本日の献立は、煮込み麺と山菜の揚げ物、兎の肉のスープだった。 「おお………」 グレザールの好物尽くしである。ありがたい、と両手を合わせ、彼はさっそく啜り始めた。 ほかほかと湯気を立てる麺を、口の中で噛み砕く。出汁の染み込んだ具が胃袋に滑り込んで、内側から身体を温めていく。 スラヴィエーラに稽古をつけるようになって、半年ほどが経過していた。 手本を示さねばならない相手が出来たせいで、彼の生活習慣は以前とは大きく変わった。稽古に響くため酒量も減らし、逆に睡眠時間は増えていった。そうすると疲労が溜まらず、翌朝起きた時の体調が随分違う。 身体に余裕が出来ると、他人に対する余裕も生まれる。頑なで人を寄せ付けない雰囲気もいつしか消え、後輩に慕われるようにもなった。 「グレザール、こんにちはー」 浮城に入りたての子供たちが、食事を乗せた盆を持って目の前を通り過ぎていく。 麺をよく噛んで飲み込んでから、グレザールは片手を上げた。 「おう、こんちは」 子供たちはキャッキャッと笑い声を上げながら走り去った。うるさいだけだと思っていた連中も、付き合ってみれば可愛いものである。 食堂は何時も通り混雑していた。まだ食い足りないが、人は次から次へと入ってくる。これでは配膳台まで行くのも一苦労だ。椅子から腰を浮かそうとした時、ふと聞きなれた声がしたため、彼は顔を上げた。 「グレザール!」 元気がはちきれそうな声だった。見ると、食卓を三つほど隔てた向こう側で、スラヴィエーラが大きく手を振っていた。隣には、つまらなさそうな顔をした少年の姿がある。 二人は今しがた配膳待ちの列に並んだばかりらしく、何も乗っていない盆を持っている。 「待ってて。わたしが、ついでによそってきてあげる!」 グレザールは思わず、自分の手元にある空の器を見た。本日の献立が彼の好物である事を、スラヴィエーラは知っている。 (あそこから、見えたってのか?俺が麺のおかわりをしようとしていたのが) スラヴィエーラの視力が良いのは知っていたが、改めて驚かされる。おまけに、咄嗟にそこまで気を利かせるとは。食堂中の人間の視線がグレザールに集まる。恥ずかしい事は確かだが、悪い気はしなかった。 やがて、人込みを掻き分けてスラヴィエーラたちがやってきた。グレザールの向かいの席が二つ空いていたため、そこに腰掛ける。 スラヴィエーラは煮込み麺が入った器を、グレザールの前に置いた。 「はい、どうぞ。作りたてのあつあつよ」 彼の手から空の器を回収し、自分のものと重ねる。 「お前が作ったわけでもあるまいに」 憎まれ口を叩きつつも、グレザールは胸の内が温かくなるのを感じていた。 (破妖剣士になれなくとも、こいつはいい嫁さんになる) それに比べて、隣にいる少年の辛気臭さと言ったらなかった。このぶんではまだスラヴィエーラに何も言っていないに違いない。 好きなら、さっさと思いを告げれば良いのだ。別にグレザールは邪魔する気はない。行動を起こさないくせに嫉妬だけは一人前とは、男の風上にも置けぬ奴である。 「そっちの坊やは、喋らないな」 黙って麺を啜り続けるマイダードに、グレザールは言葉を投げた。この少年との間にひと悶着あったことを、スラヴィエーラは知らない。だから、少年を庇うように会話に割り込んできた。 「マイダードは、おとなしいのよ。わたしといるとよく喋るんだけど」 スラヴィエーラは少年の顔を覗き込み、「ね」と言った。 マイダードは答えない。ひたすら箸を動かしている。 「………ま、いいさ。ところでスラヴィエーラ、折角席に着いたところ悪いんだが」 「なに?」 「胡椒を取ってきてくれないか?この麺は美味いんだが、もう少し風味が欲しい」 「うん、わかったわ」 スラヴィエーラは嫌な顔一つせずに席を立つと、調味料が置いてある棚の方へ向かった。 彼女の姿が人込みに消えていくのを見計らって、グレザールは口を開く。 「そんなに俺が気に入らないか、坊や」 向かいの席で、マイダードが箸を動かすのを止める。少年とは思えぬほど、その眼差しは落ち着いていて、かつ不可解な光を宿していた。 「何度も言うが、スラヴィエーラを取る気はないと言っているだろう。あいつのことは娘のように思ってる。心配するような事は何もないぞ」 マイダードが箸を置いた。器はいつの間にか空になっている。 (食うのが早い奴だな) 若いうちからこんなに早食いでは、胃を悪くするのではないだろうか。 「こっちこそ、何度も言うぞ」 先輩に対する敬意など、微塵も感じられぬ態度だった。 自分よりも遙かに体格の大きい相手に向けて、マイダードは尊大な口調で告げる。 「おれが心配してるのは、スラヴィじゃなくて、あんただ。悪い事は言わないから、さっさとあいつから離れろ」 あまりと言えばあまりの言い方に、グレザールは言葉を失った。恋敵を憎らしく思う気持ちは理解できるが、子供だと思って下手に出ていれば、いい気になって───。 「お、前……」 食卓の下で拳を握るのと、スラヴィエーラが戻ってくるのとは、ほぼ同時だった。 「グレザール、これでいいの?」 殴られずに済んだのは、この少年にとって幸運だった。いきり立つ心を抑え、グレザールは笑顔で少女を迎える。 「ああ、悪かったな。そうそう、これだ、これを一振りすると味が違うんだよ」 スラヴィエーラが席に着くのと入れ替りに、マイダードが立ち上がる。 「先に行ってるぞ」 「え!?」 少年が逃げたのは、グレザールの鉄拳を恐れたというよりは、彼と一緒にいるスラヴィエーラを見たくなかったからだ、と判った。 ここまで態度が露骨なのに、スラヴィエーラはまるで気付かない。 「……もう、何なのかしらあいつ」 ふてくされて椅子に座る。柔らかそうな頬が空気を含んで膨れるのを、グレザールはぼんやり見ていた。 形はどうあれ、この少女には幸せになって欲しかった。破妖剣士になる夢は叶わずとも、あの少年が捕縛師として大成して彼女を守ってくれるのなら、それも良いと。 