鬱金の間 夢を砕く音・後編(オリキャラ←マイスラ子供時代)


それから、約七日が経過した。
懲罰房には暦もなく、窓も無いから光も差さない。たまに運ばれる食事と髭の伸び具合で、だいたいの日にちが判る。
グレザールは、冷たい床の上に座り込み、ぼんやりと自分の膝を見つめていた。
牢に閉じ込められるのは、何も初めてではない。子供の頃、サルディアンと組んで悪戯をしでかすたびに、この暗い空間に放り込まれた。
けれど、今回は少しばかり事情が違う。彼が手を上げたのは権力者ではなく、娘のように思っていた少女、それに同僚だった。
夢晶結が新たに選んだ使い手が、まだ年端も行かぬ少女だったことに、浮城は騒然としていた。
グレザールは腫れ物に触るような扱いを受けた。逆に、スラヴィエーラは遠慮を知らない連中の質問攻めにあっていたらしい。
聞くに堪えない下品な噂が、城内を駆け巡った。上層部によって最初から仕組まれていたことではないのか、あの少女は本当に何も知らなかったのか、破妖刀を奪うために彼に近づいたのではないか。グレザールとの間に男女の関係があったのでは───等々。
しばらくは黙って耐えていたが、同僚に「お前がいなくなると寂しくなるよ」と後ろから肩を叩かれた瞬間、グレザールの中で何かが切れた。
気づいた時には、相手の身体は吹っ飛んでいた。壁に叩きつけられ動かなくなった相手を見た時、グレザールはようやく自分が何をしたのか悟った。
打ち所が悪かったらしく、同僚は骨を折った。腕利きの破妖剣士が一転して、罪人扱いである。全く人生何が起こるかわからない。
浮城の衣装を脱がされ、粗末な上下を身につけた彼に、かつての凛々しい壮年の面影は無かった。
この上ない孤独と喪失感が、彼の心を暗闇に突き落としていた。長年手元にあった温もりが、今は別の人間の元にある。
膝を抱え、背中を丸める───さながら叱られた子供のように。
もう何日も、食べ物が満足に喉を通らない。破妖剣士としての栄華を極めた男の末路が、そこにはあった。



『今までよく戦ってくれました。長年の貢献に見合った退職金は、十分に支払うつもりよ』
城長のマンスラムは、牢に捕らわれているグレザールを真っ直ぐに見つめて、労りの言葉をくれた。
しかし、すぐに表情を厳しくすると、彼の今後について命令を下した。
『あなたには二つの道が用意されています。スラヴィエーラに謝罪し、きちんと引継ぎを済ませてから仲間に別れを告げるか。誰にも何も言わず、このまま浮城を去るか』
どっちもごめんだ、と彼は思った。グレザールは悪いことなどしていない。謝るべきなのは、あの娘の方ではないか。
思いは顔に出ていたのか、マンスラムは───この城の絶対権力者である女性は、溜め息を一つ零した。
『どうして夢晶結に見限られたか、わかる?グレザール』
いいえ、と彼は答えた。本当に判らなかったのだ。
『己の弱さと向き合うこと……それが、欠けていたのではないかしら』
(どいつもこいつも、ふざけてやがる)
城長の言葉は、彼の誇りを踏みにじった。そんな風に思われていたとは心外だ。
思い出して歯軋りするグレザールの耳に、コツコツと小さな足音が聞こえてきた。軽いとも重いとも言えない微妙な足音は、牢のすぐ前で止まる。顔を上げると、そこにはマイダードがいた。
仕事先から帰ったばかりなのか、浮城の正装を身に纏い、相変わらずの仏頂面でグレザールを睨みつけている。
「……坊やか。今更、何の用だ」
グレザールは、喉の奥から皺がれた声を出す。マイダードのその様子を見れば聞くまでも無い。スラヴィエーラが傷つけられた事を知り、光の速さで文句を言いに来たのだ。
羨ましい話だ。あの娘は、何もかも持っているではないか。優れた容姿も、若さも、健康も、こうして案じてくれる友人も。その上、彼の唯一の宝である破妖刀までも奪っていった。
「判ってるくせに、いちいち聞くなよ。スラヴィに謝れ」
少年の声には怒りが滲んでいた。自分以外のことでそんなにも必死になれるのが、彼にとっては不思議で仕方ない。
純粋な子供たち。無茶苦茶に傷つけてやりたくなる。生き甲斐を失ったグレザールはこれから、ただ老いて朽ち果てて行くだけだというのに、彼らには輝かしい未来が待っているのだ。
「あんたに悪いことしたって、ずっと部屋で泣いてるんだぞ。早くここから出てきて、謝れよ!!」
頑丈な檻を揺さぶりながら、マイダードは怒りの動作を見せた。どんなに叫ぼうが、グレザールはあの娘に謝る気はないし、許すつもりもない。卑屈に笑って、少年を挑発する。
「良かったじゃないか、スラヴィエーラが浮城に残ることになって。邪魔な年寄りはいなくなるし、坊やとしては万々歳だろう」
少年の動きが止まった。グレザールは自嘲気味に言葉を続ける。
