鬱金の間 灯台もと暮らし(マイスラ甘々←オリキャラ)


・マイダードとスラヴィが結婚前提で付き合っててラブラブだけど喧嘩します
・『合わせ鏡』の続きです
・『夢を砕く音』『夢を辿る音』とつながってます
・マイスラがいつになく甘々でキャラ崩壊状態ですが、性描写は無し。
・タイトルで既にオチが


大丈夫そうな方はどうぞ↓




街の北端にある小さな宿は、それほど混雑はしていなかった。海から入ってくるかすかな潮風が肌に心地よい。窓から岬や灯台が見える、一番良い部屋をスラヴィエーラは予約した。
不毛の地に暮らす浮城の人間は海への憧れが強く、引退後はこうした街に居を構える者も多いという。

「まあまあ、ご夫婦揃って、よくいらして下さいました」
宿に着くと、優しげな女主人が快く出迎える。
彼女も、元は浮城に籍を置いていたらしい。さほど才能には恵まれず数年ほどで辞したが、その後の浮城に訪れた悲劇を思うと、却って幸運だった、と語った。
まさにその悲劇を味わった身であるスラヴィエーラとしては、それを聞いて少々複雑な思いに捕らわれた。
「すぐにお部屋に案内しますね。宿帳に日付とお名前をお書き下さい」
差し出された分厚い宿帳には、色とりどりの栞が挟んであり、探したい項目順にめくれるようになっている。
細やかな気遣いにスラヴィエーラは感心する。ペンを手に取り、今日の日付と二人の名前を記入していると、奥の方から客の誰かが呼ぶ声がした。
「はい、ただ今参ります。少しお待ち下さいな」
女主人が奥へ引っ込むと、マイダードが小さく笑った。
「夫婦だってさ。やっぱりそう見えるのかな」
それは別に構わないが、マイダードの名前で予約し、玄関でも敢えてマイダードの後に続いて入るようにしたのに、迷わずスラヴィエーラにペンを渡した女主人の行動が気になった。客商売をしていると、夫婦の力関係と言うものも見ただけでわかってしまうものなのだろうか。
記名を終えても、女主人はまだ戻って来なかった。マイダードは宿の内装に見とれている。
暇を持て余し、スラヴィエーラは暫くぱらぱらと宿帳をめくっていた。
その手が不意に止まる。端がまるで目印のように折れている頁があり、その中に、とある人物と同じ名前を見つけたからだ。

──どくん。
心臓が大きく脈打つ。

もう何年も前に封印していたはずの気持ちが、まるでつい最近のことのように思い起こされた。
逞しい背中、力強い眼差し。幼い自分にかけられた温かい言葉と相反する罵声。
破妖剣士としてのスラヴィエーラを決定づけた、誰よりも苛烈なあの男性──。

「お待たせいたしました」
女主人が戻って来て、宿帳を離そうとしないスラヴィエーラを怪訝そうに見上げた。
「お客様?」
「スラヴィ?」
正面と背後から、ほぼ同時に声をかけられ、ようやく我に返った。
あれからもう随分な時が経っているのに、まだ、たかが名前を見ただけで動揺するなど。彼の事をこんなにも引きずっている自分に我ながら驚いていた。
「なんでもないわ。早く部屋に案内して」
スラヴィエーラは、背後に立つ青年の視線を遮るようにして、宿帳を閉じた。



それほど珍しい名前ではない──偶然に決まっている。
世の中には同名の男性などごまんといる。
第一、もし『彼』だとしても、今さら話すことなどないし、向こうだって決して会いたくはないだろう。
こちらも存分に傷ついたし、楽しい記憶より辛いそれの方が多い。あんな結末を迎えるのなら、出会わなければ良かったとすら思えた。

「へえ……こりゃ確かにいい雰囲気の宿だな」
マイダードは窓の外の光景に感嘆しながら、荷物を置いた。それから、ぼうっと寝台に座り込んでいるスラヴィエーラの前で、ひらひらと手を振る。
「スラヴィ。おーい」

それでも、今のスラヴィエーラは彼に会いたかった。
あの頃とは違う、成長した自分を見せたかった。
師とも言える彼と、あんな形で別れたのは心残りだった。せめてもう一度謝って、そして──。

「もしかして、さっきのこと気にしてるのか」
「え?」
問いかけに、スラヴィエーラは顔を上げた。さっき、というのが何のことかわからず、反応が遅れた。
「庇ってやらなくて悪かった。意地悪したわけじゃないんだ」
それでようやく、酒場での一件を言っているのだと気付く。
この宿に来る前に、スラヴィエーラは街の酒場で出会った女性に絡まれ、冷酒を浴びせられた。マイダードもその場に居合わせたが口は挟まず、スラヴィエーラが自力で撃退した。
その時の服を、スラヴィエーラはまだ脱いでいない。簡単に拭きはしたが、酒の匂いがまだ残っている。
「ああ……違うのよ。ちょっと考え事してただけ」
一人でも平気な女だと思われがちであることは自覚している。今さら、恋人が守ってくれなかった程度で拗ねはしない。
あの場面で静観を決め込んだのは、彼がスラヴィエーラを信用してくれているからこそだし、周囲に強く見られることを望んだのは自分自身だ。
「ならいいが」
マイダードは首を傾げた。
「とにかく、早くその服を脱がないとな。食事の前に風呂に入ろう」
「わたしは後でいいから、先に入ってくれば?」
照れくさくなり、ついぶっきらぼうな口調になってしまう。この後にすることを考えたら尚更だった。
浮城では他の人間の目があるから、大っぴらな愛情表現は出来ないし──もっともオルグァンあたりに言わせれば、いつもの痴話喧嘩だけでも充分にいちゃついて見えるらしかったが──泊まる以上は勿論そのつもりでいた。けれど、あの名前がどうしてもちらついて心から楽しめない。
「まあ、そう言うなら……」
マイダードは素直に風呂場へ向かった。その後ろ姿を見届けてから、スラヴィエーラはおもむろに部屋を出て、先程の受付へ向かった。

