鬱金の間 あなたの傷が癒えるまで2(ターラ←マイスラオル)


時間の流れから取り残されたようなその部屋で、アーゼンターラは膝を抱えてうずくまっていた。
悪いことをしているという気分には、ならなかった。ガンディアに行く前、裏切り者をこの手で捕らえるのだと息巻いていたことが、昨日のことのように思い出される。
ラエスリールに一方的に反感を抱き、窘める大人たちに噛みついて反論した記憶──特に、あの刺青の青年には酷いことをした。今思い出しても、顔から火が出そうなほど、恥ずかしい。
記憶が戻り、女性であることが判り、己の卑怯さも未熟さも全て晒された今、どんな顔をしてあのひとたちに会えばいいのか判らない。
どんな顔をして、浮城に戻れば──男だと偽り生活をし、そんな自分を責めもせず受け入れていた浮城のひとたちに。

会わせる顔がない。クーシナラに。スラヴィエーラに。オルグァンに。そして。

「ターラ……?」
その名で呼ぶようになった護り手が、どこが嬉しげに語りかけてくる。
護り手の、蜜里。彼女は、知っていたのだ──最初から何もかも。それなのに、無理にアーゼンターラの記憶の封印を解くようなことはしなかった。漆黒の髪と瞳を持つ存在ならば、造作もないことだろうに。
「あなたが!」
銀色の髪を掻きむしり、アーゼンターラは叫んだ。
声が決して外部に漏れることはない、隔離された部屋。この部屋でかつて何があったか、アーゼンターラは知る由もない。
「あなたが教えてくれれば良かったのよ!」
八つ当たりだと、叫ぶ以前から判っていた。それでも、一番近くにいる存在に、彼女は混乱をぶつける他はなかった。過去の恥を全て受け止めるには、アーゼンターラは幼すぎた。
今、あのひとたちのそばにいるのは、苦しい。かつてラエスリールを罵っておきながら、その口でラエスリールに許しを請い、かつて男だと叫んだその口で、女だったから今までのことは水に流して欲しいと……そんな虫のいい態度を取らざるを得ない自分が、消えてしまいたいほど憎らしい。
いっそ、記憶など戻らぬ方が良かった。魔性への憎悪に満ちたこの感情のまま、紅蓮姫を奪った少年としてラエスリールに罵られた方がまだ良かった。
ラエスリールは、何も言わぬまま眠りについた。咎める者が誰もいない今の状況が、彼女にはなおさら辛かった。
一人になれる場所が欲しいと言ったら、ミランスがこの部屋を提供してくれた。一度だけ、女官らしき老婦人が食事を運んできてくれたが、とても箸をつける気にはなれなかった。
湯気を立てることもなくなった膳が、蜜里の肩越しにアーゼンターラを見つめている。
「あなたが……ずっと近くにいたあなたまで、どうしてあたしに、嘘を」
他者を責める言葉がかすれ、床に落ちていく。
聞いたことがある。男らしさとは、常に自分自身に対して腹を立て続けていることだと。ならば八つ当たりばかりしている自分はどのみち、少年ではなかったのだ。
「嘘、を……」
言葉は声にならない。
そんなはずはないのに、未だにじくじくと下腹部が痛むような気がする。マイダードに殴られた箇所だ。あれ以来、アーゼンターラはあの青年とまともに目を合わせていない。初めて会った時、彼を殴り、男だと宣言したのは自分──謝罪の言葉など見当たらない。

「ターラは、どうしたいの?あのひとたちに謝りたいの?」
八つ当られたことなど気にも留めず、蜜里が静かに告げる。
アーゼンターラはかぶりを振った。否、違う。会いたくないのだ。彼らに会わなかったことにして、最初からやり直したい。
しかしそれは叶わぬことだった。時間を戻せる神か魔性のモノでもいない限り、過去に遡ってやり直すことは不可能だった。
それに、彼らの方こそ謝るべきではないのか。彼らはラエスリールの『敵』だった。それを知りもせずチームに参加し、結果ラエスリールを死なせてしまった。そうだ彼らこそが悪だ──。


(ずるいや)
脳裏に、弟の声が響く。
(そうやって言い訳ばかりして、いつだって自分には非がないって思いこもうとして)
少女の心の弱さを、生き別れになった弟が容赦なく突いてくる。
(違う!あたしはあたしなりに努力してた。でも、知らなかったんだもの。思い出せなかったんだもの!)
言い訳に過ぎないことを叫ぶアーゼンターラの頬に、赤いものがかかった。弟が、足元の水たまりからそれを掬いあげて、姉の顔に飛ばしたのだ。
アーゼンターラもつられて足元を見る。そこには、横たわる三つの屍と血だまりが広がっていた。
どれも、見覚えのある顔だった。一気に血の気が引いて行くのを感じながら、彼女は弟を……リメラトーンを見返す。かつて無邪気に微笑んでいた弟は、酷薄な笑みを浮かべ姉を見ていた。
(これは、全部、ターラがしたことだよ。完全な……になるには、僕と村の人たちだけじゃ足りなかったんだね)
言葉の一部分がよく聞きとれず、アーゼンターラはふらりと一歩前に踏み出す。
(トーン……待って)
弟の輪郭が次第にぼやける。手を伸ばして触れようとすると、それは女性の姿へ変わっていった。
黒い髪、白い肌、不可思議な光を宿す両眼が、断罪するようにアーゼンターラを見下ろす。赤い唇を開き、その女性が言った。
(すべて、お前がしてきたことだ)



己の叫び声で、アーゼンターラは目覚めた。目を開けた瞬間に飛び込んできたのは、ひたすら暗い天井であった。
いつの間にか眠っていたらしい。周囲に護り手の姿は見当たらなかった。
まさか、スラヴィエーラ達に、自分の居所を伝えに行ったのでは……冷や汗をかきつつも、全身から力が抜ける。元々、あの護り手をそれほど信頼していたわけではない。そうされても仕方のないことを、自分はやってきた。
元々一人だったのだし、これからもきっと一人だ。浮城に友人はいるけれど、それなりのつきあいでしかない。弟を喪ったあの日から、アーゼンターラはずっとそのつもりで生きて来た。
身じろぎすると、首の関節が嫌な音を立て、思わず顔を顰める。床に寝ていたため、体のあちこちが痛い。汗ばんだ銀色の髪が、さらさらと頬に零れ落ちた。
鬱陶しい。仕事の際は結ぼうか──そんな思考が頭を過った時、ひとつの光景が浮かんだ。
(何か訊きたいことでもあるのかい、別嬪さん?)
可笑しそうに、からかうように尋ねて来た彼は、あの時から知っていたのだ。それでいて、あの態度。
思えば、初めて会った時から気に入らなかった。十七にもなる自分を子供扱いして、上から諭すようなものの言い方をして。
判っているのだ。彼がアーゼンターラに構うのは、子供だと思っているから。捕縛師とも破妖剣士とも、本当は認めてはいないのだ。
自分やクーシナラには美少女だの別嬪だの言っておいて、幼馴染みであるスラヴィエーラの容姿については褒めない、アーゼンターラには馴れ馴れしく話しかけたり触れたりしながらも、スラヴィエーラには決して自分から触れない……その理由も。
(やっぱり嫌いだわ、あんな人)
むかむかした思いがこみ上げてきて、アーゼンターラは頭を振る。途端に、音を立てて腹が鳴った。
生きるのが辛いと心では思っていても、体は正直だった。もう夜だろうか、と思い、放置したままの膳に目をやる。
客用の食事ではなく、まかないの余ったものだと、女官は言っていた。ミランスの厚意に甘えて居座る客人のことを、快く思っていないにはしても、表面上はそれを出さなかった。
アーゼンターラは緩慢に立ち上がり、円卓の上の皿に手を伸ばした。ここを出ていくにしろ何にしろ、とにかく食べなくては話にならない。しかし、ようやく決意した彼女の食事を、邪魔する存在があった。

