鬱金の間 夢を砕く音・前編(オリキャラ←マイスラ子供時代)


【注意】オリキャラ視点です
・マイスラ過去捏造、シリアス
・主人公がおっさん

許せる方のみどうぞ


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白砂原の中央に浮かぶ浮遊城砦───人々はそれを『浮城』と呼ぶ。
それは、魔性の脅威に怯える人間のための唯一の切り札であり、様々な特殊能力を持つ者たちが集う組織であった。
とりわけ、浮城の民の中で最も短命であり、最も戦闘中に命を落としやすいとされるのが破妖剣士である。
魔性の命を屠る『破妖刀』に選ばれた者に拒否権は無い。例えそれが赤ん坊であろうと、非力な少女であろうと、選ばれた瞬間にその者は、破妖剣士としての運命を決定づけられるのだ。
一方で、破魔の刀に選ばれた自負ゆえか、自分は特別な人間なのだと、浅はかな思想に捕らわれる者も少なくない。
されど、破妖刀は単なる武器にあらず。時として、使い手の命さえ奪う諸刃の剣。
刀の精に分不相応な望みを抱く者は、やがて自らの死によって、その傲慢を思い知らされるのである………。


その日の食事を終えたグレザールは、ぷっくりと膨れた腹を抱えて自室の前に辿り着いた。
「ふー、食った食った」
包帯を巻いた下腹には、僅かに鈍痛がある。仕事先で負った傷がまだ癒えていないのだ。
悪い事に、本日の献立は彼の好物ばかりだった。しかも季節柄手に入りにくい食材を使っていたから、多少無理をしてでも詰め込みたい、という気持ちが働いた。
おかげで傷口が開いてしまったらしい。歩くたびに振動が伝わって、ズキズキ痛みを訴える。後悔先に立たずとはこのことだ。
「歳を取るとどうも、食い意地ばっかり張っていかんな。せいぜい早めに寝るとするか……」
破妖剣士長への報告もまだ済ませていないが、どうせこんな時間だ、明日の朝でも構わないだろう。
勝手に結論付け、扉に手を伸ばした彼は、隙間に何やら白い紙片が挟まっているのに気付く。
「ん?」
仕事から戻るや否や食堂に直行したため、荷物はまだ手元にある。
それを一旦床に置いてから、グレザールは紙片を開き、そして顔を顰めた。
『至急、執務室まで来られたし』
それは、彼の上司である破妖剣士長からの、直々の呼び出しであった。
「くそ……!」
グレザールは紙片をぐしゃりと握りつぶす。
破妖剣士長のサルディアンは、彼よりもずっと後に浮城入りした。それが今は、全ての破妖剣士を束ねて命令する立場にいる。
あの男よりも遙かに努力家で、自分を鍛える事を怠らないグレザールが、いち破妖剣士の立場に甘んじているにも関わらず、だ。
悲しいがそれが現実である。
「サルディアンの奴、俺が疲れてるのを知っての嫌がらせか」
公の場所でなければ、破妖剣士長の名を呼び捨てにする。それが、かつての後輩に対するささやかな反抗の証だ。
もとよりあの男とはあまり仲が良いとは言えなかった。長い年月を経て、互いに性格の悪さが目立ち始めてからは、仕事以外では口も利いていない。
(それにしても、普通は用件くらい書いておくものじゃないのか!?)
とにかく、急ぎの用事であるらしいことは確かだった。
あの男は自分と違って神経質なのだ。遅れることで、またねちねちと嫌味を言われてはたまらない。
「たく……面倒なこった」
グレザールは扉を開け、寝台の上に荷物を放り投げた。
浮城の正装を一旦脱いで埃を払い落とし、また袖を通す。水を張った盥で簡単に顔を洗い、白髪の混じりつつある髪を手櫛で撫で付けた。
日に焼けた精悍な顔立ち、発達した筋肉のせいで若く見られがちだが、彼は今年で四十に差し掛かる。
破妖刀を手に入れたばかりの頃はまだ青年だったこともあって、傷の治りも早かった。それが今では護り手の治療を受けても、回復が随分と遅く感じられるようになった。
昔のように動かない体が苛立たしい事もあるが、まだまだ軟弱な若者に先頭を任せる気にはなれなかった。
反面、加齢と共に次々と斃れていく仲間たちを見ていると、将来に不安を感じないわけでもない。すんなり死ぬのが理想だが、敵がそれを許してくれるとは限らない。半身不随のまま放り出され、誰かの世話を借りねば生きていけぬ状態になっても、グレザールには看取る者さえいないのだ。
「嫌だ嫌だ」
頭を振って、グレザールはおぞましい妄想を振り切った。腰に据えた破妖刀を、ぽんと叩く。
「せめて、散り際は潔く行きたいもんだ。なあ、夢晶結」

『夢晶結』。それが、相棒の名前だ。
誰が何を語りかけても、物も言わずただ静かに輝いている破妖刀は、こんな荒くれ男をどういうわけか気に入って、もう二十年も傍にいてくれる。
この破妖刀がなければ、恋を知らない彼の人生は、全くもって味気ないものだったろう。
彼は破妖刀を握り締めた。まるで、子供が母親の手を握るように。
城長や依頼人相手に強気な発言をしても、女を寄せ付けない頑なさを持っていても、時折、不安になる事はある。誰もいない部屋で、あと何年このような歳月を過ごせば良いのだろうか。
いくら気負っても、若い頃のように単純には行かない。疲れを翌日に持ち越す。認めたくは無いが、彼は確実に老いていた。同僚が所帯を持ち、子供の世話に追われている間にも、彼はひたすら破妖剣士の仕事だけをこなしていた。
功績だけが、手元に残った。その事を後悔してはいない。
「妻も子もいない……俺には、生涯お前だけだ」
彼は呟く。そう、妻でも子でもない。
己の最期を看取るのは、この破妖刀なのだ、と───。

執務室へと向かう途中、中庭の前を通りがかった時のこと。
「はああっ!」
妙に気合いの入った幼い声が、グレザールの耳を打った。消灯時刻の迫ったこんな時間に、一体誰が騒いでいるのか。
(子供の夜遊びか?)
