鬱金の間 捕殺の針・後編(マイダード←クーシナラ)


クーシナラの封魔具は『針』である。
針と言っても、もちろん裁縫に使うそれではない。破妖刀のように魔性を傷つける効果もあるため、通称『捕殺の針』と呼ばれる。
封魔具と破妖刀の違いは、封印するか殺傷するかなのだが、その定義は年々曖昧になっているのだと言う。
破妖刀と呼ばれる武器の中にも杖や珠のような形状をしているものがあるし、捕縛師であるサティンの封魔具は装飾品ではなく、矢尻だ。
だから浮城の人間は、一見しただけでは破妖剣士か捕縛師かわからない。魔性との戦闘に於いても、その方が都合が良いのだ。
(確かに、腰に帯刀していたら、『いかにも』って感じがするけど……)
部屋から持ち出した封魔具を不安げに眺めながら、クーシナラは思う。
小さいなら小さいなりに、扱いに困る。下手をすれば他の人間に刺さる可能性が大だ。
捕縛など、運試しのようなものだ。その運に、クーシナラは一度も当たったことがない。

「どのへんに、落とした?」
先を歩く先輩捕縛師が、肩越しに振り返って尋ねてくる。
遠くからでもクーシナラが聞き取りやすいように、ゆっくりと話すその様子は、とてもいわく付きの刺青を抱く人物には思えない。
マイダードの封魔具は、捕縛師を辞しても一生ついて回るものだ。クーシナラとは背負う覚悟も、責任も違う。
その責任ある人物が気安く話しかけてくれ、力を貸してくれることは、とても有難いことだと思っている。
「ええっと……確か、小鬼と会ったのがこの辺りで」
風に髪が乱れるのを気にしながら、彼女は周囲を見回した。
転移門の近くは、わずかながら防風林が植えられており、そのせいか足跡が消えずにまだ残っている。
自分の足跡以外のものは、今のところ見当たらない。普段なら、狩りを担当している者の一人や二人、外にいるはず───という事はやはり、クーシナラ以外の者は早めに出先から戻っていたのだ。
シャーティンは、門限が早まった事を知っていたのだろうか。知っていてクーシナラを使いに出したのなら、これは立派な嫌がらせだ。
(でも、おかげでマイダードさまと一緒にいられるし……)
意地悪な先輩に対する怒りは、ひとまず横に置いておく。今はとにかく、失くした物を探し当てる事が大事だ。
「よし。その針を一本くれ」
クーシナラは、布製の腕輪に差した針を抜き取って、青年に渡した。
何をするのだろうと見ていると、青年はおもむろに自分の後ろ髪を引き抜き、針の中央に結びつけた。
針の先が地面と平行になるようにして、髪の先端を持ち、垂らす。そのまま、クーシナラが指し示した地面の辺りを歩いた。
(何をなさってるのかしら………)
青年がついて来いと言っているように見えたので、黙って背中を追いかける。封魔具が必要だと言ったのは、このためだったのか。
砂を踏みしめる音が響く。歩きながら、青年は言った。
「もう慣れたか」
「え?」
主語がなかったため、反応が遅れる。浮城の生活のことを聞かれていると判るのに、数秒を要した。
「あ、はい。色んな国から来た人が大勢いて、楽しいです。あたし一人っ子で、両親は共働きだったし、もっと賑やかならいいって、ずっと思ってたから……」
「一人っ子なのか。見えないな」
「そ、そうですか?どんな風に見えます?」
「五人兄弟の長女に見える」
「何ですか、それ!」
クーシナラは笑って、青年の隣に並んだ。話し方が所帯くさいから、そう見えてしまうのだろうか。
「実はあたしの両親は、子供の頃、浮城にいたことがあるんですよ」
マイダードが軽く目を瞠った。どうやら初耳らしい。
「そうなのか?」
「はい。と言っても、二人とも才能が芽生えなくて、途中で帰されてしまったんですけど。落ち込む母を父が慰めて、それがきっかけで結ばれたって聞きました」
「いい話じゃないか」
「ありがとうございます。……って、お礼を言うのも変ですね。浮城には何の貢献も出来なかったんですから」
「両親の夢が、娘に引き継がれたってわけだ」
