鬱金の間 あなたの傷が癒えるまで1(ターラ←マイスラオル)


鬱金3巻の直後、ターラを心配するマイスラオルと蜜里の話。
【注意】『鬱金の暁闇』が3巻で止まっている時期に書いたものなので、その後の展開とは異なります
大丈夫そうな方はどうぞ↓




迷惑だ。
心の底から、アーゼンターラはそう思っていた。

「どっちへ行った?」
「わからない。でも、女官の話だと下の階にはいなかったって」
焦りを孕んだ、大人たちの声が回廊に響く。階段を上ってくる、幾つもの足跡が聞こえた。
──ああ、まただ、とアーゼンターラは思う。
あのひとたちは、何かにつけて、こんな汚れた自分の世話を焼こうとする。
迷惑なのだ、はっきり言って。
何も知らないくせに。この両腕が、どれほどの罪に塗れているかも知らないくせに。

「ったく、あのじゃじゃ馬が!スラヴィ、二手に別れるぞ」
「了解!」
足音がひとつ消えた。踊り場に姿を現した二人のうち、背の高い方が近づいてくる。
華奢な体をさらに縮めて、アーゼンターラは調度品の影に身を潜めた。

王宮の中である。浮城の評判を落とさぬよう、なるべく優雅にしかし機敏に歩く、という慣れない行動を強いられている彼――刺青のマイダードは、隠れている相手に気付かずそのまま前を通り過ぎた。
白い靴と、無意味にひらひらと着崩した正装姿が遠ざかっていくのを、アーゼンターラは見送った。
すれ違う際に一瞬だけ見えた、青年の必死な表情が、ちくり、と胸に小さな刺を残す。

その痛みの正体が何かもわからぬままに──気づかぬままに。

「ターラ……」
心配そうに声だけを投げかけてくる、姿を見せぬ護り手に、彼女は強く首を横に振った。




「ラエスリール」
横たわるそのひとの体を、何度揺り動かそうとしただろう。
艶やかな漆黒の髪、僅かに開いた、今にも言葉を発しそうな唇……それらは、しかしアーゼンターラに救いをもたらすものではなかった。
記憶の封印が解けた時には、何もかも遅すぎた。命の恩人は冷たい亡骸となって、アーゼンターラの前に横たわっていた。
「目を、開けて下さい。どうか許すと言って下さい……」
紅蓮姫の使い手であることを。
ようやく、会えたのに。
偽りの記憶が開放された際、ラエスリールを憎む気持ちは嘘のように消えた。だが、紅蓮姫が渡ったことを喜んでいるのも、本当のことだった。
目を覚ませば、このひとはきっとアーゼンターラを罵る。紅蓮姫を奪った相手として、この美しい顔に憎しみの感情を浮かべる。その日がなるべく遅ければいいと、願ってしまう自分がいる。
なんて、醜い……あたし。

唇を噛み締めるアーゼンターラの肩に、背後から温かな手が置かれた。
「ターラ」
気遣うような女性の声に、彼女はかぶりを振った。
「もう少し……もう少しだけ待って」
勝手なことを言っているのはわかっている。それでも、アーゼンターラは諦めきれないでいた。せめてもう二・三日、ラエスリールの体をこのままにはしておけないだろうか──。
「気持ちはわかるけどね、ターラ。ラエスリールはもう」
その先を言わせまいとするように、青年の冷たい声が割り込んだ。
「姉ちゃんは死んでない」
勝手に決め付けてんじゃねえよ──実に不愉快そうな口調で、白い青年が空中に姿を現す。
生前のラエスリールをよく知るという、魔性としてもあまりにも異質なその美貌の主は、浮城にいる護り手たちを遥かに凌駕する力を持っていた。
スラヴィエーラが夢晶結の柄に手をかけたのは、ほぼ反射的な行動といって良いだろう。しかし、彼の背後に意外な人物の姿を認め、その瞳が驚きに見開かれる。
「……ミランスさま」
魔性相手には臆さぬ彼女も、権力者の前で刀を抜く無礼はできなかった。その場に膝を着き、アーゼンターラも慌ててそれに倣った。
ガンディアの実質的支配者は、青年の後ろから静かに歩み寄り、床に伏しているラエスリールを覗き込んだ。
母が娘に向けるような、慈愛に満ちた眼差しに、アーゼンターラは息を呑んだ。交渉の際に、自分たちの前で見せた政治的なそれとは明らかに違う。
彼女にこんな表情をさせるラエスリールとは、いったいどんな女性だったのか──。
目が合うと、彼女は僅かに微笑み、それからスラヴィエーラへ向き直った。
「彼の言う通りです。ラエスリール殿は死んでなどおりません」
その言葉に、スラヴィエーラの眉が潜められる。得体の知れない魔性を彼と呼ぶ王太后に不審を覚えたのか、単純に言葉の内容を認めたくなかったのか。アーゼンターラにはわからなかった。
「しかし、現に彼女は」
「浮城に報せは出したのでしょう?アーヴィヌスは何と言ったの?」
城長を名指しで呼ぶミランスに、アーゼンターラは驚きを隠せなかった。この女性が、以前は捕縛師として浮城に籍を置いていたことは有名な話だが、いささか度が過ぎる介入の仕方だ。
スラヴィエーラの方は、さすがに表情は変えなかったが、すぐに答えを返すこともしなかった。
緊迫した空気が、部屋に張り詰める。事態を誰よりも把握しているらしい白い青年は、なぜか口を挟もうとはせず、アーゼンターラだけが身の置き場に困る羽目に陥った。
「……お言葉ですが、王太后。あなたは既に浮城を辞した身です。そしてこの者の身柄は、既に我らの管轄にある。正直にお答えする義務はありません」
浮城は何ものにも属さぬ独立組織──喩え一国の権力者であっても内部の情報に干渉することは許されない。
過去に在籍していた者として、それが判らぬわけでもあるまいに、ミランスは可笑しそうに目を細めた。
「あら、そう?」
ここに来たばかりの時、ミランスは慇懃な態度を取りながらも、一刻も早く自分たちを追い出そうとしていた。明らかに何かを知りながら、ひたすらに隠そうとするその姿勢に苛立っていたのは、アーゼンターラも同じだった。
けれど、今は事情が違う。記憶を取り戻し、ミランスと同じくラエスリールに恩を受けた身として、彼女を一方的に責める事はできなくなった。
胸を占めるのは、後悔という名の波。もっと早く、アーゼンターラとしてこのチームに加わっていたら、ラエスリールに恩を返すことが出来たかも知れないのに……。
「では今の彼女は、『どちら側』ということになるのかしら?」
動かぬラエスリールを前に、王太后が小さく呟く。
痛いところを突かれ、スラヴィエーラが唇を噛む。前言どおり、ミランスの籍は現在浮城にはない。そしてそれはラエスリールも同じことなのだ。
自分たちの勝手な都合で、裏切り者と見なしたり、まだ利用価値があると知った途端、再び連れ戻そうとする──アーヴィヌスのやり方に、スラヴィエーラたちとて疑問を感じていないはずはない。