浮城には門限というものがあり、住人が夜遅く出歩く事は、基本的に許されていない。
遊びざかりの子供たちにとっては物足りない面もあるだろう。だから、消灯時間を過ぎても友人の部屋に入り浸る者もいる。
(見回りの連中は何をしてるんだ、ったく……)
通路から庭の茂みの向こう側を覗き込むと、ぼんやりと二つの影が浮かび上がって見えた。
そこでは、少年と少女が、木刀を使って稽古をしていた。見た事のない顔だから、恐らく新人だろう。
見習いが身につける簡単な上下を纏い、木に吊るされたランプの僅かな灯りの下で向かい合っている。
互いが構えた木刀の切っ先が、触れ合った。少女が一歩踏み出す。
「やぁっ!」
闇に閃く木刀が少年の肩を狙った。少年は素早くそれを弾き、後退する。
(ほう……)
グレザールは感心した。子供にしては動きがさまになっている。
彼が幼い頃は、その日の訓練が終われば疲れ果て、翌日まで何もする気が起きなかった。
今は昔に比べて大分規律が緩くなったが、却って自発的に稽古をする少年少女が増えてきたのかも知れない。地上と違い娯楽施設のない浮城では、他にすることもないのだから。
「たああっ!」
小言を言うのも忘れて見入っているグレザールには全く気付かず、少年たちは激しく木刀を打ち合った。
少女の動きは、猫のように素早かった。少年の方はと言えば、防戦一方である。
(いや……違うな)
グレザールは口元を綻ばせた。
よく観察していれば判る。少年の動きが不自然である事が。
(あの坊や、本気を出していない)
少女に打ち込める隙はいくらでもあるのだが、どうも躊躇しているようだった。
それを知ってか知らずか、少女の振り上げた木刀は、容赦なく少年の腕を打った。
硬い音と共に、木刀が宙を舞う。
「参った!」
少年は、土の上にぺたりと尻餅をついた。
慣れているのか、怪我をしないような転び方を心得ている。恐らくもう何度も少女に打ちのめされてきたのだろう。
「参ったから、もう勘弁してくれスラヴィ」
木刀を拾って顔の前に出し、少年は降参の姿勢を取った。少年の前に仁王立ちになった少女は、勝気そうにふんと鼻を鳴らした。
「情けないわね、もう終わりなの?」
情けないと言われたことに腹を立てた様子はない少年は、どこか眩しそうに少女を見上げながら言った。
「けど、夜も遅いし……お前、これから用事があるんじゃなかったか」
指摘されて初めて、少女はぽんと手を打った。
「いっけない!すっかり忘れてた」
少女は、木刀を少年の手から奪い取ると、元の位置に仕舞い始めた。木に吊るしたランプも、あたふたと回収する。
「こうしちゃいられないわ、急いで着替えないと……マイダード、また明日も付き合ってくれるわよね」
「気が向いたらな」
「どうせ暇なんでしょ?じゃあ明日、またこの時間に」
少女は倒れている少年を引き起こすと、身体についている草を払い落としてやっていた。
一応、礼儀はわきまえているらしい。
(明日もやるつもりか……)
グレザールは苦笑した。遅くまで付き合わされる少年には、同情を禁じ得ない。
少女がこちらに向かって駆けて来る。立ち尽くしているグレザールに気付くと、擦れ違う際に軽く頭を下げた。
近くで見ると、目の大きな少女だった。汗で髪が湿っており、頬はうっすら紅潮している。身体は華奢でいかにも柔らかそうだった。少年が手を抜いていたのは、そういう理由だろう。
何となく少女の後ろ姿を見送っていたグレザールは、はっと我に返る。
「おっと……急がなければ」

破妖剣士長は、相変わらずの仏頂面で彼を迎えた。
「遅かったな」
執務室の机の上には、湯気を立てる紅茶のカップがある。秘書的役割をする女性が傍らにいたが、グレザールの分を入れてくれるつもりはなさそうだった。
喉が渇いていることを示すために咳払いしたものの、相手からは何の反応も返ってこない。
(呼び出しておいてそれか)
苛立つ心を抑えつつ、グレザールはなるべく平静を装って口を開く。
「申し訳ございません、破妖剣士長。腹ごしらえをしていたものですから」
仕事が終われば食堂に直行するのは、彼の昔からの習慣である。今更直せと言われても年齢的に無理だ。
「依頼は片付けて来たのだろう。報告もせずに床に入ろうとしたのか?」
嫌味たらしく言いながら、破妖剣士長の目はまっすぐ彼の腹部に向かっている。傷を負ったグレザールを暗に責めているようだった。
「確かに怪我をしたのは俺の落ち度だが、依頼は無事に完遂したんだから、労うのが筋ってもんじゃないか。文句があるなら今すぐ妖鬼百体と戦ってこい、この青瓢箪」
と言いたいのをどうにか堪えて、グレザールは愛想笑いを浮かべた。
「快食・快眠は人間の基本ですからね。寝ぼけ顔のままでご報告に来るわけには参りませんし」
はは、と乾いた笑いを零す。
相手は笑わなかった。グレザールとは正反対の、痩せた陰険そうな顔立ちを歪めながら、紅茶を一口啜る。
「お前にそういう気遣いがあったとは意外だな。まあいい、呼び出したのは他でもない───ある後輩の指導をしてもらいたい」
「指導………」
この男に面倒ごとを押し付けられるのは、何も初めてではない。だが、今回はその内容に問題があった。
「餓鬼のお守りをしろってことか。この俺に?」
つい敬語を忘れてしまい、破妖剣士長の背後の女性に鋭く睨まれた。
「失礼。あまりにも唐突なお話だったため……」
いかにも驚いたという風を装って、グレザールは肩を竦める。