「お前、スラヴィエーラに近づきすぎるのは良くない、離れろと言ってたな。単なる嫉妬だと思ってたが、ひょっとして最初からこうなることが判ってたのか?」
牢の中で過去を回想するうちに、グレザールの中でそれは確信へと育っていた。
初めて会った時から、露骨な敵意をぶつけてきたこの少年。スラヴィエーラの手に夢晶結が渡る事を、彼は知っていたのではないか。
マイダードはしばらく迷っていたが、やがて静かに口を開いた。
「離れればどうにかなるなんて、確証は無かったけど……あんたが痩せて死にそうな顔をしてるのと、スラヴィが刀を抱いているのを、夢で見たから」
その刀がグレザールのものであるかどうかまでは、知ることが出来なかったと言う。
「夢ねえ」
グレザールは伸びてきた髭を撫で付けた。捕縛師は感覚の鋭い者が多いと聞いているが、どうやらこの少年もその口らしい。
「それじゃあ、もっと具体的に言ってくれれば、未然に防げたかもなあ?」
泣き笑いのような表情になっているのが、自分でも判る。それに気付いたマイダードが、ぷいと顔を背けた。
「忠告したって、あんたが聞く耳持たなかったんじゃないか」
確かにその通りだった。実際グレザールは、マイダードのことを気味が悪い子供だとしか思わなかったし、第三者に何を言われても、スラヴィエーラに稽古をつけるのをやめる気はなかった。
マイダード自身も半分くらいは、己の嫉妬が見せる夢だと思い込んでいたのかも知れない。何も起こらなければ、それに越した事は無いのだから。
だがもう遅い。グレザールの夢は、粉々に砕けてしまった。
「そこで何をしてるの!?」
少女の声に、マイダードは振り返った。
自室に篭っていると聞いたスラヴィエーラが、息を切らせて走ってくるところだった。
夢晶結を持っていないところを見ると、ようやく手から離れてくれたのだろう。だから、ここに来る理由が出来たのだと判った。
「スラヴィ……」
決まりの悪そうな顔をして、少年は後ずさる。
「どいて、マイダード。あなたには関係ないじゃない!」
檻に駆け寄ったスラヴィエーラは、マイダードを押しのけるようにしてグレザールの前に立つ。
「よう、破妖剣士様」
薄暗い闇の中で白い歯を覗かせ、グレザールは無理に笑って見せた。スラヴィエーラの髪が短くなっていることには、気付かない振りをしていた。それで償いのつもりなのか、子供の考えそうな事だ。
「わ、わたし……」
別人のようにやつれたグレザールを前に、スラヴィエーラは怯え、それでも懸命に己の意思を伝えようとしていた。
「信じて。あなたのものを取るつもりなんてなかったの!だって、あの刀が勝手に……」
彼女が謝れば謝るほど、グレザールは惨めになっていく。それも知らず、少女はひたすら頭を下げるのだ。
「そうだろうよ。だが、夢晶結がお前を選んだのは事実」
口にすると一層惨めだ。今のグレザールでは、破妖刀を輝かせる事は出来ない。
あれだけ長く一緒にいたのに、夢晶結はあっさりと彼を見捨て、スラヴィエーラを選んだ。どう言い繕っても、その事実は変わらない。夢晶結がこの少女を選んだと言うのなら、自分は身を引かねばなるまい。
グレザールは、破妖剣士にしては高齢だ。遅かれ早かれ、世代交代は必要だったのだ。そう言い聞かせても、目の前にいる少女に対する憤りが消えるわけではない。こうして話をしているだけで、憎しみに胸が引き裂かれそうだった。
どこで間違えてしまったのだろう。出会わなければ、互いに幸せでいられたのだろうか。
「破妖剣士長に頼んでみるわ!あなたが浮城にいられるように───」
「スラヴィエーラ」
彼は、壁に拳を打ちつけた。震動が響き、スラヴィエーラが息を詰めた。
「これ以上俺に恥をかかせないでくれ。頼む」
それは、懇願に近かった。後輩の指導をしながら余生を過ごしている仲間の姿を見て、往生際が悪いと嘲笑っていたのは自分だ。身体を壊して戦えなくなったのなら、潔く浮城を去るべきだと思っていた。実際口にも出した事がある。今になって、あの連中の仲間に入れるわけがない。
彼にはない若さと美しさを持つ少女は、破妖刀の力までも手に入れた。新しい才能は、老兵から何もかもを奪っていく。
「俺はこれから先、お前の顔を見るたびに憎しみが湧くだろう。殺意すら抱くかも知れん。そんな俺を、お前は本当に慕っていられるのか」
「グレザール……」
スラヴィエーラの体から力が抜けた。檻の前でへたり込む少女の肌も、爪も、生まれたての赤ん坊のように桃色だった。それに引き換え、自分のこの節くれだった指、傷跡の残る浅黒い皮膚はどうだ。薄くなってきた髪と、あちこち鳴る関節はどうだ。比べていると、また暗い感情が胸に立ちこめる。
「お願い、教えて。どうしたら許してもらえるの。何でもするわ、だから………」
(俺に無くて、こいつにあるものとは何だ?)
