

「まさか、北上の野郎、前川邸に入ったのか…!?」

「はい、この中に。しかし、屋敷に入ろうにも戸が歪んでおり…。」

急に遠くから響く、何かの咆哮。

「…蔵の方からだ。不味い事になったね。」

源さんが前川邸の蔵の方角を見つめる。
蔵の中には、多くの羅刹がいる。
その羅刹の声が響いたという事は…。

「こじ開けるぞ、斎藤!源さんも手伝ってくれ!」

三人で無理やり戸をこじ開け、副長を先頭に前川邸の敷地内を走る。

「副長、やはり北上は蔵の中に…!」

例の羅刹達がいる蔵の中から、羅刹達の咆哮が響く。
灯りは点いておらず、開け放たれた戸の奥は暗闇に包まれているが、羅刹の赤い瞳が時折月光を反射する。
急いで中に入ろうと蔵に近づけば、中から浅葱色が地面に転がり出た。

「血、血をよこせッ!!」

それに続いて羅刹が蔵の中から飛び出し、北上に飛びかかる。

『…い、嫌だ、やめ…!!』

「血ィ、血だァ…!!!!」

逃げ出した羅刹は一人。
しかし、今にも地面に押さえつけた北上の首元に噛みつかんとしている。
急いで二人に距離をつめ、抜刀し、羅刹の心臓を狙って突き刺せば、羅刹はもんどりうって北上の横に倒れた。

「怪我はないかい?北上君。」

『げほッ、ええ…なんとか…。』

源さんが北上を助け起こすが、副長は北上の首元に刃を向ける。

「…どうして、お前はこの屋敷に踏み込んだ。」

地面に座ったまま、北上は副長と目を逸らさずに答える。

『…私は、この場に足を踏み入れるなと言われた覚えはありません。』

「だが…。」

『言ったはずです。私にはどうしても諦められない事がある、と。』

「…それと、この蔵に何の関係がある。」

『それは、…なッ!?』

北上の体が傾き、地面に叩きつけられる。

「蝶、蝶はどこだ、何処へ、やったッ!?」

斬り捨てたはずの羅刹が再び起き上がり、北上の首を締め上げる。
それと共に北上の喉から、悲鳴とも僅かに気管に残っていた空気の音ともとれる悲痛な音が漏れた。

「蝶!蝶はどうした!!お前がァ…ッ!!」

土方さんが再び羅刹の心臓に刀を突き刺し、羅刹を仕留める。
羅刹は、蝶≠ニいう言葉を繰り返してようやく息絶えた。

「…なんなんだよ、蝶ってのは。」

血ではなく、蝶。
今までで狂った羅刹の中では聞いたこともない言葉。
しかし、副長の言葉に次に反応を起こしたのは酷く咳き込みながら羅刹の手を払いのけていた北上だった。

『…ちょっと待って下さい、副長殿ッ!今、蝶とは何だと言いましたか!?』

蹲っていた体を起こし、地面に膝をついたまま副長の羽織にすがりつく。

『おかしい、私は蝶を追いかけてここにたどり着いた!貴方はそれを見ていたはずだ!!』

掠れた声で叫ぶ。
声は感情の無いものではなく、どこか怒りや焦りの感情が感じ取れた。

『さ、斎藤組長だって、私の事を見たでしょう!?貴方も蝶を!!!!』

「…俺達は、蝶なんて見ちゃいねぇよ。」

『…な、そんな…。』

「お前は、一人で走ってこの前川邸に来たとしか俺には言えねぇ。」

副長の言葉に頷けば、北上は土方さんの隊服から手を離し、その場に崩れ落ちた。
息も乱れ、震えている。

「…しかし、この羅刹も蝶の事を北上君に問い詰めていた様だが…。」

源さんが倒れる羅刹の骸を見る。

「…蝶の事はいい。ただ…。」

土方さんが北上の首に手刀を打ち込み、北上の体が地面に倒れる。

「…こいつを、野放しにする事はできなくなった。斎藤、こいつを屯所の空部屋に運べ。源さんは幹部達を広間に集めてくれ。羅刹達は俺が見る。」

「それはいいが、斎藤君に北上君を運ばせるのかい?」

源さんが、副長の足元で倒れる北上を見る。
…自分よりも背丈の高い男を俺が運ぶのを源さんは心配らしい。

「ああ、大丈夫だよ。…見た目以上に軽いからな、そいつは。頼んだぞ、斎藤。」

「…御意。」

北上を担ぎ上げれば、確かに軽い。
……この男、体が不健康なのではないだろうかと思うほどだ。
手足も細く、色も白い。
源さんと共に前川邸から歩き出せば、北上が微かに口を開いた様だった。
隣を歩く源さんも気づかないほどの声。
もしかしたら、俺の聞き間違いかもしれない。
しかし、俺の耳には。

『…かえりたい…。』

本当に、か細い声だった。


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