それでも。

「……我々は、城長のお考えに従うだけです」
破妖剣士の返答に、ミランスは何も答えなかった。





「まったく、あの狸婆ったら、相変わらずなんだからっっ!」
部屋に戻るなり高価なクッションを壁に叩きつけたスラヴィエーラは、背後の青年をきっと振り返った。
「オルグァンは!?」
「便所」
答える声は軽い──怒りのあまり頭から湯気を出している彼女を、面白そうに見ている。
幼馴染みの青年の反応など、スラヴィエーラにはどうでも良かった。いかにして現状を打破するか、それしか頭にない。
王太后が、見た目通りの穏やかな『おばさん』ではないことは、謁見した瞬間から判っていた。いつも、のらりくらりとこちらの追及をかわす……尤もそれぐらいでなければ、王亡き後に姫君と幼い跡継ぎを抱えて大国の采配など揮えないだろうが。
そんな彼女だったが、ラエスリールが斃れた今になって、奪還チームの引き止め工作を開始したのだ。

『スラヴィエーラ殿は、夜会などに興味はおあり?』
早く追い出したがっていたのが、今は何かと理由をつけて慰留を求めてくる。こうなるだろうことは察していたが、よもやここまで露骨な方法を取るとは思わなかった。
『はあ……?』
思わず間抜けな声を出してしまったとしても、誰も彼女を責められなかっただろう。
最初は、ラエスリールを匿っていたことに対する侘びのつもりなのか、と甘いことを考えていた。だから、女官に勧められたドレスにも渋々袖を通し、これ一度きりだと我慢して、下らない世間話にもつきあうことにしたのだ。
苦痛の時間を過ごしている間、スラヴィエーラの荷物は別の部屋に移され、朝にはマイダードたちの姿も見えなくなっていた。ラエスリールの遺体はさすがに動かすことは躊躇われたのか、元の場所に安置されたままだったが──それより何よりスラヴィエーラが青ざめたのは、荷物の上に残されていたアーゼンターラの置き手紙である。
『ごめんなさい。もう少し、時間を下さい』
たどたどしい文字で、ただそれだけ。ミランスに何か吹き込まれたのは明白だった。
元々帰城を渋っていた上に、自分たち大人に対する不信感もある。アーゼンターラはラエスリールに命を救われているのだ。記憶が戻ったことで、それがより強まった。
スラヴィエーラとて、アーヴィヌスのやり方に賛成しているわけではない。しかし、他にどんな方法があるというのだ?
どんなに待っていても、ラエスリールは目など醒まさないのに。早く浮城に戻って、事の全てを報告しなくてはならないのに。

「探さなきゃ……」
手紙を握り潰し、スラヴィエーラはすぐに未羽を呼びつけた。
こちらには護り手という便利な情報伝達手段がある。物理的に引き離されていようと、互いに連絡を取ることは可能、なのだが……。
マイダードとオルグァンはすぐに捕まったものの、アーゼンターラの消息はまるで掴めなかった。この青月の宮から、彼女の気配だけが忽然と消えていたのだ。
ラエスリールを気にかけている彼女が、一足先に浮城に戻ったとは考えにくい。加えて、手紙の内容を考えると、大人たちが考えを改めるまで姿をくらますつもりでいる可能性が高い。
「ターラには蜜里がいるから」
以前の失態から、ターラの監視役を外されていた未羽が、かすれた声で告げた。
「ふたりとも、王宮内にいることは確かだけれど、それ以上は……あたしではどうしようもないわ」
今回ばかりは、未羽を責める事はできない。妖貴が相手であれば、浮城の護り手の誰であろうと、アーゼンターラを見つけだすことは不可能だろう。
その後も、スラヴィエーラは何かにつけてミランスに呼び出された。ターラの居所を尋ねても、こちらも判らない、何も聞いていない、の一点張りだ。
彼女をミランスが隠しているという証拠はどこにもない。
『ラエスリール殿は死んでなどおりません』
きっかけはあの発言だったにしても、ターラが自らの意思で身を隠したのは間違いないのだ。
それほどまでに、わたしたちはあの子に信用されていないってことね……。
ぎりぎりと唇を噛み締める。ミランスは元より、リーダーとして不甲斐ない自分にも、腹が立つ。無事浮城に戻るまでが任務だというのに、紅蓮姫がターラに渡ったことで、多少は気が緩んでいたのかも知れない。
紅蓮姫は再びラエスリールの体に埋没し、本人ともども目覚める気配がない。アーゼンターラと違い、彼女が完全に死亡したことを、スラヴィエーラは疑いもしなかった。
そして、彼女をそこまで追い込んでしまったのは、ひょっとしたら自分たちではないのかという恐れ──。