懇願する少女を冷ややかに眺めながら、グレザールは考える。城長の残した言葉が、胸の奥にしこりとなって残っている。哀れなものを見るような───実際彼は哀れだったのだが───城長の目。
若いグレザールに初めて挫折の味を知らせた、あの娘と同じ目をしていた。
───あなたといると息が詰まるのよ。
臆することなく、真っ直ぐにグレザールの目を見つめて、娘は言った。
相手が迷惑していた事に、彼はその時になるまで気づかなかった。また誘ってねと言ってくれたのは、単なる社交辞令だった。彼女と一緒に行くつもりだった芝居の券は、破り捨てた。彼女はグレザールの友人と結ばれ、いつの間にか上層部の一員となっていた。
そうか、と彼は結論付けた。俺が振られたのは俺の所為ではない。あの女は最初から地位が目当てでサルディを選んだんだ。俺に落ち度があったのではない。俺に魅力がなかったわけではない。あの女が悪いんだ。そうだ、あんな女に引っかからなくて良かった……。
『己の弱さと向き合うこと……それが、欠けていたのではないかしら』
「木刀を、持って来い」
グレザールは、スラヴィエーラの背後にいる少年に声をかけた。
「は……?」
二人の会話に耳を傾けていたマイダードは、突然に話を振られて驚いている。
グレザールがまた暴言を吐きでもしたら、すぐにでもスラヴィエーラを連れ出せるようにと身構えていたようだったが、まさか自分の方に飛んでくるとは思わなかったのだろう。
「聞こえなかったのか?木刀を持って来いと言ったんだ」
言いながら、グレザールは壁に手をつき、立ち上がった。食事を採っていない所為で足がふらつくが、歩けないほどではない。
確認する必要がある。この少女が、本当に彼にない強さを持っているのか。彼自身気付いていなかったが、スラヴィエーラのことを知ったように語った城長に対する憤りもあった。彼女の師であるグレザールが気付かなかった事を、目敏く気付いた城長。確かめたい、あの言葉が本当かどうか。
「待って。それなら、わたしが行くから」
何故マイダードなのかと顔に書いて、スラヴィエーラが身を乗り出す。
それも道理──彼女にしてみれば、マイダードとグレザールがまともに会話を交わすのを見たのは、これが初めてなのである。グレザールとの間には檻を通じてわずかの距離しかないが、両者の間にはもはや取り返しのつかない溝が出来ていた。
「その坊やに頼んでるんだよ。二人ぶんだ。急げ」
長らく動かしていなかった肩の筋肉が痛みを訴える。顔を顰めながらグレザールは後方を指差した。
正装を脱がされる際に、自殺防止のため、護身用の刃物類は全て没収されてしまった。見張りの者がいないのは、グレザールの性格やそれまでの実績を考慮しての事だ。
彼は己を罪人だとは思っていないから、逃げも隠れもしない。数日後にはここも追い出されると判っているのだから、足掻くつもりもない。
(ただ、一つだけ)
この少女が、夢晶結を託すに値する人間かどうか、感じ取る事が出来たら……。
「鍛錬室からかっぱらってこい。誰かに捕まりそうになったら、破妖剣士長に命令されたと言っとけ」
「グレザール、それは……」
スラヴィエーラがさすがに咎めるような声をかける。
「幾らなんでも、おかしいわ。わたし以外の人に迷惑をかけるのは違うでしょう。あなたは、そんな人じゃないはずよ」
この状況で、よくもそんな奇麗事が言えるものだ。
少女が思っているほど、グレザールは善人でも何でもない。あの女が言っていた通り、地位や暴力によってしか己の存在を示せない、小さい男だ。
「今更何を言う。俺はそもそも、同僚をぶん殴ったせいでここにぶち込まれたんだがな」
「でも、それはあの人が挑発したからだわ。破妖剣士長は何も悪くないじゃない」
本気で言っているとしたら、予想以上におめでたい娘だ。
「不満があるのか?それじゃあ、そこの坊やの目の前で、俺に口接けでもしてもらおうか」
少年が息を呑み、スラヴィエーラが大きく瞬きしたのが判った。無関係な人間まで傷つけるのは間違っている。これは、ただの八つ当たりだ。
少年がわなわなと震えているのを見て、グレザールは少しだけ溜飲を下げた。我ながら嫌な性格だと思った。
スラヴィエーラは彼の本心に気づかぬまま、首肯した。
「それで、グレザールの気が済むなら……」
「行くよ!行けばいいんだろ!!」
マイダードが堪りかねたように叫んだ。少女の了承の言葉を、最後まで聞きたくなかったのが明白だった。見ているこちらが気の毒になるほどに傷ついた顔をすると、スラヴィエーラの身体を強引に檻から引き離す。
「少し離れてろよ。すぐ行って来るから」
「でも、マイダード……」
「いいから!おっさん、変なこと考えたら殺すからな!」
グレザールをきっと睨みつけると、少年は牢を出て行った。階段を一気に駆け上がる足音が遠ざかっていく。
少年の背中を見送り、少女は檻の中に向き直った。
「稽古をつけてくれるの?」
離れていろと言われたにも関わらず、汚い格好のグレザールを気にもせず、スラヴィエーラは再び檻に近づく。
鉄の棒を隔てて、美と醜、未来と過去、若さと老い、勝者と敗者が向かい合っている。自分と彼女ではこんなにも違うのに、浮城の歴史を綴る書物の上では、同じ夢晶結の使い手として記録に残る。
それを思うと奇妙な気がした。同時に、自分はかつての夢晶結の主のことなど、露ほども考えていなかったことに気付いた。