女主人は椅子から腰を浮かせながら「どうしました?」と言った。何か問題が起きたのかと思ったらしい。
単刀直入にスラヴィエーラは答える。
「あのさ、申し訳ないけど、さっき、偶然名前を見てしまったんだよ。以前ここにグレザールと言う男性が泊まったことがあるはず。差し支えなければ教えてくれないかい?」
「ああ……その方でしたら」
スラヴィエーラ達が浮城の住人と知る女主人は、あっさりと教えてくれた。
「この宿が出来た当初から、よく来て下さるお得意様ですよ。もう老年と言っていい男性ですけど、体格もいいし、とてもお若く見える素敵な方で、やはり浮城出身と言ってらっしゃいました。この宿はそういう方に縁があるんですのね」
別人かも知れないという考えは、その言葉で見事に打ち消された。もはや心臓が高鳴るのを止めることは出来ない。
会いたいと思う気持ちと、会ってどうすると言う気持ちの葛藤が、彼女の声を震わせていた。
「彼の連絡先がわかれば、情報を開示してもらえない……?もちろん、それなりのお礼はするから」
すると、女主人は表情を曇らせた。
「残念ながら、あちこちを放浪してらっしゃる旅暮らしの方ですので、私どもにも住所はわからないんですの。今度はいついらして下さるのかも……」
定住していない──それは社会的立場が安定していないことを意味する。
グレザールは彼女の師と呼ぶべき存在で、出会った時には既に壮年であった。今は、子供どころか孫が居てもおかしくはない年齢になっているはずだが、下界で家庭を持って幸せに暮らしているのではなかった。そんな人並みの暮らしを、スラヴィエーラが奪ってしまった。
グレザールの大事にしていた破妖刀が、彼を見捨ててスラヴィエーラを選んだがために……彼は激昂し、感情のままに幼いスラヴィエーラに手を上げた。
その事もあって、マイダードは彼を最後まで嫌っていたが、スラヴィエーラは彼の行為を恨んではいない。
子供であったあの頃はひたすら悲しいだけだったけれど、破妖剣士になって長い今となっては、人生そのものを取り上げられた彼の無念は痛いほどわかるのだ。
「そう」
店主の答えに、スラヴィエーラは唇を噛む。
しかし、浮城の人間が泊まれるような宿を何度も利用しているのならば、生活に困窮しているというほどではないはず。何度か訪れていれば、いずれは会える可能性もある。
「話してくれてありがとう。もし彼がここに来たら、スラヴィエーラって女が会いたがってるって伝えて欲しいんだけど」
「ええ、わかりました」
「頼むわね」
落胆とかすかな期待を胸に、スラヴィエーラが背中を向けたその時──。