上からの命令でも、気に入らぬ仕事は断ることが出来る程度には、彼の実力は浮城で認められていた。
「お前が馴れ合いを好まない性格であることは、私もよく知っている。だからこそ、その歳まで独り身なわけだ……」
「仕事に関わりのない話はお控え願えませんかね」
痛む腹に手を添え、彼は言った。独身である事を気にはしていないつもりでも、やはり他人から指摘されると不愉快になる。
「申し訳ないがその件、お断りさせていただく。私はとても、人に物を教えるような器ではない」
第一そういう役目は、城内で結婚して子を設けた女性や、怪我をして戦線に復帰が出来なくなった人間のすることではないか。
四十近いとは言え現役で活躍している破妖剣士が、誰にでも出来るような仕事を押し付けられるのは、屈辱以外の何者でもない。
(結局、またいつもの嫌がらせってわけか)
うんざりした気持ちになる。そう、この男は嫉妬しているのだ。破妖剣士として様々な国を飛び回っているせいで、いつまでも若々しい容貌のグレザールに。
身体を動かさないでいると、どうしても老け込むのが早い。彼より年下であるのに、破妖剣士長には既に老人のような貧相さがある。
「私は何も、お前を戦線から退かせたいと思っているわけではないぞ。これまで通り、きちんと仕事は割り振る」
当たり前だ。
グレザールの生き甲斐は破妖刀しかない。それを奪うつもりならば、相手が誰であろうと容赦するつもりはなかった。
「ですが、後輩の躾に時間を取られていては、私は鍛錬の暇もありません。空いた時間はなるべく己を磨くために使いたいのです」
頑なな部下に溜め息をつき、破妖剣士長は机の淵を叩いた。
「よいか、グレザール。これは嫌がらせではない。そんな真似をするほど幼くもないだろう、互いに」
「……はい」
彼は渋々頷いた。これ以上突っかかると、後ろの女性にカップを投げつけられそうだ。
グレザールの同期であるこの女性は、サルディアンが破妖剣士長の役職に就いてから、常に影のように付き添っている。
単にその役割が与えられたからではない。その目には明らかに心酔と呼べる光が宿っていた。この男のどこがそんなに良いのかは疑問である。
「本人が、お前を指名してきたのだ。破妖剣士のグレザールに指導を請いたいとな」
意外な言葉に、グレザールは目を丸くした。
「何?それはまた……」
驚くのと同時に、怒りが湧いてきた。
随分と生意気な輩だ。従来の稽古では飽き足らない、つまり相手の教え方が悪いと言っているようなものである。
そして、そんな子供の戯言に耳を貸すこの男にも呆れていた。
「向上心があると言えば聞こえは良いのでしょうが、何故私などが……」
浮城には人当たりのいい連中が幾らでも存在する。捕縛師のセスランなどはその典型だ。わざわざ強面のグレザールを指名してくるのは、どうも薄気味が悪い。
破妖剣士長の口ぶりからして、恐らく会った事もない相手なのだ。そんな相手に、どうして稽古をつけて欲しいなどと思ったのか。
「彼女は破妖剣士になることを強く望んでいる。今現在、浮城で最も実力のある使い手を教えてくれと言われたら、教えぬわけにはいかんだろう」
「はっ……」
グレザールは鼻を鳴らした。上手くおだてたつもりだろうが、その手には乗らない。
「破妖剣士長がそのように思って下さっていたとは、光栄の極み。ですがやはり私向きの仕事ではありません。彼女にもそう伝え……」
断りの言葉を口に乗せかけた時、ふと頭に引っかかるものを覚えた。
「……彼女?」
その後輩というのは女なのか。
背後の扉が勢いよく開いたのは、次の瞬間の事だった。
「破妖剣士長っ、遅くなりました!」
甲高い少女の声に、グレザールはぎょっとして振り返った。それは、先ほど中庭で聞いた特徴のある声だった。
扉を開いた相手が息を呑む。目の前に立っていたのは、やはりあの時の木刀少女だ。
肩まで伸びた柔らかそうな髪に、ぱっちりと開いた大きな目。間近で見た顔だから間違うはずもない。
グレザールが睨んでいるように見えたらしく、少女は少し後ずさりした。
「ご、ごめんなさい、大きな声を出して……」
あれから急いで支度してきたのか、服装もやや乱れていた。
癖のある髪を撫で付け、改めて背筋を伸ばすその仕草には、好感が持てないでもない。
「怯える必要はないぞ、スラヴィエーラ」
破妖剣士長がどこか楽しげに言った。
「彼は無骨だが、その程度のことで腹を立てるような男ではない。そうだな?」
(この野郎……)
本来は、破妖剣士長が真っ先に非礼を咎めねばならぬ立場ではないか。
相手を庇う振りをしながらおいしいところを持って行くのは、昔からこの男の得意技だった。
(いや、待てよ。この娘がここに来たってことは……)
嫌な予感に、グレザールは今一度振り返って、破妖剣士長を見た。
相手は満足そうに微笑んで、机の上で手を組み合わせる。
「紹介しよう。この男がグレザールだ」
少女が、驚きに目を瞠った。という事は、本当に彼の顔など今まで知らなかったのだ。
グレザールは、わざと眉間に皺を寄せ、渋面を作って、少女の前に立った。少女が怖がって、逃げ出すことを期待していた。
だが、スラヴィエーラの顔にもう怯えはない。先ほど少年を打ち倒した時と同じような清々しい表情で、グレザールを見上げた。
「初めまして、見習いのスラヴィエーラです」
その笑顔は嫌味がなく、実に健やかなものだった。