ふと優しい視線を感じて、スラヴィエーラは顔を上げた。小さく縮こまっている護り手の後ろで、マイダードがこちらを見つめていた。
「なによ」
苛々する──ミランスも時々、こんな目で自分を見る。
その目に悪意はない。むしろ思いやられているのが判る……だからこそ、余計に腹が立つのだ。努力しているのに空回りする己を、嫌でも感じてしまうから。
馬鹿にするなら、すればいい。負けじと青年を睨みかえしたスラヴィエーラだったが、マイダードは彼女の予想に反したことを言い出した。
「文句を言ってる割には、気に入ってるみたいだな」
一瞬何を言われているのか判らず、彼女はきょとんとした。
「その恰好……」
その時、スラヴィエーラの背中をぐい、と押しのける物体があった。背後から唐突に開かれた扉の向こうから、大柄な男が姿を現す。
「悪い、遅れて……」
新たに入室してきた人物の目に映ったのは、見慣れぬ衣装に身を包んだスラヴィエーラであり……その後ろ姿だけを目の当たりにした彼が「失礼」と呟いて扉を閉めかけたのは、当然の成り行きだろう。
「オルグァン!何をしてるのよ、この部屋でいいのよっ!」
壁に手をつき、笑いをこらえているマイダードをひと睨みすると、スラヴィエーラは扉を掴んで声を張り上げた。彼女以外の何者でもないその怒声に、破妖剣士の男はようやく、己の勘違いを悟った様子だった。
「……スラヴィ、か?驚いた、どこぞのご令嬢かと思ったぞ」
荒れている彼女にとっては、何の褒め言葉にもならない。半ば引きずるようにしてオルグァンを室内に入れると、力任せに扉を閉めた。
豪奢なドレスの裾が、隙間風によりわずかにはためく。滅多に見られないものを見る目でこちらを見ている同僚二人に、スラヴィエーラは憤然と毒づいた。
「冗談はやめてちょうだい」
体に纏わりつく、慣れない香水の匂い。油で強引に整えられた癖っ毛も、顔に塗りたくられた白粉も、何もかもが煩わしい。それらは、破妖剣士となったあの日から、捨て去ったもの──自分には、必要ない。
「女官に無理矢理着せられたのよ。でなけりゃ、誰がこんな動きづらいもの」
それは照れ隠しなどではなく、紛れもない本心からであった。
到着したばかりの頃、王宮の女官たちは美少女にしか見えない──実際その通りだったわけだが──アーゼンターラを面白がって、あれやこれやと豪華な衣装を着せたがった。正真正銘の女性であるスラヴィエーラはそれを笑って見ていたが、よもや自分に同じ災厄が降りかかってくるとは思わなかった。
『満足なおもてなしもできずに、スラヴィエーラ殿には申し訳ないことをしたわ』
ミランスの忌々しい笑顔が、脳裏に甦る。彼女の言い分はこうであった。
貴方たちは、我らの恩人であるラエスリールに危害を加える目的で来訪したのかと思っていたが、どうやらそれは誤解だと分かった。詫びに充分なもてなしをするから、浮城へ再度連絡するのはもう少し待って欲しい。
うっかり仏心など出した結果がこれだ。アーゼンターラはまんまと浚われ、自分は似合いもしない衣装を着せられ、同僚に笑われているのが現状である。
『ラエスリール殿に準じて、貴方たちも国賓扱いとします。どうぞごゆるりとお寛ぎくださいませね』
冗談ではない──ミランスには告げていなかったが、もうとっくに浮城からの返信は届いているのだ。アーヴィヌス曰く、『鞘ごと持ち帰れ』と。ラエスリールの遺体ごと持って帰還しろ、それも速やかにと告げている。

「アーヴィヌス様としては、紅蓮姫の奪還はかなった。後は『鞘』から問題のブツを取りだして、ターラに渡せばめでたしめでたし、って思ってらっしゃるようだが」
お気楽な口調で、マイダードが言えば。
「いつまで経ってもラエスリールの遺体は届かず、肝心のターラも行方不明……ってことになれば」
不吉な口調で、オルグァンが続ける。そうして二人して声を揃えて、スラヴィエーラに向き直った。
「スラヴィには相応のお説教が待ってるな」
あまりにも息の合った行動に、彼女は思わず錯覚に捕らわれた──即ち、彼らが予めこうなることを予想して、打ち合わせでもしていたのではないかという類の。
同僚にまで疑念を抱くほどに、現在の彼女は追い詰められていた。
「ちょっと待ちなさいよ、なんでわたしだけっ!?ターラから目を離したのは、あなたたちも同罪でしょうが!!」
出立前に、スラヴィエーラは二人に告げた。特にマイダードには念を押して、あの子から目を離さないで、と。
その時、彼が一瞬複雑そうな顔をしたのが気になったが……同じ破妖剣士である自分たちよりも、捕縛師である彼になら心を開くかも知れないと思ったのだ。彼の、人をからかわずにはいられない惚けた性格を考えると、いささか不安ではあったのだが。
マイダードは、期待に応えてくれた。交渉に忙しいスラヴィエーラに代わってアーゼンターラを窘めてくれたのも、ミランスの執務室に特攻しそうになったアーゼンターラを寸前で止めてくれたのも彼だ。その彼も、やはりスラヴィエーラ同様、油断したということだろうか?
「そうだな、おれたちも悪かったよ。けど本来は、あの子が女だって自覚した時点で、お前が面倒見るべきだったんじゃないか?」
もっともな指摘に、スラヴィエーラは押し黙った。
確かに、アーゼンターラが記憶を取り戻した以上、今まで通りとはいかない。男性である彼らに、いつもあの少女を見ていろというのは無理な相談だ。風呂や用足しにまで、ついてはいけないのだから。
自分が悪いのだ──ラエスリールが死んでしまった衝撃と、早く帰還したい一心で、周囲が見えていなかった。偉そうに命令ばかりして、肝心な時に役に立たないのでは、意味がないではないか。
「……おーい。聞いてるか?」
珍しく、深く反省していたスラヴィエーラの前に、ひらひらと手が舞った。
「なによ」
恨めしげに顔を上げると、幼馴染みの青年は軽く肩を竦めた。
「そんな顔するなって……不注意はお互いさまだ。それより、早くあの子を見つけださないと、じきに浮城から迎えが来るんだろう?」
スラヴィエーラはこくりと頷く。
彼らだけではラエスリールの遺体を運び出せないため、浮城から追加要員が来る手筈になっているのだ。アーヴィヌスも相当焦っているのか──スラヴィエーラたちがラエスリールに絆され、裏切る可能性も考慮に入れているに違いない。
上司にあらぬ疑いを持たれるのは心外だが、それほどに、あの娘は浮城にとって恐ろしい存在だった。
敵であるはずの魔性を簡単に味方に引き入れ、人間すらも彼女の前では正常な判断をなくす。ラエスリールを庇うために浮城を敵に回した、サティン達のように。
「しかし、蜜里が目くらましを使っているのだとしたら、おれたちに居所を探るのは到底無理だぞ。マイダード、何か策でもあるのか?」
年長者の問いかけに、マイダードはうーんと頭を捻った。
「ないわけでもないんだが……相手が乗ってくれるかどうかはなぁ」
意味ありげな台詞に、スラヴィエーラは反省を一旦脇に置いて、ずいと身を乗り出した。
「まさか、危ないことする気じゃないでしょうね。どこかに行くの?なら、わたしにも協力させてよ」
同僚だけを危険な目に遭わせて安心していられるほど、浅い付き合いではない。気合いを込めてそう告げたスラヴィエーラに、しかしマイダードはかぶりを振った。
「いや、お前は来なくていい。というか、来ないでくれ。頼む」
「……そう?」
彼には彼なりの考えがあるのだろう──そう自分を納得させた彼女だったが、どうにも腑に落ちなかった。