「誰か居るのか」
扉の外からもたらされた低い声に、アーゼンターラはびくりと身を固くした。
──オルグァンだ。やはり、蜜里は彼らに自分の居場所を吐いたのだ。
気持ちが再び沈んでいく。信用しているわけではない、と言い聞かせながらも、心のどこかではあの護り手を信じたい思いが働いていたのかも知れない。
蜜里は、魅縛師が捕らえた魔性ではない。だから浮城のものではなく、本当に自分だけの護り手なのだと、少なくともそれだけは信じていたというのに。その気持ちは、こうして裏切られた。
掴んでいた匙を置き、しばし迷った後、アーゼンターラは扉に歩み寄った。
どう返事をしていいものか、わからない。嘘をついていた、否、アーゼンターラの嘘に騙され続けてくれていた彼らを責めていいものか、信じたものか。謝罪も、責める言葉も、今の彼女には見当たらなかった。
「居るんだろう。開けてくれ」
無骨な声がすぐそばで聞こえる。自分がここにいることは判っているだろうに、「誰か」も何もないものだ。
会いたくないし、逃げたい。しかしいつまでも逃げてばかりではいられない。
己を奮い立たせ、アーゼンターラは扉を押した。








椎音(しいね)にとってそれは、最後の機会とでも呼ぶべきものだった。
紅蓮姫の使い手が浮城を出奔したという噂は、下級魔性の間にも広く知れ渡っていた。
妖鬼にはうかつに近づけない、あの忌々しい結界を離れたならば、我らにも勝機はある──主を殺されたある妖鬼は、復讐にいきり立ち、そしてあっさり返り討ちにされた。物陰から彼の死にざまを見届けた椎音は、次は自分の番だと心に誓った。
問題は、紅蓮姫の使い手に張り付いている護り手の存在だった。彼がいる限り紅蓮姫には近づけない。
何より椎音が焦ったのは、彼が明らかにこちらの気配に気付いていながら、見て見ぬふりをしているところだった。取るに足らない存在だと思われていることは明白で、それがさらに椎音の矜持を傷つけた。
彼女は、妖鬼の中では特に力に溢れている自覚はあったし、彼女に襲われた人間は皆恐怖に顔をひきつらせ、文字通り声も出せずに死んでいった。無論、ガンディア国王とて、例外ではない。
『ご苦労だった』
跪いている椎音の頭を撫でもせずに、亜珠は背中を向けたまま言い放った。
漆黒の髪が、肩から背中へと艶やかな絹糸のように滑り落ちている。主のその美しい後ろ姿に、幾度見惚れたことか。
その腕に抱えられている華奢な姫君に、激しく嫉妬した。噛み殺してやりたい、とさえ思った。
国王の血は不味かった。存分に甚振ってやれとの命令に忠実に、死ぬ寸前まで気絶などさせなかったが、愛しい主に頼まれたのでなければ、あんな中年の血肉など啜りたいとも思わない。
『容易いことです。亜珠の君の御手を煩わせるまでもありません……あんな、汚らわしい人間ごときに』
それは、シュライン姫も含めての台詞であったが、亜珠は深い意味に取らなかったらしい。それとも妖鬼である自分の戯言など、聞く価値もないと思っているのか。
『花嫁は、どうされましたか。だいぶお疲れのようですが』
上辺だけの気遣いをしてみせると、漆黒の男は、うっとりと聞き惚れてしまいそうな笑い声を漏らした。
『なに、王の亡骸を映して見せてやったら、気を失っただけだ。先刻までは気丈に吠えていたというのにな』
人間など脆いものよ──。
笑いながら、主は意識のない花嫁を寝室へと運ぶ。それきり、椎音には見向きもしなかった。


「よもや、笑った亜珠さまを見るのが、あれで最後になろうとはね」
動かなくなった老婦人を投げ捨てて、椎音は呟いた。口の周りについた血糊を乱暴に拭き取り、体中に匂い消しの白粉をふりかける。その足で、先ほど出て行った大柄な男を追った。
いつも、いつも、自分は物陰から見ている斥候の役目だ。大切な人が他の女のものになろうとしている時も、破妖剣士によってその人が殺された時も、少し好きになれそうだった妖鬼の男が、同じ破妖剣士によって無残に殺された時も。
その代わり、待つこと、耐えることだけは誰よりも得意だった。青月の宮のことなら知り尽くしている。
あの憎い破妖剣士が、浮城を出奔したとの噂を聞き、人に追われて身を寄せるのならここだと判断した。新米の使用人を殺して成り替わり、機会を窺った。何が起こっても迂闊に飛び出すようなまねはせず、ただじっとその時を待った。
紅蓮姫が使い手から離れ、護り手もそばにいない、その時を。

『面白い力を持っているようだな。「音」に通じる力……我らの眷族か』
そう言って、生まれたての自分を漆黒の城に誘ってくれた主の、笑顔と美しい声が忘れられない。
それを永遠に奪った、忌まわしい破妖刀の使い手。
たとえ金の君の御息女とて、決して許しはしない。


