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酷く変な夢を見た。
だがその夢の内容は覚えていない。実際のところ、変な夢を見た、という事実しか覚えていないのだ。
しかしそんな事が如何でもいいと思える程に、美咲の目の前には異常な事態が発生していた。

「…なに、これ」

直ぐに身支度を整えて外へ飛び出すと、見回す限り全ての場所に、白い霧がかかっていた。
歩いても歩いても霧は何処までも続き終わりが見られない。

嫌な予感は、どうやら的中したようだった。
周りには誰もいない。来る時に咄嗟に太宰の部屋へ駆けこんだが、彼の姿も見当たらなかった。
まるで急に、ヨコハマの街から人が消えてしまったかのよう。人の姿が見当たらず、ただ白い霧が立ち込めるという異様な光景が広がっていた。

──…おいおい

一刻も早く探偵社員の誰かと落ち合いたいところなのに、その姿は何処にもなかった。
念のため携帯で連絡を取ろうとしたが、電波が通っていないようで繋がる気配が無い。嫌な汗が流れるのを感じながら、美咲は一先ず探偵社の方へと歩き始めた。



名所の一つである繁華街。
矢張りこの辺りにも人は誰もいなくて、活気がある筈の街は気味が悪いほどに静まり返っていた。
そんな時──微かな物音が耳を掠め、反射的に足を止める。

「…──」

誰か居る。それを察するのにそう時間は掛からなかった。
本能が叫ぶ。微かに感じるのは、抑えきれない程に強い此方への殺意だった。


刹那、背後で風を切る音。
直ぐに反応し、異能を発動させようとして──そして、違和感に気付く。

短刀を握り込むはずの右手を突き出した途端、手首が勢いよく真横に斬り裂かれる。
刃は皮膚を破り肉を裂き、骨にまで到達した。響くような激痛が右腕を襲う。

「ッ…!」

瞬時に横へ身体を逸らし距離を取った。逃がさないとばかりに相手が追ってくるが、地面を転がる様にして追撃を全て躱していく。
脚の力だけで直ぐに立ち上がると、そのまま美咲は後ろへ跳び、ある程度離れた場所へと膝を付いて着地した。おびただしい血が流れる右手首から全身に巡る激痛へ、思わず顔を顰める。

──やられたな…

既に治癒が始まっている右手首だが、これでは暫く使えそうにない。一気に不利な状況になったことへ自嘲的な笑みを浮かべつつ、美咲は顔を上げて、改めて相手を見据えた。

「…!」

突如斬りかかって来たそれは、驚く程に“自分”とよく似ていた。
だが、何かが違う。姿シルエットこそ同じだが、表情も窺えないし、そもそも意志があるのかという事すら不明だ。
しかし此方への明らかな殺気は、相手の意志を全て表現しているかのようにも思える。まるでそれは、美咲を殺す為だけに存在しているかのようだ。

不意に相手が動いた。右手を出したかと思ったら、その手にするりと一振りの短刀が出現する。
柄を握り込み、改めて此方を見据えるその姿は──妙に見覚えがあった。

「…真逆」

今、目の前で行われたものは、自分が異能を使う時と全く同じだった。
そも、先刻無防備になってしまったあの右手には、異能によって生み出された短刀が握られる筈だった。だが異能は、意志に反してまったく発動しない。
まるで…自分の身体から、すっぽりと異能だけが消えてしまったかのように。

──真逆、此奴は…

私の、異能力…?

自分から異能が分離している──その結論にたどり着くまで、そう時間は掛からなかった。
異能が地を蹴る。両手に生み出された短刀が振り下ろされるが、美咲はどうにか身体を逸らしてそれを躱し、そのまま一気に駆け出した。

今戦っている異能力は、まず間違いなく“生れ出づる悩み”だ。もう片方の異能も今の様に身体を得ているように思えるが…だとしたら、この混乱に乗じてやってこないのが可笑しい。
異能力の技術、威力を格段に上げる能力──“カインの末裔”は、発動条件が限られている。信頼できる者が近くに居らず、複数の異能を所持していない今は、その異能が発動されない…つまり、生れ出づる悩みのように危害を加えようとはしない、ということだろうか。

近くにあった中華料理屋へ美咲が駆け込み、その直ぐ後を異能が追う。上手く机を蹴り、相手の動きを封じようとするが…瞬く間にそれは粉々に切り裂かれた。
生れ出づる悩みという異能力は、ほぼ無限に刃を生み出す事が可能だ。美咲は僅かに顔を引き攣らせ、冷や汗を流す。
触れれば斬られる──幾度となく美咲の身を守ったその能力が、真逆敵になるなんて。