冷たくなった体を横たえ、静かに瞼を閉じるラエスリールは、確かにアーゼンターラの信じる通り、今にも動き出して言葉を発しそうに見えた。

死体と二人きりと言うのは、正直に言ってあまりいい気はしなかったが、これも仕事である。
ぺた、と靴底を引きずり、マイダードはラエスリールの顔を覗き込んだ。長い睫毛、白磁の肌に、紅い唇──こうして改めて見ると、思わず目を奪われるほどに美しい。しかし、彼にとってはそれだけだった。
彼が求め、焦がれる存在は別にいるのだから、こんな魔性の美しさに惑わされはしない。

この細い肢体のいずこかに、あの紅蓮姫が埋まっているとは信じ難い。彼はあの半妖の少年に気を取られていたため、ラエスリールの体に紅蓮姫が埋まっていくところを直に見てはいないのだが……いや、敢えて見ないようにしたというのが正しいか。オルグァンやスラヴィエーラの口から聞いた話では、紅蓮姫は彼女の体に傷一つ残すことなく、その身に収まったのだと言う。
そのスラヴィエーラは、今もミランスのご機嫌取りに必死だ。老獪な女性との息詰まるような会話の端々から、少しでもアーゼンターラに繋がる手掛かりを得ようと無駄な努力をしている。
オルグァンも同じだ。どうせ口を割らないだろうことは承知で、それらしき少女を見なかったか女官たちに聞いて回ったり、あるいは多少の賄賂を渡してでも、あのはた迷惑な少女の隠れ場所を炙り出そうとしている。
マイダードとしては、こんな状況でさえなければ、もう二・三日滞在しても構わないと思っていた。破妖剣士ふたりには怒鳴られるだろうが、どうせ浮城に戻っても馬車馬のようにこき使われるだけだし、アーゼンターラの精神が落ち着くまでここに留まるのもいいのではないか、と。
しかしラエスリールが斃れ、事態は急変した。少女が何を思って姿を隠したのかは判らないが、使いの者が到着した際に、紅蓮姫の新しい主が不在では困る。いつまでも、拗ねた子供の隠れんぼなどには、つきあっていられないのだ。

ぐるりと室内を見渡す。アーゼンターラが、馬鹿正直にこんな判りやすい所に潜んでいるとは思えなかった。それでも、一時はラエスリールの遺体から離れなかった彼女のことである。ここに何らかの手がかりを残しているのではないか、と僅かながら期待をかけていた彼であったが。
「……誰もいない、な」
それは、一人ごとのようでありながら、決して一人ごとではなかった。
ラエスリールの前に跪き、マイダードはその艶やかな黒髪の房を摘んだ。あれから数日が経過しているというのに、腐敗の気配すら見せぬ美貌は、彼の無礼を咎めることもなくただそこに在る。
彼女のことだから、喩え意識があったとしても乏しい反応しか返ってこないだろう。少なくとも彼が認識しているラエスリールは、無愛想で、人と交わらず、感情が表に出にくい女性であった。異性に触れられて顔を真っ赤にするところなど、想像も出来なかった。
スラヴィエーラとは違うまるで癖のない髪は、指に絡めようとしてもするりと滑り落ちてしまう。僅かに甘い香りが舞った。
他に何ができるでもなく、しばらくその動作を繰り返した後に、彼は途方に暮れて天井を見上げた。当てが外れたか、と思ったのだ。

しかし───。

「人の目盗んで、何やってんだよ」
冷ややかな……まさに全身が総毛立つかのような声とともに、彼の体はその場に縫い止められた。
振り返ることも出来ない。相手の姿も見えぬというのに、全身を怒気が襲う──浮城の人間でさえなければ一生味わうはずもない、上級魔性の怒りの発露。
それが、マイダードの全身を縛り付けていた。触れられてもいないのに指先がびりびりと痺れる異様な感覚に、しかし彼は動揺することはしなかった。
青年を呼んだのは、他でもない自分なのだから。妖貴である蜜里がアーゼンターラを隠しているなら、マイダードたちには探しようがない。だが、妖貴以上の力を持つ者なら、どうだろうか?
「姉ちゃんから手を離せ。今、すぐにだ」
言われずとも、物言わぬ遺体を愛でる趣味はない。彼は辛うじて自由になる指の力を抜いた。それでも怒りの波動は収まらず、魔性特有の瘴気が背中を灼いた。
この青年の名前がわかったとして、マイダードには呼ぶことは出来ない……危険が多すぎて。どれほど温厚に見えても、所詮相手は人外のモノ。故意に人に名を教え、その代償として嬲り殺しにする悪趣味な妖貴もいると聞いた。
それでも、今の彼等には蜜里に拮抗する──或いはそれ以上か──魔力の持ち主は思い当たらなかった。唯一、知り合いと呼ぶには微妙すぎる、この青年以外は。

