創造神ガンダルの創った世界、ガンダル・アルチュ。 その世界の中心に位置する大陸のこれまた中心に、『浮城』はある。 バブル崩壊後の殺伐とした世界に生きる人々は、日々の暮らしの中で、束の間の癒しを求めていた。 一時とは言え、悲しみを忘れられる手段は『笑い』しかない。 いつしか、人を笑わせる能力に優れた者たちが一箇所に集うようになり、それはやがて一つの組織として世界に認められるようになっていった。 住人の能力は、大きく3つに分けられる。 相方を必要とする「漫才師」、器用さが問われる「曲芸師」、そして幅広い知識を要求される「落語家」。 多くの者がお笑い界の頂点を目指して浮城の門を叩き、またそのほとんどが夢半ばにして敗れ去り、白砂原の陽炎のごとく消えて行った。 浮城は世界で唯一の、芸人を目指す若者たちのために用意された、楽園なのである……。 「なんでやねん!なんでやねん!」 夕暮れの白砂原でハリセンを振り下ろす、一人の少女の姿があった。 名前は、ラエスリール、という。 黒髪に琥珀の瞳を持つ、痩せっぽちの少女だ。表情はきつく、どちらかと言えば突っ込み役が似合いそうだが、いまいち言葉の切れが悪い。 「なんでやねん!なんでやねん!なんへ……」 ハリセンを投げ捨てて、ラエスリールはがっくりと砂地に崩れ落ちた。 片方の腕だけが、異様な熱を持っている。 正午からずっと素振りを続けているため、いい加減筋肉が痛くなってきた。 「いかん、こんなことでは……」 石の上に置いてあった本を広げ、今度は滑舌の練習に入る。 「あめんぼあかいな、あいうえお。サイタ、サイタ、サクラガサイタ。ヘイタイサンガススム、トテチタ、トテチタトテチタ。かっぱなっぱいっぱいかった。かってきってくった」 彼女は浮城に入り、座長マンスラムの養女となって、五年になる。 同じ年に引き取られた子供たちは既に舞台デビューを果たし、芸人として世界各地を巡業しているというのに、ラエスリールは、未だ相方さえ持たない。 それもこれも、浮城最強のハリセン、『レッドプリンセス』に気に入られてしまったから、なのだ。 「……忌ま忌ましいハリセンだ」 「何が忌ま忌ましいんだって?」 はっと顔を上げると、そこには人並み外れた美貌を持つ男が立っていた。 真っ赤な髪、真っ赤な目。そして真っ黒なタイツを全身にまとっている。 「葬儀屋か?」 反射的にボケてみた。 「外れ」 男は楽しげに笑った。 「おれの名は闇主。みっちゃんと呼んでくれ」 「なんでやねん!!」 反射的に突っ込んでしまったラエスリールは、はっと口元を覆った。 男は、にやにやしながら見ている。 (で、出来た……) ラエスリールは信じられない思いで、喉元を押さえていた。 こんなに綺麗に決まったのは初めてだ。 「そう、そのタイミングだ。忘れるなよ」 男はふわりと空中に浮き上がった。すわ超能力か、と驚いたラエスリールだったが、よく見ると背中にピアノ線が見えている。 先端を目で追っていくと、近くの電柱につないであった。 「イリュージョンかよ!!」 怒鳴りながら、ラエスリールは胸の高揚感を抑え切れなかった。 突っ込みの質はともかく、タイミングは確かにこれで合っている気がする。 今まで、誰を相手にしてもうまく決まらなかったツッコミが、この男相手だとスラスラ出てくるのが不思議だった。 「おれのことを、覚えてないのか。ラリ、ラレ、……ラスリエール」 「言えてないだろ!!」 ラエスリールの頬が赤くなっていくのは、男の美貌のせいではない。 楽しかった。ツッコミが決まることが、こんなに気持ちがいいとは思わなかった。 もっとこの男と話してみたい。しかし気持ちに反して、男はラエスリールから距離をとり始めた。 赤い髪が風になびいている。ヅラではないようだ。 「お前はまだ、自分のうちに眠っている才能に気づいていないだけだ。いずれ、浮城の誰もがラスに一目置くようになる」 謎の言葉が、ラエスリールを混乱させた。 その間にも、男の体はどんどん遠ざかっていく。