しかし肝心の少年は随分と頼りなく神経質そうである。あんなのには、とても任せられない。 だからと言って、自分が名乗り出るほど図々しくはなかった。スラヴィエーラに一生付き合うには、体力も余命も足りないのだから。 今日は稽古も仕事もないため、久しぶりに夢晶結の手入れをすることにした。 障害物を部屋の隅に押しやっただけの『掃除』を済ませると、グレザールはどっかりと部屋の中央にあぐらをかいた。鞘を抜くと、乙女の素足のような美しい刀身が現れる。魔性の魂を啜る妖刀には、とても見えない。 グレザールは、棒の先端に柔らかい綿を括り付けたもので、刃先にそって優しく叩いた。 「……気持ちがいいか、夢晶結」 答えはない。この破妖刀が反応を示すのは、魔性が近くにいる時だけだ。 それでも、彼には判る。戦いの中で、破妖刀の思いと己の思いが一つになるのが。その高揚感と一体感は、筆舌に尽くしがたい。女も作らずに満足していられるのは、この刀の所為かも知れない。寡黙でありながら仕事はきっちりとこなす破妖刀と比べたら、我侭放題の人間の女など無価値にも等しかった。 破妖刀は、彼に何も求めない。彼の手に結果だけを残してくれる。何度も彼の命を救ってきた、愛しい存在、大切な存在。これほどまでに魅せられるモノはない。 魔性に悪夢を見せるという破妖刀は、磨かれるたびに輝きを増し、薄暗い部屋に光を反射させた。 「綺麗だ、お前は。………この世のどんなものよりも綺麗だ」 布越しに伝わる、夢晶結のひんやりとした感触に、彼は束の間陶酔する。この刀が自分を選んでくれた事が、何よりの誇りだった。 「グレザール、ちょっといいかしら」 扉の向こうから投げかけられた女性の声が、静寂を破る。恋人との逢瀬を邪魔された気分で、グレザールは不快を隠そうともせずに答えた。 「なんだ」 刃先を傷つけないよう、夢晶結を静かに床に置く。扉の隙間から少しだけ覗く、派手な色彩の服。破妖剣士長サルディアンの背後霊……もとい、腰巾着の女性だ。 「ここを開けて頂戴。大事な話があるのよ」 グレザールはしぶしぶ扉を開けた。女性は許しも得ないうちから彼の部屋に立ち入ると、偉そうに顎をしゃくって、扉を閉めるよう促した。 (生意気な女め……) 破妖剣士長と懇ろなのを良い事に、同期のグレザールまで部下扱いである。身体さえ差し出せば出世できるのだから、女は得だ。 「今日は、破妖剣士長のお守りはいいのか?」 グレザールは平静を装い、窓の方へ向かった。自分としては暗い方が落ち着くのだが、客が来たからには雨戸を開けねばなるまい。面倒な話だ。 女性は腕を組み、独り者の破妖剣士の室内をくまなく見回した。少し皺が浮かび始めた目尻は、しかしまだ若い頃の美しさを保っている。彼女の場合、容姿は死活問題なのだから、それは必死にもなるだろう。 「彼は出張中なのよ。それで、代わりに私が来たというわけ。相変わらず、まともに掃除もしていないのね」 光の差し込んだ室内は、生活感に溢れていた。四隅に荷物が寄せてあり、寝台には衣類が渦高く積まれている。 「ほっとけ。それより、代わりってなんだ。破妖剣士長が俺に用事なんざ、………」 思い当たる事があったため、グレザールは口を噤んだ。そんな彼を見て、女性は目を細める。 床に寝そべる夢晶結の刀身が、窓から差し込む陽光に照らされて輝いていた。破妖刀はまさしく浮城の命綱、浮城の宝だ。 「スラヴィエーラとは、うまくやっているみたいね。彼も喜んでいたわ、最近あなたの生活態度が良好だって」 女性の言葉はまるで何かのお告げのように、グレザールの耳に響いた。真っ直ぐに彼女と向かい合い、彼は大きく息を吐いた。 「別に、あいつを喜ばせるために、スラヴィエーラの世話を引き受けたわけじゃないんだが。……それで?」 この半年で、スラヴィエーラはめきめきと剣の腕を上げていた。グレザールも、彼女に教えるのが楽しかった。だから、この奇妙な師弟関係がいずれは終わりを迎えることを、なるべく意識の隅に追いやるように努めていた。 叶うのなら、いつまでもスラヴィエーラの師でいたい。そんなささやかな願いに、この女性は引導を渡しに来たのだ。 「彼が戻ってしばらくしたら、スラヴィエーラを宝物庫へ連れて行くことにしたわ。そこで破妖刀に『選ばせる』。これはもう決定したことよ」 グレザールはぐっと唇を引き結んだ。覚悟はしていたつもりだったが、やはりそう簡単には割り切れない。 浮城にはスラヴィエーラ以外にも、捕縛師の資格が取れない、才能がないと判断された子供たちが、何人か存在する。彼らとともに、近日、破妖刀の眠る宝物庫へ連れて行く。そこで破妖刀のいずれにも選ばれなければ、スラヴィエーラは浮城を去らなければならない。 「才能のない子を長く飼っておくほど、いまの浮城には余裕がないのよね」 のんびりとした女性の言葉が、グレザールの神経を逆撫でした。あの溌剌とした少女を、そして夢に向かって懸命に努力している子供たちを、『飼う』とは。 「思いあがるのもいい加減にしろよ。俺たちとあいつらと、何が違うんだ。同じ人間じゃないか」 怒りに震える彼を、女性は面白そうに眺めている。 「あら、情が移ったの?以前のあなたなら、そうか、の一言で済ませたでしょうに」 笑いながら、長い髪をかき上げる。 「この仕事はね、人間を道具だと思えるくらい、非情に徹しないといけないの。魔性を相手にするのとは、また違った辛さがあるのよ。筋肉馬鹿のあなたには判らないでしょうけど」 「判りたくもないね」 グレザールは吐き捨てた。握った拳を、力任せに近くの壁に叩きつける。 この女は、スラヴィエーラがどんなに健気で愛らしいか、知りもしないから、そんな勝手なことが言える。幾度も剣を交えていれば、あの温かさを知っていれば、才能がないと知っても、物のように切り捨てるなど出来はしない。 「私を責める暇があったら、上層部に噛み付いてご覧なさいな。あなたも所詮は、飼い犬なのよ。使えなくなれば捨てられる」 「何だと……」 こめかみに血管が浮かぶ。