「まあな」
最初から、自分だけの破妖刀だと思っていた。絶対服従する妻のように思っていた。以前の使い手が生きていたら、こんなグレザールをどのように受け止めるだろうか。
「俺は、見ての通りフラフラだ……十分なハンデだろう」
スラヴィエーラが嬉しそうな顔をしているのが、忌ま忌ましかった。
彼女を喜ばせたいわけではない。グレザールは、破妖剣士だ。剣士は言葉ではなく刃で語る。剣を交えれば、このどす黒い感情も少しは晴れるかも知れない。
「でも……わたし、この中には入れないわ。鍵を持っていないもの」
「それなら心配ない。あの坊やが何とかしてくれる」
グレザールのいる懲罰房は軽い仕置きのために用意された部屋で、本当の重罪人は、こことは別の更に頑丈な地下牢に隔離されている。罰さえ恐れなければ、懲罰房のちゃちな鍵くらい、いつでも叩き割る事が出来る。
………が、大切な少女を傷つけられたマイダードが、グレザールの言う事に素直に従うわけがない。木刀の代わりに、大人たちを連れてくるだろう。そのつもりで、彼を行かせた。
「どうしてマイダードを巻き込むの。悪いのはわたしで、あの子は関係ないのよ」
あの子、という言い方が、スラヴィエーラの中での少年の位置づけを如実に現していた。どれほど思っていても、気持ちが相手に伝わらなければ意味が無い。破妖刀でも人間でも、それは同じだ。
「知ったことか。だいたい、あの坊やは自分から進んでここに来たんだ。お前が泣いてるから、謝れってさ」
「……マイダードが」
「無神経なんだよ、お嬢ちゃんは。あんなに心配してくれる相手の気持ちを無視して、俺のような年寄りにかまけるなんざ。さっきの坊やの顔は見物だったぞ。本当に接吻すると思ったんだろうな」
グレザールの低い声が、冷たい石で囲まれた空間に響く。少女は俯いていた。彼女なりに、師の言葉と少年の言葉を思い返しているようだった。
「マイダードは、女の子なら誰にでも優しいのよ。稽古の時だって、いつも本気を出してくれなかったし」
ぽつりと漏らされた一言を、グレザールは意外に思った。
「知ってたのか……」
あの少年では相手にならないからと、わざわざグレザールを指名してきた少女。生意気な娘だと思っていたが、まさか気付いていたとは思わなかった。
「あなたと稽古してたら、嫌でも判るわ。マイダードはいつも手加減してくれてた。それって、わたしを見下してるってことじゃない。対等に見てくれていないって事でしょう」
「……それとは違うと思うが、な」
グレザールは苦笑する。知らず知らずのうちにあの少年の肩を持っているのが、妙な感じだ。
「でもグレザールは、本気で稽古してくれたし、本気で叱ってくれた。だから、グレザールに嫌われたまま破妖剣士になったって、ちっとも嬉しくなんかないわ!!」
スラヴィエーラは、この若さで自立というものに強く憧れている。育った環境が影響しているにしても、普通の少女なら、甘えたい盛りの年頃ではなかろうか。可愛い、守りたいと差し伸べられる手を振り切って、上に行く事を望む。そんな彼女を愚かだと言い切ってしまえるほど、グレザールは人生を知らない。
「俺に許されたいと思うこと自体が傲慢だ、スラヴィエーラ。逆の立場ならどうだ。相手を許すために、何が必要だ?」
少女は答えない。経験の少なさと、彼にこれ以上嫌われたくないという思いが、判断を遅らせている。
「答えられないだろう。お前はまだ、自分の命と同じほど大切なものを奪われたことがない。憎しみも知らない。父親が嫌いだそうだが、憎んだ事までは無いだろう」
親の手から逃れ、好きに羽ばたける場所を求めて来た少女は、初めてぶつけられた敵意を静かに受け止めていた。
「グレザール、わたしが憎い?」
「何度言わせれば判る。ああ憎いね、大嫌いだ。顔を見ると反吐が出る、今すぐ消えて欲しいくらいだ」
「子供相手に、ずいぶんな言い草だな」
牢の中が灯りで照らされた。近づいてくる二つの影は、大人と子供───破妖剣士長と、マイダードのものだ。
思いがけない人物の姿に気付いたスラヴィエーラは、少年に目を向けた。
「マイダード、どうして。木刀は?」
少年は黙って首を横に振った。隣にいる破妖剣士長が、スラヴィエーラに視線を移す。
「何故ここにいる、スラヴィエーラ。部屋にいろと言ったはずだ」
少年が密告したのだと悟った彼女は、驚いた顔をしたものの、本人を責める事はしなかった。代わりに、より強い相手に噛み付いていく。
「破妖剣士長こそ、どうしてグレザールをこんな所に閉じ込めておくんですか!?まるで罪人みたいに扱うなんて、あんまりじゃないですか」
「お前の身が危険だからだ」
マイダードが、乱暴な口調で遮る。その目はスラヴィエーラではなく、牢の中の男を見ていた。
「グレザール、あんたにはあんたの言い分があるんだろうけど、おれは破妖刀のことなんて知らない。ただ、守りたいだけだ」
誰を、とは言わない。グレザールが夢晶結を大事に思っているように、この少年にとって大事な存在は一つだった。
「坊やがそうすることくらい、わかってたよ」
夢晶結に捨てられた男は、少年の純情を鼻で笑う。
「けどな、甘やかすだけが愛情じゃない。スラヴィエーラはお前との飯事のような稽古より、おれとの厳しい稽古を選んだ」
それが現実だ。人は、強いだけでも、優しいだけでも駄目だ。この少年と自分を足して二で割れば、丁度良いかも知れないと、埒も無い事を思った。
