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「あれ、美咲さんは…?」

中島敦は首を傾げて、ぽつりと疑問を呟いた。

昼と夜の間を取り仕切る薄暮の武装集団、武装探偵社。
その会議室には、敦の他に社長の福沢諭吉、今回の会議で議事進行を務める国木田独歩、駄菓子を机にまき散らす江戸川乱歩、探偵社専属女医の与謝野晶子、妹のナオミと共に座る谷崎潤一郎、人懐っこい笑みを浮かべる宮沢賢治、そして敦の隣に座る泉鏡花が居る。
新しい自殺法を試すと云って何処かへ行ってしまった太宰治が居ないが、錚々たる各々が並んでいた。そして同時に、この場に居るはずの彼女が居ない事に気付く。

有島美咲。敦の先輩である彼女は、幾度となく敦を助けてくれた探偵社の一員だ。敦とは一つしか歳が離れていない事もあってか、何かと話したり共に行動する事も多い。
そんな美咲が、太宰の様に重要な会議をすっぽかすなんて事をしないのは、敦がよく判っている。だから彼女が見当たらないことに疑問を抱いたのだ。

「今日彼奴は休みだ」

敦の問いに答えたのは、資料をそれぞれに配り始めていた国木田である。資料を受け取った鏡花が僅かに視線を上げる。

「具合が悪いの?」
「否。入社した時より、本日には有休の申し入れがあった」

今度は福沢がそう答えた。敦と鏡花は顔を見合わせる。
駄菓子を食べ続ける乱歩は置いておくとして、その他の社員全員は様子からして、その真意が解らぬようだった。社員たちの意志を汲み取り、福沢が言葉を続ける。

「友の命日だそうだ」

そう云いながら、福沢は数年前の今日へと記憶を馳せる。
頭を下げた美咲はやがて顔を上げ、真っ直ぐな灰色の目で此方を見据えて、噛み締めるように云った。

─大切な日、なんです



●●●



ヨコハマの景色を見下ろせる丘の上で、美咲は一人ぽつんと立っていた。

彼女の周りにあるのは一本の大樹に伸び放題の雑草、そして一歩奥に鎮座する小さな墓石。
その墓石の地下に骨は無い。墓に眠る筈の人物の身体を、回収する事が出来なかったから。だからこうして墓参りをするのは無意味な事かもしれない。所詮は自分のエゴで動いているだけなのだ。
それでも、まあ。これくらい許されるんじゃないか、なんて思っている。友人はそんな人だった。

出航を知らせる汽笛が港に響き渡る。遠くで清らかな鐘の音が聞こえた。
美咲は墓の前にしゃがみ込んだ。友人の名が彫られた墓石を眺めながら、独り言のようにぽつりと口を開く。

「さっき織田作さんのところに行って来たよ。まだ新しい花が供えられてたから、あの人が来てくれたのかもね」

先刻訪れた墓にも、そして目の前の墓にも、同じ白の花が供えられていた。真っ先に脳裏へ浮かんだ人物へ笑みを溢し、美咲は持って来ていた黄色の花を、そっと墓石の前へと置く。

「この花好きだったよね。私の執務室にも飾ったりして…押し花の栞、今も使ってるんだよ」

ぽつり、ぽつり。目を閉じて、昔話を楽しむ様に言葉を続ける。
そうして、やがて口を閉ざした。数年前の今日の出来事が脳裏に浮かぶ。

─貴女なら、変われますよ
─だって私が、貴女が変われる事を信じているから

その日から、美咲の人生は一変した。
生れて初めて、彼女は“変わりたい”と願った。命令に逆らった。無理だと解っていても、それでも信じようとした。
そうして今、美咲は武装探偵社に身を置いている。人を救う立場として、今を必死に生きている。

「──秋子さん」

閉じていた目を開けて、美咲は墓石を眺める。灰色の瞳がゆらゆらと揺れていた。

「私、変われたかな」

その問いに答える者は誰も居ない。否…自分でも分からぬ者を、他人が分かる筈がないか、と苦笑を浮かべる。
それから暫く、美咲は何も言葉を発することなく墓石の前に居た。心地良い風に灰色の外套が揺らぐ。そういえば目の前の墓を作った時、この外套を初めて着たんだっけ。随分昔の事にも感じるし、つい先日の出来事のようにも感じる。不思議な感覚だった。



「美咲」

不意に名前を呼ばれる。優しい声色だった。
振り返ると、見慣れた砂色の長外套の男がゆっくりと此方へ歩み寄って来るのが見えた。美咲は立ち上がり、脚についていた草を掃いながら「太宰さん」と口を開く。何だか数時間ぶりに口を開いた感覚で、声が僅かに掠れていた。