近くでカラカラと歯車をまわすような音がした。誰かが男の体をピアノ線で引っ張っているらしい。 「ま、待ってくれ!…私の相方に…」 伸ばした手は、空しく宙を掴んだ。 「ぐえっ」 がくん、と男の首が絞まった。線が絡まったらしい。 「アホ!ちゃんと引け!!この根性なし!」 電柱の影に潜んでいる誰かに向かって怒鳴っている。 ラエスリールが唖然としていると、男の体はすさまじい勢いでカラカラと引っ張られていき、見えなくなった。 (何者だ、あいつは…) ジャーーーーーン 閉門を示す銅鑼が鳴り、ラエスリールは慌てて浮城へ戻っていった。 ラエスリールには、仕事がなかった。座長の養女だから、お情けで籍を置いてもらっているだけなのだ。 おかげで、食料調達や芸人の身の回りの世話など、使い走りのようなことをやらされている。食うには困らないが、立場上友達も出来にくく、辛い毎日だった。 「あら、どうしたのラス?ひどく汚れちゃって」 唯一優しくしてくれるのは、世話好きと評判なサティンだった。 「うん、少し外に行っていて……サティンは?」 「私はいつも通り弓の稽古よ。お正月も近いしね」 彼女は漫才師ではなく、曲芸師である。道具を操り目で人々を楽しませる、最近では少なくなった正統派芸人だ。 特に、弓矢を使った射撃を得意としており、外見のよさもあって地方の公演に引っ張りだこである。 客層は、ある程度年配の人々が主になる。正月くらいしかお呼びがかからない、地味な芸だとサティンは嘆いているが、ラエスリールは彼女のことがうらやましかった。曲芸師なら、喋りが不器用でも成り立つからである。※偏見です 「私も、曲芸師の免許を持ってはいるのだが……このハリセンのせいで」 腰にさげた『レッドプリンセス』をぐっと握る。 伝説のハリセンに選ばれた者は、漫才のツッコミ役という役どころを、生涯に渡って押し付けられるのである。 それ以外の道に進もうとした者は、セーラー服を持っていかれたり、桜の木の下で首を吊るはめになったり、エアーマンに攻撃されたりと、色々とひどい目に遭う。 「そうねえ。『レッドプリンセス』に選ばれさえしなければ、ラスも今頃はいっぱしの曲芸師として活躍していたはずだものね」 サティンは同情の目でラエスリールを見た。 伝説のハリセン『レッドプリンセス』は、浮城にあるハリセンの中でも、最強の能力を誇る。 どんなにつまらないボケにも即座に反応し、どんなに冴えないツッコミでも瞬時に笑いに変えると言う。 だが攻撃力が強すぎて、下手をしたら相方の頭蓋骨をかち割る危険性もある。使い手によっては舞台が血の海に染まってしまう危険性を秘めていた。 そのため、ラエスリールには未だに相方が見つからない。相方がいないとオファーも来ない。 「でもね、ラス。たぶんもうすぐ、仕事が来るわよ」 落ち込むラエスリールを励ますように、サティンは明るく言った。 「え……」 「戦闘服を脱いで、舞台衣装に着替えて、早くいらっしゃい。座長のマンスラム様がお呼びよ」 汚れた体を清めるために、大浴場へと向かう。そこには漫才師の一人であるスラヴィエーラが先に来ていた。 「こ、こんばんは」 スラヴィエーラは、ふくよかな巨乳と傷一つない体を見せ付けるようにして、ゆっくりと服を身に着け始めた。入浴はとっくに済ませたようだ。 「今晩はラエスリール。ひどく汚れてるわね、また外で練習?」 彼女は、相方のマイダードとコンビ『夢しぐれ』を結成し、新進気鋭の漫才師として名を広めつつある。 彼女がツッコミの際に用いるハリセン『ドリームクリスタル』は、殴られると何故か夢ごこちになると評判だった。相方の頭を遠慮なしにバコバコ叩くさまが、そちらの趣味がある男性に受けている。 「あ、ああ……入浴してから、座長の部屋に行こうかと」 「あなたは座長のお気に入りだものね。養女なら当然か」 「そんな……」 ラエスリールがおろおろしていると、スラヴィエーラはぷいっと背中を向けた。 「わたしは違うわ。実力でここまで来たし、マイダードのおかげもある。