「女に手を上げる奴の言う事なんか、聞きたくないね」
気丈に言い返すマイダードであったが、グレザールの言葉に動揺していることは明白だった。
少年は少女を選び、少女はグレザールを選び、グレザールは夢晶結を選んだ。そして夢晶結は、少女を新しい使い手に。誰ひとり悪くは無いのに、誰ひとりとして思いが報われないとは、皮肉なものだ。
「甘ちゃんだな、坊やは。十年経ってもその台詞を吐いてたら誉めてやるよ」
「あんた、その頃にはもう浮城にいないだろ」
「おっとそうだったな」
グレザールは皮肉げに肩を竦め、破妖剣士長を見た。いたいけな少年をからかっている場合ではなかった。彼が本当に憎むべき相手は、この少女だ。
「おいサルディ、鍵を持ってきたんだろう?」
破妖剣士長の眉がかすかに動く。彼は続けて言った。
「お前に少しでも慈悲の心があるんなら、俺をここから出して、そこの新米破妖剣士様と戦わせてくれ」
相手の目線がスラヴィエーラに移動し、再びグレザールに戻った。
「……正気か?」
「お前を相手に、冗談を言ってどうする。後で、幾らでも罰を受けるさ。スラヴィエーラと剣を交えてみたい、ほんの少しの時間だけでいいんだ」
彼は、自棄になっているのでもなんでもなかった。あの女の言葉、城長の言葉が胸に引っかかっているのもあるが───本当は、違う。
浮城を出たら二度と剣を手に取る事はないだろう。取る機会があっても自分から逃げる。だから、剣士としての自分の役割はこれが最後だ。
「何のために?」
相手の声音が告げている。スラヴィエーラや同僚に乱暴を働いたお前に、そんな要求をする権利があるとでも思っているのか、と。
この男は自らの利にならぬことはしない。それをグレザールは知っている。
「俺の中で決着をつけるためさ。お前とて、この娘がどの程度使えるか、まだ知らないんだろう。第一……」
言って、彼はちらりとスラヴィエーラを見た。
「スラヴィエーラ自身がまだ、選ばれたことに納得していないようだ。このまま俺を追い出したら、上への不信感が高まるだけだぞ」
上層部が一枚噛んでいるのではないかという噂は、本人たちの耳にも入っているはずだ。
スラヴィエーラは自分に正直だから、口にはせずとも顔だけで、大人たちへの不満をあらわにする事が出来る。上層部としては、彼女の口から下らぬ噂を否定してもらうためにも、納得の上で破妖剣士になって貰わねばならない。
もし反対されたら、檻越しにスラヴィエーラの腕を取って捻り上げて───などと物騒なことを考えていたグレザールだったが、意外にも破妖剣士長はあっさりと頷いた。
「よかろう。但し、私闘は禁じられているから、表向きは稽古という事にする。スラヴィエーラもそれで良いな」
「はい」
償いを望んでいるスラヴィエーラに、否やがあろうはずもない。
「待てよ……待って下さい!」
反対したのは、マイダードだけだった。グレザールを罰してもらうために大人を連れてきたのに、思わぬ展開になって慌てている。
「こんな乱暴な奴を、牢から出したらどうなるか!スラヴィが殺されてもいいんですか!」
猛獣扱いである。今のグレザールを見れば、そう思うのも判らないではない。髪を振り乱し髭の伸びた口元から歯を覗かせており、檻から出された瞬間に少女の喉笛に噛み付きそうではあった。
懐から鍵を出しながら、破妖剣士長はゆっくりと前に進み出る。
「心配はいらん。この男にそのような度胸があれば、とうの昔に私から奪えていたものがあるはず」
グレザールにしか判らない言葉の裏に、優越感が滲み出ていた。
この男は、親友が恋していた女性を奪ったことを、後悔すらしていない。むしろ利用し、己の力に代える───そういう男だ。
依頼を受ける時、彼女がいつもこの男の後ろにいたから、だからグレザールは決して失敗は出来なかった。サルディアンは確かに、人を使うのが上手なのだろう。自分にはその才能は無かった。
「真に、破妖剣士長様の仰る通りだ」
檻の中の獰猛な獣は、不敵に笑う。
「そういうわけだから坊や、今回は捕縛師の出る幕じゃない。黙って見てな」
少年が悔しそうに顔を歪めた。
スラヴィエーラと言えば、不安と期待の入り混じった表情で鍵が開くのを見ている。
鍵穴が、カチリと音を立てた。

グレザールは、再び来る事はないと思っていた鍛錬室に足を踏み入れた。
人払いをし、鍵をかけて閉め切った室内は、たった数日訪れていないだけなのに、妙に懐かしい気持ちが沸き起こってくる。
破妖剣士長は部外者であるマイダードを部屋から追い出そうとしたが、彼は「これも勉強ですから」と言って譲らなかった。そのしつこさには辟易したが、肝心のスラヴィエーラにも邪魔そうな顔をされていたのは、流石に気の毒に思えた。
「全くもう、人が失敗するのをそんなに見たいのかしら。嫌な奴」
スラヴィエーラは、少年が残った理由をいまいち正確に理解していないようである。稽古着に着替え、壁に立てかけてある木刀を手に取った。
グレザールも取ろうと腰を屈めた途端、軽く眩暈が襲ってきた。壁に手をつくと、それに目敏く気付いたスラヴィエーラが心配そうに言った。
「グレザール、やっぱり何かお腹に入れた方がいいわ。少し休んでからにしましょう」
以前なら温かく感じられた声が、今は酷く苛立たしい。何を寝言を言っているのか、これからその心配している当人に痛めつけられようとしているのに。