ようやくその復讐が果たせる歓喜に、椎音の心は浮き立っていた。







「オルグァン!オルグァンってば!」
頬を激しく平手打ちされ──しかも往復である──彼は容赦なく叩き起こされた。

目を開けると、心配そうな女性の顔が視界に飛び込んできた。しかしその首から下は案の定ドレスであり、吹き出しそうになった彼は、再び本気で殴られた。
「起きてるならそう言いなさい、馬鹿っ!」
怒鳴りつけるスラヴィエーラをよそに、オルグァンは目だけを動かし周囲を見回した。まだ頭はぼんやりしているが、自分の体は冷たい床に横たえられたままだった。どうやら第一発見者は彼女らしい。
倒れた位置とは、微妙に違った地点に寝かされていた。多分、彼を引きずって運ぼうとした途中、人が来たので放置して逃げたのだろう。つまりあの妖鬼には、彼を抱えて瞬時に移動できるほどの力はない、ということだ。
そこまで分析して、オルグァンはおもむろにスラヴィエーラに視線を移した。口を開き、女性の名前の発音を試みる。
「…………」
まあ、自分が目覚めるまでに全ての決着がついていた、などといううまい話があるわけはない。案の定、声は戻っていなかった。
口だけを動かすオルグァンに、スラヴィエーラは怪訝な顔をする。
「どうしたのよ。何て言ったの?」
横たわっている彼の声をよく聞こうと、耳を寄せてくる。他人が見たら誤解を受けること必至の体勢だが、幸いにも周囲に人影はなかった。
それでもオルグァンの声を、彼女が訊くことはできない。自分を倒さなければ声は戻らない、あの妖鬼は確かにそう言ったのだ。
「駄目よ、スラヴィ。何度やっても治らない」
焦れたような台詞とともに、スラヴィエーラの護り手──未羽が姿を現す。気付かなかったが、ずっと自分の怪我の手当てをしてくれていたらしい。
「傷口に特殊な術がかけられていて、全く癒えないの。これはもう、傷つけた魔性を倒すほかないわ」
魔性の仕業であることは確かなのだから。
そう言いきった未羽に、スラヴィエーラは深い溜め息をつく。
「厄介なことになったわね……恐らく声を奪ったのもそいつね。筆談もできないように、わざわざ手の神経まで切っていくなんて……」
彼女の言葉通り、オルグァンの両肩は、床から一向に持ち上がらなかった。指先も動かない。期待していた護り手の治癒能力が全く効かない現状に、彼は心の底から絶望していた。
時間がない。件の妖鬼がアーゼンターラを狙っていること、そして居場所の目星がついていることを伝えなければ。せめてここが白砂原ならば、足で文字でも何でも書く努力をしてみせるが、あいにくここは王宮、うかつに床を傷つけることはできない。
「取りあえず、部屋まで運びましょう。いつまでもここに寝かせておくわけにもいかないし。未羽、左谷芭、手伝って」
彼の護り手は一言も発さなかったが、沈痛な表情をしていた。主を護れなかった己を、深く責めている表情だった。
お前のせいではない、と言いたくとも、声が出ない。存外に不便なものだ、と彼は思った。




ぱしゃぱしゃと水が跳ねる音がする。スラヴィエーラが髪と顔を洗っている音だ。

額から首にかけて塗られた化粧を落とすには、それなりの時間がかかる。続いて、未羽に手伝ってもらいながらドレスを脱いでいるらしい衣擦れの音もする。
寝台の上で身の置き所に困り、それでもしっかり聞き耳は立てている自分が嫌になり、オルグァンは敢えて険しい顔を保ったまま天井を見つめていた。
本来ならば、こうした化粧や着替えの類は、王宮に控えている女官たちが手伝ってくれるはずだ。しかし現在、使用人の姿は見当たらない。青月の宮は不思議なほどに静まり返っていた。
スラヴィエーラの話によると、ミランスとの会食に辟易していた頃、側近の一人が近づいてきて、彼女に何事か耳打ちした。すると王太后の顔は青ざめ、スラヴィエーラへの挨拶もそこそこに、その場を立ち去ったのだと言う。
「何かあったのかしらね。あ、今から着替えるから、覗いたら承知しないわよ」
彼女はそう告げて、これ以上は待てないとばかりに洗面所に姿を消した。胸を締め付けるドレスが、相当に窮屈だったらしい。着替えの割には長いから、体も拭いているのかも知れない。
実際に塗られたのは首のあたりまでだが、胸元にまで白粉が入ったのなら汗をかくと痒いだろうし、浮城では月に一度しか風呂に入れないのだから……そう、白粉。
とりとめもなく考えながら、オルグァンはあの少女の香りに想いを馳せていた。血の匂いを消すために白粉をばら撒き、生き生きとした敵意に瞳を輝かせていたあの妖鬼。
使用人たちが一斉に姿を消した理由は、彼だけが知っている。来客のもてなしどころではない事態が持ち上がった、ということだ。
大方、女官たちの部屋で死体でも見つかったのだろう。すぐに魔性の仕業だと見抜けなければ、じきにオルグァンの元へも呼び出しがかかるに違いない。最後にあの部屋に立ち寄ったのは、自分しかいないのだから。

「よう、旦那。女に押し倒されて肩を壊したって?」
身も蓋もない言い方をする青年を、オルグァンはじろりと睨みつけた。
左谷芭から事の顛末を聞いたらしいマイダードは、それほど心配した様子もなく寝台の前に椅子を引き、腰を下ろした。
───今までどこに行っていた。
視線による無言の責めを彼は感じ取ったらしく、「おー、こわ」と肩を竦めた後、オルグァンの痛々しい傷口をちらりと見やる。護り手によって痛みのほとんどは消えていたが、そこに新たな皮膚が再生することはない。
「かなりの実力者だな、その妖鬼は。まさか複数か?」
尋ねられて、オルグァンは首を横に振る。だよな、とマイダードは安堵した顔になる。
気配に敏感な彼が、複数の魔性のそれに気づかない、などということはあり得ない。シュライン姫の事件以降、ガンディアには魔性が寄り付かぬはずだった。少なくとも青月の宮に到着した当初は、『彼女』は上手に瘴気を抑えていたということだ。
人の数が多い──つまりは餌だらけの状況に身を置きながら、人間の振りを装ってじっと耐え、疑いすら持たせずに日々を過ごす精神力……それは、並の妖鬼に成し得る技ではなかった。
マイダードもそれは感じたらしい。ただの愉快犯ではない、怨念めいた妄執を背負っている魔性は、強い。魔性は想いの強さが力に繋がる厄介な特性を持っており、それは時として色彩の枷すらも凌駕する。
単なる妖鬼であっても、場合によっては妖貴並みの力を発揮することがあるらしいのだ──あまり、考えたくはないが。
『あなたは気に入ったから、助けてあげる』
妖鬼が自分を殺さなかった理由を、オルグァンは考えていた。下級魔性の言う『気に入った』は『おいしそう』とほぼ同義だ。彼が浮城の人間であることは判り切っているのに、何故助けた?
「さっき、魔性の中の魔性に会って、話を聞いてきたんだが」
ぽつりと放たれたマイダードの一言に、オルグァンは片眉を上げた。
魔性の中の魔性?
「考えてみたらおれたちは、ターラのことばかり気にかけて、その傍にいる蜜里のことは何も知ろうとしなかったな」
蜜里が何を考え、何を思ってアーゼンターラの傍にいるのか、彼らは知らない。知る必要がなかったからだ──魔性は自らの名にかけて誓ったことを決して翻せない。その制約があればこそ、浮城の人間は安心して護り手を使役していられる。本来ならば、人に仇なす存在である彼らをあっさり信用し、背中を預けていられるのは、彼らの真実の名が持ち得る、言霊の力によるところが大きい。
「おれにはわからないが、護り手や破妖刀ってのは、時として自分自身よりも信用できる代物らしいな。けどあの子は、蜜里に対してはあまり心を開いていない風だった」
それはオルグァンも感じていた。蜜里にだけではない、護り手という存在そのものに、彼女は不信を抱いていたのだ。自らが捕らえた存在を邪険に扱うその心理は、オルグァンやスラヴィエーラには理解に苦しむところだ。
「それで?ターラを差し置いて、蜜里を先に丸めこんでおけば良かったとでも言うの?」
髪を拭きながら歩いてきたスラヴィエーラは、いつもの簡単な上下に着替えていた。
「なんだ、もう脱いだのか」
「脱いでないわよ、着たのよ。ねえオルグァン、正直に答えてちょうだい。その妖鬼、わたしに斬れそう?」
戦闘意欲ありありといった感じで身を乗り出す彼女に、マイダードは椅子を引いて後退し、オルグァンは答えに詰まった。
思えば、ここ数日ずっと彼女は不機嫌だった。ガンディアに来てからというもの、他人の顔色を窺ったり、本心を探るような真似を強いられる毎日に、いい加減辟易していたのだろう。不謹慎だが、久しぶりに破妖剣士らしい活躍の場を与えられ、喜んでいるようにすら見える。
スラヴィエーラの実力の高さは、オルグァンも充分認めている。機嫌も出来れば損ねたくない。しかし、今の彼女に『あれ』は倒せない。判ってしまうから、彼は首肯できなかった。

