ぼくの執事さま。
今からずっと、ずっと昔。
とあるところに、一つの小さな国がありました。
その国は、国の事を第一に考えているちょっと不器用な心優しい王様のおかげか、小さいながらもそれなりに栄え、戦や飢えも無く、民が安心して日々を過ごしていました。
そんなある日。王様が「俺は病にかかってしまった」と言い出したのです。
その言葉に人々は困惑しつつも、きっと王様なりの冗談なのだろう、と聞き流しました。
けれども、その言葉は真実だったのでしょう。ついには王様が伏せてしまわれたのです。
これに慌てたのは、冗談だろうと聞き流した人々です。
彼らは、真面目に聞いていればこんな事には、と嘆くばかり。
そんな時、ある1人が言いました。
「王様と国の為に、何かするべきなのではないか」と。
それを聞いた、別の1人が言いました。
「次期後継者の王子様のお相手を決めるべきではないだろうか」と。
そしてまた別の1人が、最後にこう言いました。
「それならば、近隣のお姫様はどうだろうか」と。
そしてあれよあれよという間に、王子様と近隣のお姫様の婚約話が出来上がってしまったのです。
その事に1番困惑したのはやはりというか、王子様でした。
それはそうでしょう。何せ、近隣の姫の想い人は己の従者なのですから。普通ならばこの時点で王子様のプライドはズタズタでしょう。
しかし、当の王子様は、そんな事は気にしていませんでした。それどころか、不安でいっぱいだったのです。
―――何故ならば、王子様はその従者に恋をしていたから―――
これは、そんな王子様と、その彼に使える執事の物語。
ぼくの執事さま。
―――ああ、一体如何してこんな事になってしまったのだろう。
何がいけなかったのだろう。
これからこの国は……僕は、一体如何なってしまうのだろう…?
…なんて、今日だけで何度目になるか分からない、恐らく答えが見つかる事のない疑問を、テラスからぼんやりと庭を眺めつつ、僕は考えていた。
事の始まりは、つい数日前に起きた出来事が原因だった。父上―国王―が、病に臥せてしまったのだ。
しかし病と言っても、実のところそれがどんな病なのか全くもって分からないのである。何故ならば、国一番の名医が診たのにも関わらず特に以上は見当たらず、己は病にかかっていると言い出した張本人である父も一向に目を覚まさない為、真実は未だ明らかになっていないのだ。
(…父上。貴方は一体、何の病にかかったと言うのですか…?)
…すぐに回復するような病なら、良い。民も、僕自身も安心できる。…けれど、もし。
もし父上が、重い病にかかっているのだとしたら―――?
そう考えただけでゾっとする。
父上は、決して体が弱い訳では無い。むしろ万人よりも頑丈で強靭な体を持ち、風邪など一度もひいたことがない、と豪語するような人だ。
そんな人だから、今の今までこんな事を考えた事も、…こんな恐怖を味わったのも、初めてだった。
考えれば考えるほど。
暗いくらい、底なし沼のようなところへ、思考がずぶずぶと埋もれていくのが分かる。
けれど、考えずにはいられない。
もし、父上が病で無くなってしまったら。
もし、僕が王位を継いだら。
もし、僕が、婚約をしてしまったら―――
ぐっと唇を噛み締めた、その時。
「坊ちゃん?……いけません、そんなに強く唇を噛んでは。傷がついてしまいます」
―――その声に、そしてそっと唇に触れてきた手の感触に、我に返った。
「…ぁ……セ、バス…?」
「はい、坊ちゃん」
僕が恐る恐る声をかけると、何時もの様に笑顔で返事を返してくれる、セバスチャン。
その何時も通りな彼を見て、ホッとしてから……ふと、気づいた。
彼の手が、未だに僕の唇に触れている事に。
いや、触れているどころか、まるで感触を確かめるように指でなぞって……。
「っ!〜〜ッセ、セバスッ」
「はい」
「いっいい加減に手、手を、離せ…っ!」
そう言ってキッと目の前の顔を睨めつける。ああくそ、顔が暑い…!!
そんな僕の様子を、セバスはキョトンとした顔で見ていた。かと思うと、今度は急に苦笑いになり、あっさりとその手を僕の唇から退かした。
「これは…失礼致しました。怪我が無いか確認させていただいていたのですが……主人の許可も無く御身に触れるなど、執事長たる私めがとるべき行動ではありませんでしたね。いささか無遠慮過ぎました。お嫌だったでしょうに…真に申し訳ありません」
そう言ってふかぶかと頭を下げるセバスを見た僕は、さらに混乱してしまった。
(違う。嫌じゃない、嫌じゃないんだ、そんな風に謝って欲しい訳じゃ、ないんだ…!)
本当は――真っ赤になるくらい恥ずかしくて、嬉しかったのに――!
慌てて咄嗟にその事を否定しようと発した、けれど。
「ちっちが…」
「セッセバスさん…っ!」
…その言葉は、第三者の声によって呆気なくかき消されてしまった。
それと同時に、この声の持ち主が誰なのかも悟ってしまった。…僕の婚約者になってしまった、茜姫だという事に。
「おや、姫様。お久しぶりで御座いますね」
「うん…、久しぶり、だねっ!…日々也様も、お久しぶり、です」
「…お久しぶりです、茜姫。当家に足をお運びいただき有難う御座います」
セバスが居るせいだろう、嬉々としてこちらに近寄ってきた彼女は、笑顔でセバスに挨拶した後、僕にも挨拶をしてくれた。咄嗟に僕も何時もの様に笑顔で常套句を述べる。…ちゃんと笑えてるか不安で仕方なかった。
「本日はどの様なご用件で?」
「今日はね、王様の、お見舞いに来たのっ」
「ああ、そうでしたか。それは国王もさぞかし喜ばれる事でしょう。有難うございます」
「…えへへっ」
ほんのりと笑みを浮かべた顔で、茜姫の頭を撫でるセバス。それを嬉しそうに受けている茜姫。そんな光景を笑顔で見詰めつつも嫉妬している、僕。はたから見たらさぞ滑稽であろう光景に、チクリと胸が痛んだ。…ああ、僕の心はなんて醜いのだろうか。
―――恐らく、聡いセバスは茜姫が己に好意を抱いている事実に気付いているのだろう。それでも無下にせず、こうして接しているなら…恐らく、そういう事なのだろう。そう考えると、部外者の僕がここに居るのも可笑しい気がしてきた。
…何より、この光景を見ているのが、辛かった。
「…セバス、私は自室に戻る」
「おや、そうですか。承知致しました。…もうすぐティータイムのお時間ですので、紅茶をお持ちしましょうか?」
「いや、今日はいい。その代わりに茜姫を頼む。…茜姫。何も無いところではありますが、どうぞごゆっくりしていって下さい」
そう言って、僕は足早にその場を立ち去る。ただただ、その場から逃げ出す事だけを考えて。
「………日々也様…」
―――セバスに名前を呼ばれていた事なんて、知らずに。
※オフ本へ続く。