鬱金の間 夜伽の城・中


彼は、美しい主を心から尊敬していた。
『だから』、彼の気に入りの人形を壊し、傍に寄せる女たちも引き裂いた。
あの紫紺の双眸が自分だけを見つめてくれるのなら、それが殺意であっても構わなかったのだ。
けれど、妖主にしては比較的温厚な部類に入る主は、そんな彼を咎めるだけで、ともすれば距離を置こうとするばかりだった。
彼は諦めなかった。この想いが受け入れられぬのなら、愛する主にその御手で殺されることこそが、唯一の望みだったのだから。
そうして最後に見たのは、主の若干引いたような、強張った表情──。
砕けた破片が、彼の魂を現に戻す。
思わぬ闖入者によって、彼の封印は解かれた。

「……礼を言わねばなるまい、ね」

くすりと笑い、彼は歩き出す。
予期せぬ来客を迎えるために。




朝の陽射しの中、小さな羽が、目の前をふわふわと飛翔する。
スラヴィエーラは言葉を失っていた。未羽からの連絡を待って出発しようと決めていた矢先のことだった。
この羽がここにあるということは、未羽の身に何か起こったのに違いない。
「マイダード!起きて!」
呑気に眠りこけている少年を揺り動かす。彼はスラヴィエーラを抱きしめたまま、幸せそうに寝息を立てていた。
寒いから抱き合って眠っていただけで、特に何かをされたわけではない。彼はいつも優しく、スラヴィエーラを大事にしてくれる。だからこそ腹が立つ。
「……もう……!」
その寝顔を見ていると、ずっとこうしていたいという欲望が頭をもたげる。
だから、悪いのだ。自分は破妖剣士で、大事な仕事の最中なのに、際限なく甘えてしまいそうになる。
「起きてってば!未羽が大変なの!」
顎に頭突きをかますと、それでようやく彼は起きた。すぐそばに少女の顔があるのに気づいて、昨夜のことを思い出したらしい。目を逸らして「……おはよう」と言った。
スラヴィエーラはまたいらっとした。照れている場合か。
「で、未羽がどうしたって?」
あくびを噛み殺しながら、頭上に輝いている羽を見た彼の顔色が変わる。
「これは……」
彼の視線を得て、スラヴィエーラはこくりと頷いた。諦めるのはまだ早い。術が効いていると言うことは、未羽はまだ生きている。
羽の先が示す方向は南。しかし現在の二人には、馬やクエラを借りて追いかける金がない。スラヴィエーラは貴重品を未羽に預けてあるし、マイダードは先程スラヴィエーラを買い戻すために報酬をはたいてしまい、釣りとして渡されたわずかな銀貨しか残っていなかった。
「為替ならあるが……現金化するまで半日はかかるぞ」
「仕方ないわ。未羽が持ちこたえてくれることを祈るばかりよ……それより、屋敷に着いたら昨日の作戦通り、いいわね?」
マイダードは一瞬嫌そうな顔をしたが、未羽の救出に焦る彼女の心情を慮ってか、やがてこくりと頷いた。




床に縫いとめられた可憐な侵入者の身体は、小刻みに震えている。背中に、今にも折れてしまいそうな羽が生えている以外は、人間の幼い少女と変わらぬ姿をしていた。
死んでいるのですか、と尋ねると、この城の主はわずかに首を横に振ってそれを否定した。
「何でも」と、別の男が割り込む。
「魔性は死ぬと砂になるらしいぞ。埋葬の手間が省けて結構なことだな」
そうか……と、フィネスは呟き、上機嫌で酒を注いでいる男を改めて見やった。
この男と組んで仕事をするようになって十年近くになる。泣き喚く若い娘を拉致して売り飛ばすやり方に最初は抵抗を覚えていたが、慣れとは恐ろしいもので、今は何も感じなくなった。
容姿のいい娘は親が金持ちであることが多いから、取り戻すべく両親は金を積む。また、両親が捜索を諦めてしまった場合は、奴隷商人に極めて高く売れる。貧しい娘は容姿もそれなりだが、親が金目当てに娘を手放すことも多いから、彼らはむしろ感謝される側だ。世の中うまくできている……と彼は苦笑した。