「失礼します──」
扉の外から、緊迫した声がかけられたのは、その直後のこと。
「浮城の方々に、折り入ってお話が……」
「おいでなすったな」
「わたしが出るわ」
二人の声にほぼ重なるようにしてオルグァンは起き上がろうとしたが、マイダードに止められた。
「その体と口で何が出来るんだ?ここは、おれたちに任せとけって」





突然の出来事に、ミランスは動揺を隠せずにいた。
客人の前で青ざめた顔を晒し、相手に不快や疑念を与えてしまった。為政者として、大抵の出来事には動じないつもりでいた彼女も、所詮は人の子である。
夫を殺され、自慢の娘を魔性に汚され、何とか嫁がせた頃には後継者問題が持ち上がり、それも未だ幼い息子の後見人に収まることでようやく決着がついたと思えば、再び魔性に脅かされる羽目になるとは。
実際にこの目で確かめるまでは信じ難かった。あの奇跡の破妖剣士の護り手が……正体を口にするのも恐ろしい彼が、かつて救ったこの地を、下賤な輩に踏み荒らされることを許すとは思えなかったのだ。
その思い込みの上に胡坐をかき、絶大な守護を得たつもりになっていた自分たちが愚かだったとでもいうのか──。
「ミランスさま?」
窮屈そうなドレスに身を纏い、訝しげに問いかける女性は、浮城から派遣された紅蓮姫奪還チームの一人だ。
ミランスは当初、彼女に随分辛く当たってしまった。それと言うのも、彼女が率いるチームが文字通り紅蓮姫の奪還を目的とする、いわばラエスリールの敵に当たる存在だったからだ。
ラエスリールの身柄が浮城に引き取られることが決まった今、もう彼らをぞんざいに扱う理由はない。相手には嫌われているようだが、ミランスは決してこの女性──スラヴィエーラが嫌いなわけではなかった。
彼女は同じ破妖剣士でありながら、ラエスリールとは纏う空気がまるで違った。シュラインが春、あの娘が夏だとしたら、スラヴィエーラは秋だ。ころころと落ち着きなく変わる表情は愛らしく、だがやがて訪れる厳冬に、ともすれば呑みこまれそうな儚さをも感じさせる。
腕利きの破妖剣士と聞いているが、とてもそうは見えない。ミランスは、五年前の忌わしい事件を脳裏に甦らせていた。亜珠の城に向かうラエスリールの、痩せた後ろ姿を思い出していた。
もう二度と、あんな思いは御免だった。自分の娘と同じ年頃の娘を死地に送り出すのは、そしてそれを見守ることしかできないのは、母として身を切られるよりも辛いことだった。
「申し訳ないけれど、急な用事が出来ましたので、これで失礼させて頂きますわ。スラヴィエーラ殿はごゆっくりどうぞ」
礼もそこそこに、ミランスは踵を返す。残されたスラヴィエーラは、料理の皿を持ったまま唖然としていた。彼女の腕前を見る機会など、永遠に来ない方が良いのだ。短期間に二度も魔性の侵入を許しては、浮城の元捕縛師としての沽券に関わる。
現に一部の貴族や民からは、批判の声も上がっていた。ミランスが嫁いでからというもの、ガンディアには禍いしか降りかからないではないか。シュライン姫の誘拐、国王の死…やはり魔性と関わりの深い浮城などから妃を選ぶべきではなかった。元捕縛師とは言うが、頼りにしていた結界も役に立たず、悪戯に災厄だけを呼ぶ王妃、と。
自分の事はともかく、娘や息子まで批判の対象になるのは我慢がならなかった。誰よりも国のためを思い尽くしてきたというのに、思いは悉く実らない。
本当は少しだけ、嫉妬していたのかも知れない。自分を理解してくれる男性に囲まれ、ただ仕事のことだけを考えて突き進んでいればよいスラヴィエーラは、ミランスに噛みついている時でさえ生き生きと輝いて見えた。だからつい、意地悪をしてしまった。
スラヴィエーラたちが、アーゼンターラを心から案じているのは知っている。けれどあの少女はラエスリールに似すぎている。一目見ただけで、それが判った。
周囲に影響を与えている自覚はなく、また周囲もそれに気付かずに巻き込まれる。このままでは、彼らは白銀の──厳冬の最中に降る雪のようなあの少女に、呑みこまれて消えてしまうと思った。
そうさせるには、彼らは余りにも若々しく才能に溢れ、惜しい。無駄に命を散らすことはないのだ。

