初老の男は、やつれ切った表情でスラヴィエーラたちを見ていた。 後方にはミランスの姿もある。異様な雰囲気に彼女は少したじろいだが、意を決して口を開いた。 「お話とは何でしょうか?」 「……中に入れていただきたい。ここで立ち話も何ですので」 室内にはオルグァンがいる。スラヴィエーラは少し眉を顰めた。 嫌な予感は、的中したらしい。マイダードも同じことを思ったらしく、扉の前にさりげなく立ちはだかって告げた。 「実は、仲間の一人が風邪を引きまして。ご用件なら別室で伺いたいのですが」 マイダードの目配せを受け、スラヴィエーラも頷く。負傷したオルグァンの姿を、誰にも見せたくはなかった。彼自身の誇りの問題もあるし、何よりこの連中の目的が見え透いているのが、気に入らない。 「風邪?この時期にですか?……失礼ながら、かなり頑丈なお方とお見受けしましたが」 口調がやや攻撃的、というよりは、焦燥を宿したものになる。室内にいる彼にも、聞こえているかも知れない。 男が声を張り上げていられるのは、廊下を通る者が誰もいないからだ。使用人たちの部屋はいずれも何かに怯えるように固く閉ざされ、来客の姿も他に見当たらない。 今のオルグァンと会話することは不可能だったが、首肯や目の動きなどから、ある程度の意思疎通はできる。その結果、オルグァンを襲ったのは女の妖鬼であること、何故か彼を殺さず放置したこと、そして未だ宮殿内を徘徊していることが判った。 悲しいかな、彼が最も伝えたかったこと──妖鬼がアーゼンターラの命を狙っていること──までは伝わらなかったが、青月の宮の人々も同種の被害に遭ったことは察しがつく。しかし彼らは決して、自分たちから助力を求めない。代わりに突然訪ねてきて、部屋に入れろという。 この行動が何を意味するのかは、深く考えずとも判る。ガンディアは、奪還チームに対して『依頼』という形を取りたくはないのだ。 傷つけられたオルグァンのために、あくまでも『私的に』動いてくれることを期待している。その場合、彼らは浮城に一切報酬を払う必要はないのだから──。 それゆえ、まずはオルグァンの姿を確認しなければ気が済まないのだろう。口には出さずとも、その黒い腹の内は嫌と言うほど伝わってくる。スラヴィエーラはきりきりと唇を噛みしめた。 男は彼女の神経を逆撫でするかのように、さらに言葉を続ける。 「お連れの方が、女官たちの控え室を訪れたのを、見た者がおります。その後で体調を崩された、ということならば、お詫びするためにも会わぬ道理はない。良い医者を紹介しますので、そこをお通し下さい」 風邪ではないことなどとっくに判っているだろうに、わざわざそんな言い方をするのだ。 医者に診せれば、オルグァンの声が出ない理由が、病に因るものではないと判る。かつて浮城にいたミランスが魔性の仕業と見抜くのも時間の問題だ。 そうなれば向こうが頭を下げずとも、スラヴィエーラ達には進んで魔性を倒す理由が生まれる……。 何もオルグァンをこのままにして宮殿を去る気など毛頭ないが、だからと言って自分たちを散々邪魔者扱いした揚句、今になって無償で動かそうとする狸たちのために働くのは業腹だった。 こんな連中のために、自分は破妖剣士でいるのではない。大切なあの人から、破妖刀を受け継いだわけではない。 頭から湯気を出さんばかりの表情をしている彼女に、マイダードが何か言いたげな視線を送ってくるのが判った。しかし、彼よりも先にミランスが口を開いた。 「およしなさい。人間同士、腹の探り合いはもう沢山です」 その目は真っ直ぐに、スラヴィエーラ達へ向けられていた。心なしか、今までの掴みどころのない態度とはどこかが違う。覚悟を決めた者の目をしていた。 「しかし、王太后……!」 男が再び声を荒らげる。ガンディアはかつて魔性の蹂躙を受け、浮城に多くの借りを作った。近年は周辺諸国も力をつけてきており、大国の地位もいつまで持つか判らない。ここに来て、再び多額の報酬を払うほどの余裕はないのだろう。彼は彼なりに、この国の惨状を憂いている。 その姿にアーヴィヌスが重なり、何とも言えない気持ちになったスラヴィエーラだったが、次に男が発した言葉に凍りついた。 「ラエスリール殿が……妖貴をも倒したあの最強の破妖剣士が生きておられたら、このようなことにはならなかったのではありませんか!?我らにとっては恩人である彼女を追い詰めたのは、浮城という組織だ。ならば、この者たちに責任を取ってもらうのが筋だとは思いませぬか!?」 あまりにも──あまりにも身勝手な言い分に、彼女は眩暈がした。 男の言う通り、ラエスリールはガンディアにとっては恩人だ。だからこそ浮城の求めに応じず、長い間その身柄を匿っていたことも知っている。 しかし、破妖剣士は一国のために存在するわけでも、ましてや一個人のために存在するわけでもない。 