彼女の曇りの無い目を見ているのが辛く、グレザールはわざとぶっきらぼうに答えた。
「いらん。さっきお前が着替えている間に、水を飲んだ」
「でも……もう何日もろくに食べてないんでしょ?」
食欲は、本当に無いのだ。口に入れてもむかむかして結局戻してしまう。誰のせいでこんなになったと思っているのか。
「わからないのか?お前は、俺に馬鹿にされてるんだよ。体が弱って力が入らない状態でも、余裕で勝てると思われてるんだよ」
木刀を握り、彼は毒づいた。
「なぜ、俺を憎まない。父親やあの坊やには見下されたくないのに、俺なら平気なのか」
「それは、だって……グレザールだから……」
スラヴィエーラの声は小さくなる。
「いつまで無駄口を叩いてる。時間が無い、始めるぞ」
破妖剣士長の声が轟き、二人は即座に離れた。
部屋の中央に向かい合って、互いの木刀の先を触れ合わせる。目の前の少女の姿が蜻蛉のように揺らめいて見える。眼球に微かな痛みが走り、汗が目に入ったのだと判った。
そう言えば、最後に砂浴したのはいつだったか。彼を牢から出した破妖剣士長は、あえて「風呂に入れ」とは言わなかった。入浴して気持ちが緩んでは、集中力が途切れるからだ。
スラヴィエーラの持っている木刀は彼女専用のものだ。これも、グレザールが土産に買い与えた。こんな時にもそれを素直に使っている少女が憎らしい。
何故、と思う。
何故、この少女である必要があったのか。
スラヴィエーラを選んだのが夢晶結ではなく他の破妖刀だったら、どんなに嬉しかったか知れないのに。
「はじめ」
最初に踏み出したのはグレザールだった。迷いを吹っ切るように、容赦なく木刀を振り上げる。
やはり、動きは鈍くなっている。
スラヴィエーラは軽くそれを避け、グレザールの脛を狙った。木刀を弾き返すと、反動で少女がよろける。体重が軽いのと、反撃の予測が出来ていないせいだ。
「遅い!」
大きく息を吸い込み、そして吐く。続いて、肩に一撃──払ったのではなく、突いた。少女が微かに呻いた。背中を向けていても感じる、マイダードの不安そうな眼差しが心地よかった。想っている娘が目の前で傷つけられるのを見るのは、どんな気分だろう。
(俺は、好きなものを目の前で奪われたんだよ。この小娘にな!)
体重は成長すれば増えるだろうが、力の方は筋肉を鍛えねばついてこない。そして今、双方を持っているのはグレザールだった。
一撃、二撃──同じところを続けざまに攻撃する。スラヴィエーラは歯を食いしばってよろめいたが、足を踏ん張っているため転倒はしない。
三撃目を、とうとう木刀で受けた。が、グレザールの足はほとんどその場から動いていない。両者の実力の差は歴然としていた。
ふっ、とスラヴィエーラの体から力が抜ける。腕が滑ったところに反撃が来る。避けるまでもない、受けた。思ったより遙かに強い衝撃が来て、彼は内心驚いた。
スラヴィエーラ自身の力だけではない、グレザールが放った攻撃をうまく利用して撥ね返してきたのだ。
『お前は力はないが、速さと柔軟性がある。相手の攻撃を交わし、隙が出来たところに打ち込む戦法が有効だろうな』
以前教えたことを、彼女は忠実に守っている。胸がじわりと熱くなるのを、彼は止められなかった。
「はああっ!」
勢いづいたスラヴィエーラが腕を狙ってくる。足の位置を変えねば受け止められなかった。また眩暈がし、それを堪えるために頭を振ると、汗が飛散した。
妖鬼ならばまず頭や心臓を狙ってくるが、少女は手足しか攻撃してこない。魔性相手の時とは避け方が違う。
こんな小娘相手に足を大袈裟に動かして避けるのは、グレザールの誇りが許さなかった。細かい攻撃をその場で受けるたびに、腕に負担がかかる。
一方、動き回っているはずのスラヴィエーラの息は、決して乱れてはいなかった。こんな時でさえ、瞳が爛々と輝き、楽しそうに見えた。もともと、彼女は動くのが好きな性分だ。
「なぜ肩を打たない?」
師の問いに、頬を紅潮させたスラヴィエーラは明るく答えた。
「襟の奥に、青痣が見えたから……」
グレザールは肩を押さえた。押さえるとその部分は微かに痛む。浅黒い肌の上では、痣の色はさほど目立たないはずだが。
「相変わらず、目のいい奴だ。余裕で勝てると言っただろう」
「そう?息が荒いわよ」
「……減らず口を」
かつん、と木刀が絡み合った。
(この痣は、願掛けだったんだぞ。スラヴィエーラ)
苦々しい思いが口を突いて出そうになる。あの日、依頼先のパンジャで負った傷のひとつだ。一刻も早くスラヴィエーラの元に行きたくて、先を急ぐあまり隙が出来て、そこを妖鬼の太い腕で思い切り打ちつけられた。
他の傷は護り手に治して貰ったが、一番大きく残ったこの痣だけは残しておいたのだ。
───スラヴィエーラが、破妖刀に選ばれますように。
神頼みなど柄ではないと思ったが、自分に出来ることは、他になさそうだったから。
願いは叶った。それも、予想もしていなかった最悪な形で。なのに、グレザールは何故、いつまでも未練がましくこの痣を残しているのか。
こんな泥棒猫に一時でも心を許してしまった証だ。恥ずべき証だ。恋など遠い昔に諦めたはずなのに、若い娘にのぼせ上がって、性に合わないことをしてしまった証だ。
その事実は、これから彼が独りで生きていく上で、汚点になる事は間違いない。消してしまえばいいのに、何故そうしない?