『姉ちゃんは死んでない』
あの白い青年はそう言い切り、さらに二人きりになった時、ミランスに向けて不穏な一言を放った。
『あのさー、ガンディアって、例の事件以来魔性騒ぎは一切なくなったんだよな?』
何故知っているのか、という問題よりも、青年の態度にミランスは引っかかりを覚えた。白く柔らかそうな髪を揺らしながら、青年は首を傾げる。
『おかしいなー、なーんか匂うんだよな。僅かだけど魔性の気配がする……本人にしてみりゃ、うまく隠してるつもりだろうけどな』
ぎくりとしたのは確かだった。あの時の悪夢が甦り、背筋に寒気が走った。
魔性は同族の気配に敏感で、人には感じられない瘴気も捉えることができる。それでも、彼は無闇に眷族に手をかけることは出来ないし、人に危害を加える気のない魔性の命を奪う権利も、人間には無かった。
だから、その時点では何の行動も取れず……そして彼は、ミランスの不安を盾に、あることを約束させたのだ。
『悪いけど、時間稼ぎ、頼めない?あの連中がしばらく浮城に戻れないようにして欲しいんだ。おれ、その間に、姉ちゃんの護り手連れ戻して見せるからさ』
一国の王太后が魔性の甘言に乗るなど、あってはならないことだった。他の誰にも、口が裂けても言えない。
ラエスリールの護り手が戻れば、その魔性の目的もはっきりするだろう。彼が間に入ってくれれば、事は一気に解決する。二度とこの国は荒らさせない、そのためにならいくらでも悪役を演じて見せよう。
けれど、ああ、どうか……。
早足で問題の部屋に向かいながら、ミランスは願った。
私にまだ到らない部分があったのなら、悔い改めます。ですからどうか、魔性の仕業などではありませんように、と。
しかし、その願いはガンダル神に届かなかった。
白粉の白と血液の紅に彩られた部屋を見たとき、彼女は己の逃れられぬ運命を突きつけられているように感じて、気が遠くなった───。





獣特有の荒い息遣いを、耳元で感じる。
アーゼンターラには、自分の身に何が起きているのかわからなかった。
ただ、肩に食い込んだ牙の固い感触があり、すぐにそれは鋭い痛みへと変わった。喰いつかれていない方の手を伸ばし、相手の顔を確認しようとするが、うまくいかない。
オルグァンでは、ない。そんなことは、飛びかかられた時から判っていた。どのようにして彼の声色を真似たのか見当もつかないが、少なくとも相手はずっと小柄で、また男性にも見えなかった。
ぎりぎりと牙が食い込んでいく。花の蜜でも吸うように、血が啜り取られていくのが判る──痛みで朦朧とする視界の中、狼を思わせる湿った体毛が顎のあたりをくすぐった。
「痛い?」
答えたところで止めるわけでもないだろうに、その突然の暴力の主は、からかうように尋ねてくる。
返事の代わりに、アーゼンターラはきっと相手をねめつけた。馬乗りになっている少女の顔は、長い茶色の髪に縁どられている。それは決して醜くはなかったが、アーゼンターラにとって初めて見るものだった。見知らぬ相手に襲われる理由は見当たらず、彼女は浮城の人間として当然の理由に行き着く。
魔性……妖鬼……それも、強い!!
痛みを凌駕する緊張感が、全身に行き渡る。先に食事を済ませておかなかったことを後悔した。マイダードに貰った護符を忍ばせた懐を探るも、指に力が入らない。
「痛いでしょうね。一つしかない命を奪われる気分はどう?」
開け放たれたままの扉の向こうから、光が差し込んで来る。室内には、アーゼンターラの影だけが淡く映っていた。一人で仰向けに転がり、空中に向かって闇雲に手を振り回している影が。
「ああ……この部屋、とっても懐かしい匂いがするわ。そして、二度と嗅ぐことの出来ない匂い」
すんすんと子犬のように鼻を鳴らしながら、少女は思い出に浸るように目を細める。物置に使っているのだと聞いた、閉め切った暗い部屋に何を感じたのか知らないが、アーゼンターラは痛みでそれどころではなかった。
「あ、……う、み」
護り手の名を呼ぼうとして、思い止まる。一瞬だが、疑ってしまった──蜜里が、オルグァンたちをここへ呼んだのではないかと。
今だとて、完全には護り手を信用してはいない。勝手に姿を消して、自分が呼ぶまで現れない護り手を、果たしてこのまま信じていいものか。
それに、この妖鬼が蜜里の仲間でないと、どうして言いきれる?ガンディアにはもう魔性の類は寄り付かないはずではなかったのか。この妖鬼は一体どこから現れた?しかも王族の誰でもなく、真っ先にアーゼンターラを狙ってくるということは……蜜里が差し向けた……いや。
そんなはずはない。
(ターラ)
記憶が戻る前ならいざ知らず、アーゼンターラだと自覚した時に見せたあの蜜里の笑顔に、嘘はなかったと思いたい。見限るならば、もっと早くにそうしていたはずだ。

「……し、なさい」
苦しい息の下、アーゼンターラは呻いた。彼女の声に、妖鬼が驚いたように目を見開く。
「えっ?」
意外な反応だった──その理由も判らぬまま、アーゼンターラは必死の抵抗を試みる。妖鬼の力が僅かに緩んだその隙に、膝を腹部にめり込ませる!
「放しなさいっ!」
肉の潰れる嫌な感触が、膝に伝わる。魔性の体内にあるのは心臓のみのはずだが、悲鳴を上げて飛び退く妖鬼の挙動は、完全に人間の少女のそれだった。アーゼンターラは彼女の体の下から這い出ると、背後を取られぬよう壁際に退いた。
改めて、相手を見る。使用人の衣装に身を包んでいるから、人に化けて王宮内に潜んでいたのだろう。そこまで手の込んだ真似をする狙いが判らない……ただ、こちらへ向ける殺意だけはひしひしと伝わってくる。
「あなたは誰!?私を浮城の者と知っているの?一体、何が目的で……」
アーゼンターラが質問を重ねるたびに、妖鬼の顔は曇っていく。それを再攻撃の合図と見なした彼女は、避けられない戦いを予感して唇を噛んだ。
話して通じる相手ではなさそうだ。自分の力だけで封じられるとは思えないが、みすみす殺されるわけにはいかない。
自由になる方の手で、アーゼンターラは護符を取り出した。貰ったというよりは、無理矢理押しつけられたそれを、目の前にいる妖鬼に向かって翳す。

「……おかしい」
壁際に追い詰められた獲物を前に、妖鬼がぽつりと呟く。
口元から赤い舌が覗いた。そこに付着しているのは、今しがた吸われた自分の血だ。
「血は飲んだのに……どうして、声……おかしい……」
アーゼンターラから視線を外し、ぶつぶつと呪いのように呟いている。そのさまは、隙だらけと言って差し支えなかった。
躊躇いながらも、アーゼンターラは相手の目を狙って魔除けの護符を放つ。怯んだ隙にその脇を走り抜け、開かれたままの出口に突進した。