「そういうことか」
いるはずのない青年の声が聞こえて来て、彼女はぎくりとして足を止めた。
果たして、柱の影から、マイダードがゆっくりと姿を現す。手には酒の瓶が握られていた。
「道理で様子がおかしいと思った。詳しく話を聞かせてもらう必要がありそうだな」
いつも通り穏やかな声だったが、目は決して笑っていなかった。
「……立ち聞きしてたの?」
風呂の中で一杯やろうと酒を買いに来たのだろうから、恐らく故意にではない。
それでも、つい相手を責めてしまうのは、自分に後ろめたい所があるからだとスラヴィエーラはわかっていた。
「スラヴィの声なら、どこにいたって聞こえる。ここじゃ周りの迷惑だから、戻って話そう」
腕を引かれ、強引に連れて行かれる。凄い力で、普段は手加減してくれているのだと言うことが、どうしようもなくわかってしまう。
部屋に戻ると、彼は静かに扉を閉め、沈黙しているスラヴィエーラに向き直った。状況が状況であるし、乱暴されるのかと身を固くしたが、その反応にマイダードは傷ついたような顔をして、そっと手を離した。
「スラヴィ」
「なによ!」
「……心配しなくても、お前が嫌がることはしないっていつも言ってるだろう。おれと一緒になるのがイヤなら、いつでも言ってくれ」
「そんなこと言ってないでしょう!?」
「すぐムキになる……余計怪しいんだって。今回の事は、おれが強引に進めたようなところがあったし、結婚取りやめたいなら、今からだって間に合うぞ?」
彼はいつだって、自分よりもスラヴィエーラの気持ちを優先させてくれる。
他の男に気を移すそぶりでも見せれば、怒るどころか、本当の気持ちなど押し殺して、幸せになってくれなどと言ってしまえる人物なのだ。
だからとても、グレザールのことなど言い出せなかった。
グレザールの名前を出すと、ほんの少しだが哀しそうな顔をするマイダードを見たくなかったから。
彼を悲しませたくないからだ。
好きだから、だ。
「話を飛躍させないでよ。わたしはただ……もう、そんな顔しないで、いつもみたいに笑ってなさい!」
マイダードがいつものマイダードではない、それだけで心かき乱される。そんな顔をさせるために、スラヴィエーラは彼との結婚を決意したわけではない。
「婚約者が内緒で他の男と会おうとしているのに、笑っていられる男がいたら見てみたいもんだな」
「昔から何度も言ってるけど、グレザールとはそんなんじゃないんだってば!」
スラヴィエーラは声を荒らげる。
「何がそんなに不安なの!?もう婚約だってしてるんだし、約束通りちゃんとマイダードと結婚するって」
「約束だから、ちゃんと……か。お前らしいな」
望んでいた答えではなかったのか、マイダードはため息をつく。
その反応にスラヴィエーラは苛立った。まさかとは思うが、押し切られて嫌々一緒になるのだと、そんな風に受け止めているのだろうか。
「じゃあ、あの男と約束していたわけでもないのに、探そうとするのはなんでだ?おれが急にいなくなったら、そんな風に必死になって探してくれるか?」
「な……」
何を言ってるの──としか、スラヴィエーラは答えられない。
子供の頃から、マイダードは傍にいてくれるのが当たり前で、いなくなることなど考えもしなかったからだ。
『刺青のマイダード』と呼ばれる彼は、実力もさることながら非常に悪運が強く、数々の修羅場を潜り抜けて来た。どんなに危険な仕事でも、彼は必ず生きて帰って来てくれたし、スラヴィエーラも、彼と一緒の仕事では死ぬ気がしなかった。
だが、これから先もそうとは限らない。妖主たちとの闘いで、彼女はそれをはっきりと思い知らされた。自分たちは、たまたま運が良かっただけなのだ、と。
マイダードが、いなくなる……魔性の手にかかって、あるいは病で、もしくは自らの意思でスラヴィエーラの手の届かない所へ去ってしまう。それは想像しただけで胸が締め付けられる現実だった。
グレザールに対する感情とは全く違う。離れて久しい彼にはもう憧憬と贖罪の念しか感じないけれど、マイダードには──。
「そんなこと、有り得ないから……」
見た目に反して慎重で臆病な彼は、時として愛しているはずの女性の言葉すら信じない。
結婚の約束を交わしていても、体を重ねても、自分の中にあるものを譲らない。
「だったら話は簡単だ」
戸惑う破妖剣士に、刺青の捕縛師は口を開いた。

「お前は最初からグレザールのことが好きだったんだよ。おれよりもずっとな」





何故、こうなってしまうのか。
いい妻であろう、彼を支えようと思い、そのために後顧の憂いは断っておこうと、常に思っていた。そんな折に目にしたのが、過去の唯一の汚点──グレザールと言う大人の男性を傷つけてしまったと言う事実。
他の男の事は忘れて欲しいと彼は思っているようだが、それが出来たらとっくにそうしている。

マイダードは風呂に行くと言い置いて、スラヴィエーラを残して出て行った。
しばらくして、部屋に二人分の食事が運ばれてきた。
彼が戻るのを待っている義理など無いので、スラヴィエーラは無言で箸を進め──さすがに彼の分は残しておいたが──その後、一人で女風呂に向かった。
風呂に浸かりながら、彼はもう部屋に戻って食事をしているのだろうと思うと、無性に腹が立った。
スラヴィエーラと行動時間をずらし、言い訳の機会を奪おうという腹か。そうはさせるかと、急いで風呂から上がったところ一足遅く、既に彼は食事を済ませ床についていた。
頭までかぶった布団から、わざとらしい寝息が聞こえる。
スラヴィエーラはちっと舌打ちする。相手に先に寝られたということは、この先の行動は己が身に委ねられてしまったに等しい。
そりゃあ、自分も多少は悪かったかも知れないが、あんなことぐらいで臍を曲げられてはこの先が心配である。
喧嘩をしている夫婦と言うのは、夜はどうしているのだろう。喧嘩をしたから別々の布団──では当てつけがましい気もするし、かと言って夜をきっかけに仲直りするのも打算的というか、現金な気がする。
微動だにしない布団の隆起を見つめ、はあ、とため息をつく。向こうが動かない以上、こちらもいつまでも立ち尽くしているわけにもいかない。
仕方ない、ここは折れて機嫌を取っておくか……。
スラヴィエーラは意を決して、彼の布団の中に潜り込んだ。予想の範囲外だったらしく、マイダードは戸惑っていたようだったが、スラヴィエーラの身体が冷たくなっているのがわかると、物も言わず抱きしめてくれた。
温もりを徐々に移されながら、スラヴィエーラは体から力を抜いた。
しかし、期待していた感触は唇の上に訪れず、代わりに彼の掌が、洗いたての髪を優しく撫でる。
「おやすみ」
思いも寄らなかった反応に硬直するスラヴィエーラをよそに、マイダードはそのまま彼女を抱え込むようにして瞼を閉じた。

──どうして……?