方々で仕事を終えた仲間たちが、次々とこの根城に戻ってくる。今日の収穫は八名、まずまずと言ったところか。
「おれたちがこうして暮らしていられるのは、全て主様のおかげですよ」
フィネスはそう言って、いつもの贄を主に差し出した。攫った娘たちの中で、一番容姿の悪い者を──目の前の、醜い妖鬼に向かって。
顔中にそばかすの浮いた娘は、男たちに押さえつけられ、甲高い声を上げて腕を振り回した。
「離せ!父さんと母さんの所に帰るんだ!」
涙と鼻水で、顔がぐしゃぐしゃに濡れている。その様を見て、妖鬼は心底幸せそうに目を細めた。
『……キレイ』
相変わらず理解に苦しむ主の趣味に、フィネスは内心苦笑する。美しい娘には全く興味を示さないのは、こちらとしても非常に有り難いのだが。
「左様ですか。お気に召して幸いです……おい、暴れるな。このお方の相手をして差し上げろ」
娘の顔から血の気が引いた。意外にも、その言葉の意味がわかる程度の知能はあるらしい。
「そう、夜伽をしろと言っているんだ……お前じゃどうせ高く売れない。せいぜいその命が尽きるまで、あの方に奉仕することを喜びとするんだな」
娘の悲鳴を心地よく耳にしながら、男たちは部屋を出た。

廊下に出たフィネスに、仲間の一人が駆け寄ってくる。
「フィネス様!」
「どうした、騒々しい」
「玄関の所に人が……」
フィネスはにわかに表情を曇らせる。
「来客だと?馬鹿な。あの方の結界があるのに──」
元の住処を追われ、拉致した娘たちの隠し場所に頭を悩ませていた彼らの前に、突然あの妖鬼は現れた。
人語を解する妖鬼は、定期的に贄を捧げることを条件に、彼ら人間に協力を約束してくれた。
深い森の奥にある、荒れ果てた城を提供され、人も魔性も寄せ付けぬ結界のおかげで、彼らの足跡は辿られずに住んでいた。たまの侵入者も、先程のように主が退治してくれる。
彼らの栄華は、主がいる限り続くはずだったのだが……。





「開けて!お願いだから開けて頂戴!」
スラヴィエーラは必死の形相で、扉を叩く。
その間、マイダードは近くの茂みの中に身を潜めていた。
男たちは人間の見張りを一切立てていなかった。それこそが、裏で魔性が糸を引いている証拠である。
魔性による結界の力に頼り切っているのだ──しかし、この程度の防壁は、浮城の人間に効果はない。
扉が開き、先程馬車にいた男たちが姿を現す。
「なんだ。さっきのお嬢ちゃんじゃないか。もう用はないぞ、帰った帰った」
すると隣にいた男が、彼の頭をしこたま殴る。
「馬鹿野郎、帰してどうする!この場所を知られちまったんだぞ!?」
「あ、ああ……そうだっけな」
「能無しが!さあお嬢ちゃん、無事に帰れると思っちゃいねえだろうな?どうしてこの場所が分かったのか、中でゆっくり説明してもらおうか」
スラヴィエーラは瞳に涙を浮かべて感謝の表情を作った。
「嬉しい!また引き取ってくれるのね!」
「……あ?」
怪訝な顔をする男たちに、スラヴィエーラは縋るように言った。
「わたしを買い戻したあの男の子、以前からわたしに執心してて、嫌だと言ってもしつこく追いかけてくるのよ。はっきり言って迷惑!」
「ほう……」
「だから、隙を突いて逃げて来たの。あんなのと一緒になるくらいなら、他の人に売り飛ばされた方がずっとましだわ!」
離れて会話を聞いているマイダードの心が、ズキズキと痛んだ。
あれは演技であり本心ではないと頭ではわかっていても、彼女の口から嫌だの迷惑だのと聞くのは胸が苦しい。もっとましな作戦は思いつかなかったのだろうか?
「なるほど……買い戻された割には浮かない顔をしてたのは、そのせいってわけか」
実際、あの時迷惑そうな顔をしていたのは事実だったから、男たちは納得したようだった。
「ええ、そうなの!」
「まあ詳しい話は中で聞こう。入れ」