訪れる者の誰もいない空間で、二人の魔性が向かい合っている。
一人は漆黒──闇そのものを凝縮したかのような髪と瞳を持つ少女。いま一人は、乳白色の髪と藤色の双眸を持つ圧倒的美貌の青年だ。
佇む彼らの視線は、しかし互いを見てはいない。足元の床に映る一つの光景を見ている。
漆黒の少女が護る存在が、妖鬼に襲われていた。彼らにとっては取るに足らない存在でも、人間の少女にとっては充分に強敵たり得る。それなのに、護り手である蜜里は何故かここにいる。
「助けなくて、いいのかよ?」
床から視線を動かさずに、邪羅が尋ねる。向き合う少女の表情は、いささか苦しそうではあった。
「……ターラが呼んでいませんから」
そう言って瞼を伏せるさまは、痛々しさすら感じさせる。眼下で、銀色の髪の少女が魔性に噛みつかれ、血を吸い取られている。抵抗はしているようだが、このままでは屠られるのは時間の問題だ。
「呼ばれなきゃ、助けないのか?あの娘が死んでも──」
言いかけて、邪羅は眉を顰めた。以前にも、似たような状況に立ち会ったことがある。
どうして、自分はいつも、いつも、こういう損な役回りなのだろう?
赤い男を探して飛び回っている矢先、放っておけない気配に辿りついてしまった。アーゼンターラの危機を知りつつも行動を起こそうとしない護り手の姿は、数年前のあの男に重なって見える。
けれど、柘榴の妖主とは決定的に違うところがあった。彼女自身は、すぐにでも飛び出していきたい様子だったが、目に見えぬ何らかの力が彼女を抑えつけているのだ。
「それも、ターラが選んだことなら……私には逆らえません」
枷だ、と邪羅は気付いた。アーゼンターラが本当の意味で蜜里を護り手と認めてはいない、そのことが彼女の行動を縛っている。気付いた以上、彼に出来ることは一つしかなかった。
「あんたはそれでいいかも知れないけどさあ、ここであの娘に死なれたら困るんだよな。姉ちゃんますます悪者になるじゃんか」
くだらないしがらみに捕らわれて、本当に大切なものを見失う──人間のみならず、魔性にもよくあることだ。自分は幸いにもその手の束縛とは無縁でいられるが、これから先はどうなるかわからない。
父親の事、母親の事、ラエスリールの事……ついでにあの生意気な金髪小娘の事。問題は山積である。それでも、誰かに必要とされている自分はまだ、幸せな方なのだと思う。名前を呼んで欲しい、そして呼んでくれる相手が、ちゃんと存在するのだから。
ふう、と息をつき、邪羅は蜜里に向かって指を伸ばした。害されると思ったのか、蜜里がびくりと身を震わせる。
それは杞憂……長く優雅な指先が、蜜里の額に優しく触れる。
「何、を……」
未知の力が流れ込む恐怖に怯える蜜里に、邪羅は囁きかける。
「目を閉じてな」
現在追っている相手に教わった力──一時的に、枷を外す力。ラエスリールがまだ朱烙と融合していない際に、魔性である彼女の封印を一時的に解くために使った力だ。
これにより父親が無残な敗北を迎えたのだと知ると、何とも複雑な気分ではあったのだが……。
「動けるようにしてやるよ。ただし、一回きりだ。いいな?」




銀色の髪を振り乱し、アーゼンターラは走る。普通の少女であれば、誰か、と大声で叫んで、助けを求めても良い場面だろう。しかし彼女は浮城の住人だった。敵から逃げたことを非難こそされ、同情など決して得られない。
部屋が見えなくなるまで遠ざかると、彼女は近くの柱に凭れかかった。普段は王宮の人々がせわしく行き交っている回廊が、何故か今日に限っては静寂に包まれている。
馬鹿だ。逃げてどうしようというのか。結局戻るところはあのひとたちのところしかない。自分から身を隠しておいて、都合が悪くなったら逃げ帰ろうだなんて……それでも彼らは受け入れてくれるだろうことが判るから、尚更辛い。
噛みつかれた肩には、抉られたような傷口が出来ていた。それでいて、血は既に凝固している。
喰いかけの獲物を横取りされぬよう、血の痕跡を残さない襲い方をする魔性もいると聞くが、あの妖鬼もその口だろうか。床に滴り落ちるはずの血液が、魔力で無理に堰き止められているのを感じる。こんなことが可能な妖鬼がいるとは……痛みよりもその恐ろしさに、アーゼンターラは身を震わせた。
懐に忍ばせた、護符の残りはあと一枚しかない。押しつけられた三枚のうち、一枚はあの金髪の少年に与えたのだ。
弟のようで放っておけなかったあの少年……リーは、マイダード達の手当てを受けて客室で眠っている。
そうだ、彼のところに行こう。あの部屋には薬品が一式揃っていたから、傷の治療のために蜜里を呼ぶ必要もない。
頭の中で段取りをつけて、彼女はよろけながら歩き出した。それにしても、どうして今日はこんなに人通りが少ない?見つからないよう足音を忍ばせる必要もないほどに、どの部屋も扉が頑なに閉ざされ、人の気配すらない。
ちょうど夕刻に差し掛かる頃だった。中庭から回廊を吹き抜ける心地良い風が、アーゼンターラの頬を撫でていった。
『もう少し暗くなると、王宮が青白く輝くんだそうだ。見てみたいと思わないか』
マイダードが暢気に言い、スラヴィエーラが呆れ声で返す。
『あなたねー。観光に来てるんじゃないのよ、わかってる?』
例によって口喧嘩に発展する二人を、止めようか迷っているアーゼンターラを、オルグァンが目で制する。そんなやり取りが、妙に懐かしく感じられる。
鬱陶しいと思っていたはずなのに、一人で出来ることの限界を知った今では、無性に大人たちの手が欲しいと感じた。
「勝手よね……本当に……」
少年だと名乗っていた頃は、女扱いされるのが心の底から嫌だった。それなのに今は、少女として頼りたいと思い始めている。いや、もしかしたら少年だった頃から、あの笑顔や温もりを分けて欲しいと思っていたのは……甘えたくなる気持ちを見透かされそうで、故意に反発して嫌われようとしていたのは。
アーゼンターラは頭を振り、それ以上何も考えないようにした。既に決まった相手がいる相手を意識しても不毛なだけで、罪を背負った自分にそんな資格がないことも、判っていた。
王族の肖像画の前まで来ると、アーゼンターラは何となしにそれらを見上げ、そして言葉を失った。
シュライン姫──かつて白月華と呼ばれた美しいガンディアの至宝。宮廷画家の描いた彼女の肖像画が、鋭利な刃物のような物で切り裂かれていた。
画布がべろりと捲れ、下の板ごと斬られて……否、割られている。斜めに傾いた額縁は叩きつけられた衝撃の激しさを現し、ともすれば後ろの壁にまで及んでいるのではないかと思われた。
剥がれた布が空しく風に踊っている。恐らく、破かれてまだそれほどの時は経っていない。
「誰が……こんな、ことを」
呟いたものの、答えはとうに出ていた。誰にも気づかれずに成し遂げたという事実こそが、全てを物語っている。
何のために?判るはずがない。彼女はずっと、薄暗い部屋でうずくまっていたのだから。そうしている間に外で何が起ころうが、気付くはずもない。
ラエスリールの事で一方的に不審を抱いて──仲間たちに背を向けて。その間にも、無力な誰かが魔性の餌食になっているかも知れないのに。浮城に籍を置く者として、恥ずべき行為を自分はしたのだ。