破妖剣士としての彼を侮辱する輩は、女だからと言って容赦する気はない。 グレザールの手が、女性の胸倉を掴んだ。相手は怯まなかった。化粧の濃い、美しさを装った顔が、すぐ間近にある。 「根に持っているんでしょう。あの時、あなたじゃなくて彼を選んだから」 長い袖口から伸びた女の指が、グレザールの顎を捕らえた。 遠く、懐かしく、そして苦い記憶が、彼を支配した。ごめんなさい、と頭を下げる若い娘の姿が、目の前の女性と重なる。 気持ちは嬉しいけど、あなたと一緒にいるのは酷く窮屈なの。だから、もう誘わないで。私は、………が好きなの、ごめんなさい。 グレザールが恋していた娘はもう、どこにもいない。残ったのは、権力に諂う醜悪な女だけだった。 「残念だわ。あなたにこんな可愛いところがあると知ってたら、私だって………」 首筋に温かいものが触れた。それが女の唇であると知った瞬間、頭の中に一人の少女の姿が、鮮明に浮かび上がった。 「どけっ!!」 女性を突き飛ばすと、グレザールは部屋を飛び出した。何かが何かにぶつかる音と、かすかな悲鳴が聞こえたが、知ったことではない。 廊下を走り、スラヴィエーラの部屋へ向かった。途中で擦れ違う人間にぶつかる。これも知ったことではない。 「スラヴィエーラ!いるか!!」 辿り着いた部屋の扉を、何度も叩く。手が痛くなるほど。 「グレザール!?どうしたの」 すぐに慌てたような声がして、扉が開いた。昼寝をしていたのか、眠そうに瞼を擦りながら、スラヴィエーラが姿を現す。彼女の姿を見て、グレザールは安堵の息を吐いた。ここにいてくれる、ただそれだけの事が、どれだけ有難いかようやく判った。 「あの坊や………マイダードはどうした?朝は一緒にいただろう」 「今日は仕事ですって。さっき、先輩にくっついて出かけたわ」 グレザールは舌打ちした。この大事な時に、使えない餓鬼である。彼女に浮城を去って欲しくない気持ちは、あの少年も同じであろうに、何を悠長に構えているのか。 「本当に、どうしたの?疲れてるみたい。何かあったの?」 肩で息をしているグレザールを見て、スラヴィエーラは心配そうな顔をした。 彼女のひたむきさは、戦いで荒んでいた彼の心を心地よく癒してくれた。この娘は、スラヴィエーラは、これからの浮城には必要な存在だ。贔屓目ではなく、彼はそう思った。 少女の白い手が、汗の浮かぶ額にそっと触れる。その手を彼は強く掴み、自分の胸元に引き寄せた。 「いいか、スラヴィエーラ。落ち着いてよく聞け」 顔を近づけると、少女は赤くなった。 「う、うん……」 「破妖剣士長が戻ったら、宝物庫に行くようにとの指示があった」 スラヴィエーラの表情が凍りついた。それが何を意味するのか、浮城に入った者なら誰もが知っている。 破妖剣士になるための選定が、そこで行われるのだ。捕縛師にも魅縛師にもなれなかった者の、それは最後の砦。 こくり、と少女の喉が鳴る。彼女が今、何を思っているのか、グレザールには痛いほど判った。この半年、どれだけ彼女が努力してきたか、誰よりもよく知っているから。 だが、努力だけでは破妖刀は手に入らない。スラヴィエーラの運命は、破妖刀の胸先三寸────刀だから、刃先三寸と言うべきか────にかかっている。 「そっか……」 様々な感情を押し殺した声が、スラヴィエーラの唇から漏れた。そんな表情は、彼女には似合わない。思いを隠さないのが、彼女の良いところなのに。 「そう、だよね。判ったわ。いよいよ、この日が来たんだ……」 覚悟は出来ている、と少女は呟いた。内心の動揺を堪えようと小刻みに震えるその肢体は、いつもより数倍は儚げに見えた。 自分の手を握って励まそうとしているグレザールに、少女は精一杯の笑顔を向けた。 「グレザール、今までありが……」 「諦めるな。まだ決まったわけじゃない」 そう言いつつも、可能性が限りなく低い事を、グレザールも認識していた。 現在、使い手が見つからぬまま宝物庫で眠っている破妖刀は全部で四振り。そのいずれも、ここ数十年は主を選んだ試しがない。破妖刀に選ばれる確率は、捕縛師になれる確率よりも遙かに低いのだ。 「お前は、どうしても破妖剣士になりたかったから、俺の指導を受けたんだろう。ならば、最後まで毅然としていろ。この期に及んで、弱気になってどうする!?」 少女の手をきつく握り、グレザールは叱咤した。己自身を奮い立たせるように。 「うん、そうね。ごめんなさい」 スラヴィエーラは弱々しく頷いて見せた。 「試す前から、諦めちゃだめよね。泣くのはそれからでも遅くないんだもの」 「いい子だ」 グレザールは、少女の頭をくしゃくしゃと撫でた。 半年の間に、スラヴィエーラの髪は随分と伸びていた。出会った頃は肩の辺りだったのが、今は背中まで届いている。稽古の時は邪魔だからと言って束ねているのだが、髪を下ろすとどこかのお姫様のようで、可愛らしい。 「……お前さえ良かったら、当日は俺も同伴できるよう、サルディアンの阿呆に頼んでやろうか?」 ふと思いついたことを口に乗せると、スラヴィエーラは目を瞬かせた。 「ほんと?一緒に来てくれるの?」 グレザールは強く頷いた。 「可愛い弟子の巣立ちの時だ。当然だろう」 結果がどうあれ、最後まで見届けるのが、師匠の役目だ。今の彼には、それくらいの事しかしてやれない。 それで、スラヴィエーラが心置きなく旅立てるのなら………。 「ありがとう、グレザール。本当は、心細かったの!」 本心からの笑顔を見せる少女の手を硬く握りしめて、グレザールは祈った。 どんな結末が待っていようとも、この少女にとってのそれが明るいものであるように、祈っていた。 「依頼?」 破妖剣士長の口から出た言葉に、グレザールは呆然とした。 驚いたのは、依頼があったことに対してではない。確かに最近、年の所為もあって仕事の数そのものは減っていたが、彼が驚いたのはその日取りに、である。 「そうだ。東の島国パンジャで、妖鬼が暴れて困っているそうだ。