「アーゼンターラの居場所が知りたい」
単刀直入に、用件だけを伝える。すると、相手が僅かに怯んだのが分かった。
「……って、おい」
声に動揺が滲む。
まさか、そのためだけに──と呟いた青年の反応は、外見に合わず幼いものだった。
護り手であるはずの赤い男は、ラエスリールの死を境に全く姿を見せなくなったが、それと入れ替わるようにしてこの青年が現れた。
不審に思うと同時に、マイダードたちは安堵していた。あの男よりは彼の方が、まだ話し合う余地がありそうだったからだ。
「嘘だろ?ひょっとしておれってば、まんまと誘い出されちまったわけ?うーわー……」
その証拠に、先ほどまで漂っていた殺意にも似た波動は、いつの間にか消えていた。全身を縛る力も解け、振り向いたマイダードの視線の先に、頭を抱えている青年の姿が映る。
「姉ちゃんに誰か触れたのを感じたから、慌ててすっ飛んで来たってのに……ちっくしょー、罠かよ。またあいつに怒鳴られる……」
あいつというのが誰を指すのかよく判らなかったが、何となく人事とは思えず、マイダードは口を開こうとした。それより先に、青年が顔を上げる。

目が合うと、彼は不機嫌そうな声を出し、マイダードに向かって手の甲を振った。
「さあさあ、どいた、どいた。おれに用があるなら、姉ちゃんもう関係ないだろ?」





女官たちの控え室には、噎せ返るような白粉の匂いが立ち込めていた。
着替え用の簡単な姿見と、衣装を収納しておく戸棚と物入れ。部屋の奥にある衝立の向こうから、小鳥の囀りのような絶え間ないお喋りが聞こえてくる。

「ええ、それ本当?」
「本当よ。確かに見たもの、面白かったわー」

女性が噂話というものに夢中なのは、所を変えても変わらないものだ。

「ですから、何度も申し上げている通り」
一番の年長者と思われる老婦人が、表面上はにこやかな笑顔で告げてくる。やや腰が曲がってはいるものの、目に浮かぶ光は強く、己の仕事に誇りを持っていることが窺えた。大柄なオルグァンが厳しく問い詰めても、臆する様子がまるでない。
その後ろで、何か粗相でもしたのか、小柄な少女が懸命に床を拭いていた。床のみならず絨毯の上にまで、白い粉が零れ落ちている。成程この匂いはそのせいか、とオルグァンは納得した。

「我々も全力でアーゼンターラ殿の捜索に当たっています。しかしねえ、なにぶん広い王宮のことですから、見つけだすのは難儀かと……」
王宮内の清掃は女官の仕事と決まっている。全員に聞いて回れば、誰かしらアーゼンターラの姿を見かけた者がいるはずだ。──彼女たちが、口裏を合わせているのでもない限り。
オルグァンは焦っていた。仮にアーゼンターラを隠しているのがミランスだとして、彼女の目的がわからない。滞在を伸ばせば、ラエスリールが生き返るというわけでもあるまいに──まさか。
元捕縛師で、マンスラムやチェリクとも親しかった彼女は、ラエスリールを蘇生させる方法を知っている可能性がある。そのための時間稼ぎとして、チームの鍵であるアーゼンターラを丸めこんだ。だとしたら、彼女の息のかかった女官たちにいくら問い詰めても無駄だ。
「そう心配せずとも、浮城のお方ともあろう者が、何者かにかどわかされるなどあり得ませんよ。どこかで迷われているか、何か御事情があって姿をお隠しになったに違いありません」
老婦人はやんわりとした口調で、暗にオルグァンたちを非難している。身内の揉め事に、これ以上こちらを巻き込むな、と。
その口振りからして、彼女は本当に何も知らないのかも知れない。隠し事をしているというより、単に仕事の邪魔をされて迷惑しているようにも見えた。
これ以上の追求は無理と判断した彼は、黙って踵を返した。背後で、やけに荒々しい音を立てて扉が閉まったのを感じ、肩を竦める。そんなに長時間居座ったわけではないのだが。
体に女の部屋の匂いが染みついているような気がして、頭を振る。だいたい、こういう役目はマイダードの方が向いているのだ。自分たちに聞き込み捜査を押しつけて、一体どこに行ったのか、あの男は。

「あのっ」
しばらく歩いた後、若い女の声が彼を足止めした。
振り返ると、控え室で見かけた少女が、息を切らして立っていた。
年の頃は、アーゼンターラと同じくらいだろうか。衛生を保つために被っている白い帽子がずれて、中に無理矢理収めた茶色の髪が、数本飛び出している。
「あの、あたし、入ってまだ半年の新入りなんですけど、失敗ばかりしていて、いつも御婆に叱られてて……」
唐突に身の上話を始める少女に、オルグァンは面食らった。
どういう反応を返していいのか判らずにいる彼をお構いなしに、少女は一方的に喋り始める。
「昨日も、まかないを一人分多く作ってしまったんです。それで、また叱られると思って、こっそり自分で食べようとしたら、そこを御婆に見つかってしまって」
御婆というのは、先ほどの老婦人のことだろう。前置きが長いが、用事があることは確かだったので、彼は辛抱強く聞いていた。
「また叱られる!って思ったんですけど、どうしてかその時、『ちょうどいいわ』って言ったんですよ。これは私が食べるからって言ってくれて、二膳とも運んで行ったんです」
「……どこへ?」
オルグァンが相槌を打つと、少女はぱん、と手を鳴らした。
「そう思うでしょう!?いつもは使用人たちみんなで食べるのに、その日に限って……でもあたしが悪いんだし、謝らなきゃって思って、つい、後をつけちゃったんです。そうしたら御婆がこっそり部屋に入っていくのが見えて」
「部屋……誰の?」
尋ねると、少女は少し声を潜めた。
「シュラインさまが、昔使っていた部屋らしいです。あんなことがあったから、今は誰も入れないようになっているはずですけど」

オルグァンの脳裏に、五年前の事件が甦った。妖貴による、シュライン姫の誘拐事件。ガンディアを震撼させたそれを解決したのは、紅蓮姫に選ばれて以来一度も仕事が来なかったラエスリールだった。
今は無事にハイデラ王太子妃としての務めを果たしているシュライン姫の内心の葛藤を、知るものは何もない。