「……話は聞いてる」
グレザールは目を逸らした。
昔から、子供は苦手だった。純粋で小さくて柔らかく、自分のような男が触ったら壊れてしまいそうで。
ましてや、娘ほども年の離れた少女となると、どう扱っていいのかわからない。なるべくなら、関わりたくはない。
(子供姿の妖鬼なら平気で斬れるんだがな……)
場違いなことを思っている彼に、スラヴィエーラは溌剌と光る目を向けてきた。
「わたしも、破妖剣士長からあなたのお話を伺いました。『夢晶結』の使い手、グレザール。お会いできて嬉しいです」
「あ、ああ……」
少女とは言え、女性にここまで真っ直ぐに好意を向けられるのは、悪い気はしない。
だがそれとこれとは別問題だ。
「わたしに、稽古をつけてくださいますか?」
「断る」
きっぱりとグレザールは告げた。
期待を込めて彼を見上げていたスラヴィエーラの顔が、さっと曇る。どうも、思っていることが顔に出やすい性質らしい。
「どうして、ですかっ!?」
おまけに声も大きかった。これほど目立つ少女なら、なおさら一緒にいるのは不味い。
彼は、静かな環境が好きなのだ。仕事以外のことで、余計な注目は浴びたくなかった。
「こう見えてもおじさんは忙しいんだ。小便臭い餓鬼のお守りなんぞ御免だ」
「そんな」
スラヴィエーラは泣きそうな顔をした。若い身空でこの少女は、何をそんなに焦っているのだろう。
「子供は子供と稽古してりゃいい。可愛いお嬢ちゃんと打ち合いたい相手なら、他にいくらでもいるだろう。さっきの坊やとかな……」
「マイダードは弱いから、もう相手にならないんです」
悪意なく言い切る少女に、グレザールはもう少しで笑い出すところだった。
愚かな娘だ。あの少年が本気を出していなかった事も、その理由にも気付いていないらしい。
思い上がった挙句、破妖剣士になるなどと大見得を切る。全く、愚か過ぎて話にならない。
恐らく、生まれた時からこの調子で甘やかされてきたのだろう。それが許される環境に、この少女はあったのだ。
「お嬢ちゃんは、勘違いしてる。いくら若いうちから稽古を積んでも、立派な剣士になれるとは限らんぞ」
破妖刀に選ばれるのはあくまでも『運』。体力を保つための基礎訓練は無駄にはならないとは言え、頑張ればどうにかなるというものではない。
全ては、気まぐれな破妖刀の意思によるものだ。嫌だと言っても、選ばれる者は選ばれるし、そうでなければ……。
そんな彼の思いを知ってか知らずか、スラヴィエーラはとんでもなく失礼なことを言い出した。
「でもわたし、捕縛師の才能がないみたいなんです。魅縛師にもなれないし、だったら破妖剣士になるしかない」
「なっ……」
現役の破妖剣士として、今の言い草にはかちんときたグレザールであった。
よりによって、消去法か。確かに破妖剣士は楽な仕事ではないし、平均寿命の短さも捕縛師とは比べ物にならない。護り手には敬遠されるし、魔性との近距離戦闘を強いられる、最も過酷な職業だ。
(けれど、本人の前でそれを言うか!己の仕事に誇りを抱いている、この俺に!)
失礼にも程がある。まあ、正直な少女であるのはわかったが。
スラヴィエーラは俯いて床を見つめた。
「破妖剣士になれなかったら、浮城を出なきゃいけない。だけど、家には絶対帰りたくないんです」
「……なんでまた」
怒りをどうにか抑えつつ、グレザールは尋ねた。
「その質問には私が答えよう」
今まで黙って二人のやり取りを聞いていた破妖剣士長が、ようやく口を挟んだ。
彼が言うには、スラヴィエーラは厳格な父親に反発し、家出同然に故郷を飛び出してきたらしい。幸いにも彼女は魔性が好む魂の持ち主であり、容姿も愛らしかったため、すぐに好機は訪れた。旅先で妖鬼に襲われかかったところを、浮城の人間に助けられたのだ。
連れ帰られたスラヴィエーラは、素質ある子供たちの一人として教育を受けることになった。話を聞く限りでは、非常に運のいい少女と言える。
「なるほど。つまり、家出をしてきたから、帰る場所がない、と……?」
「はい」
スラヴィエーラは大真面目に頷いた。グレザールはこりこりと額を掻く。
「才能のない奴には、他の職業を斡旋してるぞ。故郷に戻らなくても、どこか別の場所で働けばいいだろう」
「いやです。わたし、父さんに手紙を書いてしまったんです。浮城の人間になったから、もう帰らないって」
「お、お前……」
開いた口が塞がらないとはこのことだ。
親を見返したいという思いは判らないでもないが、まだ資格も取っていない見習いのうちから、気が早すぎる。
「それに、せっかく仲良くなったマイダードたちと離れたくない!ここには女の子だからお淑やかにしなさいなんてうるさく言う人はいないし、同じ年の子がたくさんいるし、思いっきり身体を動かせるし、何よりお日様に近いし、ずっとここにいたいの!」
拳を握り、スラヴィエーラは力説した。
(そっちが本音か)
グレザールは、むしろ安堵した。年端もいかない少女が、魔性の手から人々を救う使命がどうのと言い出したら、そちらの方が胡散臭い。まず結果を出すのが先で、自覚を持つのは後からでも遅くない、と彼は思っている。
それにしても、この少女は破妖剣士という職業を舐めてかかってはいないか。
当時、浮城には女の破妖剣士はごく僅かで、しかも肝心の破妖刀の数も少なかった。確率的には、捕縛師になるより遙かに難しい。
(それを、『なるしかない』だって?)