(俺は、この娘に救って欲しいのか)
一太刀ごとに攻撃が正確になっていくスラヴィエーラを見下ろし、グレザールは思う。
欠けている部分を、この少女に埋めて欲しいと思っていたのか。若い自分が成し遂げられなかったことを、この少女ならば遂げられるような気がして───。
(『だから』、夢晶結はスラヴィエーラを選んだのか?)
唐突な発想が脳裏に浮かぶ。破妖刀は、使い手の気持ちに敏感だ。夢晶結がグレザールを捨てたのではなく、グレザールの方が先に、夢晶結を諦めてしまったのだとしたら………。
夢を、他人に……次世代の人間に、託そうとしたから。それで。
『俺は急いでるんだよっ!!』
あの時のグレザールは、夢晶結の事は頭に無かった。スラヴィエーラの事だけを考えていた。
どうしてかは判らない。本当に他に考えられなかったのだ。
(俺が振ったのか、あいつを)
いつしか、彼は防戦一方になっていた。続けざまに来た攻撃を、グレザールは反射的に打ち返す。スラヴィエーラの襟がずれ、首元に何かが光った。
目を凝らすと──無論、下心とは無関係に──貝殻の細工が見えた。それは、以前グレザールが彼女に贈った首飾りだった。
スラヴィエーラの一太刀が、グレザールの胴を激しく打った。負けじと、彼は少女の肩を叩いた。固いものが割れる感触とともに、震動が腕まで伝わり、彼は木刀を取り落とす。
それが床に落ちた瞬間、きん、と耳鳴りがして、思わず唾を飲み込んだ。足元がよろめき、上体が大きく傾ぐ。誰かの悲鳴が聞こえた。

気がつくと、グレザールは床に寝ていた。スラヴィエーラが、心配そうに覗き込んでいる。
「勝負あったな」
破妖剣士長の声がすぐ近くで聞こえた。気を失っていたのは、ほんの数秒のことだったらしい。
脇腹がズキズキと痛む。小娘が、思いっきりやりやがって。
彼は、目の玉だけを動かしてスラヴィエーラを見た。大きな瞳、泣き出すまいと、きつく噛みしめた唇。ぐしゃぐしゃに潰してやりたくなるような顔だ。
「……たのか」
呟くと、少女は、グレザールの唇に耳元を寄せた。
「え、なに?」
「割れたのか、貝殻」
声を出すのも辛かった。少女は思い当たったように、首にかけていた飾りをそっと外した。先ほど手ごたえがあったから、間違いない。小さな貝殻の幾つかが、粉々に砕けていた。
これで終わりだな、とグレザールは思う。
大切なものを奪った彼女が憎い。今でもそれは変わらない。けれど、グレザールの気の迷いの結果のおかげで、スラヴィエーラは怪我をすることはなかった。
(自分で守って、自分で傷つけてどうするよ)
スラヴィエーラは己の弱さもグレザールの弱さも見抜いていた。最初から。
だから素直に甘えたいと願い、許しを請い、グレザールの求めにも応じたのだ。彼女はグレザールを裏切るどころか、嘘一つついていなかったのに、そんな彼女を傷つけたのは自分だ。
今なら判る。破妖刀に捨てられたのは己の弱さゆえだ、と。
「俺の負けだ……夢晶結は、お前に、くれて、やるよ」
スラヴィエーラの方を見ないようにしながら、彼は言い切った。
言われるまでも無くそうするつもりであろう破妖剣士長と、その補佐をする女性の力を借りて、スラヴィエーラは立派な破妖剣士になるだろう。後は、優秀な護り手さえ見つかれば。
グレザールは立ち上がろうとした。思っていたよりも疲労が激しい。手を貸そうとするスラヴィエーラを押しのけ、彼は壁際に目をやった。
破妖剣士長と、マイダードがいる。
「気は済んだか?」
あの時と同じ言葉を、破妖剣士長は口に乗せた。グレザールは今度こそ、力強く頷いた。
背中に温もりを感じる。スラヴィエーラが飛びついてきたのが判った。少年の刺すような視線と、少女の体の震えを同時に味わいながら、彼は口を開く。
「今日中に荷物をまとめて、明後日に発つ。判ってると思うが、見送りになんぞ来たら、今度こそ叩きのめす」
少女がどんな顔をしているか、見たくは無かった。
「一つだけ、言わせて……稽古とか、その他色んなこと、たくさんありがとう」
震える声で、少女はそれだけ言った。
破妖剣士長も何も言わなかった。彼も当然、見送りに来る気などないだろうに。
浮城に籍を置いて数十年。本当に、色々なことがあった。楽しいことも、辛いことも。