「そうか……」
浮城の者にとっても、彼女の悲劇は他人事ではない。やや感傷的になったオルグァンだったが、すぐに現実に返り、懐に手を入れた。
場所さえ分かれば、護り手に調べさせれば事は済む。蜜里が絡んでいないのは意外だったが──彼女がその気になれば、人間の目から完全に遮断する結界を張ることができるのだから──人が相手となればいくらでも手段はある。まだ、アーゼンターラがそこにいると決まったわけではないが、調べる価値はある。
「よく教えてくれた。これは少ないが、礼だ」
銀貨を数枚、少女の目の前に差し出す。多少は躊躇いを見せるかと思われた少女は、悪びれる様子もなく両手を前に出した。
「いいんですか、こんなに?あたし、ガンディアへの忠誠心なんて全くない悪い子なのに」
いつも御婆に叱られている腹いせに、密告してやっただけなのに……。
子供らしい無邪気な物言いに、オルグァンは苦笑した。その『悪い子』のおかげでこちらは情報を得たのだ。
「このことは内密にな。それと、ここで働いていたいなら、次からは口を慎んだ方がいい」
そんな説教をする資格はないことは承知で、オルグァンは言った。
彼も、浮城に引き取られる前は資産家の家で下働きをしていた経験があるので、少女の辛い境遇もわかる。しかし、部下にあっさり裏切られたあの老婦人を思うと、いささか気の毒でもあった。
「ご心配なく。あたし、今日でここ辞めますから」
やや低く発せられた声に、オルグァンの手から力が抜けた。
少女の手の中に、銀色に輝く硬貨が音もなく落ちる。彼の目は、硬貨を受け止める両手の爪を食い入るように見つめていた。
「……辞める?」
爪の中に、乾いた赤い血とおぼしきものがこびりついていた。床を掃除する際に、怪我でもしたのだろうか?
見つめていると、少女は照れ臭そうに笑って、両手を腰の後ろに回した。
「さっきもね、摘み食いをしているところを、御婆に見つかりそうになったの。でも、ちょうどあなたが来てくれたから、何とかごまかせたわ。ありがとう」
何か──何かがおかしい。少女の台詞に違和感を覚えつつも、オルグァンはその正体が判らなかった。
部屋を訪ねた時に、床を磨いていた彼女──老婦人の背中越しに見ていただけだったが、何かを拭き取っていた。充満していた白粉の匂い。

「この機会を待っていた……半年耐えた甲斐があったわ」
少女が、一歩前に踏み出す。前掛けに付着していた白粉が、はらはらと床に落ちた。
摘み食い、とは何だ?あの場所は本来食事をするところではない。彼女は、一体何を食べていた?
浮城の人間としての本能が、彼の足を後退させていた。少女は可笑しそうにそんな彼を見つめると、おもむろに帽子を取った。
ごく普通の茶色く長い髪は、帽子の中に押し込むために頭の上できっちりと纏めてある。しかしその頭上に、髪とは明らかに異なる二つの尖った隆起があった。
人ではあり得ない形状の、獣の耳にも似たそれ。完璧な人型を保ちながらその部分だけが、彼女を魔性──『妖鬼』たらしめていた。
「そんなに怯えないで。あなたは気に入ったから、助けてあげる」
老婦人を屠ったであろうその口で無邪気に笑いながら、少女は纏め髪をほどく。豊かな毛並みと呼んで差し支えない光沢を放つ髪から、もはや白粉では誤魔化し切れぬ血の匂いがする。
オルグァンは歯噛みした。ほんの数分前までは、老婦人は生きていた……もう少し注意を払っていれば、助けられたはずだ。荒々しく扉を閉めたのは、彼女ではなくこの妖鬼だったのかも知れない。
ふと、疑問が浮かぶ。衝立の向こうから聞こえていた声はどう説明する?あの部屋にいたのは二人だけではなかった。物音も立てず、こんな短時間で数人を屠ることは可能なのだろうか?
思考が混乱する。人に化けて、人語を解し、溶け込む事すら可能な妖鬼──自分の能力で、倒せるとは思えない。そして頼りの破妖刀は部屋に置いてきてしまった。

「左谷──」
「無駄よ」
護り手の名を呼ぼうとしたオルグァンの肩を、激痛が襲った。

少女が、凄まじい跳躍力で彼の肩に喰いつき、皮膚を噛み破っていたのだ。押し倒されるような形で床に背中を打ちつけ、痛みのあまり声が出ない。声が──出ない。

肩から迸る血液を、少女は喉を鳴らして嚥下していた。だがオルグァンの喉からは、悲鳴一つ漏れることはなかった。
ぱくぱくと、口だけが空しく動く。それを見やり、少女は満足げに微笑んだ。
「無駄だと言ったでしょう?あたしには、血を啜った相手の『声』を奪う能力がある」
肩口に顔を埋めながら、少女は囁く。それだけならば、飼い主にじゃれついている犬に見えないこともない。彼の肉体を引き裂いている証拠である血液は、一滴残らず少女の口に吸い込まれ、痕跡すら残さないのだから。
気が遠くなるほどの痛みの中、オルグァンは彼女の体を押しのけようと、懸命に手を動かした。それをさせまいと、もう片方の肩にも噛み付かれる。容赦のない力だった。激痛に声ならぬ声を発し、床に拳を叩きつける彼の頬を、少女は慰めるようにぺろりと舐めた。
「声を取り戻したいなら、あたしを倒すしかないわ……でも、あなた元々口数が少ないみたいだし、喋れなくてもさほど不便はないんじゃない?」
大きなお世話だ──そう叫びたかったが、声は血液ごと吸い取られてしまったかのように空しく、ヒューヒューと発せられるだけだった。
少女は、やれやれと言ったように溜め息をつくと、そっとオルグァンから離れた。次の瞬間、彼女の口から驚くべき声が発せられる。
『事が済むまで、眠っていろ。その間に、紅蓮姫の新しい使い手はおれがいただくから』
それは、紛れもない彼自身の声であり──しかも口調まで真似て、物騒な内容を口にしてくれる。
驚愕に目を見開いているオルグァンをよそに、少女姿の妖鬼は床に落ちている帽子を慎重に被り直した。そして大袈裟に身振り手振りを加え、今度は底抜けに明るい声を出す。
『ええ、それ本当?』
『本当よ。確かに見たもの、面白かったわー』
もはや疑うべくもない。控え室で聞いた、他の女官たちの声をも、彼女は奪っていたのだ。
彼女の狙いはアーゼンターラ……だとしたら、オルグァンの責任だ。紅蓮姫の新しい使い手の居場所を、みすみす妖鬼に教えることになってしまった。