そんな言い方をされると、妙に照れくさい。
「まだわかんないです。あたしだって、お父さんたちのためにも、浮城に残りたいけど……努力だけじゃ乗り越えられない壁があるってことも、わかってます」
「そうだな。おれにも、それはよくわかる」
青年は遠くを見る目をした。クーシナラの知らない過去を、彼は負っている。
それに触れることは、今は躊躇われた。捕縛師になった理由や、好みの女性など、もう少し仲良くならなければそこまでは踏み込めない。

ある地点まで来ると、針がくるくると円を描いて回り始めた。
風に吹かれているだけでは、あんな動きはしない。まるで意思を持つものが、磁石に反応したかのように動いている。
マイダードは足を止めると、盛り上がった砂の上を指差す。
「ここだ」
確信に満ちた口振りに、クーシナラは思わず砂の上に膝をついた。
「ここ、ですか?」
その砂を、手で掘ってみた。固い感触が爪に当たり、どきりとする。
まさかと思い、砂を払う。程なくして、頼まれていた葉巻の箱が姿を現した。
「すごい!!どうやったんですか!?」
驚きに顔を赤くして、青年を振り返る。
青年が使った方法は、水脈や貴金属などを探り当てるためのものだったが、知識の浅いクーシナラにとっては初めて目にする光景だ。この青年が、魔法でも使ったようにしか思えなかった。
「ちょっとしたコツがあるんだ。今度ゆっくり教えてやろう」
「ありがとうございます、助かりました!」
「頼まれたものって、葉巻だったんだな。一応、浮城内で吸うのは禁止されてるはずだが」
クーシナラが不安そうな顔をすると、青年は笑って、彼女の頭に付いた砂を払ってくれた。
「わかってるって、今回は見逃してやるよ。お前さんは頼まれただけだしな」
「ごめんなさい」
ともあれ、門限には、間に合った。これで、シャーティンにどやされずに済む。
被っている砂を丁寧に払い落とそうとした。しかし、表面に付いた汚れがなかなか落ちない。砂と水気が混じって、泥のようになって付着している。
おかしい、と思いマイダードを見る。この辺りは、掘っても水など出てこないのに、何故濡れているのだろう。
彼も同じ事を考えたらしく、怪訝な顔をしていた。
「この辺に、水気なんてありましたっけ?」
マイダードは首を横に振る。この広大な砂漠には、オアシスはほとんどない。だから狩りの際も、装備には充分に気を遣わなければならない。
今も二人は、携帯食と水筒持参である。ちょっと外の空気を吸ってくると言って外に出たきり、戻って来なかった者も多い。それほど砂漠は危険なのだ。
葉巻の箱をよく見れば、濡れている他に、わずかに凹んでいる。角の部分に、何やら噛んだ様な跡があった。
まるで、牙のような。クーシナラはぞっとするものを覚えた。まさか、あの小鬼の仕業では。
「獣が咥えた跡、だな。ひょっとして……」
マイダードがそう呟いた瞬間、風がひときわ大きく吹いた。目的は果たしたのだし、そろそろ城内に戻らなければ、と思った矢先の事だった。
巻き起こる砂嵐の向こうに、黒い穂のようなものがはためくのが見えた。
砂漠には、あんな種類の草は生えていない。クーシナラの髪の色と同じ、漆黒の植物など……ない。
「あの、マイダードさま」
クーシナラは、震える手でそちらを指差す。
「ん?」
「あれ、人の頭に見えませんか……?」
それは確かに、人間だった。砂に埋められ、頭の部分だけが露出しているのだった。
マイダードが走り出したので、クーシナラも葉巻の箱を握りしめて走った。近づくにつれて、それが男性であることが判った。首から上の部分も、流れた汗と吸い付いた砂で真っ白になっており、一体誰なのかマイダードにも判別がつかないようだった。
「しっかりしろ、おい!」
捕縛師の青年は、いつになく乱暴な口調で男性に呼びかけた。
頬を叩く──音がするほど、何度も何度も。意識が朦朧としているのか、男性は薄く眼を開けたり閉じたりを繰り返した。長時間砂嵐に晒されていたようで、かなり衰弱している様子である。
「いつからここにいるんだ。何があった!?」