今すぐに行ってもらう」 破妖剣士長は、机の上に広げたぶ厚い書類をめくりながら、事も無げに言い放った。 気安く言ってくれるが、辺境の島国パンジャと言えば、舟でも片道三日近くかかる距離ではないか。それも、今すぐに、だと? グレザールは、目の前の貧相な男を、穴の開くほど見つめた。先日、頭を下げて頼み込んだ事を、よもや忘れているのではなかろうか。 「……スラヴィエーラの選定式は、一週間後の早朝ではなかったでしょうか」 冷や汗を垂らしつつ尋ねると、相手は平然と返してきた。 「それが?」 ぶちっ、と何かが切れた。 「間に合わねーじゃねーか!!」 「前もって言ってあっただろう、選定式には俺も立ち会いたいって!そんなに嫌がらせがしたいか、この禿げ頭!!」 思ったことを躊躇いなく口にするというのは、何と気持ちがいいのだろう。相手が権力者ならば尚更だ。尤もそういう大人は、例外なく世間の爪弾きにあい、人知れず消えていくのだが。 権力者の背後に控えた女性、そしてグレザールがかつて恋していた女性が、失礼な彼を嗜めようと、一歩前に進み出る。破妖剣士長はそれを手で制すると、落ち着き払った態度で口を開いた。 「私情より任務を優先させるのは、浮城の民ならば当然だろう。お前は苦しんでいる人々を放っておきたいのか?」 正論も、吐く相手によっては邪論に聞こえる事がある。 「他の奴がいるだろうが、他の!」 「あいにく、手が空いている破妖剣士はお前しかおらん。お前に是非にという話だ」 目の前に書類が突き出される。依頼書と、依頼人との待ち合わせ場所が記入された地図と、旅費の入った封筒が紐で一括りにしてある。こんな薄い紙切れに人生を左右されるのが、浮城の人間の悲しいところだ。 「こうしている間にも、時間は過ぎていくぞ。早く片付けてくれば、間に合うかも知れん」 嘲笑うような響きが、その声に滲んでいた。 「くっ……覚えてろよ!すぐに戻ってきてやる!」 破妖剣士長の手から書類をひったくると、グレザールは駆け出した。 妖鬼を一刀のもとに斬り伏せる破妖剣士を目の当たりにして、依頼人は腰を抜かしていた。鬼気迫る、と言う表現が、これほど似合う男もいるまい。 妖鬼は全部で四体ほどいた。そのうちの三体は、既にグレザールによって砂塵と化している。勝てないと悟った最後の一体は、ありもしない尻尾を巻いて逃げ出そうとした。その背中に、グレザールはとどめの一太刀を浴びせかける。 「俺は、急いでるんだよっ!手間取らせんじゃねえええっ!!」 四十近いとは思えぬ動きで、彼は刀を振り下ろした。龍を思わせる鬣の生えた背中が、ぱっくりと二つに裂ける。一拍置いて、凄まじい勢いで体液が噴出した。 何かに憑かれたように破妖刀を振り回す男、その周囲に次々と撒き散らされる、毒々しい体液の雨。地獄絵図としか言いようがない。 青ざめ震えている依頼人をひょいと抱えあげると、グレザールは元来た道を全力疾走し始める。 「これで全部だな!?おい、聞いてるのかあんた!」 「ひいいっ。ぜ、全部です、間違いありません!」 答えを受け、グレザールは白い歯を見せてにっかり笑う。 「おし、依頼完遂!戻るぞ!」 依頼人はすっかり怯えきっており、浮城に払う報酬とは別に、グレザールの手に紙幣を握らせた。こういうものを受け取るのは禁止されているのだが、相手があまりにも必死なので、しぶしぶ受け取った。 機嫌を損ねたら、取って食われるとでも思っているのか。助けてやったのに失礼な話である。 幸いにも、舟は嵐にも遭わず、無事に国境まで辿り着いた。転移門を経て、浮城へ。帰りなれたいつもの帰路が、今日ばかりは特別なものに感じられる。 普段ならばスラヴィエーラに土産を買っていくところだが、今はそれどころではない。一刻も早く、彼女の傍に行ってやらねば。その思いだけが、グレザールを動かしていた。 転移を終え、門に寄りかかって荒い息を吐く。腰に下げた夢晶結が、ひどく重く感じられる。しかし、これを部屋に置いて、のんびり着替えている時間などない。 もう既に日の出の時刻だった。選定式は、とっくに始まっている。 「待ってろよ、スラヴィエーラ……」 愛弟子のために、砂塵に塗れた身体を引きずるようにしながら、グレザールは宝物庫の方角へ向かった。宝物庫は地下にあり、城長、捕縛師長、魅縛師長、そして破妖剣士長が持つ鍵がなければ入れないようになっている。 当然ながら、扉は内側から閉まっていた。中では数人の人物が蠢く気配がする。それを確認すると、グレザールは荒々しく扉を叩いた。 「おい、開けろ!入れてくれ!」 ややあって、破妖剣士長の、呆気に取られたような声が返ってきた。 「グレザールか。これは驚いた……本当に間に合うとはな」 「俺は不可能を可能にする男だ!さっさと開けろ!」 唾を飛ばして喚く。階段を登ってくる音がして、重い閂が開けられた。サルディアンの呆れ顔が、そこにあった。 「一日足らずで片付けたのか……」 「悪いかよ。先に行くぞ」 上司の身体を押しのけるようにして、階下に足を踏み出す。足の裏には、冷たい石段の感触がある。そろそろ、この靴も買い換えねばなるまい。 (今行くぞ、スラヴィエーラ) 一人で、さぞかし心細い思いをしているだろう。最後の時くらい、傍にいてやりたい。 腰の夢晶結がカタカタと揺れる。乱暴に結わえ付けてきたため、やや紐が緩くなっている。 「悪いな、少しの辛抱だ、大人しくしててくれよ」 相棒の柄を、まるで『いい子いい子』するように撫でると、グレザールは階段を一気に駆け下りた。 階段を降りていくと、下の方から埃臭い匂いが漂ってくる。 普段あまり使われることがないため、清掃の行き届いていない地下倉庫は───浮城の構造上『地下』というのもおかしな話だが、便宜上そう呼んでいる───住人の中でもかなりの古株であるグレザールさえも、まだ一度しか足を運んだことがない。 彼が浮城に入った時は、まず最初にこの宝物庫に通された。