「織田作のところに花が供えられていたからね、君が居ると思ったんだ」

美咲が問う前に太宰が云う。何でもお見通しみたいだ。

「それは太宰さんもでしょう。今日は会議があるって聞きましたよ」
「パスしちゃった。新しい自殺法を試したくてね」

相変わらずな様子に美咲は苦笑を浮かべた。国木田が「あの唐変木!!」と青筋を浮かべる姿が想像できる。
太宰は美咲へ右手を伸ばし、そうして柔らかな口調で口を開いた。

「直に日も暮れる。帰ろうか」
「…はい」

もう一度、最後に彼女の墓石を見据える。また来ます──小さく呟いて、太宰が差し出した手へ自身のそれを重ねた。
太宰は笑みを浮かべ、そのままゆっくりと歩き出す。美咲もそれに続き丘を下り、暗くなり始めたヨコハマの街を進んだ。

「…太宰さん、」

唐突に美咲が口を開く。何だい、と僅かに身を屈めた太宰へ、美咲は声を潜めて言葉を紡いだ。

「最近、何だかとても嫌な予感がするんです」
「!」
「私も上手く言葉で表せなくて…でもまるで、これから何か最悪なものが始まる気がして」

美咲の云う“嫌な予感”が只の予感ではない事を、太宰は知っていた。

かつてポートマフィアの死神として名を馳せた彼女は、数え切れない程の戦場に出ている。そこは生と死を分かつ分岐点でもあり、殆どが死を迎える場所だ。
幾度となくそれを潜り抜けた美咲は、危機察知能力が飛躍的に向上した。極限に抑えられた殺気も、自身の命の危機も、細かい日常の変化にも、本能的に反応する。戦場で養われた観察力、動体視力、器用さ、才能、そして数々の経験があるからこそ成せる事だ。

太宰は不意に手を伸ばすと、いくらか小さい美咲の頭へぽん、とそれを置いた。そのまま髪型が崩れる程に、力強く彼女の頭を撫でつける。わ、わ、と驚いた声をあげる美咲へ、太宰はにこりと笑みを浮かべた。

「その時は、私が君を守るよ」
「…だ、太宰さんが……?」
「なに、不満かい?酷いなぁ」

大袈裟に肩を落として傷ついた演技をする太宰へ、美咲は慌てて「不満とかじゃなくて!」と云いながらぶんぶんと首を横へ振った。

「確かに、太宰さんは肉弾戦だと少々劣るところがありますけど…」
「わぁ、急に辛辣」
「でもそれ以上に…太宰さんが怪我を負うのを見たくないです」

最初こそ太宰が気にしている事を何でもないように云ってきたが、その後の言葉に太宰は瞠目した。
珍しく驚いた表情を浮かべるものだから、美咲も驚いて太宰を見つめる。暫し謎の沈黙が走った後、太宰は口元を抑えてぷくく、と堪えきれない笑いを溢した。

──わ…笑った…

ぽかんとする美咲は目を瞬かせるばかり。そんな彼女へ再び手を伸ばした太宰は、何を思ったのか柔らかな頬を掴み、ぐにぐにと引っ張り始めた。

「だ、だじゃいひゃん?」
「嬉しいなぁ、美咲から愛されるって矢っ張り素敵だね」

太宰は本当に嬉しそうに顔を綻ばせている。
頬を弄る手つきは優しく、美咲は困惑の表情を浮かべた。戸惑う彼女へ太宰はそっと顔を寄せ「だから…うん、」耳元で囁くように云う。


「お願いだから、無事でいてくれ」


「──え?」

突然、格段に低くなった声。唐突な言葉に美咲は目を見開く。
警告のような、命令のような──懇願のようなその言葉を聞き返す前に、太宰はぱっと体勢を直し、そして美咲へひらりと右手を振った。

「私は少し用事があるから先に行くよ。美咲も早く帰り給え」
「ちょっ、太宰さん…?」
「それじゃあね」

そう云うと同時に、太宰は普段よりも早足でこの場を去っていった。置いていかれた美咲は咄嗟に後を追おうとしたのだが、先の太宰の言葉が妙に引っ掛かって、思う様に動けない。
直ぐに街の喧騒にとけ込んでしまった太宰の姿はもう見えなくなった。一人立ち尽くす美咲は、困惑と僅かな焦燥で混乱し、暫しそのまま動きを止めていた。

結局その日、太宰に会う事はなかった。
そしてとうとう──悪夢の夜が訪れる。

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