(しかし……なぜ……ターラを……?)
疑問が顔に出ていたのだろう、少女は横たわるオルグァンを見降ろし、くすりと笑った。

「余計な詮索はしないで。──おやすみなさい」




「正直な話、協力してやる義務はないよな」
わずかな会話の間に、『姉ちゃん』と言う言葉を三回も口にした青年は、不本意に呼び出された悔しさからか唇を尖らせてそう言い放った。
そのさまは、とても強大な力を持つ魔性には見えない。しかし、先ほどまでマイダードを殺しかねない勢いで瘴気を放っていたのも確かなのだ。
この青年にとって、ラエスリールが大切な存在であることは間違いない。交渉には骨が折れそうだが、あの赤い男よりは遥かにましだ。

「協力しろ、とは言っていない。あのお嬢さんが隠れている場所を教えてさえくれれば」
「同じ事じゃねえか。第一、優秀な護り手がついてるんだからそんなに心配する事もないだろ。単に、あんたらと顔を合わせるのが嫌で逃げたんじゃねえの?」
チームって割には、そんなに仲が良さそうには見えなかったし──。
一体どこから見ていたのか、耳に痛いことを言ってくれる。確かに、蜜里がついている限りアーゼンターラに何かあるとは思えないし、使いの者が到着するまでに彼女がひょっこり姿を現さないという保証はどこにもない。
拗ねて、身を隠しているだけなら、待っていれば時が解決する。それでもマイダードは……否、オルグァンも恐らく、同じ気持ちだった。どうしても、待てないのだ。
あの少女を、暗闇から引きずり出し、たっぷりと説教してやりたい。アーゼンターラを案じているのはもちろんだが、それ以上に幼すぎる彼女のことを腹立たしく思う気持ちがある。
その理由は、判っている。

『わたしが悪いのよ。……目を離したから』
人一倍責任感の強い、彼らの幼馴染みを悲しませているのが、どうしても許せなかった。スラヴィエーラの前ではふざけてあんな言い方をしたが、元より彼女一人に責任を被せる気はない。
「アーゼンターラって娘は、姉ちゃんに昔、恩を受けてた。その記憶と、自分が女だってことを自覚した以上、汚い大人に逆らうのは当然じゃないか」
外見の麗しさに内面が追いついていない青年は、眠っているラエスリールと立っているマイダードの間に体を割り込ませ、そこを一歩も動こうとしなかった。その直向きな想いは彼らにも通じるところがあったが、紡がれる言葉はあくまでも、無力な人間を糾弾するものでしかなかった。
「姉ちゃんを追いつめて、こんなにしたのはあんたらだ。違うか?」
その理屈には無理がある──盗人を追いかけていたら、目の前で馬に跳ねられて死んでしまった。この場合、追いかけていた人間が悪いということになるのだろうか?
違うだろう。ラエスリールは紛れもなく多くの人々を苦しめた罪人であり、こうなったのは本人の責任に他ならない。
「ラエスリールは死んでないんだろう」
青年の言葉を信じたわけではないが、一方的に責められる謂れはない。人間には色々と社会的しがらみがあるのだ……ラエスリールのことを個人的には気に入っていても、それと仕事とは別だ。枷から解放された存在に、人の抱える葛藤はきっと判らない。

白い青年は、辛そうに目を逸らした。彼のような上級魔性の力を以ってしても、ラエスリールを目覚めさせることはできないのだと、その挙動が物語っていた。
「アーゼンターラとスラヴィの前で、そう言ったそうだな。その根拠は?」
「スラヴィ、って……ああ、思い出した」
聞きたかったのとは別の部分に、青年は思いがけず反応した。不意打ちに、マイダードはぎくりとする。
スラヴィエーラをここに来させなかったのは──万が一この青年が怒りを爆発させた際に、彼女を巻き込みたくなかったのと、ラエスリールに触れているところを見られたくなかったからだ。
彼女はよくラエスリールを苛めていた。苛めたとは言っても決して陰湿なものではなく、発破をかけると言った方が正しい。陰口を叩かれても無反応で、無条件で庇ってくれる人間の後ろに隠れようとするラエスリールから、どうにかして人間らしい感情を引き出そうと努力していたようにも見える。口では大嫌いだと言っていたが、本当に嫌いな相手なら口も利かないだろう。
だが、それは受け止める側の問題である。この青年の目に、あれが言葉の暴力と映っていたのだとしたら、今から報復に走ることも充分考えられる。
一瞬のうちにそれだけのことを考えて、マイダードは内心気が気でなかった。その心配が杞憂に終わったのは、青年がふうっと長い息を吐いてからだ。
「うんうん、なんだ、そっかー。そりゃ捨て身にもなるよなぁ」
彼の顔をしげしげと眺めると、しきりに頷いている。単に話を変えたいだけなのか、それとも別の目的があるのか、今ひとつ読み取れない。
「そう言えば、あんたは姉ちゃんのこと庇ってたっけな。珍しい奴だったから覚えてるよ」
青年──邪羅は目を細め、ここにはいない誰かを思うように遠くを見つめた。




「スラヴィ、いい加減にしろって。……ったく」
捨て台詞を吐いて走り去った女性の背中を、青年は悪態をつきつつ見守った。
背後で恐縮している──ただし、表面上は全くそうは見えない──ラエスリールに向かって、詫びの言葉をかける。

「悪いな、あいつ気が強いから。勘弁してやってくれ」
怒鳴られて、萎れた花のようになっていたラエスリールは、慌てたように首を横に振る。
「そんな!スラヴィエーラの言う通りだ……私は、言葉をうまく口にできなくて……」
その様子を、次元の挟間からひとりの少年が見守っていた。言うまでもないが、ザハト姿の邪羅である。
当時、闇主の留守を預かっていた彼は、表向きはラエスリールの護り手ということになっていた。彼女が責められているのを見て、いつ飛び出して行こうかと機を窺っていたが、青年──マイダードの介入により思いとどまったのである。