「何を驚くの?これが人間の、本来の姿でしょう?」
冷たい息が首筋にかかった。
妖鬼が、アーゼンターラの左肩に顎を乗せていた。傷つけた肩と逆なのは、情けのつもりなのか──背中に密着する柔らかな膨らみと、人外ではあるが確かに生きているのだと思わせる、生々しい心臓の鼓動。
「どんなに見た目が美しくても、ひと皮剥けば汚らしい骨と血肉が晒されるだけ。おまけに年を取れば表側だって醜く崩れていく。あたしたち魔性とは大違い」
吐き捨てるように妖鬼は言い、それから口調を一変させて、動けない少女の体を揺さぶった。
「ね、それより、あなたに聞きたいことがあるの。どうしてまだ口が利けるのかしら?さっきのじゃ、吸い方が足りなかった?」
何を──何を、言っているのだろう、この妖鬼は?
その軽やかな声が随分遠くに聞こえるのは、貧血のせいかも知れない。子守唄のようで、身を任せていると心地良い眠りの波に攫われそうで……。
「それとも、あなたも『音』の守護を受けているの?そんなはずないわね、ただの人間風情が……まあいいわ、もう一度試してみればいいことだもの」
耳元で妖鬼が口を開ける気配がする。逃れようと身を捩るも、足に力が入らない。そのまま床に座り込んでしまった。
「ターラ!」
高い少女の声が耳に入ってきた。
のろのろと顔を上げると、いつの間にか、妖鬼と自分の間に割り込むようにして、蜜里が立っていた。
怒りと悲しみが混じり合ったあどけない表情が、暗にアーゼンターラを責める。命の危機に瀕しても決して名を呼ばない、薄情な主を。
「ターラ、しっかりして!あなたの敵はこんなものではないでしょう!?」
むっとしたのは確かだった。今まで現れなかったくせに──自分の行いを棚に上げて、そのように思ってしまう。
しかし、蜜里の言う通りだ。上級魔性を倒し弟を奪い返すためには、妖鬼如きで躓いてはいられない。
幼い護り手は、アーゼンターラに覆い被さるように上体を倒す。夜の帳の如き髪が体に纏い付くと、肩の痛みが少しずつ引いて行った。