真っ白な顔をした男性は、マイダードたちの姿を視界に納めると、ほっとしたように表情を緩めた。
「あ、朝から………狩りの当番で……」
その言葉から、浮城の人間であることだけは判り、二人は安堵する。行き倒れた旅人を放っておくほど浮城の人間は冷たくはないが、そうした人間をいちいち介抱していたらきりがないというのもまた事実だ。現に、怪我人を装って浮城に潜り込もうとする輩も、年に一人二人はいる。 「怪我は無いのか?とりあえず、これを」
マイダードは持っていた水筒の口を、男性の口に押し付けた。男性はごくごくと喉を鳴らして、夢中でそれを飲み干し、飲み終えるとぶはっと息を吐いた。
「た、助かった……も、もう死ぬかと……」
「何があったのか、説明してくれ。魔性の仕業か?」
声に緊迫感が宿る。男性は、息を切らせて言葉を紡いだ。
「狩りをしていたら、いきなり襲われた。狼に似た外見の小鬼だ。動きが素早い。結界の近くだと思って、封魔具を持っていなかったのが、まずかった」
狼型の小鬼───恐らく、クーシナラが遭遇したのと同じだ。
「奴は、収集癖があるらしい。俺たちが狩った獲物も、食わずに持ち帰っちまった。俺は、顔を舐められて、埋められた。他の仲間も、一緒だったが……砂で、だんだん埋まって、見えなく……」
男性の声に嗚咽が混じる。仲間の姿が見えないという事は、恐らくもう生きてはいないだろう。
「わかった、もう喋るな」
マイダードは痛ましげな顔をして言った。
震えが止まらなかった。いなくなった彼らは今まさに、クーシナラの足元に埋まっているのかも知れない。 青年の目がこちらを見る。
「悪いが助けを呼んできてくれ。おれ一人では、他の連中を掘り出せない」
強く頷くと、クーシナラは懐に葉巻の箱をねじ込んだ。
不謹慎かも知れないが、この男性を救いたいと言うより、初めてマイダードの役に立てる事に浮かれていた。
転移門に向かって走り出した瞬間、遠くから不穏な足音が近づいてきた。砂塵を巻き上げて、小鬼が近づいてくる。不幸にも、誰よりも早くそれに気付き、彼女は悲鳴を上げた。
「マイダードさまっ!」
狼によく似た形、四つの眼球を忘れるはずがない。あの時、クーシナラの足を舐めた小鬼だ。
その眼には明らかな怒りの色があった。保存しておいた餌を横取りしようとする不埒者に、小鬼は迷うことなく襲い掛かった。
気付いたマイダードが避ける。クーシナラはどうすることも出来ず、その場に立ち竦んだ。
彼が優秀な捕縛師であることは知っている。けれどこの砂嵐の中、埋まっている男性を庇いながら戦うのでは、明らかに分が悪い。
(ど、どうしよう……)
自分に何が出来るとも思わない。だが、万が一この大切な人が殺されてしまうような事があれば、悔やんでも悔やみきれない。
「おれは、大丈夫だ。早く行け!」
クーシナラの迷いを打ち消すように、青年が叫んだ。自らの上着を脱ぎ、砂塵から守るために男性の頭に被せる。
「早く!」
「は、はい!!」
怒鳴られても嬉しいと感じるのは、何故だろう。髪を振り乱し、クーシナラは無我夢中で走った。

身体についた砂を払い落とすのも忘れて、彼女は転移門を叩いた。
「捕縛師見習いの、クーシナラです!開けて下さい、一大事です!」
護り手たちが門を開くや否や、彼女は城内に転がるように飛び込んだ。
「遅いぞ。どこで油を売ってた」
冷ややかな声に顔を上げると、全身を包帯で包んだ、いかにも意地悪そうな顔をした青年が、目の前にいた。
「シャーティンさまっ!」
嫌な先輩だが、何故か今は後光が差して見える。
クーシナラの心配をしていたわけではない。彼が待っていたのは、少女ではなく葉巻だ。
「頼んだものを出せ」
青年は周囲に人がいないのを確認すると、砂塗れになったクーシナラの手から、素早く葉巻の箱をもぎ取った。妙に神経質な仕草で、箱の中を確認する。
「汚れてるじゃないか……まあ、この嵐じゃあ、な。無いよりいいか」
そのまま背中を向けようとするので、彼女は慌てて叫んだ。