いくら努力したって、ピンでやっていけるのはごく一握りの人間よ。早く相方を見つければいいのに」 言うだけ言って、スラヴィエーラは去っていった。 冷たく閉まった浴場の扉の向こうで、彼女のやたらでかい声が響く。 「ちょっとマイダード!風呂上がりなのに牛乳が出てないわよ!!」 「自分のを搾れよ」 「下ネタはやめろって言ってるでしょう!?」 「下ネタ?お前の胸は下についてるのか?」 「きーーーっ!!」 (私にもあんな相方がいれば……) 遠ざかる二人の声を聞きながら、ラエスリールはざぶんと湯船の中に沈んだ。 ぶくぶくと口から泡が出る。 夕方に会った男のことが、頭をよぎった。 相方さえ見つかれば、仕事が入ってくる。仕事がうまくいけば、養母に恩返しが出来る。 あの男となんとか連絡を取れないだろうか。ぱっと見、まともな職業についている様子ではなかったし、初対面の相手にぶらさがり芸を披露したのだから、ボケの才能はありそうだ。浮城に誘って、自分の相方に……。 (だめだ、だめだ!) ラエスリールは頭を振った。 痩せていて貧相、おまけに口下手で不器用な自分が、あんなイケメンと組むことなど考えられない。 確かに、あの男と並んで舞台に立てば、客は笑うだろう。嘲笑の意味で。 そうではない。ラエスリールは馬鹿にされたいのではなく、ただ人々を楽しませたいのだ。 あのハリセンさえなければ、喋りの技術など磨く必要はなかった。漫才ではなく曲芸ならば、純粋な技巧だけで拍手がもらえる。相方とのコミュニケーションに悩む必要もない。※偏見です (やはり、私一人でやっていくしか……) 湯船からあがった瞬間に石鹸を踏み、ラエスリールはものの見事に転んで額を打った。 悪いことは続くもので、脱衣所に行ったら脱いでおいた戦闘服がなくなっていた。一体誰が持ち去ったのだろう。 いじめられっこのラエスリールにとっては物を隠されることなど日常茶飯事だったが、浴場は彼女の貸し切り状態だった。先に上がったスラヴィエーラは、口は悪くともそんな陰湿な嫌がらせはしない。 (まあ、いいか……) どうせ舞台衣装に着替えるから、とりあえずは困らない。 後で義母上に替えをもらおうと思いつつ、ラエスリールは着替え始めた。 「その怪我はどうしたの?」 座長・マンスラムは、いぶかしげにラエスリールのおでこを見た。そこにはサティンにもらった絆創膏が張ってある。 「実は、風呂場で転びまして……」 「まあ、1人で?誰も見ていた人はいなかったの?」 「え、ええ……」 マンスラムはふうっと溜め息をついた。 これまで数々の芸人を世に送り出してきた切れ者の女性は、日頃の身だしなみも怠らない。 支配人だから、必ずしも本人が面白いキャラである必要はないが、あまり暗かったり地味だったりすると浮城のイメージが悪くなるから、常に華やかな衣装を身に纏っている。 「せっかくおいしい場面だったのにねえ……」 災難に遭っても、「おいしい」「ネタになる」と考えてしまうのは、芸人の性である。 ラエスリールはまだそこまでの境地には達していない。ただ、おでこが痛いだけだった。 「すみません義母上。満足なボケも出来ず、かと言ってツッコミは外してばかり……せっかく、両親のいない私をここまで育ててくださったのに……それに、この衣装も」 紅白の舞台衣装を身に着けたラエスリールは、非常に居心地が悪かった。本来ならばこれは、舞台に上がる前に身につけるべき服である。 「なに言っているの、一度くらいは袖を通さないと。仕事の直前になってサイズが合わないなんてことになったら大変ですからね」 「え……?」 期待に身を乗り出す少女に、マンスラムは答えた。 「実は、ラエスリール。あなたに仕事があります」 養母の言葉に、ラエスリールは心臓が止まりそうになった。 「ほ、本当ですか?」 「本当です。あなたにぜひにっつー話です。ちなみに出発は明日の朝です」 「……」 「……」 数秒の沈黙の後、ラエスリールは慌てて、のけぞる動作をした。 「早!!」 「遅いわよ」 マンスラムは額を押さえる。 