(へえ……あいつ、姉ちゃんに気でもあるのかな?)
それが思い過ごしだと判ったのは、その後の彼の反応を目の当たりにしたからだ。
かなりきついことを言われたラエスリールは、恐らく無意識にだろう、潤んだ瞳でマイダードを見上げた。片方が琥珀、もう片方が深紅の謎めいた瞳。その双眸が、目の前の人間へと向けられる。
(うわ、やばい!それやばいって絶対!!)
自覚無しに発動される魅了眼ほど、性質の悪いものはない。闇主に与えられた瞳は、まだ制御の利かない状態にあり、その不安定さが彼女をより魅力的に見せていた。
一介の人間がその瞳を間近で見たら、魂を奪われるかも知れない。ラエスリールを苛める人間のことなどどうでも良いが、彼は一応庇ってくれたのだし、骨抜きにされるのを黙って見過ごす道理はないだろう。
今度こそ飛び出していこうと、ザハトは次元の壁をこじ開けた。しかし、彼が浮城の床に足をつける前に、青年の方が行動に出たのだ。
「……?」
何か、不思議な力で惹き付けられているのを、青年の方も感じたらしい。怪訝そうに首を傾げたが、それだけだった。
「お前も、言いたいことははっきり言った方がいいぞ。……あいつはちょっと言い過ぎだけどな」
そうして、くるりと背を向ける。それきり、ラエスリールを振り返ることもなく去って行った。先ほどの女性の行った方角に向って、迷いなく。

しばらく、ぽかんと口を開けていたザハトだったが、青年の姿が消えると慌ててラエスリールに駆け寄る。
「姉ちゃん、大丈夫!?」
ラエスリールは片方の瞼を押さえていた。瞳が熱を持っているらしく、冷たい手のひらを当てているとそれが幾分和らぐらしい。
「ザハト、か……大丈夫だ。すぐに収まるから……」
やはりまだ、力の抑制が出来ていない。たまに得体の知れないものも見えると言うし、このままでは身体に異常をきたしてもおかしくない。
兄ちゃんのやつ、大事な女に、こんな危なっかしいもの埋め込んで平気なのかよ──。
ラエスリールの瞳を取り戻すと言い置いて姿を消した、彼女の本当の護り手は、未だ戻らない。それに苛立ちながらも、気になるのは今しがたの青年の行動だ。
「姉ちゃんの魅了眼が通じないなんて……」
少年の小さな独り言を、聞き付けた地獄耳がひとりいた。
「他に、想う相手がいるのでしょう」
柔らかでありながら、どこか毒を含んだ低音──ザハトが目を向けると、そこには万年美青年の捕縛師、セスランが立っていた。
「妙な勘繰りはしないことですよ。君はただ、ラスを護ることだけに集中していればいいんです」
上からの物言いに、ザハトは口を尖らせた。闇主は、浮城の人間から自分に関する記憶を消していった。だから、経験だけは豊富そうなこの青年に、あの赤い男について愚痴をぶち撒けることもできない。
「二人とも、何の話をしているんだ?想う相手だとか……」
ひたすら鈍感なラエスリールは、護り手と恩人との間に火花が散りそうな様子に困惑している。
何でもないですよ、とセスランは笑い、そうしてその話は終わりになって、ザハトもすっかり記憶から消していた。




「……ま、今ならあんたの気持ちもちょっとわかるかな。うるせー小娘の世話って大変だよなー」
うんうん、と勝手に納得している様子の青年に、マイダードは戸惑った。
表情から敵意は消えているが、その代わり、同情にも似た眼差しを向けられているような気がするのは何故だろう。

「だが、しかーしっ!それとこれとは話が別だ!」
びし、と彼に指を突き付けて、青年は宣言した。

「おれは忙しいんだよ。姉ちゃんの護り手も探さなきゃならないし、このことが漏れたら、恐らく世界中の魔性が姉ちゃんの体を狙いに来る。そのための手も打たなきゃならない。とてもじゃないが、あんたらの内輪揉めに構ってる暇なんてないんだ」
やはり、ラエスリールの護り手は勝手に行方をくらましたらしい。それはいいが、問題なのは、ラエスリールがあの厄介な男と、確たる約束──自分が斃れても、浮城の人間に危害を加えない、という類の──もないまま契約を結んだらしいことである。
ラエスリール亡き後、柘榴の妖主が浮城に牙を剥かないという保証はどこにもないのに、さっさと先にくたばるとは、無責任にもほどがある。死んでいないという青年の言葉を信じるならば、甦った暁には今度こそ、それなりの罰則を受けてもらわねばなるまい。
「では、ラエスリールをどこかに攫う気はないんだな?」
念のために、マイダードは確認する。彼女の体に誰かが触れれば、即座に駆けつけて来られるように施しておきながら、この白い青年はラエスリールの遺体の移動そのものに難色を示す様子はなかった。
「ああ。少なくとも、浮城は他の場所よりは安全だからな。紅蓮姫の『鞘』としての姉ちゃんだけが目的なら、好きにすればいいさ」
呟く青年の目には、焦りと不安が宿っている。彼も、何かに追い詰められているようだった。今でなくとも、進んで情報提供する余裕などない。見ているだけでそれが判ったから、マイダードはそれ以上何も言えなかった。
引き際は彼も弁えている。上級魔性を怒らせて、得することは何もない。ラエスリールの護り手が不在なことと、味方である白い青年も事情があって自由に動けない、それだけ判れば十分だ。
誰もが、ラエスリール一人のために骨を折っているというのに、元凶は暢気に眠りについている。まるで、彼女の体が世界の中心部でもあるかのように、人も魔性も、策を弄しつつその周辺で足掻くばかり──。

「そうそう……」

空中に姿を消す直前、青年が言った。
「あんたら人間は、護り手の意思をないがしろにしがちだけど……もし自分が護り手だったら、大切な主のために何がしたいかって、一度考えてみた方がいいぜ」






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