ちりちりと、胸が痛みを訴える。
彼の規則正しい寝息に、今度は狸寝入りではないことを嫌でも思い知らされる。
茫然とするスラヴィエーラの頭の中には、自分が全額払うつもりでいた宿の代金と、浮城に帰ったらまた別々の部屋に戻らねばならないと言う焦燥と、マイダードは彼女を拒もうと思えばいくらでも拒めるのだと言う現実が残された。
こんな傷つけ方もあるのだと初めて知った。少なくともスラヴィエーラは傷ついた。
そしてこの痛みは、今まで何度も彼に与えて来たものなのだと。
気付かされることが、何より辛かった。





翌朝、スラヴィエーラは一人で岬に来ていた。
打ち寄せる波の向こう側に灯台が見える。本来ならばマイダードと一緒に見る予定だったが、当の本人はまだ起きる気配がないので宿に置いてきた。

グレザールと言う過去の人物に縛られているのは、どうやら自分だけではないらしい。
これまでスラヴィエーラの求めに彼が応えない事はなかったのに、グレザールの名前を聞いた途端、あの反応だ。
マイダードに優しさと頑固さの二面性があるように、スラヴィエーラの中にもまた、二つの立場が混在している。破妖剣士である自分と、女性である自分だ。どちらも捨てることは出来ない。
「わたしが、剣士じゃなくて普通の女性だったら……ね」
ふう、とスラヴィエーラは息を吐いた。
普通の女性ならば、マイダードのように一途に思ってくれる男性には好感しか抱かないだろうし、喧嘩などせずに円満に暮らして行けただろう。
そしてマイダードと一緒になって、自分を痛めつけたグレザールを悪人と罵る……。それはまた、少し違うのではないだろうか。
グレザールの痛みを、スラヴィエーラは自分のこととして受け止め、彼の残した破妖刀の名に恥じない剣士であるよう努力を重ねた。そのおかげもあって、強い破妖剣士になれた。だからグレザールを否定することは、自分の今までを否定することだ。


崖の下から打ち上げる波が、スラヴィエーラの頬に飛沫となって降りかかる。少し肌寒い。朝食がまだだから、盛大に腹が鳴った。
そろそろ帰ろうかと思った時、背後に不穏な気配を感じた。
背筋がぞくりと粟だち、浮城の人間としての本能が、振り返らずに距離を置くことを伝えてくる。
足首に冷たいものが絡まった時、……失敗した、と思った。これが触手の類だとすると、相手は思ったよりも近くに立っていたようだ。
「お姉さん、一人?僕と遊ぼう」
若く、無邪気な声。
足首を拘束する青い紐は、よく見れば海水で出来ていた。生臭い匂いにつられて強制的に振り向かされる。
そこには、年の頃なら七、八歳の、美少年と呼んで差し支えない子供がそこにいた。
しかしその首から下は、人ではありえない虹色の鱗で覆われている。ぬめりとした光沢を放つ一つ一つに、目玉のような紋様が刻まれていた。
この辺りには海水に馴染む妖鬼がいると、万年青年から聞いたことがある。それは承知で、波打ち際に近づかなければ安全だと油断していたのだが……高潮か。
迂闊だった。ちょっとした婚前旅行のつもりで、護り手も破妖刀も浮城に置いてきてしまった。得物がないスラヴィエーラなど、ただのか弱い美女──マイダードやオルグァンが聞いていたら即座に突っ込みが入ることだろう──である。
懐に忍ばせた護身用の刀に手を伸ばした途端、少年の体から発せられた水の鞭が勢いよく飛んだ。
斬り裂かれた手の甲から血が噴き出す。とんでもない威力だった。弾き飛ばされた刀は少年に取り上げられてしまう。
「恐いのはしまって。遊んでくれれば返してあげる」
少年は悲しそうな顔をしていた。演技とは思えなかったため、スラヴィエーラは一抹の望みをかけて問い返した。
「遊ぶって……なにをよ?」
魔性の遊びと言ったら殺人以外に考えられないが、それ以外のことならば、付き合える可能性はある。
浮城の人間は依頼された魔性を倒す事が仕事であるから、相手に害意がないのならば、機嫌を取ることも考える。ずきずきと痛む手の甲を情けなく見つめながら、スラヴィエーラは希望する答えが返ることを祈った。
「うん……!何でもいいよ」
話ができることが嬉しいのか、虹色の少年は弾んでスラヴィエーラに近づく。
「ずっと前に、何か笑った顔のお兄さんが来て、僕の友達をみんな連れて行っちゃったんだ。それから僕、ずっと一人なんだもの」
スラヴィエーラの顔は引きつった。
笑った顔のお兄さん──『みんな連れて行って』しまえるほど腕の立つ人物。
誰のことかは考えるまでもないし最初から知っていたが、だからこそスラヴィエーラはこの場所に近づいても良いと判断したのだ。
何故、この少年だけが無事でいる。未熟な人物なら全部は封じ切れずに撤退したとも考えられるが、セスランほどの男が、中途半端な仕事をするとは思えない。
「そ、それは、大変だったね……気の毒に」
武器を持っていない破妖剣士としてはそう答えるしかない。
この状況で、自分がその連中の仲間だなどと知れたら身が危うい。今でも充分危ういが。
じり、じりと少年から後ずさりながら、どうにかしてこの場を逃れる手段を考える。少年は久しぶりの遊び相手を、簡単に逃がす気はないようだった。
「だけどあなたも悪いんじゃない?人間を殺そうとしたから、仕返しされるんでしょ。わたしだって、この拘束を解いてくれたらいくらでも遊んであげるのに」
「違う!」
少年が怒ると、体から幾本もの触手が発せられ、スラヴィエーラに巻きつく。凄まじい力で、全身を締め付られた。
骨が砕けそうな痛みだった。悲鳴を上げなかったのは、ひとえに破妖剣士としての矜持ゆえだ。
「ここで一人ぼっちの人に声をかけて、僕の家で遊んでもらってるだけだよ!今までの人は、みんなすぐに苦しそうな顔をして息をしなくなるけど、それはその人たちが弱かったからだもん。僕のせいじゃない!」
気が遠くなりかけたのは、決して肉体的痛みのせいだけではなかった。
害意がないだけに性質が悪い。僕の家と言うのは恐らく海中にあるのだろう。そして海の中に連れて行ったら、人間は死んでしまうようにできている。
「でも、お姉さんなら大丈夫だね!こんなことしても平気なくらい、体が頑丈だもの!きっと海の中も平気だよ!」
「……あのねえ、あなた」
怒らせると知ってはいても、反論せずにはいられない。それもまた女の愚かさだろうか。
否、力では敵わない相手には、大人しくしているのが得策……とは、スラヴィエーラは思わない。
馬鹿で構わない。殴られないと見くびって反論しているのではない。己の中の誇りを守るための反抗だ。
自分には、曲げられない信念がある。心を殺されるくらいなら死んだ方がましだ。
「本当はわかってるんでしょう?子供だからってごまかしたって、あなたはわたしよりきっと長い時を生きてる。どう言い訳しても、あなたは人を殺した、血も涙もない魔性よ。そしてわたしは──」