いいだろう、浮城には新しい風が必要なのだ。老兵は消えてやる。但し、自分は謙虚な年寄りでは決してない。後ろ足で砂をかけるようにして、残った者に後味の悪い思いをさせて、逝ってやる。
グレザールは壁の方にゆっくりと歩いていった。木刀を元の位置に戻す。誰からも背中を向けたまま、鍛錬室を後にする。
「グレザール……」
「そこの坊やに、新しい首飾りを買ってもらうんだな」
スラヴィエーラと交わした会話は、それが最後だった。


グレザールは、荷物をまとめて転移門前に立った。
顔を洗い、髭を綺麗に剃り、髪を油で整えた今は、苦みばしった男前に戻っている。
城長の言っていた通り多額の退職金を受け取った彼は、しばらくはのんびりと諸国を放浪することにした。考えてみたら仕事以外で外に出ることはほとんどなかった。戻ってきた青春を、思い切り楽しむのだ。
門に触れて転移する直前、つい、周囲を見回してしまう。今にも、そこの物陰から「グレザール」と言いながら、少女が飛び出してくるのではないかと。
そしてそんな己を恥じた。
(何を期待しているんだ、俺は)
スラヴィエーラが来るはずがない。来るな、と脅したのは彼だ。
あの少女を、自分を慕ってくれる少女を、破妖刀ごと連れ去ってしまえたら、さぞかし気分がいいだろう。しかし、そうしたところでグレザールが彼女に敗北したという事実は変わらない。
(俺は負けたんだ、あの娘に)
剣の技ではない、人間としての魅力が、圧倒的に及ばなかった。
それを認めたくないから、彼女の前から逃げる。それが自分には似合っている。
そんなグレザールの横に、一人の女性が立った。そちらを見ずとも、香水の臭いですぐに判る。歳を取るにつれて服装が派手になるのは仕方ないとして、この臭いだけはどうにかならないものか。
「落ち着いたら手紙くらい寄越しなさいよ。彼が心配するわ」
書類を抱え、いかにも通りがかっただけという出で立ちは、彼女なりの気の遣い方なのだろう。こんなのでもいないよりましだと思ってしまう辺り、俺もまだまだだな、とグレザールは思った。
あれほど好きだった女性なのに、もう傍に寄られても何の感情も湧かない。かつての自分を叱りたくはなるが、彼女を責める気持ちはもう起こらない。
「あの人、ああ見えて心配性なんだから。ちょっと、聞いてるの?ザール」
「聞いてるよ、…………」
グレザールは、女性の愛称を口にしようとして、結局やめた。
何が言えるだろう。彼女は正しく、グレザールは間違っていた。他に何が言えるだろう。
彼女がサルディアンを選んだのは正解だった。今更己の過ちに気付いても、昔の、三人で友達で居た頃に戻れるはずがないのだ。
「じゃあな」
軽く手を振り、グレザールは門に触れた。

強烈な風が顔を打った。国境近くはまだ風が強い。
夢晶結がずれてはいけないと、つい習慣で腰に手を当てそうになり、苦笑する。
(ああ……そういや、もう、ないんだっけな)
グレザールは帽子を被り直すと、とりあえず一番近くの街まで歩き出した。
道に積もった砂は少女の肌のように柔らかく、グレザールの足を埋もれさせていく。
一歩、また一歩と、彼は足を踏み出す。その度に彼の唯一の居場所は遠ざかり、彼が築いた栄光も、過去のものとなっていく。
靴を買い換えなければいけないな、と彼は再び思った。これからはいつでも、好きな時に買い物が出来るのだ。
浮城の姿はまだ、そこに見えている。グレザールは一度だけ、空中に浮遊するその城塞を振り返った。そして、景気づけるように腰をパンと叩くと、再び歩き出した。
破妖剣士としての人生は終わっても、彼の寿命そのものはまだ尽きる事はない。

強い風が吹き、グレザールの足跡を音もなくかき消していった。


──おわり──



スラヴィが夢晶結に固執する理由を自分なりに考えて、こんな経緯を妄想しました。
前珠先生はそんな設定はすっかり忘れて、金パパに向かって夢晶結投げさせちゃったりしてますが……3巻の時点では、きっと何か特別な事情があるんだと思ってました。
破妖剣士の選定とか、設定は捏造ですのでご容赦を。

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