「漆黒の……お方……」
不快げな妖鬼の声が、蜜里の肩越しに聞こえて来た。
「何故そのような者を庇うのです。人間など、護る価値もない矮小にして思い上がった存在」
まるで、アーゼンターラたちを以前から知っているように──ずっと見ていたかのように。
告げる妖鬼に、護り手が毅然として答える。
「あなたには関わりのないこと。消されたくなくば速やかにここを立ち去りなさい」
初めて耳にする、蜜里の怜悧な声に、アーゼンターラは息を呑んだ。自分の前では、どこか遠慮がちで腰の引けた様子を見せていた護り手が、今だけは別人のようだった。
「立ち去るだけでよろしいのですか?私は既に数人屠っております。貴女は良くとも、そちらの破妖剣士さまが納得しないでしょう」
ちらり、と視線をこちらへ移す妖鬼の目は、護り手の影に隠れるアーゼンターラを明らかに嗤っていた。だが、それよりも彼女が驚いたのは、破妖刀を持っていないにも関わらず、破妖剣士と明言されたことだった。
それは、正解であって正解ではない──紅蓮姫は一時的にこの腕の中にあったものの、今はラエスリールの体に眠っている。知るのはスラヴィエーラたちやミランスなど一部の限られた者だけだ。
それを、この妖鬼は把握しているとしか思えなかった。紅蓮姫がアーゼンターラから離れたのを見計らったかのように姿を現したことが、何よりの証だ。
「破妖剣士、ね。あなたが恨みを抱いているのは破妖刀?」
護り手の口から出た言葉とその内容に、アーゼンターラは動揺を隠せなかった。紅蓮姫はここにはないし、第一、彼女はまだ正式に認められた破妖剣士ではない。
「噂には聞いていたわ。漆黒の亜珠の配下の生き残りが、ガンディア周辺をうろついていると……ここに来た時から、気配は感じていたけれど」
アーゼンターラは目を瞠る。彼女にとっては初耳だった。いや、恐らくマイダード達も気づかなかったはずだ。何故、そんなに大事なことを黙っていたのか。
蜜里が垂らした髪が掛布のように身体を包みこむ。微かな温もりのあるそれは、どうしてか、安心とはほど遠いものだった。
「……でも、害意はなさそうだったし、主と関わりのある場所で最期を迎えたいって気持ちもわかるから、見て見ぬ振りをしていたのよ。私だけじゃない、あの方たちだって……」
話を聞くうちに、アーゼンターラの驚きは徐々に憤りへと変わっていく。あの方たちと言うのは、ラエスリールの護り手や、その仲間の白い青年の事だろう。自分の預かり知らないところで、蜜里は彼らと接触を持ったのだろうか。
「待って、蜜里。あなたはこの妖鬼の気配に気づいていながら、私たちに教えなかったということ!?」
信じがたい、という思いが大きかった。浮城の護り手として、それは怠慢の域を遥かに超えている。この妖鬼は、既に数人を屠ったと言った。目の前の敵を倒しても、それまでに失われた命は戻らない。
「仕方なかったのよ」
平然と、蜜里は言い放った。
「私はターラの事で手一杯だったし、余計な心配をかけたくなかった。そもそもガンディアに来たのは紅蓮姫奪還が目的で、魔性退治のためじゃないでしょう?」
何か微妙に論点がずれたことを、漆黒の護り手は語りかけてくる。
無論、依頼がない限り浮城は動かないし、自分の身に危害が加えられない限り、悪戯に魔性に攻撃を加えるべきではない、という規則も存在する。
しかし──アーゼンターラは、初めてこの護り手の深淵を覗いた気がしていた。気弱な小動物のように見えていた蜜里の、人間には窺い知れない冷徹な一面を見た気がしていた。
「じゃあ……じゃあ、妖鬼が尻尾を出さなければ、このまま黙って浮城に帰るつもりだったの?」
現に、死人が出ていると言うのに、彼女の表情には後悔の陰りはまるでない。
「そうよ」
アーゼンターラはくらりと眩暈がする。蜜里に対して一方的に心を閉ざしていた自分にも非はあるが、蜜里の方も主に全てを話していたわけではなかったのだ。
青月の宮の者たちに、良い印象があるわけではないけれど……それでも、目の届かぬ所でなら死んでも構わないと思えるほど、割り切れはしなかった。
あの人なら……。
紡ぎかけた言葉、思い浮かんだ顔を、彼女はもう否定することはできなかった。
「あの人たちなら、そんな風には言わないわ」
自分でも驚くほどに、自然な言葉が出た。人がヒトである以上、無くしてはいけないものを彼らは持っており、それは蜜里には決して持ちえないものだった。
「判っているわ。ターラが、私より彼らを取るってことぐらい」
護り手の言葉は、まるで不吉な予言のように、アーゼンターラの胸に響いた。どんな反応を返していいか判らずにいると、蜜里は儚げな笑みを浮かべる。
「……けれど、彼らは弱い。それではターラを守れない」
だから、代わりに私が──。
蜜里はしなやかな両腕を上げ、自らアーゼンターラの盾となった。そんな彼女を、妖鬼は理解しがたいものを見るように見つめている。
「つくづく、無駄なことをなさいますのね。どれほど尽くしても、見返りなんてありませんのに。その娘は貴女のことを嫌っているのに」
違う、とアーゼンターラは言いかけた。しかし、では好きかと問われれば返答に詰まる。
感謝しているのは確かなのに、今とてこうして身を盾にして守ってくれているのに、先程蜜里が放った言葉がどうしても受け入れられない。
『彼らは弱い』
ずっと行動を共にしていた人間たちの事を、蜜里はあっさりとそう斬り捨てた。
記憶が戻る前のアーゼンターラなら、共感していたかも知れない。弟を救うための力が欲しかった、だから紅蓮姫奪還チームに加わった。
彼女が求めていたのは破妖刀、そして上級魔性に対抗できる力を有する者との繋がり。それ以外の人間関係など、表層的なものに過ぎない。利を与えない相手との付き合いなど、時間の無駄だ。
自分には寄り道など許されないのだから……一刻も早く、弟を魔性の手から取り戻さなくてはならないのだから。そう思っていた。
けれど今の彼女には、蜜里の言うように、力のみを求めることは出来なくなっていた。
「強さって……そういうことなの?」
掠れた声で、アーゼンターラは問う。
「強ければ弱い者を踏み台にしてもいいの!?それじゃあ、私が嫌っている魔性と変わらないじゃない!蜜里っ!」
ぱん、と目の前で光が散った。妖鬼の攻撃を蜜里が弾いた結果だった。
衝撃の余波に、アーゼンターラは顔を覆う。指の隙間から窺うと、護り手の美しい黒髪の一部が焦げ落ちているのが見えた。
「蜜……里……」
護り手を案じる資格すら、今の自分にはなかった。そんなアーゼンターラの思いを見透かしたように、妖鬼が嗤う。
「ほらほら、どうしたの?隠れていないで出ていらっしゃいよ、破妖剣士さん」
また『破妖剣士』だ。心の底が焼けるように痛い。
この妖鬼がアーゼンターラを襲う理由は判らないが、浮城の人間であるというだけで、魔性から見れば憎い存在であることに代わりはない。
戦わなくては。しかし、螺旋杖は今ここにはない。
「護ってくれる相手を罵るなんて、何様のつもりなの。自分の力で戦えもしないくせに、被害者意識だけは一人前で……これだから人間は嫌いなのよ」
妖鬼の目線が、対峙している蜜里へと移る。アーゼンターラへ向けたそれとは対照的に、敬意すら感じさせる眼差しだった。
「どうなさいます、漆黒のお方?見たところ貴女はその娘の『枷』で、本来の力が振るえない様子。今の私なら、死ぬ気でかかれば心臓ひとつ潰すことぐらいは出来ますわ」
蜜里ごしに叩きつけられた激しい憎悪に、身震いがする。妖鬼が本気であることをアーゼンターラは悟った。
命を温存したい蜜里と、死を恐れぬ妖鬼──持久戦になることは必至で、そして蜜里の側には足手まといが一人いる。
相手の意識が逸れるのを待って、アーゼンターラは蜜里の背後から這い出した。そこへ、待ち構えたように妖鬼の声が飛んでくる。
「逃がさない!」
鋭い声を聞いた瞬間、指先にびりりと痺れが走った。金縛りにあったように動けないのは、妖鬼の術によるものだろうか。情けなさに歯を食いしばる彼女に、蜜里が優しく語りかける。
「ターラ」
自分だけ逃げようとしたことを、責められるのかと思った。無論そのつもりはなく、武器を取りに戻るつもりだったが──そう思われても仕方ない。身を竦ませていると、護り手の髪がふわりと頬を撫でた。
「ターラを変えたのはあの人たちなのね。でも、私は魔性だから。私のやり方で、ターラを守りたいの」
蜜里が、大きく息を吸い込む。
次いで唇から発せられたそれは、聞いたこともない美しい歌だった。伸びやかな高音が空間を震わせ、その場の空気を黄金色に染め変える。

「あ……あ、ああっ」
同時に、目の前の妖鬼が両耳を塞ぎ、苦しげに呻きだす。アーゼンターラの耳には心地良く聞こえるそれが、魔性にとってはこの上ない苦痛らしかった。
妖鬼の肌に朱が走る。内側から傷つけているのか、触れてもいないのに裂傷が全身に広がっていく。まるで先程目にした、切り裂かれたシュライン姫の画布のように。
封印していた遠い記憶が、またひとつ甦る。叱られて森の奥で泣いていた時に、蜜里の歌が慰めてくれたのではなかったか。人を癒す力がある歌声を、戦いのために使わせているのは、誰なのか。
──蜜里が悪いのではない。責めるべきなのは、この温もりを信じきれない自分の心だ。
「い、痛い、痛いっ!やめて、もうやめてええっ……!」
全身から体液を吹き出した妖鬼が、悲痛な声を迸らせる。容赦なく歌声を浴びせかけながら、蜜里の目がアーゼンターラへと向いた。
少しだけ乱れる音程──あまり長くはもたないのだ、と判る。アーゼンターラは一瞬息を呑み、そしてこくりと頷いた。
纏いつく長い黒髪を払い、勢い良く、走り出す。元いたあの部屋へ向かって。今度は妖鬼の妨害はなかった。
いつも、いつも、逃げてばかりの自分に嫌気がさす。周囲に助けられてばかりの自分にも。
だから今こそ、終止符を打つのだ。歌声が聞こえなくなっても、振り返ることはしなかった。




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