そこで破妖刀に選ばれなかった者が、捕縛師や魅縛師を目指した。今は破妖刀の数が減った所為か、選定の順番が逆になっているから、結果的に子供たちにとっては辛い事になっている。 (しかし、変わっていないな……) 懐かしさを覚えながら、グレザールは壁の亀裂に手を這わせた。 浮城に入って初めて通された部屋だ。あの頃は子供の数が多く、この階段の辺りまで一列に並んでいた。倉庫の奥では、蝋燭の灯りに囲まれた子供たちが並んでいた。せいぜい六、七人しかおらず、顔は一様に不安で強張り、裁判を待つ罪人のように青白い。 スラヴィエーラは、一番後ろにいた。近づいてくるグレザールを見ると、泣き出しそうな顔になった。 「遅くなって、悪かった」 かすかな胸の痛みを覚えつつ、彼はスラヴィエーラに駆け寄る。本当は抱きしめてやりたかったが、人目があるのでそれは出来ない。ただでさえ彼は、特別な許可を貰ってここにいるのだから。 彼を足止めした張本人である破妖剣士長が、燭台を片手に降りてくる。 「ではこれより、儀式を始めるとしよう。まず───」 長々と口上を述べる男を睨み付け、グレザールはぼそりと毒づく。 「あの阿呆が余計な仕事を入れなきゃ、部屋まで迎えに行ってやれたんだが………」 「ううん。来てくれて、嬉しい」 無理をして笑みを作る少女が痛々しかった。グレザールは子供たちの視線の先を追う。そこには、古くなった寝台に布をかけただけの、急ごしらえの台座が置いてあった。 布の上では、保存用の鞘から取り出された四振りの破妖刀が、それぞれ神々しい光を放って並んでいた。 「いよいよ……か」 その光景に、既視感を覚える。スラヴィエーラが、大きく深呼吸をした。 「何をしている。先頭の者から、順にそれに触れるのだ」 破妖剣士長の厳しい声が、背後から響いてくる。生き残れるかどうかの運命を決める瀬戸際なのに、情緒もへったくれもない。この男はもう、何度も同じ光景を目にしてきたのだろう。 先頭にいる、顔にそばかすの浮いた少年が、意を決したように台へと歩み寄り、一番左側の破妖刀に手を伸ばした。 指先で、柄にそっと触れる。力が宿るのは『刀身』のみで、鞘自体はごく普通のものである。それでも、自分が選んだ相手には必ず何らかの反応を示すのだから、破妖刀とは恐ろしい。 破妖刀からは、何の反応もなかった。 少年の顔が落胆に染まる。何か呟きながら、俯いて拳を握り締めた。 「次」 無機質な破妖剣士長の声に合わせて、少年の体が右側へずれる。続いて、二番目の子供が前に進み出て、先ほど先頭の少年が触れた箇所に手を伸ばす。 今度も、何の反応もない。先頭にいた少年は、既に左から二番目の破妖刀に触れている。 「次」 縦列が崩れ、横に伸びていく。スラヴィエーラは七番目である。どんなに気丈に構えていても、やはりまだ幼い少女だ。自分の順番が近づいてくると、グレザールの手を、助けを求めるようにぎゅっと握った。 大きな澄んだ目が、グレザールを不安げに見つめている。あの坊やにこの表情を見せたら、一発で陥落するだろうな、と考えた。 役立たずの口先だけの餓鬼はここにはいない。見守ってやれるのはグレザールだけだ。 「大丈夫だ」 彼には、それしか言えない。他に、何も出来ない。あの頃の自分ならどんな言葉をかけて欲しいか考えてみたが、いかんせん昔のことで記憶が色褪せている。 この少女と自分とは違う。助言はしても、全く同じ道を示すことは出来ない。 気付けば、先頭にいた子供が、最後の破妖刀の前でがっくりと膝をついていた。破妖剣士長が、遠くから感情のこもらぬ声をかける。 「ご苦労だった」 その言葉は、お前は用無しだ、と同義である。少年の肩は震えていた。破妖剣士長にとっては見慣れた光景でも、この少年にとっては、初めて味わう屈辱だ。 「荷物をまとめて、親しい連中には挨拶をしておくように」 「うう、うう……っぅぅ……」 少年はすすり泣き、よろよろと立ち上がった。部屋の隅まで行くと、膝を抱えて座り込む。子供たちの間にざわめきが広がる。見ているグレザールまで、何やら胃の辺りが痛くなってきた。 (……ひどいもんだな) 次第に思い出してきた。彼が幼い頃、破妖刀を抱えて浮かれていたその傍らで、泣いていた子供がいたことを。 選ばれたグレザールは舞い上がっていて、彼のことは目に入っていなかった。その子の名前すらも今は忘れてしまっていた。あの子供は今頃、どこで何をして生きているのか。幸せになっているといいのだが。 破妖刀のお気に召さなかった子供たちは、大人しく壁際に並んでいる。彼らはこれから新しい勤め先を手配してもらい、親しくなった友人とも別れなくてはならない。 蝋燭に照らされたその表情を注意してよく見れば、涙ぐむ者、落胆している者、どこか安堵したような顔をしている者と様々だった。 そしていよいよ、スラヴィエーラの番がやってきた。 「次」 びくっと身体を震わせた彼女は、しかし今度はグレザールの顔を見ずに、毅然と背筋を伸ばして足を踏み出した。 硬く繋いでいた手が、ゆっくりと離れていく。───離れていく。少女の後ろ姿を、グレザールは静かに見つめていた。もちろん内心は穏やかではない。 破妖刀が置いてある台の前に立つ。白い手が、一振り目の破妖刀に伸びる。 その間にも、列は流れていた。最後の破妖刀に触れ終わっても、誰もが最初の少年ほど嘆きはしなかった。肩を落とし、無言で壁に並ぶ。 スラヴィエーラの手が破妖刀の鞘に触れ、掴んだ。これまで同様、何の反応もない。 「やはり、駄目か……次」 破妖剣士長の声には、それまでとは異なりやや残念そうな響きがあった。彼女の頑張りを買っているのは、グレザールだけではなかったと言うことか。だが人間の下す評価など破妖刀の前には全く意味を成さない。 スラヴィエーラは体を横に移動させ、次の破妖刀に触れる。彼女の心臓の鼓動が、こちらにも伝わってくるようだった。脇の下を、ひんやりとした汗が伝う。 (頑張るんだ、スラヴィエーラ) 心の中で応援を投げかける。