「タイミングが合わないわね。やはりあなたにツッコミは向いていないのかしら」 「いえ、あの男の時にはちゃんと……」 「え?」 「な、なんでもありません!し、仕事と言うのは?」 軽い咳払いの後、マンスラムは告げた。 「大国ガンディアにある老人介護施設『漆黒城』の慰問よ。ボランティアだから報酬は出ないし、相手は痴呆のお年寄りばかり。何を言っているか半分も理解できないだろうから、練習にはもってこいだと思うの」 「れん、しゅう……」 少しだけ気を緩めたラエスリールだったが、マンスラムは表情を引き締め告げた。 「もちろん、浮城の名を出す以上、失礼があったら許されません。ガンディアは得意先のひとつですから、ボランティアとは言え手を抜かないように。面白くないのは仕方ないとしても、人を不快にさせるようなことがあってはいけませんからね」 「はい……」 面白くない前提で話している義母に、ラエスリールはいささか傷ついた。 無理だ。喋りで人を笑わせることなど。スラヴィエーラも言っていた通り、相方がフォローしてくれるならまだしも、ピンでやっていくには彼女は口下手すぎた。 「判りました。それで、私と組もうなどという奇特な相方は誰なのです?」 「相方ですか……」 勇気を奮って出した問いに、マンスラムは言葉を濁す。 「相方は、いません」 「よろしかったのですか、座長?」 ラエスリールが失意のうちに部屋を去った後、マンスラムの背後のカーテンから、複数の人影が現れた。 みな、座長を影からサポートしている上層部の面々である。 「あんなに辛気臭い娘を、1人前の芸人に育てようとされる座長のお気持ちが、私には理解できませんな」 「聞けば、城内でも特定の人間としか口をきかないとか。そんなことでは他人を笑わせることなど無理でしょう」 口々にラエスリールに対する不満を述べる面々に、マンスラムはうんざりした。 「そんな本当のことを言わないでちょうだい。あれでも親友の娘なのよ」 彼女を引き取ったのは、親友のチェリクに対する負い目があるからである。自分がチェリクの相談に乗ってやれなかったせいで、彼女は浮城を去った。 「ラエスリールは、確かに前座長の血をひいてはいるようですが。似ているのは黒髪だけで、美しいわけでも話術に長けるわけでもありません。父親に似たのか、どうにも人を寄せ付けない気配がある」 「ええ、判っているわ。でも」 マンスラムは手で顔を覆った。 「あの子は、自分の中に流れるもうひとつの血に怯えているのだわ……」 ラエスリールの母チェリクは、演劇界の女王と呼ばれるほどの人物だった。加えて周囲を圧倒する美貌で、お笑い一座『浮城』の名声を確固たるものにした。 だが、彼女はあろうことか、葬儀屋の男性と恋に落ちた。それは美しい男性だったそうだが、陰気で乗りが悪く、言葉数は少なく、おまけに職業柄、いつでも線香臭かった。 座長と葬儀屋の恋。洒落になっていない。 こんな暗い男と座長を一緒にさせては、浮城のイメージダウンにつながる。もちろん周囲は猛反対した。 その結果、チェリクは『線香の匂いには逆らえません』という意味不明な書き置きを残して失踪した。 前々から座長の座を狙っていたマンスラムは、これ幸いとばかりにそっこーで新座長の座に収まった。ちなみにチェリクの捜索願はまだ出していない。 「もしラエスリールに鏡餅に映したように相方が現れたのなら、あの子は無事芸人として巣立っていく事が出来るでしょう」 公式には死んだことになっている親友の姿を思い出しながら、マンスラムは呟いた。 「しかし、もしあの子がもう一つの血に流されて、芸人としての自分を忘れてしまうようなことがあったら、その時は……」 「その時は?」 「わたしが責任を持って舞台に立ちましょう」 「あんたが出るんかい」 チュンチュン。←朝になった音 ラエスリールは『漆黒城』の前に立ち、眩しい朝日を見上げていた。 老人介護施設ならもっと爽やかな名前をつけたらどうか、とも思ったが、すぐ隣が火葬場と聞いて納得した。 