走りながら懐から一丁の拳銃を取る。異変を感じて自宅から持ってきたものだが、それを自分の異能に使うとは考えてもみなかった。
慣れた手つきで安全装置セーフティを外し、振り向きざまに発砲。ほぼ同時に甲高い音が響く。瞠目して視線をやれば、銃弾が異能によって弾かれているのが見えた。

そのまま刃を薙ぎ払う様に振るわれ、咄嗟に上半身を下へ逸らす。少しでも反応が遅れていれば、きっと美咲の首が宙を舞っていたに違いない。
体制を崩さず異能を蹴り上げようとするが、命中した場所には刃が生み出されていた。息を呑んで姿勢を変えるが、避け切れなかった刃が膝を掠める。

「っく、そ…!」

後ろへ跳躍し、同時に美咲が再び銃弾を発砲する。銃弾は豪勢な店の照明の付け根に命中し、重力に従ってシャンデリアが落下した。
店内が一気に暗くなり、シャンデリアの真下にいた異能が反射的にそれを回避する。
その際に出来た隙を美咲は逃さず、護身用の短刀を外套の内側から抜き取り、異能の死角へ回り込んだ。

人間にとっての急所…頸動脈を狙い、刃を突き立てる。死角からの音も無い接近に異能は気付けず、刃が狙い通り異能の首を貫通した。
殺った──そう確信した、のだが。

異能の背中から、首から、頭から…ありとあらゆる部位から、突如刃が飛び出した。
反射的に後ろへ跳ばなければ、恐らく美咲は串刺しで死んでいただろう。避け切れなかった幾つかの刃が肌に傷を作る。

「っ…」

膝を付いてどうにか着地する美咲の一方、異能は突き立てられていた短刀を、忌々し気に首元から引き抜いた。血は吹き出されない。からんと乾いた音をたてて短刀が床に落下する。
人間の急所に意味はないようだった。舌打ちを溢した美咲は、今まさに新たな刃を生み出す異能を見つめ、僅かに唇を噛んだ。

──…まずい

一体何処を狙えば、あの異能は動きを止めるのだろうか。
恐らくだが、異能を倒せば自身にも異能が戻って来る筈。しかし頸動脈を切っても動きは止まらない。まるで八方塞がりだ。

拳銃の銃弾はあと五発。短刀は三本しか残っていない。右手首は出血こそ止まったが、万全に動かせる訳では無い。どうしたって此方が不利だ。
そしてその状況を、異能も理解しているようだった。此処で一気に片を付けようと、全身から刃を出現させ、襲い掛かって来る。

触れれば斬られる。外套の裏から短剣を抜き取り、最初に振り下ろされた一撃を受け捌きながら後退し、そのまま上階へと続く階段を駆け上がった。

細い階段を美咲が通った直後、異能が壁やら足元やらを刃で傷付けながら、その直ぐ後を追う。背後に明確な“死”が迫っている様に感じて、その事に恐怖すら感じた。

厨房の道具を上手く盾にしながら進み、たどり着いたのは建物の屋上だった。
下を見れば、人の消えた車やら単車やらトラックやらが玉突き事故を起こして道路を埋め尽くし、信号がちかちかと無意味な光を灯していた。人が居ないからだろうか、普段生活している街とは思えない。まるで別世界に飛ばされてしまった気分だ。

息を切らしながら、美咲は今まさに斬りかかろうとする異能を見据える。
一か八か…こうなったらやるしかない。かなり身体に負担がかかるだろうが、自分の異能に微塵切りにされるのはごめんだ。

異能の刃が届く寸前──美咲は迷いなく、建物から飛び降りた。
その行動に異能は僅かにたじろぐが、すぐさま次なる刃を生み出し、それらを落下する美咲へ投擲してくる。我が異能ながら、臨機応変に動けるものだと感心した。

持っていた短刀で受け弾くが、弾ききれないものが皮膚を破る。顔を顰めつつ、壁を蹴って出来る限りの減速。ブーツのヒールが壁に擦れて、甲高い音をあげた。
雨水管を掴み、更に減速を図る。重力が重く圧し掛かり、その衝撃に身体が軋んだ。

その勢いのまま、自動車の上へと背中から落下した。
受け身を取ったので骨は折れていないが、強い衝撃に吐き気を感じる。それに構ってもいられず、美咲は直ぐに地へ下りる。直後、上から何本かの刃が落下し、つい先刻まで居た車の上へ直角に突き刺さった。

異能は美咲を追おうと、建物の上から同じ様に飛び降り、何本もの刃を壁に突き立てながら向かってくる。混凝土の壁と刃が擦れ、火花が散っていた。
その間に、美咲は手前にあった単車へ跨る。運が良いことに、霧がかかるまでは人が乗っていたようで、エンジンは既についていた。

ヘルメットは無しだ。こんな緊急事態に安全第一なんて云っていられない。
一気にスピードを上げ、美咲は自身の異能から逃れるべく、霧に覆われた街を疾走し始めた。

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