彼女は、自分の何倍も辛いのだ。最後まで見守ってやらなければ。 二振り目、三振り目。少女は普段の様子からは想像も出来ないほど慎重な動作で、破妖刀に触れていく。その度に、破妖剣士長は大袈裟な溜め息をつき、首を左右に振るのだった。 「次……」 とうとう、少女は最後の破妖刀の前に立った。彼女の努力が実るか否かは、この一瞬にかかっている。 グレザールの胃が、またキュッと痛んだ。人事だと思っていたのに……思おうとしたのに、この少女のひたむきさには、無性に心を突き動かされる。 スラヴィエーラは、なかなか鞘に触れようとしなかった。指先が凍りついたように動かない。 冷血な破妖剣士長が、それを急かす。 「どうした、早くしろ」 子供たちも固唾を呑んで見守っている。スラヴィエーラは肩を震わせていた。 泣いても笑っても、これが最後だ。この破妖刀が反応しなければ、彼女は浮城を出て行く。 スラヴィエーラと過ごした日々は決して長くはなかったけれど、グレザールの人生の中で最も充実した時期だったと断言できる。 だからこそ──。 グレザールは、ゆっくりと前に歩み出た。破妖剣士長が咎めるような目をこちらへ向けた。儀式の邪魔をしないことを条件に見学を許されたのだから、まあ無理もない。 しかし、この状況で手を差し伸べたいと思わない人間が、果たしているだろうか? 「……スラヴィエーラ。覚悟は決めたんだろう」 無骨な破妖剣士は、この場に相応しい言葉をかけてやれるほど器用ではない。それでも、少女の背中を押すことぐらいは出来る。 少女がこくりと頷いた。固く結んでいた紐が解けるように、その指がしっかりと破妖刀の鞘を掴む。 破妖刀はただ静かに、そこにある。スラヴィエーラは、掴む位置をずらしてもう一度握り直した。 破妖刀は微動だにしない。何度握り直しても、それらしい反応はなかった。 グレザールの心が重くなる。やはり、神は彼女を見放したか──。 「………もういい」 破妖剣士長の声が、その場の沈黙を破る。 のろのろとそちらを見るスラヴィエーラに、彼は告げた。 「以上で、儀式は終了だ。各自部屋に戻って、今後の指示を待つように」 その言葉と同時に、スラヴィエーラの体がぐらりと傾いだ。グレザールは慌てて彼女を抱きとめる。 「スラヴィエーラ!」 グレザールの腰に括り付けた紐が、弾みでするりと解けた。 硬い音が周囲に響き、彼の所持する破妖刀───『夢晶結』が床に転がる。腰から離れた鞘が、橙色に光った。光ったのは一瞬だけだった。 破妖剣士長が怪訝そうに眉をひそめたが、グレザールにはそれが見えていなかった。目の前の少女を救うことを優先していたからだ。 人の目など、もはや気にならない。どうせこれでお別れなのだから。 「気を確かに持て。大丈夫か?」 すんでのところで、床に頭を打ち付けるところだった少女を横抱きにし、グレザールはしきりにその頬を叩いた。 思っていたより失望が大きかったらしい。瞼を開けはしたが、スラヴィエーラの顔は青ざめていた。 「平気……朝ごはん、抜きだったから、多分貧血よ」 「馬鹿野郎、心配させやがって」 グレザールは本気で怒っていた。彼女にではなく、彼女をこんな目に遭わせる運命に対して。 ガンダル神は、いったい何を見ているのか。あんなに頑張っていたのだから、破妖刀の一振りや二振り、与えてやれば良いものを。 「せっかく色々教えてくれたのに、無駄になっちゃった」 力なく微笑む少女の顔を覗き込み、彼は首を横に振った。 「そんな事はない。お前は十分よくやった」 「うん……」 本物の父と娘のような会話だった。スラヴィエーラは強い少女だ。今は辛くとも必ず立ち直って、また新たな目標を抱くだろう。 それを見守れないのは残念だが、グレザールもこの半年の間に、いい勉強をさせてもらった。 (あの坊やも気の毒にな……) 最後くらい、きちんと思いを伝えられれば良いのだが。スラヴィエーラが喜ぶか否かは別として。 「俺は、お前に会えてよかったと思っているよ」 それは不器用な彼なりの、精一杯の励ましの言葉だった。己の中に、こんな優しい気持ちがある事を教えてくれた少女のことは、恐らく一生忘れない。 「お前なら、きっとどこだって生きていけるさ。俺が保証してやる」 床に座らせてやると、スラヴィエーラは随分小さく見えた。 年齢の割に手足が細すぎる。鍛えてやりたいと思っても、もう二度と稽古をつけてやることは出来ないのだ。 「ありがとう。わたしも、あなたに会えて本当に………」 無粋な声が割り込んだのは、その時だった。 「待て、スラヴィエーラ」 尋常でない迫力を宿した声音に、その場にいた子供たちのみならず、グレザールまでもが目を見開く。 燭台を持った破妖剣士長が、低い足音を立てて歩み寄ってくるところだった。グレザールたちの目の前で立ち止まると、傲然とした表情で彼らを見下ろす。 「まだ終わってはおらん」 訝しげに思いながらも、グレザールは反応を返せずにいた。この男が、何を言わんとしているか掴めなかったからだ。 (……なんだ、こいつ?) 終わってはいないとは、どういう意味なのか。彼女はもう十分戦ったではないか。 スラヴィエーラは困惑したように相手を見つめた。それはグレザールも同じだった。破妖剣士長の視線が、床に転がる夢晶結に注がれる。──何故か、ぎくりとした。 次に彼は、同じく床から動けずにいる少女に視線を戻し、静かに告げた。 「この刀……『夢晶結』に触れてみるがいい」 その言葉に、少女は息を呑んだ。子供たちの囁きでざわついていた室内が、水を打ったように静まり返る。 「……お」 最初に口を開いたのは、スラヴィエーラではなかった。 「おいおいちょっと待ってくれよ」 薄笑いを浮かべながら、グレザールは夢晶結を素早く拾い、腕に抱いた。 余裕の無い動きだった。お気に入りの玩具を取り上げられそうになって、焦る子供のように。 「こいつは俺の破妖刀だぞ?何を血迷ったことを言ってるんだ、サルディ」 つい昔の呼び名で話しかける彼を、破妖剣士長は冷ややかに両断する。 