何と幼く、傲慢な発言だろう。自覚がないから、いっそう性質が悪い。
スラヴィエーラは縋るような眼差しでグレザールを見つめている。それに、破妖剣士長の声が追い討ちをかけた。
「そろそろ、妥協してやったらどうだ。その娘は一度食いついたら離れんぞ」
人事だと思って、勝手なことを言ってくれる。
「……はあ」
グレザールは息を吐いた。がしがしと髪を掻き毟り、スラヴィエーラを見る。
言われずとも、目を見ていればわかる。これは、退く事を知らない目だ。自分の若い頃に似ている………。
(サルディアンが俺を指名したのはそういう事だな)
スラヴィエーラを育てることで、浮城に入った頃の初心を思い出せとでも言いたいのだろうか。
日頃、それほど傲慢に振る舞っているつもりはない。必要最小限の会話はするし、困っている人間がいれば助ける。
それでも、長年浮城にいれば、煙たがられることもある。彼の活躍を妬んで中傷する輩の声が、この破妖剣士長の耳に入っていることも。
(俺の心構えに問題があるって?結果さえ出せば、人間関係なんざ二の次だって、お前が言ったんじゃないか)
今更、こんな小娘の生き様に学ぶことなどない。そこまで堕ちてはいない。苛立ちが胸を焼く。少女の眼差しが痛い。
「……もうひとつ聞くぞ」
「はい?」
「俺に振られたら、今度は別の破妖剣士のところに行くのか」
スラヴィエーラは大きな目で食い入るようにグレザールを見つめ、それから首を横に振った。
「いいえ、あなただけです」
今度もまた、吹き出しそうになった。まるで愛の告白のようだ。あの少年には申し訳ないが、ここで断っても、翌日からしつこく付き纏われることは目に見えている。
「わかった、引き受けよう」
観念して、グレザールは両手を上げた。
スラヴィエーラの顔がぱっと輝く。破妖剣士長も、満足げな笑みを零した。
この少女の身の上に同情したわけでも、共感したわけでもない。単に、これ以上粘るのが面倒だっただけだ。
小娘だから、少し苛めてやれば、すぐに根を上げて逃げ出すに決まっている。もって1ヶ月だな、と判断した。それまでの辛抱だ。
彼は、これから自分が辿る末路を思いもせずに、ただ流されるままに彼女の師となる事を選んだのだ。
もしもあの時、破妖剣士長が何を言っても、スラヴィエーラの申し出を拒んでいたら。彼女の心を傷つけることはなかった。グレザールもまた、深く傷つくことはなかった。
未だに、後悔せずにはいられない。

白い妖刀が一閃し、妖鬼の二の腕を鮮やかに切断する。
絶叫と共に毒々しい色の体液が噴出し、一番間近にいたグレザールの頭上に、汚泥の如く降り注いだ。
シュウシュウと、強い酸で衣服が溶かされる。彼の体の到るところから煙が上がっていた。
「グレザール!!」
仲間内から悲鳴が漏れる。魔性の体液を浴びたら無事には済まない事を、皆知っているのだ。
肩が、頭皮が、焼け付くような痛みを訴えかけてくる。顔を顰めながらも、グレザールは妖鬼の懐から逃れようとはしない。
「うろたえるな!この程度で死にゃしねえ!!」
怒鳴っても、彼の後に続こうとする者はいなかった。グレザールの捨て身の行動を、ただ遠巻きに見ているだけだ。
───それでいい。守るべき存在が別にある彼らが、多少臆病になるのは仕方のないことだ。
彼は、汗で滑る夢晶結の柄を強く握った。
恋人や妻子を持たないのは、全てこの一瞬の高揚のためだ。己の命など、いつでも捨てられる覚悟でいるからこそ、彼はここまで強くなれたのだ。
妖鬼の体格は、グレザールよりも二回りは大きい。自由になる片方の腕を振り回し、激しく抵抗している。
巨大な腕が振り下ろされるたびに、酸が飛び、グレザールの頬にかかった。
火傷を受けても怯む様子のない破妖剣士を見て、妖鬼の瞳に狼狽の色が浮かんだ。グレザールはにやりと笑う。
「逃してたまるかよ。これで終わりだ!!」
地面に転がる、妖鬼の千切れた腕を蹴り上げる。己の腕が顔面を打ち、たじろぐその隙に彼は背後に回りこんだ。
「う、おおおおおっ!!」
斬るのではなく叩きつけるように、グレザールは腕を振り下ろす。
破妖刀が妖鬼の心臓を刺し貫く、確かな手ごたえを感じる。剛直な見た目に似合わず、肉の感触は柔らかかった。
夢晶結が命を屠る。グレザールに感謝しているのが、漠然とではあるがわかった。
標的は、砂煙を上げて大地に斃れ伏した。
質量が失われ砂塵と化した妖鬼を見下ろし、グレザールは刀を鞘に仕舞う。
「さすが……」
背後で固唾を呑んでいた少年捕縛師が、感嘆の吐息を漏らす。
他数名の仲間たちも、熟年破妖剣士の戦いぶりに圧倒されていた。
「さすがグレザールです。敵の攻撃を間近に受けても、微動だにしないとは」
半ば隠れるようにしていた彼らを責める気はない。今回の妖鬼退治はグレザール個人が請け負った仕事で、彼らは見学者のようなものだった。
それに、捕縛師の資格を取ってまだ間もない少年少女たちだ。サルディアンの馬鹿が、「これも仕事のうちだ」と押し付けてきたのである。
スラヴィエーラの一件以来、どうもあの男は調子に乗っている気がする。何か企んでいるのかも知れないが、今は乗せられてもいいような気になっていた。
「なぁに、怖いもの知らずなだけさ」
護り手の治療を受けながら、グレザールは嘯いた。
子供たちの尊敬の眼差しが心地よいような面映いような、妙な気分だ。
「護り手や破妖刀の存在があるから、俺は安心して戦えている。相棒を信頼し、心を通い合わせる事が肝心だ」
自分の声ではないような、とても穏やかな声が口から滑り落ちる。
子供たちは、真剣にグレザールの話を聞いていた。