浮城の破妖剣士、スラヴィエーラ。

告げた瞬間、少年の顔が歪んだ。
仲間を連れて行った青年に対する恨み、話し相手のいない孤独、拒否された絶望、仇を目の前にした驚き。
それら全てを一つの感情に込めて、咆哮と共にまた新たな触手がスラヴィエーラに向かって飛んでくる。
貫かれると思ったその時、鋭いナイフが少年の胴体に突き刺さった。
「痛い……!痛いよお!」
苦痛にのたうちまわる少年の体から、青い体液が流れ出て地面を濡らす。スラヴィエーラはナイフの飛んできた方向を見た。



「スラヴィ!」
蒼白な顔をして駆けて来たマイダードは、触手から解放された彼女の体を素早く抱き起こす。
無事か、と問われ、こくりと頷く。
「全く……破妖刀もないのに、なんだってこんなところに来たんだ。妖鬼には水棲の奴だっているんだぞ?」
「油断したのよ。この辺りの魔性は、セスランが狩ったって聞いてたのに」
彼は寝巻きのままだった。足には何も履いておらず土だらけだ。泣きそうになるのをぐっと堪え、スラヴィエーラは彼からすぐに離れる。
闘えない自分が抱きついたら足手まといだ。少年の触手がマイダードに向かってきている。今の彼女に出来ることは安全な場所に身を隠す事以外にない。
触れたいはずの背中が遠ざかり、少年に向かっていく。いつもならば共に戦えるのに、見ているだけなのが歯がゆくて仕方がなかった。
「痛い、痛い!何するんだよ!僕なにも悪いことしてないのに!」
襲いかかる触手をひょいひょいと避けながら、マイダードは二本目のナイフを取り出す。
既に傷は付けてあるから捕縛は容易だが、苦し紛れにスラヴィエーラに手を出す可能性が残っているうちは、彼女が逃げるまで時間を稼ぐ必要があった。
「そうか」
呑気な呟きは少年の非難を肯定したわけではなく、先程のスラヴィエーラに向けたものだ。
「まさか、あの男に限って『取りこぼし』があるとはなぁ。子供だからと言って見逃すような、お優しい男には見えないが……」
何か思惑があるのかも知れないが、それを探っている時間は今はない。
「マイダード!」
スラヴィエーラの叫びに、彼は背後を振り返った。完全に取り払ったつもりの触手が彼女に纏わりつき、崖から落とそうとしていた。
取りこぼしはおれもか、と呟き、マイダードはナイフを投げた。少年はその隙を逃さず、マイダードの体を貫かんと別の触手を伸ばす。
と、どこからか飛んできた石の破片のようなものが、少年の触手に当たった。そのせいで攻撃はマイダードの体をかすめ、軽い打撲に留まる。
「……!?」
スラヴィエーラもそれは見ていたが、加勢など頼んだ覚えは彼にはないようだ。一体誰が──と視線を彷徨わすが、あたりに人影はない。