そう言えば死んだと聞かされている父は葬儀屋の人間だったらしい。ラエスリールの性格は父親譲りだ。 「どうもどうもどうもどうも。毎週木曜日発行。よくぞおいでくださいました」 施設の所員がすぐに現れて、ラエスリールを案内してくれた。 こんなところには場違いな、ブロンズ色の髪をした美青年だ。ただ、しぐさや口調が妙に老成していた。老人たちとつきあっていると自然とそうなるのだろうか。 「私はここの所長のミノ・モンチッチ・セスランと申します。どうぞよろしく」 「朱烙(←芸名)です、本日はよろしくお願いします」 「いやー、あの『浮城』の芸人の方が、無償で漫才を披露してくださるとは。私『夢しぐれ』の大ファンなんですよ。DVDも全部持ってます」 「はあ……」 芸人とは言ってもこれが初仕事なのだが、嬉しそうな所長を見ていると何も言えなかった。 「おまけにあなたは、伝説のハリセンの使い手だとか。期待していますよ、笑いは脳が活性化されて、ボケ防止にも効果がありますからね」 過剰な期待に胃が重くなる。 案内されたのは一番奥の『漆黒の間』と呼ばれる部屋だった。 すのこをつなげて置いただけの急ごしらえの舞台に、照明代わりの電気スタンド。なるほど、こんな待遇では他の芸人たちが断ったのも頷ける。報酬もなく設備も満足ではない仕事が、今の自分にふさわしいと彼女は思った。 「みなさん、お待たせしました!浮城の漫才師の方が来てくださいましたよ!」 老人たちは興味深げにラエスリールを見ている。そこで初めて、セスランが事態に気づいた。 「あれ、そう言えば相方さんの姿は?後からいらしてくれるんですよね?」 ラエスリールは俯いた。一人で来ることを伝えておいたはずだが、先方には話が通じていなかったらしい。 紅白の舞台衣装を身に着け、腰には伝説のハリセン『レッドプリンセス』。ただ相方の姿だけがない。 相方もいないのにハリセンだけがあるのは奇妙なものだが、いざとなったら、自分で自分の頭を殴ればいい。 「実は……私ひとりなのです」 ラエスリールはあの男が現れてくれるのを密かに期待していた。彼とならば、息の合った漫才が出来るのではないかと。 けれど目が覚めた。実力のなさを相方に補ってもらおうなど、おこがましいにもほどがある。 「一人でも、頑張りますから……よろしくお願いします」 くしゃくしゃのメモ用紙を広げながら、ラエスリールは頭を下げた。一晩かけて考えたネタがそこには書き綴ってある。 すのこに乗ると、電気スタンドをつけて足元からライトを当てた。 緊張に足が震え、冷や汗が出てくる。しかし彼女は無表情なので、観客の目にはふてぶてしく映る。 「しゅ、朱烙の、一発ギャグ……」 メモを床に置くと、ハリセンを下に向け、顔の前で、ゆっくりと広げる。 「富士山!!」 沈黙が広がった。脇で見ているセスランも、ぽかんと口を開けている。 老人たちはにこりともしない。ラエスリールは涙目になりながら、広げたハリセンの上から頭を出した。 「は、初日の出……」 今度は沈黙ではない。あからさまな敵意が、ラエスリールに襲い掛かってきた。 ブーーーーーッ!! 四方八方から、ブーイングの嵐だった。 「ふざけるな!どこの素人娘じゃ!」 白い髪の老婆が怒鳴った。 「浮城の芸人が見られると聞いたから、昼寝も我慢したのよ!」 緑色の髪の老婆も怒鳴った。 「そうだそうだ!どうせつまらんなら、もっと美しい女を連れて来い!!」 紫色の髪の老人も怒鳴った。 みな、ボケているはずなのに、罵声だけは一人前である。 特に紫の髪の老人は、いい年をして人形などを抱いている。相当重症のようだ。 しかしラエスリールは、そんなことを気にかけている余裕はない。頭がパニックになっている。 怒鳴られたことより何より、自分のギャグが人を不快にさせたと言う事実に、大きくうろたえていた。 「みなさん落ち着いてください!……困りましたねえ」 飛んでくる座布団やみかんを華麗によけながら、セスランは呟いた。 「ここにいる老人たちはみな長生きで、笑いに厳しいんですよ。