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夜叉白雪の刀が抜け、栓が取れたかのように美咲の右肩下からはだらだらと血が流れていた。
患部を抱え昇降機エレヴェーターの隅に座り込む美咲へ、敦が慌てて駆け寄る。鏡花も不安そうな様子で彼女を見つめる中、芥川だけは不機嫌そうに顔を歪めていた。

「一秒の遅れだ。矢張り鈍ったか」
「っ二秒内なら、修正出来るでしょう」

芥川の皮肉染みた言葉に、美咲は僅かに口端を上げてそう返した。
今の言葉がどんな意味なのか、敦は直ぐに理解する。あの時美咲が扉を閉めろと云ったのも、芥川がそれに従って扉を閉めたのも…互いを信用していたからだ。
芥川は美咲が間に合うと、そして美咲は芥川が手を引くことを信じていた。結果として今、その信頼があったからこそ美咲は此処に居る。

「っ美咲さん、傷が…!」

それを感じるのが妙に嫌で、敦は咄嗟にそんな事を云った。しかし美咲が口を開く前に、芥川が再び鼻を鳴らす。

「出るまでに治せ。貴様なら出来るだろう」
「…無茶云いますね、本当に」

芥川の言葉に、美咲は否定をしない。それはつまり、彼女の回復力があれば可能だということだ。
以前、美咲はポートマフィアに居たと聞いた。当然芥川との交流もあったのだろう。まるで取り残されたような感覚に、敦は困惑する。

「そんなことより、あの霧は…?」
「あれは龍の吐息だ」
「龍?」

芥川の回答は予想外だった。敦が眉を顰める一方、美咲は僅かに目を細める。
しかし敦が問いを重ねるより早く、芥川が鏡花の方へと目をやった。

「鏡花…お互い異能が無い今なら、お前の暗殺術でやつがれを殺れるぞ」
「…」

芥川の挑発のような言葉に、鏡花は何も答えない。

「どうした?やつがれとの因縁を断ち切りたかったのではないのか?」
「鏡花ちゃんは、もうお前のことなんか何とも思ってない!」

敦が咄嗟に口を挟んだ。立ち上がって芥川を睨むと、彼の冷ややかな視線をぶつかる。間違いなくそれは殺意だった。

「…異能が戻っていないこの状態で、決着をつけるか?」
「……異能を戻る方法を知ってるんですか?」

唐突に口を開いたのは美咲だった。芥川はちらりとだけ彼女を見降ろし、そして僅かに頷く。

「異能を撃退し倒せば所有者に戻る。この程度の情報すら知らぬのか?」
「…!」

敦と鏡花、そして美咲が小さく息を呑んだ。
分離した異能を倒すことで、異能が自分のもとへ戻って来る…それを簡単に明かした芥川がどういう心算なのかが分からず、敦が身構えた。

「お前の目的は何だ」
「…多分、私達と同じ」

警戒する敦へ、鏡花が囁くように云う。鏡花を見た敦が、芥川へ目線を戻した。

「同じって…澁澤…?」
「奴の臓腑を裂き、命を止める。他にヨコハマを救う方法があるか?」
「僕達は殺しはしない。探偵社は、そういう仕事はしないんだ」

宣言するように云った芥川へ、敦が即座に云った。同じにするな、と云わんばかりに芥川を睨むが、芥川はそんな敦を鼻で笑う。

「笑止。おめでたいな、人虎」
「…何のことだ?」
「澁澤龍彦の排除…鏡花は仕事の趣旨を理解しているぞ。無論美咲もだ。元ポートマフィアだったのだからな」

芥川はますます愉しそうに云う。どういう意味なのか、と敦がそっと鏡花を、そして美咲を見た。
たった今仕事内容を聞いた美咲だったが、その意味は直ぐに分かる。表情を変えない美咲の一方で、鏡花が芥川を見据えて口を開いた。

「私はもう陽の当たる世界に来た。探偵社員になるために、ポートマフィアはやめた。マフィアの殺しと探偵社の殺しは違う」

覚悟を決めたような鏡花の言葉に、敦は「え?」と小さく声を漏らした。
鏡花は澁澤を殺す気でいるのだ。思いが上手く言葉にならないまま、敦は縋る様に美咲を見た。彼女の表情は矢張り変わっていない。