通された部屋には、片方の羽を折られ、弱り切った未羽がいた。
今すぐに駆け寄りたくなる衝動を堪えながら、スラヴィエーラは目の前の男に向き合う。

線の細い優男だった。スラヴィエーラを検分するように眺めまわすと、今度は未羽に視線を移した。
「これは君の仲間か?」
「ええ。護り手といって、人間に仕える魔性よ。彼女に案内してもらってここまで来たの」
「自ら売られに戻ってきたと言うのか?信じがたいな。君は浮城の手の者だろう。その子供ともども、生かして帰すわけにはいかん」
スラヴィエーラは鼻を鳴らす。
「何か勘違いしているようだけど、浮城は魔性が絡んでいない事件にはいっさい関与しないわ。あなたたちはただの人攫い集団でしょう?」
「……」
男の眉が下がる。背後に魔性の影があることを、スラヴィエーラが気付いていないのを意外に思ったらしい。
「わたしもこの子も、浮城を追われて、行く場所がないの。あなたたちの仲間にしてくれるなら、この場所は誰にも口外しないわ」
「あぁ!?黙って聞いていれば、一丁前におれたちに取引を持ちかける気か!」
「調子に乗るなよ、小娘が!フィネス様、構いやしません。さっさと始末しちまいましょう!」
仲間たちが色めき立つのを、フィネスと呼ばれた男は「よせ」と窘めた。
「事情は分かった。君を利用した方が都合がいいのは確かだ……浮城の知識や魔性の能力は、我々も長年欲していたものだからな。その双方が手に入るのなら、願ってもないことだ」
「そう、嬉しいわ」
「だが、君に御執心の少年とやらはどうする?彼も浮城の人間なら、この場所が気付かれるのは時間の問題だ。君とその羽の子を片づけたところで、すぐに浮城から追っ手が来る……そうだな?」
ざわめいていた男たちが沈黙し、スラヴィエーラは頷いた。
「彼もその仲間も、わたしが始末するわ。わたしが嘘をついているかどうかは、その後で判断してもらって構わない」
冷やかに告げるスラヴィエーラに、先程の男がひゅうと口笛を吹いた。
「威勢がいいねえ。しかし、一体あの坊やのどこがそんなに気に入らないんだ?見た感じ人のよさそうな少年だったじゃねえか、金も持ってるし」
何の気なしに口にした男の一言に、スラヴィエーラの表情が陰った。
優しい、マイダード。いつも彼女のことを一番に考えてくれる。
それでも、スラヴィエーラは満たされなかった。彼に与えられるものを自分は何も持っていないからだ。
「……一緒にいると、苛々するのよ」
それは、本心からだった。
彼が傍にいると胸が苦しくなる。こんなお転婆などではなく、もっと大人しい娘がいくらでもいるのに、彼はスラヴィエーラにしか関心を示さない。
好きなのは確かなのに、仕事の方が大事だから、彼の気持ちに応えられない自分が情けなくて、悔しくて、苛々する。
「そうか」
スラヴィエーラの感情のこもった声に、真実を感じ取ったらしい。男は抑揚のない声で返答した。
「君の気持ちはわかったが、君が手を汚すまでもない。その少年は見つけ次第殺そう」
「えっ……」
「どうした?何か問題でもあるのか」
「いえ!まずは話させてもらえない?あの子は、わたしを手に入れるためならお金を惜しまないってことは、そこの人たちも充分わかってるはずよ」
スラヴィエーラは先程の男たちに視線を向けた。
「彼からは、まだまだお金を引っ張れるわ。毟れるだけ毟って、それから始末しても遅くないでしょう?」
あまりの言いように、男たちは一斉に爆笑する。
「驚いた。可愛い顔して、お嬢ちゃんはとんだ悪女だな!」
「フィネス様、こいつは久々に上玉ですぜ!浮城出身の娘が手に入りゃ百人力だ!」
すっかり信用したらしい単純な男たちに対して、フィネスの表情は変わらなかった。
「……主の許可が下りればの話だがな」
主と言うのは魔性のことだろう。
ただの人間が、未羽を痛めつけられるはずもないのだから。
問題は、どうやってその「主」の居場所を探るか、だ。頼みの未羽がこんな状態である以上、マイダードに頼るしかないが……。




男は宴会を抜け、用足しに庭へ出た。
酒がまわって、不機嫌な気分を少しだけ軽くしてくれた。月が高く出ていて、明かりなど持たなくとも足元を照らしてくれる。
元締めであるフィネスの前では恐ろしくて文句はこぼせないが、その相方には先程愚痴ってきたばかりだ。
あの娘を捕えてきたのは自分の手柄だと主張したのに、分け前を上乗せしてはくれなかった。逆に、厄介事を持ち込んだとして叱責を受ける始末だ。
フィネスはまだあの娘を疑っている。見張りをつけてはいるが、もしあの娘が浮城の間者だとしたら、自分も責任を問われて罰せられるかも知れない。それを思うと、ぶるっ、と身震いがした。
そろそろこの仕事も潮時だろうか。だが、他に割のいい仕事が見つかるとも思えない……。
暗澹たる思いで前をくつろげた途端、背後の茂みから影が飛び出して来た。咄嗟のことに反応が遅れた男の喉に、冷たい感触がぴたりと押しあてられる。
冷たく光る銀色の刃──よく研ぎ澄まされたナイフだと気付いた瞬間、男の背筋に冷たいものが伝わった。
「動くな」
どこかで聞いた覚えのある少年の声に、誰だ、と男は必死で記憶を辿る。
彼はこの物騒な仕事に就いて長い。腕っ節では、そこらのごろつきには負けないつもりだった。
それが、こんな少年にあっさりと背後を取られ、身動きが取れなくなっている。油断していたとはいえ、その現実が信じられなかった。

「危害を加える気はないよ」
言われた通り動けずにいる男に、少年──マイダードは、耳元で囁いた。
「おれたちと一緒に浮城に来ないか?」


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