何しろ退屈のあまりにボケちゃったくらいですから。常に刺激を求めているんです」 「すみません……すみません……」 よける気のないラエスリールの顔には、座布団があたりまくっていた。 期待に応えられなかったにも関わらず、セスランはなじったりはしなかった。娘を見るような視線を、ラエスリールに注いでいる。 「せっかくのハリセンなのに、そんな使い方をしてはいけませんね。この世界に身を置くならば、中途半端な恥じらいは捨ててしまいなさい」 「中途半端……」 耳に痛い言葉だった。 「それにあなたの才能は、相方がいてこそ発揮されるもののはず」 罵声は止まない。ラエスリールの声は震えた。 「なぜ、そんなことを……」 セスランは軽く片目をつぶる。 「私は、あなたのお母様の信者の一人でしてね。今の座長とそりが合わないので浮城を抜けましたが、もともとはサティンとコンビを組んでいたんですよ」 「サティンと!?」 ラエスリールが驚きの声を上げた時、彼女に向かって飛んでくる新たな物体があった。 陶器の灰皿である。 「危ない!」 セスランが伸ばした手は間に合わない。ラエスリールはとっさに、ハリセンを振りかぶった。 瞬間、ハリセンに「ボッ」と火がついた。単なる空気の摩擦にしては、あまりにも激しい紅蓮の炎。 さながら羽を広げた鳳凰のように、その炎は瞬時に灰皿を包み込み、ラエスリールには傷一つつけなかった。 観客の目には、ラエスリールがハリセンで灰皿を叩き落したように見えていた。だが灰皿は床に落ちることなく、ハリセンによって生じた炎の中に飲み込まれていったのだ。 (今よ、ラス) 少女の声が耳を打ち、ラエスリールははっと顔を上げた。考えるより先に、言葉が口をついて出てきた。 「殺す気かい!!」 だん、とすのこに片足を乗せ、ドスのきいた声で怒鳴る。 観客は一瞬、水を打ったように静まり返ったが、しばらくしてどっと湧いた。 「いいぞー!!」 「もっとやれ、もっとやれ!」 炎は既に消えていた。ハリセン効果で観客は一時的に盛り上がったが、ラエスリールは次の言葉が出ない。 何とか間を持たせないと、再び飽きられてしまう。この流れのままキレキャラで貫くか、再び一発ギャグで勝負するか……またしても混乱する。 「あ、あの、その」 しどろもどろになるラエスリールを見て、セスランは溜め息を零した。 「やはり相方がいないと無理ですかねえ……」 「ちょっと待ったあ!」 カラカラカラ。 何かが回る音に、ラエスリールははっと顔を上げた。 「相方ならここにいるぞ。忘れてもらっちゃ困る」 「あ……」 老人たちの中に混じって、一人の青年が座っていた。 見覚えのある赤い髪に、黒い服。間違いない、昨日会った青年だ。天井から背中にかけてピアノ線が吊ってある。 カラカラカラ。 誰かが柱の陰で、ピアノ線を必死に引っ張っている。そのたびに青年の体は吊り上げられ、魔術のように浮き上がっていった。 「お前がそのハリセンに選ばれるまで、五年も待ったかいがあった」 その姿を見て、ラエスリールは口をあんぐりと開けた。 青年が身に着けている服は、昨日浴場で盗まれたはずの戦闘服である。主に、浮城の外で狩りをする時に身に着ける。 チャイナドレスをモチーフにしたデザインのその服は、赤い色の中に複雑な刺繍が施してある。女性用の服だから、もちろんサイズが合わずぱつんぱつんで、今にも破れそうで、胸部分や腕のあたりの布地が既にミシミシと音を立て引きつれ、ケンシロウが覚醒する五秒前状態になっている。 「こ……」 恐怖と嫌悪感に、ラエスリールは青ざめた。 宙吊りになった青年は、その姿のまま満面の笑みで、こちらに近づいてくる。 「さあ、遠慮なくおれにつっこめ、ラス」 大きく腕を広げて、ラエスリールを抱きしめるべく、舞台のすのこに降り立った。 「こ……」 「本当はつっこむ方が好きなんだが、まあ昼間だし仕方ない。夜はおれがつっこんでやるよ、いろんな角度からまんべんなく」 ボッ。 『レッドプリンセス』に、再び火がついた。 