「待って下さい、シャーティンさま!マイダードさまが、大変なんです!」
「あぁ?マイダードがどうしたって」
うるさげに振り返る彼に、クーシナラは早口で現状を伝える。
「外で小鬼に襲われてるんです!だから誰か、他に強い人を呼んできて下さい!」
「おれが強くないとでも言うのか?」
子供らしい率直な物言いに、シャーティンはむっとした顔をしたが、すぐにそれは陰気な笑みに取って代わる。
「マイダードが危ない、ってか。いい気味だ」
信じられない事を聞いた気分で、クーシナラは一歩前に踏み出す。
「何を言ってるんですか。マイダードさまは、この葉巻を一緒に探してくれたんですよ!」
「はーん。落としたのか」
「う……」
己の至らなさを、自ら暴露してしまった。シャーティンは葉巻を懐に隠し、吐き捨てるように言った。
「使い走りも満足に出来ないんだな、お前は。あの格好つけの阿呆を巻き込んだのは、お前の責任だろう。勝手に人のせいにするな」
「そんな、言い方って!」
シャーティンは相手にせず、また振り向きもせずに去っていった。
クーシナラが呆然としていると、入れ違いに捕縛師長たちがやってきた。城長や魅縛師長は、滅多に人前に姿を現さないが、この二人は外交で忙しく、転移門近くで待っていればたまに会うことが出来る。
「どうした、クーシナラ?そろそろ門を閉めるぞ」
人格者で知られる捕縛師長───タイドリクが、穏やかな笑顔を浮かべてそう言えば。
冷徹と評判の破妖剣士長が、その隣で眉を潜める。
「そんなところで、何をぼんやり突っ立っている。早く中に入れ」
「それどころじゃないんです!」
必死で事情を説明すると、捕縛師長は表情を曇らせた。
「気の毒な事だが……助けてやることは出来んな。聞いているだろう、今夜は砂嵐が酷くなると。たった一人のために、他の手を煩わすわけにはいかんのだ」
「そんなっ!」
クーシナラは涙目になって、捕縛師長の腕を掴んだ。
「マイダードさまはどうなるんですかっ!あたしのせいで、まだ外にいるんです。助けがないと死んじゃいます!」
「小鬼如きにやられるようでは、奴も知れている。放っておけ」
破妖剣士長が、傲然と護り手たちに命じた。
「予定通り、門は閉める。門限に遅れた者には罰則がある。例外は認めん」
門を守護している護り手たちが一斉に姿を現し、閉門を告げるドラを鳴らす。それは風に乗って、マイダードの耳にも届いたに違いない。
(浮城って、こんな冷たい人たちばかりなの!?)
背後の門が少しずつ閉じていくのを感じながら、砂に塗れた少女の心は絶望に染まっていた。
マイダードに『浮城での生活は楽しい』と言ったのは半分は嘘だ。もちろん、辛い事もたくさんある。
しかし、それでも頼りに出来る人がいるから、仲良くなった友人がいるから、クーシナラは厳しい教練にも耐えてきた。
捕縛師になったら、いずれは自分もこんな大人になってしまうのか。こんな風に、二人の人間を簡単に切り捨ててしまえるような、冷酷な大人に。
故郷を出る際、両親に励まされた。 (私たちが果たせなかった夢を、あなたならきっと叶えられるわ)
その期待を重荷だと感じた事はない。鬱陶しいと思ったこともない。ただ、優等生的な性格の彼女は、そのために人前で弱音が吐けなかったことは確かだ。
マイダードは、彼女に一度も『頑張れ』とは言わなかった。彼女の心を覗いたわけでもないのに、初めて会った時から気持ちをわかってくれた。
『頑張らなくてもいいから、頑張る振りだけはしておけよ。でないと、大切なものを失った時、きっと後悔するからな』
あの人も子供の頃、何かを失ったのだろうか。もっとあの人のことが知りたい。今は、捕縛師になれないことよりも───大切な先輩を失うことの方が、よほど怖い。
乱れた髪を、クーシナラはもう一度ぎゅっと結び直す。気合いを入れる前の行動だ。
「もう、いいです……あなたたちになんて、頼みませんっ!」
確かに、マイダードが危機に陥ったのは自分の責任だ。自分で、解決する。
(マイダードさまは、あたしが守る!!)