「お前は黙っていろ」 厳格な性格で知られる、破妖剣士長サルディアン。その表情はどこまでも冷たく、およそ体温というものを感じなかった。 冗談でも何でもなく、本気で言っているのだと悟り、グレザールの顔は引きつった。 夢晶結は彼の長年の相棒である。それが判っているはずのこの男が、いきなり何を言い出すのか? 「黙っていられるかよ。とうとう耄碌しちまったのか。こいつには俺という使い手がいるんだぞ」 不安が足元から忍び寄ってくるのを感じながら、グレザールは言った。 触るだけで気が済むのなら、触らせてやればいい。それでこの男の気が済むのなら、差し出せばいいではないか。 ───なのに、この不安は何だろう? グレザールは動けない。逃げ出すことも出来なかった。 「命令だ。スラヴィエーラにその刀を渡せ」 有無を言わせぬ響きが、その声にはあった。二人のやり取りを聞いて、スラヴィエーラは戸惑っている。 衣擦れの音と共に、破妖剣士長が一歩前に踏み出した。 「『夢晶結』と通じ合っているというのなら、触らせても問題はないはずだ。違うか?」 「なんで……」 不意打ちを食らった気分で、グレザールは呆然と呟いた。 「なんでそんなに自信満々なんだ。俺は稽古の時だって、スラヴィエーラに夢晶結を触らせたことなんて無いぞ」 「だから、言っている。お前は気づかなかったかも知れんが、先ほどわずかに反応を示したのだ」 「何が」 破妖剣士長が馬鹿にしたように目を眇めた。 「夢晶結に決まっている。私とて、伊達に何年も破妖刀の選定式に立ち会っているわけではない。その刀は、スラヴィエーラに関心を抱いている」 焦る心のままに、グレザールは夢晶結を背後に隠そうとした。 その時、破妖剣士長の持っていた燭台の炎がふっと消えた───いや、故意に吹き消されたのだ。 室内の蝋燭の明かりが全て消える。護り手の仕業だとすぐに判った。しまったと思う間もなく、彼の手の中から破妖刀の重みが失われた。 スラヴィエーラの小さな悲鳴が聞こえたとたん、室内が眩い光に包まれた。 橙色の、これまで見たことも無い美しい光の放射……目を開けていられぬほどの輝き。 その中心に、スラヴィエーラはいた。彼女の腕には、誰が渡したのか夢晶結がしっかりと抱えられている。 「綺麗……」 「ほんとだ、だいだい色に光ってる……」 子供たちのかすれた声が、妙に癇に障った。自分以外の者が、破妖刀に触れている。その事実にグレザールは怒りを覚えた。 なぜあの男は、彼の腕から大事な破妖刀を奪い取り、あの少女に渡したのだ。そしてスラヴィエーラは、何故それを拒まない? 少女は刀を抱えたまま床に膝を突き、信じられぬものでも見るように、破妖刀を見ている。腕の中で、夢晶結は宝石のように輝いていた。鞘から出してもいないのに、その光は少女の身体を突き抜け、部屋全体を照らし出す。 破妖刀があんなにも輝くことを、グレザールは初めて知った。しかしその光は、間違いなく夢晶結から発せられている。 (なんだよ……あれは) 光に照らされた破妖剣士長の顔を見る。相変わらず無表情だったが、グレザール同様驚いていることは想像に難くない。 彼は、こうなる事を知っていて、スラヴィエーラに夢晶結を渡したのか。自分はただ踊らされているだけだったのか? (なんなんだよ、どういうことだ!!あの光は、一体……) 混乱する思考が、グレザールを激情へと駆り立てていった。 やがて、謎の光は広げた布を畳むように徐々に小さくなり、消えた。 室内が再び蝋燭の明かりで照らされても、スラヴィエーラは、まだその場にへたり込んでいた。顔は青ざめ、手足は小刻みに震えている。貧血のせいではなく、目の前で起こった出来事を、現実として受け入れられないためだ。 だが、最も信じられない気持ちでいるのは、グレザールだろう。他の破妖刀からはまるで反応がなかったのに、何故夢晶結だけが、誰の目にもはっきりと判るほどの反応を示すのか。 恐らく、その場にいる全ての者が抱いているであろう疑問を、破妖剣士長が代表して口に乗せる。 「何が起こったか、わかるか」 「わ、わかりません」 スラヴィエーラは首を振った。それでも、腕に抱いた夢晶結を離そうとはしなかった。 そして破妖剣士長は放った、決定的な一言を。 「夢晶結がお前を選んだ。次の使い手はお前だ」 ざわっ、と周囲がどよめいた。 子供たちの目が、雷に打たれたように立ち尽くしているグレザールに注がれる。 衝撃か、好奇か、同情か。その全てがグレザールの心に突き刺さった。 彼は耳を疑い、そんなふざけた事を言い出す破妖剣士長を疑い、そして夢晶結を離さないスラヴィエーラを疑った。 スラヴィエーラと過ごした半年と、破妖刀と共に過ごした数十年───どちらが重いかは明白である。 「な、何かの間違いだ」 にわかに沸き立つ周囲をよそに、彼はそう結論付けた。無理やり顔に貼り付けた笑みが、醜く歪んだ。 (夢晶結が俺を捨てるはずが無い。ましてや、代わりにこんな小娘を選ぶなど、あるはずないじゃないか) 子供の時から、ずっと一緒にいたのだ。手入れも欠かさなかったし、大切にしていたつもりだった。夢晶結が裏切るなど、あり得ない。 「だいたい、次の使い手って何だ。俺はまだ生きているんだぞ、それも至って健康だ。使い手がまだ元気なうちに、別の奴に乗り換えるなんて、そんなことがあるはず……」 グレザールの切実な訴えは、子供たちの囁きにかき消されていた。 破妖剣士長も、彼の弁など聞いてはいなかった。スラヴィエーラに近づくと、ゆっくりと助け起こす。先ほどまでとは明らかに扱いが違った。 「立ち上がって、背筋を伸ばせ。お前は今日から破妖剣士なのだぞ」 その態度が、グレザールの衝動を突き動かした。 「待てよ!!」 相棒を取り戻すために、荒々しく少女の肩を掴む。 「いつまで触ってる……それは、俺のだ。いい加減、返すんだ」 これまで見たことも無いほど怖い顔をしているグレザールを前に、スラヴィエーラは怯えていた。 