彼女が行方をくらましている間、紅蓮姫によって救えるはずの命が多く散って行った。最強の破妖刀さえあれば、紅蓮姫さえ戻ってくれば、という怨嵯の声を、何度聞いたか判らない。そのたびに、夢晶結ではだめなのか、と何度歯噛みしたことか。 自分の力では、無力な人々を救えない。だからラエスリールと紅蓮姫には、どうあっても戻ってきてもらわねばならなかったのだ。彼女が無理なら紅蓮姫だけでも。そのためにチームを組み、上層部の目論みのままに、新しい使い手候補まで連れて、ガンディアに赴いた。 そこでスラヴィエーラ達が目にしたのは、青月の宮の者たちの不審な態度……ラエスリールを聖人か何かのように囲い込み庇い通そうとする、暗い怨念だった。まるで見えない何かに操られるかのように、誰もが彼女を神聖視する。スラヴィエーラの目にはそれが異常に映った。 彼女が裏切り者であるという事実には都合よく蓋をして、自分たちが見たいものしか見ようとしない。利用できる部分にしか縋ろうとしない。 ラエスリールの敵、即ち自分たちの敵。娘を救われた王太后ミランスは、その代表格と思えていた。しかし、今は……。 「口を慎みなさい。客人の前で無礼な発言は許しません」 ミランスの命令に、男ははっとしたように首を垂れ、その後は沈黙を守った。緊迫した空気が周囲に漂う。 スラヴィエーラには、自分が何一つ悪いことはしていない自信はあった。的外れな指摘でいくら責められても、それは彼女の心をかすりもしない。見当違いな方向に射かけられた矢のように、遠くへ飛んで行って消えるだけだ。 ただ、仲間の事まで悪く言われるのは、我慢がならなかった。この勢いでは、ガンディアに再び魔性が現れたのは彼らのせいではないのか、などと因縁をつけられかねない。 悔しいことに、その点に関して彼女は言い返す術を持たなかった。ラエスリールが死に、その護り手やその知り合いらしき白い青年が姿を消した途端に妖鬼が現れるというのは、あまりにも出来過ぎている。 件の妖鬼は恐らく、強敵が去って彼らだけになる機会を窺っていたのだ。それが判るから、悔しくてたまらない。 ガンディアが必要としているのは自分たちではなく、ラエスリールの一味なのだ。自分たちでは、報酬を払うに値しない──そう、間接的に言われたも同然だ。 破妖刀を受け継いで以来、胸の中で大切に温めて来た正義が、目の前の相手には通じない。正義の脆い刃よりも、悪の強大な力を彼らは必要としている。その力が魔性を退けるものならば、正しいことなのか否かは、二の次なのだ。 「スラヴィエーラ殿。数々の暴言、大変失礼を致しました」 穏やかなミランスの声に、スラヴィエーラは我に返った。見れば、王太后は普段と変わらぬ笑顔で、こちらを見つめている。 この状況で笑えることが、信じられなかった。捕縛師としての彼女が、いかなる人物であったかは知らない。しかし、やつれた顔に少しだけ刻まれた笑い皺が、嫁いでからの彼女の苦労を物語っている気がした。 「ガンディア王太后として、かつて浮城に籍を置いていた者として、包み隠さず申し上げますわ。先程女官たちの部屋が荒らされ、複数の犠牲者が出ましたの。恐らくは魔性の仕業だと我々は睨んでおります」 「王太后……」 男が制止の声を上げるが、それは先ほどより弱々しいものだった。ミランスは言葉を続ける。 「無礼を承知で、あなた方にお願いがあります。どうかこの宮殿を守って頂きたい」 「それで、報酬は?」 背後から聞こえた声に、スラヴィエーラは驚いて振り返る。一瞬、自分が放った言葉かと錯覚した。 「おれたちは、城長アーヴィヌスの命を受けて派遣されております。個人に依頼を受ける権限はなく、魔性を討伐するならまず城長に連絡を取って、許可が下りてから改めて……ということになりますが」 マイダードの表情は変わらないが──珍しく、彼は怒っているようだった。 「私とて元は浮城の捕縛師、規則は十分承知しております。報酬も、そちらのお望みの額を。そして」 一呼吸おいて、ミランスは微笑んだ。 「あなた方が大切になさっているアーゼンターラ殿も、責任を持ってお返ししますわ」 今頃になってぬけぬけと白状する面の皮の厚さは、さすがとしか言いようがなかった。魔性の干渉がなければ、ずっと口を割る気はなかったのではないか。 怒りを込めて睨みつけるスラヴィエーラに、ミランスの口から笑いが漏れる。 「スラヴィエーラ殿は、本当によく表情が変わること。それが許される立場におられることを懐かしく思います」 厭味なのか何なのか、世辞にもならぬことを告げてくる。 そうして、ミランスは告げた……かつてシュライン姫が使っていた部屋に、アーゼンターラを匿っていること。それはミランスが唆したのではなく、彼女が望んだ結果であること。 アーゼンターラの心を開くには、一筋縄ではいかない。