「信頼……ですか」
「そうだ。お前たちの場合は、破妖刀ではなく封魔具だな」
封魔具に関する知識は、ほとんど忘れかかっている。後輩に説教しながらも、これは改めて勉強の必要があるな、と反省しているグレザールであった。
「さて……」
治療が終わると、彼は子供たちの顔を見渡した。
「せっかく食い物が美味い土地に来たんだし、依頼人に報告が終わったら、どこかで飯でも食っていくか?」
途端に、わあっと歓声が上がる。修羅場慣れしている破妖剣士と違い、この子らは緊張して朝から何も食べていないのだ。初めて魔性退治に同行したのだから、無理もない話だった。
それまで怯えていたのが嘘のように、生き生きとした表情でグレザールを囲んで歩き出す。
「でも僕、肉はいいや。今の見てたら、なーんかそういう気分じゃなくなったし」
「あたしは全然平気よ。女の方がそういうのは図太いのかもね」
「魔性って、本当に死ぬと砂になるんですね。不思議だなぁ」
戦闘を間近で見た興奮が残っている子供たちは、次から次へと口を開いた。
「でも、グレザールが優しい人で良かった。もっと怖い人だって聞いてたから……」
「うんうん。確かに戦ってる時は怖いけど、そんなの当たり前ですもの」
子供という生き物はあまりにも正直だ。大人が言っていた事を、悪意なくそのまま伝えてくれる。
グレザールは頭を掻いた。他人からどのように思われているか、さすがに判らない年ではないし、いちいち傷ついてもいられない。
自分ではそれほど変わったつもりはないが、もしそうだとしたら、それは一人の少女のおかげかも知れなかった。
「確かに俺は、愛想がいいとは言えんからな。今まで不自由はしなかったが、最近はお前らの面倒を見るのも、結構楽しいよ」

稽古場に行くと、スラヴィエーラが満面の笑みを浮かべて駆け寄ってきた。
「お帰りなさいっ」
「おう。ただいま」
グレザールは軽く片手を上げて応える。まるで、家で留守番をしていた娘にそうするように。
食事は外で子供たちと済ませてきたので、浮城に戻っても食堂には寄らず、真っ直ぐにここに来た。稽古着を纏ったスラヴィエーラは、グレザールが荷物を持ったままなのを見ると、ふと足を止めた。
「ん?どうした」
顔を覗き込むと、少女は悪戯っぽい目を向ける。初めて会った時も思ったが、本当に大きな目だ。よくも零れ落ちずに顔にくっついているものである。
「その様子じゃ、まだ破妖剣士長に任務完了の報告、してないんでしょ?面倒なことは、先に済ませちゃえばいいのに」
彼がサルディアンと犬猿の仲であることを、スラヴィエーラはとうに見抜いているのだ。からかうような口調が癪に障る。そこで、グレザールは仕返ししてやる事にした。
「あぁ、いいんだよ。顰め面のジジイなんざ後回しで。真っ先にお前に会いたかったんだから」
ジジイと言っても自分の方が年上なのだが、老け具合はあちらが上だ。本人が聞いたら激怒しそうな事を、彼はさらりと口にする。
スラヴィエーラは決して言いつけたりしない。彼女もまた、父親に似た厳格さを持つ破妖剣士長は、大変苦手としている。共通の敵がいると、一気に絆は深まるものである。もちろん、この少女に安らぎを覚え始めたのは、それだけではなかったのだが……。
「えっ……」
案の定、スラヴィエーラは赤くなった。この素直な反応。これを見るために彼女に付き合っているのだと言っても過言ではない。
グレザールは笑い出しそうになるのを堪えつつ、荷物の中から小さな包みを出した。
「いい子には土産だ。開けてみな」
「また買ってきてくれたの!?」
包みを受け取り、少女は飛び上がらんばかりに喜んだ。
仕事に出かけるたびに土産を買ってくるのは、もはやグレザールと彼女との間で恒例となっている。だが今回は子供たちの引率があったから、そちらに気を取られて忘れているものだと、期待はしていなかったらしい。
(妙なところで謙虚な奴だ)
グレザールは微笑ましく思う。自分が何かするたびに、こんなに喜んでくれる少女との約束を、忘れるわけがないではないか。
包みを開けたスラヴィエーラは、以前から欲しがっていた首飾りが入っているのを見て顔を輝かせた。
「可愛い!」
「そうだろうとも、そうだろうとも」
グレザールは、老人のようにしつこく何度も頷いた。紛い物ではなく、本物の貝殻で細工された首飾りは、海のある国まで行かなければ手に入らない。おまけにこの型が売っているのは露店ではなく、繁華街にどっしりと店舗を構える、女性向けの量販店だった。
「娘に贈るんだ」と言い訳しながら若い女性に混じって買うのは、大変に勇気が要った。これくらい喜んでもらわなければ、割に合わない。
(一緒にいた子供たちには冷やかされるしな……)
スラヴィエーラの面倒を任された事は、浮城内の隅々まで知れ渡っている。子供に手なずけられた野獣と揶揄する連中もいたが、スラヴィエーラ自身が気にしていないため、大人であるグレザールが噛み付く必要もない。
「嬉しい、ありがとう。付けてみてもいい?」
手のひらに首飾りを乗せ、満面の笑みで少女が尋ねてくる。もっと良い服を着て癖のある髪を整えれば、今よりもさらに美しくなる事だろう。それを見てみたい気もするし、見たくない気もする。
「これから稽古するんだろう。邪魔にならないか」
荷物を肩から下ろしているグレザールを見て、スラヴィエーラは驚いた顔をした。
「いいの?グレザール、疲れてるんじゃないの?」
いつの間にか、呼び捨てが定着している。不思議とそれが心地よい。心配してくれる相手がいるというのは、良いものである。彼は、この年になって初めてそれを知った。