「…排除っていうのは、そういう意味だよ」
「…そんな……」
「何より…澁澤って男には借りがある」

先日探偵社に行かなかった為、会議には出れなかったが…その時にこの話をされたのだろう。若しくは今会うまで、異能特務課から依頼を受けたのかもしれない。
数年前に一度だけ会った事がある男。戦う事もしなかったが、澁澤龍彦という男は嘗ての部下を殺した──灰色の目に、僅かに殺気が映る。
敦がひゅっと息を呑んだその時、芥川の無慈悲な声が響いた。

「太宰さんが敵につく前であれば、異能無効化で殺さず霧を止められたかも知れぬが、今ではそれも叶わぬ」

時間が止まるような感覚だった。
敦が何か云う前に、まるで抗議するかのように、美咲が座り込んだまま芥川の外套を掴んだ。真剣さと緊迫感が混ざったような表情は、敦や鏡花が初めて見るものだった。

「…詳しく、聞かせて貰えますか」

その声は低く、場違いな程に冷静さを帯びていた。芥川は動じない。

「そのままだ。あの人は自らの意思で敵側に与した」
「ッ太宰さんがそんなことする訳ない!」

思わず叫んだのは敦である。言葉を失ったかのような様子の美咲の心境を、まるで代弁するかのような感覚だった。
芥川は醒めた声で告げる。

「かつてポートマフィアを裏切った人だ…貴様同様にな」
「──!」

芥川は流れるような手つきで美咲の外套を捲ると、内側に忍ばせてあった短刀を取る。そしてその切っ先を、迷いなく美咲の首元へと向けた。

「っ芥川、何を…」
「やめて!!」

驚愕する敦の隣で鏡花が声を張り上げた。芥川は刃を動かさない。殺そうと思えば、何時だって殺せる状況だ。

「その人を傷つけないで」

はっきりと云われた鏡花の言葉が、狭い昇降機エレヴェーターの中に反響する。
然し芥川は鏡花の言葉に耳を貸さないようだった。特段驚いた様子のない美咲を見据え、無表情のまま口を開く。

「他の者の手にかかるよりは、この手で殺す」
「芥川!!」

敦が叫ぶ。美咲さんから離れろ、と鋭い口調で云ったその時、不意に美咲が口を開いた。

「今この現状で戦力が減るのはお勧めできないです」
「!」
「何より…私が死んでマフィアが得することは何もない。寧ろ損しかないでしょう」

貴方は私を殺さない──確信めいた口調で、美咲はそう云い切った。その表情は、先程の単車での会話の時と変わらない。
芥川は表情を変えぬままだ。切っ先は依然として美咲に向けられている。

「貴様はやつがれが殺す。ゆめ忘れるな」

その低い声には本当に殺気が籠もっていた。
刃が彼女の肌に首元に触れる…我慢ならないとばかりに敦が銃を構えて芥川へ向ける。同時に昇降機がようやく動きを止め、重い扉がゆっくりと開いた。

芥川は興味が無さそうな様子で敦、そして扉を見た後、持っていた短刀を投げ捨てる。ぱし、とその柄を美咲が掴んだ小さな音が響いた。

「…お前とは一緒に行けない」

何も云わずに足を進める芥川へ、敦は銃口を向けたまま告げる。美咲の命を狙う者と共に行動なんてしたくもない。
昇降機の扉が再び閉まり始めた。芥川の背中が見えなくなる寸前…鏡花の手が、扉を止める。

「一緒に行く」
「えっ!?で、でも美咲さんが、」

一言だけ云って歩き出す鏡花へ敦が素っ頓狂な声を上げる。鏡花はそれに答えるかのようにちらりと背後に目をやった。

「行こう、敦君」
「美咲さんまで…」

何時の間にか美咲は立ち上がり、取り敢えず塞がった傷を抑えながら鏡花の後に続いていた。促す様に声を掛けられた敦は、唖然としながらも慌ててその後を追った。

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