出来ればラエスリールと彼女、双方から手を引いて欲しい──意地悪をしているのではなく、それが、あなた方の将来のためなのだと。 最後に余計な説教までして、ミランスたちはその場を辞した。前線で戦っていた頃とは違い、今の彼女には彼女にしか出来ない仕事があるのだろう。 「……何だか、寂しい話だわね」 ミランスたちの後ろ姿を見送りながら、スラヴィエーラはそんな感想を抱いた。 本当は、自分も共に戦いたい。彼女の目がそう言っているように思えたのだ。王太后としての立場を考えれば、それは無理な話だ。 「ミランス殿下は、お前が羨ましかったのかも知れないな」 傍らの青年が、ぽつりと呟く。スラヴィエーラは盛大に顔を顰めた。 「冗談もほどほどにしなさいな、マイダード。あんな、何もかもを手に入れた女性が、どうしてわたしなんかを羨ましがるのよ?」 「得難い体験だと思って、受け止めた方がいい。一国の王太后に嫉妬されるなんて、そうないぞ」 嫉妬とはまた、大きく出たものだ。 確かに、ミランスにはガンディアに来てから散々煮え湯を飲まされた。マイダードやオルグァンに対するよりも、当たりが強かったような気がしないでもない。 あれが嫉妬なのかはともかく、妻として母として、色々なしがらみに捕らわれている彼女が、一見自由に思えるスラヴィエーラに多少の意地悪をしてしまうのは、判らないでもない。 「でも、自分で選んだ道なんだから、八つ当たりされる覚えはないわ。束縛が嫌なら、最初から嫁がなきゃいいのよ」 「お前はどうなんだ?」 からかうような、しかしどこか試すようなマイダードの問いに、スラヴィエーラはふいと顔を背けた。 「結婚って、知らない男にあれこれ指図されることでしょう?わたしは、ごめんだわ」 「知ってる男ならいいんだな」 「え?」 マイダードは既に部屋の扉を開けて、室内に顔を突っ込んでいた。恐らくは、仏頂面で横たわっているであろうオルグァンに向けて、お気楽な声を投げかける。 「旦那、話は聞こえてたろう?どうする?」 沈黙が、何よりの答えだった。しばらく、ごそごそと何かが動く音がして、マイダードを押しのけるようにして扉が開く。 右腕をだらりと垂らし、比較的軽傷である左腕には、彼の破妖刀である氷の斧──氷結漸。その姿を認めた途端、スラヴィエーラは思わず大柄な男性の前に身を滑り込ませた。 「駄目よ、寝てなきゃ!後は、わたしとマイダードで何とかなるから!!」 「………」 オルグァンは黙って首を横に振る。どうやら、件の妖鬼に色々と言いたいことがあるらしい。厳格な顔立ちに、抑えきれない憤りと、それとは別の複雑な感情が浮かんでいる。 「何ともならないみたいだぞ?」 マイダードの、相変わらず緊張感の感じられない口調に、スラヴィエーラはがっくりと肩を落とす。 アーゼンターラといいラエスリールといい、自分の周囲の破妖剣士はどうしてこう、頑固者ばかりなのだろう。他人の心配など気にもかけずに、自らのしたいようにする。それに振り回される人間の身にもなれというのだ。 自らのことは綺麗に棚上げして、嘆息するスラヴィエーラであった。 ※ 「ない……」 自らの発した言葉に、アーゼンターラは絶望を覚えた。 開け放たれたままの室内に飛び込み、真っ先に荷物に手を伸ばした。衣類や日用品を押しのけ、鞄の底の方にまで手を伸ばす。確かにここに入れたのに、指に馴染んだその感触がない。 螺旋杖──捕縛師としての彼女の呼び名を決定付けた封魔具。過去に起こった大きな事件以来、ガンディアに魔性の類は出ないと聞いていたから、当然それを大人たちに見せる機会もなかった。 彼らが隠すとは考えにくい……蜜里がそれを許さないだろう。そう、蜜里。 まさか………。 浅い眠りから覚めた際、蜜里はどこかへ消えていた。大人たちに密告に行ったのだとばかり思っていたが、彼女はすぐに戻ってきた。アーゼンターラを助けるために。 そんな蜜里に、これ以上疑いをかけるというのか?しかし、彼女の知らないうちに荷物に触れられるのは護り手しかいない。 「ない、ないわ!!」 痺れを切らして鞄を逆さにしても、落ちてくるのは埃だけだった。散らばった衣類を見下ろしながらアーゼンターラは呆然とする。 封魔具がなければ、蜜里を助けられない。だがその封魔具が見つからない。蜜里の仕業に違いないが、思い当たる理由がない。 彼女にはもう判らなくなった。護り手が、自分のことを恨んでいるのか。まだ守りたいと思ってくれているのか。 「どうして……?」 途方に暮れるアーゼンターラの脳裏に、悲しげな顔の蜜里が浮かんできた。魔性は、自らの名にかけて誓ったことを翻せない。主従の契約を終了するのは、どちらかが死ぬ時のみだ。 蜜里は死ぬつもりなのだろうか。よもや、人間の小娘のお守りに愛想が尽きて、同属の手にかかることを選んだのだろうか。 「そんな……」 [*前] | [次#] ページ: |