「こ……」 わなわなと震えながら、ラエスリールはハリセンを握り締めた。 「ん、どうした、ラス?」 覗き込んでくる青年の頭めがけて、彼女は大きく振りかぶった。 「このど変態がーーーーーーーっっ!!」 ばきっ!!と派手な音がして、マイダードの身体は床に転がった。 それほどの衝撃があったわけではないが、舞台ではやや大げさなアクションが好まれるのだ。 殴った当人であるスラヴィエーラは、心配そうな顔をして相方の青年を見つめた。 「大丈夫?ちょっと強すぎたかしら」 「ああ、平気だ。それより今のボケはどうだった?」 「ばっちしよ。本番もその調子でお願いね」 芸人たるもの、ボケに対して本気で腹を立ててはいけない。例え身体の欠陥を指摘されても、傷ついてはいけない。女性芸人は特に、この事を肝に銘じておくべきである。 「そう言えば、ラエスリールのことなんだが。先日の初仕事が無事成功したらしいな」 スラヴィエーラは、相方からポカリを受け取ってごくごく飲みながら、興味なさげに告げた。 「ああ、老人ホームの慰問でしょ?あんなの仕事のうちに入らないわ」 「だが大好評でまた来て欲しいと言われてるんだとさ。あいつの芸、そんなに良かったか?」 ぼやくマイダードの背後から、ぬっと大きな人影が現れた。 「それが、どうやら相方が見つかったらしい」 同じく、漫才師のオルグァンだ。氷のハリセンの異名を持つ『アイスアックス』の持ち主で、これで殴られた人間は頭を冷やして冷静な思考が身に付くようになり、ボケがますます冴え渡ると言う。 「お前以上に鋭いボケをかますらしいぞ」 お前と言いながら、オルグァンは床に転がっている青年を見た。 オルグァンの相方は、なんとマイダードである。彼と組む時は『氷雨』というコンビ名で活躍している。もともとオルグァンと組んでいたマイダードは、ハリセンの副作用からくる頭痛を常々訴えていた。それをたまたま通りがかったスラヴィエーラが「情けない」とハリセンで殴ったのがきっかけで、彼女ともコンビを組むようになったのだ。 スラヴィエーラのハリセンには癒しの効果があり、血行が良くなっていい夢が見られるようになる。おかげでマイダードは頭痛から解放され、ボケに集中できるようになった。 マイダードを生かすためには、オルグァンとスラヴィエーラ、どちらが欠けてもいけない。また、マイダードは頭痛を治してくれた上に顔も可愛いスラヴィエーラに感謝以上の気持ちを抱いていたし、オルグァンもそれは同じだった。 よって三人とも仲が良い。相方をめぐって険悪な雰囲気になることなど、一度もなかった。 そう、今日までは。 「ラエスリールに、相方?……聞いたことないわよ」 スラヴィエーラは眉を潜めた。いじめられっ子が頭角を現してきたことは素直に喜ぶべきだが、マイダード以上の相方、というフレーズが気に入らなかったらしい。気持ちはわかるので、オルグァンは苦笑した。 「美形だと言う噂だが。身分がわからんから調査中らしい」 「美形がボケても笑いは取れないでしょ。ある程度面白い顔をしてないと……マイダードくらいがちょうどいいわよ」 「どういう意味だ」 むくりと起き上がったマイダードは、それでもどこか嬉しそうな顔をしていた。 しかし、次にスラヴィエーラが口にした言葉に、二人は凍りつくことになる。 「そう言えばオルグァン、なぜここに?まだ『交代』の時期じゃないだろ」 マイダードは首をかしげながら告げた。オルグァンとの舞台はまだ当分先である。しばらくはスラヴィエーラとの稽古に集中すると、本人にも伝えておいたはずだった。 もっとも、最近ではオルグァンが気を利かせて、二人きりにしてくれることの方が多かったのだが。 「わたしが呼んだのよ。あのね、二人とも。実は大事な話があって」 「なんだよ改まって」 怪訝そうに問う二人の前で、スラヴィエーラは言った。 「わたし、今度の舞台を最後に、引退しようと思ってるの。やんごとなき方と、お見合いの話が進んでて……」 続く [*前] | [次#] ページ: TOPへ |