捕縛師長の制止を振り切り、閉まる直前の門に向かって、彼女は駆け出した。年上の男性に対して、こんな気持ちになるのは初めてだった。

何も自分が、小鬼を捕縛できるとは思っていない。一瞬だけでいい、小鬼の気を逸らせたら、後はマイダードが刺青に封じてくれるだろう。
捕縛には、精神を集中するための時間が要るのだ。戦えなくとも、そのための時間を提供する事ぐらいは、できる。喩えその間に、この皮膚が傷つけられ、血を流す事があっても。
クーシナラは腕輪から針を抜き、指の間に挟んだ。心臓が恐ろしいほどの速さで高鳴っているのが判る。
一人でいて、襲われた時の比ではない。自分だけの問題なら、こんなに心は波立たない。
風が血の匂いを運ぶ。男性の頭を覆ったマイダードの上着が目印となって、クーシナラは迷わずその場所に辿り着いた。
マイダードは青ざめた顔で小鬼と対峙していた。男性に被せた上着は、真っ赤な血に濡れていた。
何が起こったのか、クーシナラは認めたくは無かった。マイダードの性格上、相手を懸命に守ろうとはしたのだろう。だが小鬼にとっては、身動きの出来ない人間の頭を踏み潰す事など、造作もない。
(ひどい……)
吐き気が胸にこみ上げて来る。断末魔を目の当たりにしなかったことは、クーシナラにとって幸いだったと言える。
魔性が人を殺す場面に立ち会ったのは、初めてだ。そして、マイダードだけでも無事でよかったと薄情なことを考えている自分にも、吐き気がした。
自分に対する嫌悪はあっても、不思議と心は落ち着いている。小鬼がマイダードに襲い掛かる瞬間、クーシナラは迷わず怒鳴った。
「待ちなさい!」
小鬼とマイダードが、同時に彼女を見た。
風の音にかき消されぬよう、クーシナラは叫ぶ──小鬼が、人語を解しているとは思えないが、音には反応するはずだ。
「この足を見なさい!あなたが付けた印があるはずよっ!!」
服の裾を掴み、白い足首を見せる。自分が印をつけた『餌』の出現に、小鬼は眼を爛々と輝かせた。
やはり、この小鬼は眼が悪いのだ。ついでに物覚えも悪い。だから舐めて印をつけることによって、『餌』の位置を確認する。
───そうだ、こいつを忘れていた。今度こそ、食べる。
そんな小鬼の声が、聞こえたような気がした。
「よせ、クーシナラ!」
マイダードが叫んだ時には、小鬼は既に彼に興味を失くし、クーシナラめがけて走ってきた。
捕縛がうまくいかないのは、相手を無理に封印しようとするからだ。ただ傷をつけるくらいなら、きっと出来る。
呼吸を整えると、クーシナラは小鬼の眼目掛けて、三本の針を投げつけた。指の間から放たれた針が、小鬼の眼に突き刺さる。
ギャアアアア……
小鬼の眼は四つある。眼が多いという事は、それだけ当たる確率も高いという事。
醜い悲鳴を上げて、狼に似た体躯が砂の上を転げ回る。投げた三本のうち、刺さったのは一本だけだった。
クーシナラには、小鬼の心臓の位置がわからない。目くらましで精一杯だ。
青年が捕縛の術を発動させるのを、視界の端で確認した。もう少しだ。あと少し、時間を稼げれば……。
ひたすら針を投げる。捕縛の能力がこもらない針は、ただの針に過ぎない。相手の急所を正確に打つことは出来ない。
小鬼がむくりと起き上がった。投げる針はもうない。命中率が低い上に、数に限りがある───それこそが彼女の捕縛の弱点である。
針を投げる事で思考能力を使い果たした彼女は、敵に背中を向けて逃げてはいけないというマイダードの教えが、頭から抜けてしまっていた。
背を向けた途端、灼熱の痛みが襲ってきた。背中にのしかかられ、全体重をかけられて、砂の上に転倒する。
唇を歯で噛み、口の中に砂が入った。小鬼の荒い息遣いが、耳元で聞こえる。
小鬼の爪が肩に触れそうになったその時、体からふっと重みが消えた。獣特有の息遣いが止まり、全身に真っ黒な砂が降りかかる。白砂原の砂ではなく、魔性の肉体が崩れた時に生じる砂だ。
身を包む呪縛が解け、クーシナラは頭を振った。顔を上げるのも、振り向くのも怖かった。