「疲れていても、お前との稽古の時間を削る気はない。これはお前のためだけじゃない、俺のためでもある」
本心から彼は言った。最初は文字通り面倒だと思ったが、今では彼女の成長を見てみたいと心から思う自分がいる。
スラヴィエーラは大変呑み込みが早く、身体能力が優れているのだろう、頭で考えるより体が先に反応する。グレザールも言葉で説明するのは不得手のため、直接木刀を打ち合うことで理解してもらえるのは有難かった。何より、彼女は根性がある。グレザールが仕事で浮城を空けている間にも、こうして一人で稽古に励んでいる。
「………俺は、お前が破妖剣士として戦うところを見てみたい」
ぽつりと言うと、スラヴィエーラが腕を下ろした。手に握りしめていた首飾りも、だらんと垂れる。
「ほんと?」
彼女自身も、グレザールの気持ちの変化に驚いているようだった。最初の頃は随分辛く当たったから、無理もないのだが。別に彼女を嫌っていたわけではなく、余計な事に関わりたくはなかったからだ。
誰が相手でも、グレザールは今までそうして来た。人付き合いなど面倒なだけだ。どうせ、すぐ死んでしまう根性なしばかりだ。
(俺だって、いつ命を落とすとも知れない……)
その前に、この少女に教えられるだけの事は教えてやりたい。喩え、彼女が破妖剣士になれなくとも。
自分が生きた証を、この少女の中に刻み付けたい。───そう、これはむしろ、グレザールの願いだった。
「ほんとにそう思ってくれてるの?」
スラヴィエーラの声は、感激に震えていた。半ば強引に師事した破妖剣士が、自分を認めてくれている、その感激に。
グレザールは力強く頷き、少女の肩に手を置いた。
「ああ、本当だ。信じることだ、スラヴィエーラ。お前ならきっと破妖刀に見初められる」
カタカタカタ……
グレザールの声に応えるように、腰の破妖刀が鍔鳴りを始めた。
魔性の気配もないのにこんな事は珍しい。グレザールは少女の肩から手を放し、暴れる鞘を押さえた。
「どうした、夢晶結?」
返事が返ってこないことを承知で、彼は優しく語り掛ける。
「他の女と仲良くしたから、嫉妬してるのか」
その言い草に、スラヴィエーラは笑った。
「その子、女の子なの?」
「さあ……考えた事もないが。性別がどうあれ、俺の大事な相棒である事には変わりない」
グレザールは、愛しげに鞘を撫でた。ほどなくして揺れは収まる。言葉が通じなくとも、夢晶結とは付き合いが長いから、不機嫌になっていたわけではないことはわかる。
(きっとこいつにも、スラヴィエーラの良さがわかったんだろうよ)

格好をつけるのではなかった、とグレザールは後悔した。
スラヴィエーラとの稽古を終え、彼女を見送った途端、全身にどっと疲労感が襲ってきたのである。やはり若い頃のような無理はきかないのだ。見得など張らず、素直に休んでおけば良かった。
小さな身体で懸命に体当たりしてくるスラヴィエーラを見ていると、途中で切り上げるわけにも行かず。結局消灯時間ぎりぎりまで付き合ってしまった。
(俺は、意外とお人よしだったんだな……)
自分でも気づかなかった、意外な一面というやつである。けれど、悪くない。淡々と依頼をこなすだけの毎日と比べたら、近頃の彼の生活はとても充実していた。
「……さて」
先ほどから後ろをついてくる気配に向かって、グレザールは声を投げた。
「俺に何か用か、坊や」
早く部屋に帰って寝たい彼としては、用事があるならすぐに言って欲しいところだ。
振り向いた先で、少年がびくりと肩を震わせた。気付いていないとでも思ったのか、息を呑む気配までも伝わってくる。
消灯時刻の迫った薄暗い廊下で、グレザールは目を細め、相手の姿を見る。スラヴィエーラがよく話題に乗せる少年がそこにいた。
「確か、マイダードだったな。言いたいことがあるのなら、はっきり言った方がいいぞ」
本当は、だいたい察しが付いている。この少年の気配を感じたのは一度や二度ではなかった。少年はしばらく躊躇っていたようだが、やがて意を決したようにグレザールに近づいてきた。
「スラヴィのことで……」
「スラヴィ、とは?」
それがスラヴィエーラの愛称であることを知っていて、グレザールはわざと惚けて見せた。愛称で呼ぶほど彼女と親しいのかと、からかっているのだ。
少年の頬が、かっと朱に染まった。
「あんたが教えてる娘のことだよ。知ってるくせに……!」
グレザールが登場するまで、スラヴィエーラの稽古の相手は、専らこの少年だった。あの娘の気を引きたくて、虐げられる役に甘んじてきたのだろうに、突然現れた壮年男に役目を奪われ、気の毒といえば気の毒だ。
「スラヴィエーラを取られると思って焦っているのか」
皮肉な問いかけに、少年は答えず、黙って睨み返してきた。大人しそうに見えても、目には力があった。彼は既に捕縛師の資格を取っているから、グレザールに頭を下げる必要はないのだ。
(哀れで、面白い餓鬼だな)
あの少女は育てたくなるが、この少年は苛めたいと言うか、潰してやりたくなる。前言撤回、やはり俺は性格が悪いと、グレザールは自己認識を新たにした。
「お前が心配しているような事態にはならんさ、マイダード。あの娘は、稽古中にもよくお前の話をするし、俺もそれを聞いていて楽しい」
少年に関する知識は、スラヴィエーラの口から得ていた。マイダードの話をする時、スラヴィエーラはとても愉快そうだ。
「そんな話が聞きたいんじゃない」
マイダードは苛立ったように言った。
「あんたたち、スラヴィを破妖剣士にしてやるだなんて、いい加減なこと言ってるらしいけど……責任なんて取れるのか?」