マイダードの弱点を、少年はどうやら理解した。逃げるのが遅れたスラヴィエーラを崖の先端まで引きずって行くと、見せつけるように揺らして見せた。
「やめろ、少年」
緊張に面を固くしながら、マイダードは言った。
「お前さんが寂しいのはわかった。でも、そのお姉さんを連れて行くのはやめてくれ」
言っても聞く相手ではないと知りつつも、彼は言わずにはいられない。
「どうして?」
無邪気な、問いかけ。
マイダードは少し考えた後、言葉を続けた。
「その人はな、おれのお嫁さんになる人なんだ。だから連れて行くな」
「……」
スラヴィエーラは居心地の悪さを感じ、明後日の方を向いた。事実なのだが、人前で改めて言われると妙に恥ずかしい。
「じゃあお兄さんが代わりに遊んでくれるの?」
「あのな……」
どう言ったらわかってくれるのかとマイダードは悩み、そして自分も似たような我儘でスラヴィエーラを困らせているのに気づいた様子で、少し遠慮がちに口を開いた。
「おれも人の事は言えないが……お姉さんが嫌がってるだろう?相手の話はちゃんと聞いて、その人の幸せを心から願うようにすれば、自然と人に好かれるようになる。友達もたくさんできる」
自分自身に言い聞かせるようにしながら、彼はナイフに施した仕掛けが効くのを待った。
「それにお前さんだって、人間の友達なんて本当は欲しくないはずだ。魔性は魔性、人間は人間とくっつくのが一番いい。いなくなった誰かの代わりにするような奴に、彼女は渡せない」
「だって、話し相手がいないんだ!さびしいよ、誰かそばにいてよ!」
血を吐くような絶叫に、スラヴィエーラは耳を塞ぎたくなった。
昨夜の自分の姿を、少年の孤独に重ね合わせていた。触れられるほどそばにいても、時として遠くに感じることもあると言うのに、身近に語りあえる存在がいないのは、どれほど寂しいことだろう。
スラヴィエーラならきっと耐えられない。孤独に耐性がないから、誰よりも大切な伴侶を失うことなど考えられない。あるいはそうした彼女の心の弱さが、この魔性を引き寄せてしまったのだろうか。
マイダードは息をついて、ナイフを持つ手を下ろした。
少年の体の癒えない傷から、命が流れ出しているのをスラヴィエーラも感じていた。
あくまでも、相手が弱まるまでの時間稼ぎ……海中という人間に不利な状況で闘える水棲の魔性は、それゆえ攻撃から身を守ることに関しては、陸上の魔性よりずっと弱い。
最初の一撃で、既に勝負はついていた。スラヴィエーラという人質さえいなければ、彼は傷を負うことすらなく妖鬼を封じられただろう。
「いい方法があるぞ、少年」
マイダードの上半身に浮かんだ刺青が、少年の流す体液に反応して妖しい輝きを放つ。あらわになった美しい隠し彫りに、相手は魅入られたように一瞬動きを止めた。
「え……?なに?」
ナイフに付着した、魔性が好む薬草のせいで、既に意識が朦朧としている少年は、ふらつく足取りで捕縛師の青年に歩み寄った。
触手がするりと力を失い、スラヴィエーラの体はようやく解放される。落とされそうだった崖から素早く離れ、這うようにしてマイダードの背後に回る。
「おれの中に来い。仲間がたくさんいるぞ。ずっと一緒に遊んでやれる」
「……ほんと?」
少年はもはやスラヴィエーラに興味を失くしていた。その目は、刺青の中に蠢く『同胞』たちの意識に気を取られている。
ナイフを握ったままの捕縛師に、少年は何ら警戒することなくすり寄った。ひくひくと小鼻が動き、求めていた気配を探る。
「ほんとだ。友達とおんなじ気配がする」
真実を嗅ぎ当てた少年の、虚ろだった瞳に希望の光が宿った。
彼の元いた仲間はここには無いが、物言わぬ人間と海の底で一緒に暮らすよりはきっと幸せに違いない。
「おいで」
軽い口調で手招きするマイダードに、少年は遠慮がちに小さく頷いた。
傍からみれば人攫いの光景にしか見えない。実際に人を攫ったのは少年の方だと、誰が信じるだろうか。
「僕、もう一人はいやだよ……」
初めて安心したような笑顔を見せ、少年の腕がマイダードのそれにかかる。刺青から発せられる光が少年を包み、肉体から魂を引き剥がす。