頭の上に、何かが乗った。びくりと肩を強張らせた彼女は、それが青年の手のひらであることを知る。

「……ったく、なんつー無茶をするんだ」
呆れたような、しかしとても優しい声に、全身の力という力が抜けていった。
捕縛は、成功したらしい。恐ろしい小鬼はもういないのだ。
(終わっ、た……)
自覚した途端、額からどっと汗が噴出した。
何と言う恐ろしいことをしたのだろう。勝てもしないのに、魔性に戦いを挑んだ。資格も持っていないのに、封魔具を使った。
砂の付いた顔を上げると、マイダードが心配そうにこちらを見下ろしていた。
「立てるか?」
魔性を封じるための手が、まっすぐに少女に向かって差し出される。この手を恐れる者もいるが、クーシナラは全くそんな風には思わない。
「まあ、立てなくてもおぶっていくけどな」
「そ、そんなっ、滅相も無いです!平気です!」
強風にふらつきつつも、何とか立ち上がる。こんな時まで、大人ぶろうとする自分の性格が嫌になった。せっかくなのだから、素直に甘えておけばよかったと、後々になって思った。
立ち上がると真っ先に、砂を染める深紅が目に入った。埋もれたまま、抵抗も出来ずに死を迎えた男性………上着に包まれているせいでさほど残酷には感じないが、とても正視は出来ない。
「なんで、一人で来たんだ」
慣れた手つきで遺体に砂をかける青年の言葉には、責める響きがあった。
「もう少しで、墓を二つ作るところだった」
こういう場面に、もう何度も立ち会ってきたのだろう。悲しんではいるようだが、心が潰れてしまうほどではない。
クーシナラも、青年の隣に座って、男性の埋葬を手伝った。一つの命が、淡々と埋められていくのは恐ろしかったけれど、これからずっと浮城に籍を置くことになるのなら、目を背けてはいけない現実だ。
「ごめんなさい。助けを呼ぼうとしたんですけど、出来ないって言われて、だから……あたし一人で、何とかしようって……」
堪えようと思ったのに、涙は止まらない。まだ残る血の匂いと、砂の匂いが一緒になって、胸の奥が熱くなる。
「ああ、わかったからもう泣くなって。おれだって、あの連中の助けが来るなんて思って無かったよ。ただ、こいつを見捨てるわけにはいかなかったからな」
こいつと言いながら、砂を盛っただけの墓を見つめる。顔も覚えていない相手のために、マイダードは戦い、そして守れなかったことに深く傷ついているようだった。
助けなど期待していなかった。最初から、クーシナラを帰すためだけにあんな事を言ったのだ。そういう人だ。
憎らしいシャーティンの顔や、無慈悲な上層部の面々の顔が、浮かんでは消える。
(捕縛師に、なる……)
これまでとは違った固い決意が、クーシナラの中に生まれていた。
なれたらいいな、ではなく、なるのだ。浮城という組織がマイダードを守ってくれないのなら、自分が守る。
絶対に、捕縛師になってみせる。これ以上、この青年を悲しませるような事はさせない。
「おれは、結局こいつに何も出来なかったけど……」
「そんな事、ありません。マイダードさまはこの人を見捨てなかったじゃないですか!きっと、この人も感謝していると思います」
クーシナラのことも、守ろうとしてくれた。
一番大事な人が他にいたとしても、その気持ちはかけがえのないものだ。相手にもきっとそれは伝わっている。
「そうだ、これ……えいっ」
砂漠に花は咲かない。風で倒れてしまうから、墓標すらも立てられない。彼女は小鬼の残骸から抜け落ちた針を拾い、盛った砂の頂上に刺した。
形や結果など、関係ない。大事なのは他者を思う『気持ち』なのだから。
静かに手を合わせ、はしばみ色の瞳を閉じる。マイダードは微笑み、それに倣った。


その後浮城に戻った二人が、こっぴどく叱られたのは言うまでもない。門限に遅れた罰則は、『二日間夕食抜き』であった。
ちなみにシャーティンは、自室で喫煙していた事がばれて、七日間の謹慎処分が下ったらしい。




───おわり───



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