「責任?」
意外なことを言われた気がした。
破妖剣士になりたいと言い出したのは、あの少女の方である。自分はただその熱意に打たれ、力になりたいと思っただけだ。
それなのにこの少年ときたら、まるで悪い大人同士がつるんで、スラヴィエーラを騙そうとしているかのような口ぶりではないか。
マイダードは一歩前に出た。壁のように立ちはだかるグレザールを、臆すことなく見上げる。
「努力したって、破妖刀に選ばれるとは限らないんだろう。そうやって期待させて、もし破妖剣士になれなかったら、どう責任取るつもりなんだよ」
スラヴィエーラが傷つく事を、少年は案じているようだった。
期待すれば期待するだけ、選ばれなかった時の衝撃は大きい。その時の少女の気持ちを考えろと、彼は言っているのだ。
「あのな、坊や……」
白けた気持ちで、グレザールは口を開いた。
「お前の気持ちは判らんでもないが、その考えはあまりにも、スラヴィエーラに失礼じゃないか?」
マイダードがむっとした顔をした。
あんたに、あいつの何がわかる───そう言わんばかりの表情だった。
けれどグレザールは判っていた。マイダードが思うほど───と言うより、そうあって欲しいと期待しているほど───あの娘は弱くない。
懸命に努力しながらも、願い叶わなかった場合の覚悟など、とうに出来ているだろう。
口には出さずとも、打ち合う木刀の先から、彼女の凛とした意思が伝わってくるのだ。この感覚、破妖剣士でない少年にはわかるまい。
「スラヴィエーラは、お前が思うよりずっと大人だ。もし破妖刀に選ばれなかったとしても、あの娘なら後悔などしないだろう」
そして、グレザールも彼女と過ごした時間を、無駄だとは思わない。結果が実らなくとも、努力した時間は無駄にはならない。
「……これからも稽古をつけるつもりなのか、あいつに」
マイダードの声は、少年とは思えぬほど重々しかった。
「当たり前だ。せっかく見つけた、俺の老後の楽しみを奪わないでくれ」
柄にもなく冗談を飛ばしたが、マイダードの表情は硬い。
それに気付き、グレザールの顔からも笑いが消える。冗談では済まないような剣呑な雰囲気を、少年に感じた。
「おれは、破妖刀のことは判らないけれど……」
グレザールから目を逸らし、そう前置きしてから、マイダードは告げた。
「あんたが、スラヴィに近づきすぎるのは良くない気がするんだ」
少年は、どうやら本気でそう思っているらしかった。
体から力が抜けていくような気がして、グレザールは思わず近くの壁に寄りかかる。
「あのなぁ……」
がしがしと毛髪を掻き毟り、彼は盛大に溜め息をついた。
「わかった、わかったよ。坊やの気持ちはよーくわかった。からかったりして悪かったよ」
マイダードが不安そうな顔をして見上げてきた。本当に判ってもらえたのか、疑っている顔だ。
「周りの大人が色々言うから、不安になったんだな。よしよし、心配しなくても、スラヴィエーラを取ったりしないさ。ちゃんとお前に返してやるよ」
「違う!そういう事じゃなくて、俺が心配してるのは、あんたの……」
少年は何か必死に訴えかけようとしていたが、早く寝室に戻りたいグレザールはそれを遮った。
「それにな、破妖剣士になれなくたって、スラヴィエーラが浮城に残る方法はあるぞ」
「え……」
目を丸くするマイダードに、彼は小声で囁きかける。
「浮城に在籍するのは何も戦闘員だけじゃない。その伴侶も、別の層での生活が許されているって知ってたか?」
まだ怪訝な顔をしている少年の額を、グレザールは指でつついた。
「つまり、だ。お前がスラヴィエーラを嫁にもらえば、何の問題もないわけだ」
「な!!」
少年は、こちらが面白くなるほどあからさまにうろたえた。
「な、な、何言ってるんだよ!そんなこと出来る訳ないだろう!!お、俺はそんなつもりで言ったんじゃないっ!」
その割に、顔が真っ赤なのは何故だろうか。
少年はグレザールの厚い胸板を、拳でぼかすか殴る。ちなみに、痛くも痒くもなかった。
「でかい声を出すな。………別に、不自然なことでもない。昔は能力のある子供が産まれやすいって理由で、住人同士の結婚が奨励されてたくらいだからな」
「だ、だけど……」
先ほどまでの威勢の良さはどこへやら、マイダードは口ごもってしまった。
彼の頭の中では既に、二人目の子供が生まれているかも知れない。思春期の少年にはありがちな妄想である。
グレザールにはどうでも良い事だった。少年が黙ったのをこれ幸いと、強引に話を切り上げる。
「なぁ、もういいだろう?年なんでな、いい加減休まんと明日に響く」
返事はない。グレザールは苦笑して、少年から離れて歩き出した。
足を引きずるようにして自室へ向かう。追いかけてくる気配も、呼び止める様子もなかった。
その事に安堵し、大きく欠伸をする。何のかんの言って、自分は幸せなのかも知れない。伴侶はいないが、浮城でそれなりの地位を築き、金は余るほどあるし、これといった大病を患うこともなく、最近はスラヴィエーラのおかげで人間関係もうまくいっている。
こんな風にして、破妖剣士らしく一生を終えるものだと思っていた。スラヴィエーラのこともマイダードのことも、互いを思う気持ちが純粋で好ましいとは思っていたが、所詮は他人事だった。
他人事だからこそ親身にもなれ、目上の者として、偉そうに忠告を与える事も出来た。
これから先、自分に降りかかる災いのことなど、予想だにしていなかった。


──中編へ続く──

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