──命が離れた少年の体は徐々に、砂塵に還っていった。





空腹と全身打撲で憔悴しているスラヴィエーラに、マイダードは歩み寄って来た。
互いに惨憺たる有様だったが、マイダードの方は怪我よりも単に汚れが酷いだけで、かすり傷も多分、必死になって彼女を探している最中についたものだ。スラヴィエーラは申し訳ない気分になる。
「迷惑かけて……ごめん」
まずは謝るべきだろう。昨夜のこととは別に、マイダードが来てくれなければ助からなかったのだから。
珍しく素直な様子の彼女に、マイダードは意表を突かれてぽかんとしていたが、やがて気まずそうに視線を逸らした。
「いや、おれこそ……。昨夜のこと、まだ気にしてるか?」
露骨な台詞に、スラヴィエーラも気まずくなって俯いた。
怒っていると答えたら、拗ねているのを認めたことになってしまう。夫となる人物に拒否されて、怒って一人で行動した結果、魔性に襲われる──現状を改めて言葉にすると、自分が酷く情けない女であるように思えた。
仕事の最中ならば、こんな迂闊な行動はとらない。休暇で気が緩んでいて、マイダードとぎくしゃくしてしまっているせいだ。
子供の頃から一緒にいるのに、自分たちには肝心な言葉が欠けている気がする。それを埋めるために、結婚するのではなかったのか。
「気にしてない」
不本意ながら、スラヴィエーラはそう答えるしかない。
「わたしは別に、子供が欲しいなんて言った覚えはないから。上はうるさいだろうけど、実力で黙らせられる。マイダードにその気がないなら、一生このままでも何ら問題ないわよ」
嫌味のつもりで言ったのだが、マイダードはさらに間抜けな顔をした。
「は?」
どうも意味が伝わっていないと言った顔である。スラヴィエーラは苛々しながら、傷の手当てをしてくれている彼の手を振り払った。
「だからっ!昨夜、わたしを放って一人でさっさと眠ったことは、全然気にしてないって!!」
言い切るスラヴィエーラを、マイダードは間近でまじまじと見ていた。そこに至ってようやく、スラヴィエーラも違和感に気付いた。
何やら二人の会話には、少々齟齬が生じているようだ。気づいた時には遅く、マイダードの方が先に口を開いていた。
「ええっと……。おれが言ってる『昨夜のこと』ってのは、グレザールの件でおれが臍を曲げちまったことなんだが……」
こりこりと頬を掻いて告げるマイダードに、スラヴィエーラの顔が一気に赤くなった。大失態を悟ったが、一度口にしてしまった言葉を回収することは出来ない。
「もしかして、おれが昨夜なにもしないで寝たから、それで怒ってくれてるのか?まさか……嘘だろ?」
信じられないと言った表情が癪に障る。やはり彼はスラヴィエーラの気持ちを疑っている。嫌いな相手と一緒に寝たりするはずがないではないか。
「嘘じゃなかったら何!?そうよ、気にしてないはずないじゃない!でも、マイダードにとってはどうせ大したことじゃないんでしょう。そんなに嫌なら、しばらく床を共にするのはやめようなんて言い出すに決まって……」
真っ赤になって毒づくスラヴィエーラの視界が、不意に布で覆われた。

「──ごめん、スラヴィ」
溜めこんだものを一気に吐き出すように、彼は言った。
抱きしめられたのだとわかった時、スラヴィエーラの体から強情と言う名の力が抜け、まるで故郷に戻って来たような安心感に包まれる。
「おれが悪かった。そんなに楽しみにしてくれてるなんて知らなくて、八つ当たりしたりして……知ってたら我慢なんてしなかった」
我慢と言う言葉に、スラヴィエーラは密かに動揺した。昨夜の彼は怒っているなりに落ち着いていてそんな風には全く見えず、自分だけが悶々として眠れぬ思いをして馬鹿のようだとすら思っていたのだ。
「グレザールの事も、本気で疑ってたわけじゃない。本当は隠したりしないで、一緒に探そうって言って欲しかったけど、破妖剣士同士の問題に捕縛師のおれを巻き込みたくないって思ったんだろ?」
──頭ではわかってたよ。
彼の穏やかな声は、耳にとても心地よい。微かに聞こえてくる潮騒より、よほど。
グレザールを一緒に探してくれる気があったとは思わなかった。傷つけると思って伝えなかった事が、逆に彼に気を遣わせる羽目になった。
嬉しかった。彼はそこまで、スラヴィエーラの過去も含めて、受け入れてくれるつもりがあったのだ。どうも色々と考え過ぎていたらしい。
「でも、頭と心は別というか……グレザールは何だかんだでいい男で、お前ら仲良かったもんな。今はおれの方がスラヴィに近いってわかってても、そう割り切れるもんじゃない。色々理屈をつけちゃいたが、言ってみればその、まあ、嫉妬だな」
闘いの後の高揚のせいか、スラヴィエーラが本音を吐露してしまったせいか、彼はいつになく積極的に想いを口にした。
「う、うん」
想われている、愛されていると自覚するたびに、体の芯が熱い。
彼の想いに応えたくとも、周囲の目があってはとても耐えられなかった。自分が自分でなくなる様子を、浮城の他の住人には見られたくなかった。
だから、彼を騙すような格好で宿を取った。買い物が遅くなった振りをしてはいたが、本当は最初から泊まるつもりだった。
誰にも邪魔されない、二人の時間が欲しかった。
結婚すればいくらでも一緒にいられるだろうと周囲は言うが、スラヴィエーラだって不安はあったのだ。
──こんな可愛げのない女に対して、いずれ彼の気持ちが醒めてしまうことに。
「わたしも、こそこそしたりして悪かったわ。マイダードはグレザールのこと嫌ってるようだったから、言い出しづらかったのよ。せっかくのその……泊まりなのに、機嫌を損ねられたら困ると思って」
「おれはグレザール自体はそんなに嫌いじゃなかったぞ。あいつがいてくれたから、お前は破妖剣士になれた。色々教わったし、そのことには感謝してる」
「じゃあ、なんで最後まであんな態度……」
「スラヴィをぶったからだよ。それだけがどうしても許せなかったんだ」
少年の頃と変わらぬ口調に、スラヴィエーラはつい吹き出した。途端に、全身に激痛が走った。
咳き込む彼女の体を、慌ててマイダードが支える。
「大丈夫か?」
「平気。早く宿に戻りましょう、体の方も手当てしないとね」
掌の傷は処置してもらったが、さすがに屋外で服を脱ぐわけにはいかない。少年に拘束された彼女の体には、触手で締めつけられた時に出来た擦り傷や、痣が残っていた。
「自分ではできないから、マイダードに頼みたいんだけど……」
声が次第に小さくなる。それ以上は言葉にできない。
自分はずるい女なのだ。冷酒をかけられた出来事も、この体の痛みも、彼に服を脱がせてもらうための口実として使おうとしている。
気持ちが伝わったかどうかわからないが、マイダードは真剣にスラヴィエーラを見つめていた。二人の間にあった誤解の壁が、静かに溶けて形を失くしていく。
「おれで、いいんだ?」
それは、傷の手当ての事だけを言っているのではない。言葉に込められた彼の真意を、今度こそ真正面から受け止めながら、スラヴィエーラは力強く頷いた。
「当たり前でしょう!?他の人になんか、絶対触らせたくないわよ」
「あれ、未羽ちゃんはー?」
「屁理屈は言わないっ!」
いつもの彼が戻って来たことに安堵しながら、スラヴィエーラが拳を振り回す。それを華麗に避けながら、マイダードが彼女を抱き上げる。
「良かった」
これから先、何度も喧嘩して、何度も仲直りする毎日が待っているのだろう。
それでも──。