「だ、だめなの。どうしても、手から離れないの……」 「嘘をつけ!!」 グレザールは怒鳴り、少女の手から夢晶結をもぎ取ろうとした。すると何故か少女の体までもが、一緒についてくる。引き離そうとして引っ張っても、少女の腕から破妖刀が離れない。 「このっ……離せ!離しやがれ!」 グレザールが腕を振るたびに、スラヴィエーラの体は箒のように床を引きずり回された。 「痛い、痛い……お願い、やめて!!」 腕の筋肉が伸び、悲鳴を上げて訴える少女に、グレザールは息を呑んだ。演技などではない、本当に離れないのだ。 黙ってその光景を見ていた破妖剣士長が、とどめの一言を投げかける。 「気は済んだか?」 お前はもう用済みだと言わんばかりの、冷たい声音───この男が誰に対してもそうであることは、知ってはいたが。 まさかそれが、自分の身に降りかかってくるとは思わなかった。壁際に蹲っている子供たちと同じ立場に、まさか自分が立たされるとは。 「待ってくれよ………」 床の上でぐったりとしているスラヴィエーラに視線を落とし、グレザールは虚ろに呟いた。 憎からず思っていた少女をこんな目に遭わせておきながら、まるで罪悪感が沸いてこないのが、我ながら不思議だった。 「知っているだろう?俺が今まで、どれだけ浮城に貢献してきたか。さっきだって、妖鬼を一気に片付けてきたんだぞ。その俺がなんで……」 ───なんで、破妖刀に見放されなきゃならないんだよ。 言葉は声にならなかった。グレザールは眩暈を起こし、その場にくず折れる。 彼は破妖剣士だ。捕縛師の資格は持っていない。破妖刀がなければ、浮城では生きられない。 「我々は破妖刀の意思に従うだけだ」 破妖剣士長は淡々と告げる。 「破妖刀の意向を無視すれば、命を落とすのは使い手。グレザール、お前には死んで欲しくは無い」 「どのみち追い出すなら一緒じゃねえか!!」 スラヴィエーラの腕ごと掴んだ夢晶結は、何の反応も返してはくれない。自分たちの絆は、その程度のものだったのか。破妖刀だけでなく目の前の相手にも、彼は同じ事を思った。 (俺が、何をした?) 菓子を食いながら小芝居を傍観していたら、突然舞台から石が飛んできて額に当たった。しかもその石が意外に大きく、額からはとめどなく血が流れ、放っておいたら命にかかわるほどの傷が生まれていた………。 喩えるのは難しいが、今のグレザールはまさにそんな状況に置かれていた。 「……こいつらと同じように、出て行けって事か」 こいつらと言いながら、彼は部屋の隅にいる子供たちを指差した。 所詮、人事だったはずだ。スラヴィエーラが浮城からいなくなっても、自分は今までと変わらぬ日常に戻るだけだと思っていた。それが何故、どこで間違って、こんなことになってしまったのだろう。 「俺は、こいつらと同じほどの価値しかないってことか!?答えろ、サルディ!!」 「見苦しいわよ、グレザール」 怒鳴る彼の背後から、別の声が投げかけられた。上層部の人間を数名引き連れて階段を降りてきた女性は、嘲るような笑みを浮かべ、グレザールを見ていた。 当たり前のように彼の横を通り過ぎ、破妖剣士長に寄り添う。 「お前……」 登場の間が良すぎる。恐らく、護り手の誰かが呼んだのだろう。 上層部の連中が素早く近づき、グレザールの手からスラヴィエーラと夢晶結を引き離した。「しっかりしろ」と言いながら、スラヴィエーラを介抱している。 何だ、この状況は。まるでこちらが悪者ではないか。目を剥いている彼の様子がおかしかったのか、女性はまた耳障りな笑い声を上げた。 「使えない人間は飼えないって私が言った時、顔を真っ赤にして怒っていたわよね。あの時のあなたはどこへ消えたの?結局はその子たちを見下していたんじゃない」 「違う!俺は……」 グレザールは激しく否定した。自分はこんな連中とは違う。断じて違う。 「自分の地位が脅かされそうになった途端に豹変して、それまで大事にしていた女の子に手を上げた。そんな男に、私達を責める資格がある?」 女性の言葉は、グレザールの胸の奥を深く抉った。 「その子を救護室へ連れて行きなさい。大した怪我じゃないと思うけど、念のため護り手にも看てもらって。これから浮城に貢献する、大事な身体なんだから」 目の前が、次第に暗くなってくる。 スラヴィエーラは男性数名に支えられて、宝物庫を出ようとしていた。かすかな呟きが、グレザールの耳に入る。 「グレザール……」 少女はまるで助けを求めるように、彼を見ていた。 やめろ、と彼は呻いた。何故、そんな目で見るのだ。俺はお前を痛めつけたんだぞ。 ───そして、お前は俺を裏切った。 憎しみの炎が胸を焦がす。スラヴィエーラの面倒さえ見なければ、こんなことにはならなかった。スラヴィエーラさえ現れなければ、こうはならなかったのだ。 やはり、あの時断っておけば良かった。そうすれば望み通り、破妖剣士として生涯を全うする事が出来たのだ。 死ぬのは戦いの中で、と思っていた。そのささやかな願いをこの娘が奪った。この娘が、グレザールの夢晶結を取り上げてしまった。 「恩を仇で返しやがって……」 口から漏れたのは、紛れもない彼の本音だった。スラヴィエーラの顔が絶望に染まる。 それが何だと言うのだ。泣きたいのはこちらの方だ。グレザールは履き潰した靴を脱ぎ、少女に向かって投げつけた。 「ふざけるな、泥棒猫が!!」 身体に力が入らない。靴は当たらず、しかしスラヴィエーラの心を確実に傷つけた。 少女の愛らしい瞳が凍りつき、色を失くすのが判った。的から逸れた靴が、虚しく床を転がる。上層部の人間が駆け寄り、グレザールの身体を押さえつけた。 「お前なんぞが、俺の夢晶結を扱えるわけがない!雑魚に襲われて死ぬのがオチだ!!なんでだ……何の権利があって、小娘がっ!!」 口汚い言葉を吐き続けるグレザールを、破妖剣士長は無言で見つめていた。 ──後編へ続く── 戻る [*前] | [次#] ページ: |