「スラヴィを好きなの、我慢しなくていいんだ」
この笑顔には一生敵わないだろう、とスラヴィエーラは思った。





ぼろぼろになって帰って来た二人の客に、女主人は言葉を失っていた。
男性の方は衣服や髪が乱れ足は泥だらけで全身から妙な匂いをさせていたし、彼に抱きかかえられている女性の手の甲は斬り裂かれ、簡単な応急処置はされていたが痛々しい姿だった。
彼女とて元浮城の人間だ、魔性に襲われたことは一目でわかる。
「すぐにお医者を……。男性の方はお風呂へどうぞ」
あまり騒ぐと他の客に感づかれるが、今は早朝で人も少ない。風呂も空いているはずだった。
「あー」
腕の中で黙りこんでいる女性を見つめながら、青年は罰が悪そうな顔をしていた。
彼女の手は青年の衣服の裾をしっかり握っていた。
「医者には治せない傷なんだ。薬草を持ってるから風呂で塗ってやりたいんで、他の客を入れないようにできるか?ついでにあと一泊したいんだが。もちろん追加料金は払う」
「かしこまりました」
微笑ましい気持ちで女主人は頷く。
医者を呼ぶほどの傷ではないようだし、昨夜、この宿を訪れた時はどこかぎこちなかったこの男女が、絆を深めた様子なのが嬉しかった。
魔性は、恐らく退治されたのだろう。浮城の住人は特殊な気配を放っているらしいから、休息日にも平気で襲ってくる。
気の休まる暇がないと、以前ここを訪れたブロンズの髪の青年が言っていた。自分は早くに見切りをつけて、今の夫と結婚して本当に良かったと思った。
「……大事にしてあげて下さいな」
青年の腕の中にいる女性の事を、女主人はそう言ってやる。女性は先程から石のように動かないが、怒っているわけではなく恥ずかしいのだと、何となく察した。
こくりと頷いて、青年は女性を連れて風呂場に去った。その後すぐに『貸し切り中』の札をかける。風呂は幾つもあるから問題ない。慌ただしい男女だが、面白いものを見せてもらった。


「行ったか?」
ぼそりとかけられた夫の声に、女主人は微笑む。
椅子に腰かけ、本を顔に乗せてくつろぐ夫は、普段は滅多に客の前に姿は現さない。
道楽亭主を決め込んでいるわけではなく、接客が苦手なだけである。食材の調達や資金管理は、彼の大事な仕事だ。
「ええ、仲直りしたみたいね。昨夜は少し口論してたから、どうなるかと思ったけど」
「よくも言う……お前が仕組んだことだろうが」
呆れた声で言いつつ、顔にかぶさっている本を取ったその下には、皺の刻まれた精悍な顔があった。漁から戻って来たばかりで機嫌が悪いように見えるが、これが彼のいつも通りの態度である。
女主人は慣れた手つきで、彼の仕事道具である銛の手入れを始めた。先端に付いた飾り石が一個足りないような気がするが、どこかで落としてきたのだろうか。
「だってあの娘でしょう、以前言ってたスラヴィエーラって。綺麗な娘ね」
「……跳ねっ返りだがな」
「会ってあげないの?会いたがってたし、きっと喜ぶわよ」
軽い揶揄をこめて女主人は尋ねる。
酒に溺れ自暴自棄になって、宿の前で倒れていたところを助けたのが縁だったが、今では彼女にとって大切な夫だ。俺はこいつと一緒になって幸せに暮らしているのだと、あの娘の前で宣言して欲しかったのかも知れない。
「縁があれば、どんなに隠れていても会っちまうもんなんだよ。おれたちのようにな」
かつての肉食獣のような獰猛な光は、その瞳には既になく。
「これほど近くにいて気付かないってのは、今はそういう運命だってことさ」

絶対に、自分からは姿を見せてやらない、と。
嘯くグレザールの口元には、老年には不釣り合いな、悪戯っ子のような笑みが浮かんでいた。






──おわり──


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