鬱金の間 年上の女性(マイスラ→ウルガ)


「おっと」
廊下を曲がる際突然飛び出してきた人影に、マイダードは慌てて身を引いた。
健康的な褐色の肌と、豊かな胸元。続いて、緩く波打つ髪が視界に入ってきた。
「失礼」
女性にしてはやや低めの声が、耳をくすぐる。
謝りはしたものの、相手はマイダードを見向きもせずに、足早に歩き去っていく。背中には、はっきりと「不機嫌」の文字が書かれていた。
「……見ない顔だな」
だが、誰かに似ていると思いながら、マイダードは小さく呟いた。
腰に刀を下げていたから、破妖剣士だろうか。しっかり日焼け対策をとっている浮城の女性陣の中にあって、あの肌の色は異質だった。
「待ちなさいよ、話はまだ終わってないわ!!」
次いで、実に聞き慣れた声が廊下に響いた。
視線を正面に戻すと、同じように破妖刀を帯刀したスラヴィエーラが、前方から猛烈な勢いで走ってくるところだった。
マイダードの姿を認めると、速度を一気に増して接近し、彼の腕をぎゅっと掴む。
「マイダード!あの女を見なかった?」
肩を波打たせ、睫の長い大きな瞳でこちらを見上げてくる。
何も悪いことなどしていないのに、つい謝ってしまいそうな迫力があった───彼の場合は、惚れた弱み、というのも多分にあるのだが。
「あの女って……さっき擦れ違った色の黒い美人のことか?」
「そう、それよ!!」
怒りに頬を紅潮させながらも、あっさり認めるところがスラヴィエーラらしい。相手の長所は素直に肯定し、卑屈にならないのが彼女のよいところだ。
「どっちに行ったの?今日という今日は話をつけてやるわ!」
腕の中で暴れまくる彼女をどうにか宥め、マイダードは口を開いた。
「落ち着けよ。何があったんだ?」
スラヴィエーラの癇癪に巻き込まれることは、一度や二度ではない。大抵は彼女の先走りや勘違い、誤解によるものが大きく、うかつに判断を下すわけには行かないのだ。
相手が女性ならばなおさらである。女同士の喧嘩に男が助力すると、碌な結果にはならない。
「そもそも誰なんだ、あれは……。新入りにしては、なーんか雰囲気が浮世離れしていたが」
肩に手を置いてやると、スラヴィエーラは少し落ち着いたらしく、床を見つめて息を吐いた。
「ウルガよ。ウルガ・シェイラ」
「初めて聞く名前だな」
率直な感想を口にすると、彼女は忌々しそうに舌打ちしながら、腰の破妖刀に触れた。
「『月晶華』って知ってる?」
「いや……」
「長い間、持ち主と一緒に行方不明になっていた破妖刀なんだけど、それがつい最近見つかったの。何でも、大怪我をした使い手のそばに、ずっとついていたんですって」
破妖刀には意思が宿り、その意思を以って使い手を選ぶ。
主が死ぬか、戦闘不能に陥ることがあれば、また新しい主を選び、いかなる手段を用いても浮城に戻ってくる。それが、破妖刀の妖刀たるゆえんであり、未だに解明されていない謎の一つだった。
「殊勝な破妖刀もあったもんだな。普通、使い手が動けなくなれば、さっさと見切りをつけて次を探すもんだが」
冷たい言い方だが、それが事実である。破妖刀は魔性の命を食らうことのみを生きがいとしており、破妖剣士はそれに振り回されているに過ぎないのだ。
「だから、その『次』が、あの女なのよ。知り合いに頼まれて月晶華を届けにきたらしいんだけど、運がいいんだか悪いんだか……」
破妖刀に選ばれてしまえば、拒否権はない。それまでの生活を捨て、浮城で暮らすことを強いられる。
地位と名誉に溺れるか、元の自由な生活に焦がれるか───選ばれた事実をどう受け止めるかは、人によりけりだ。
「あの女が、月晶華の新しい使い手ってわけか」
「そういうこと」
「で、なんでお前はそんなにカリカリしてるんだ。仲間が増えたんだから喜ぶべきじゃないのか?」
女性の破妖剣士は数が少なく、しかもその中で髄一の使い手であるラエスリールは、仲間内でも浮いた存在となっている。スラヴィエーラはよくそのことに関して愚痴を零していた。友達を作ってもすぐ死んでしまう、あるいは嫁いでしまう、と。
「こっちがそう思ってても、向こうが仲間だと思ってくれないなら、仕方ないじゃない」
理不尽な理由で破妖刀に選ばれたのはスラヴィエーラも同じだったから、できる限り、ウルガに対して親身になってやろうとはしたらしい。
判らないことや困ったことがあれば、相談に乗るとも言った。───しかし、返ってきたのはそっけない拒絶だった、という。
「お終いには、『ここはわたしのいるべき場所ではない』なんて言うのよ!?失礼だと思わない!?」
気丈な言動の奥に、拒否された悲しみが滲んでいる。スラヴィエーラはただ、同世代の女性の友人を増やしたかっただけだろう。
マイダードもオルグァンも、形は違えど彼女のことは大切に思っている。だが、性別が違うためどうしても立ち入れない領域がある。スラヴィエーラはその隙間を埋めようと常に努力していた。強がってはいても、本当は寂しがり屋なのだ。
「わたし……」
一通りマイダードに癇癪をぶつけた後、彼女は不意に肩から力を抜いた。
「ひょっとして、同性に嫌われる傾向があるのかしら。確かに、女の子たちと話すより、マイダードといる方が楽しいし……」
自覚なしに彼を喜ばせる言葉を口にしてから、おもむろに顔を上げる。
「女の破妖剣士に拒まれるのは、これで二度目だわ」
「まあ……少し、似ているな」
誰に、とは言わなかったが、スラヴィエーラには伝わったようだ。不快そうな表情がそれを物語っている。
「外見じゃなくて、雰囲気がね。ラエスリールよりは積極性はありそうだけど、それだけにたちが悪いわ」
「たちが悪い?」
問い返すと、スラヴィエーラはこくりと頷いた。
「目を見ていればわかるわ。もしかしてあの女、ここからの脱出を計っているのかも知れない」


ウルガ・シェイラは中庭にいた。
口が動いていたので誰かと話しているのかと思い、遠慮がちに近づいたが、彼女は一人だった。
周囲に人影はない。
「……っ」
植え込みを掻き分けて現れたマイダードの姿に、驚いたように振り返った。
元傭兵と言うだけあって、身のこなしに隙がない。気配を消したのに、こんなに早く気づかれるとは思わなかった。
「そこに、いつからいた?気配を感じなかったが」
鋭い口調だった。美人に叱られるのは嫌いではないが、喧嘩を売るつもりはない。
足元に生えた、不揃いな草を踏みしめて近づく。ウルガのそばにいたはずの『何か』が、ふっと消えるのを感じた。
「たった今だ。……護り手と話していたのか?姿が見えなかったぞ」
「気のせいだ」
短く答えて、ウルガは警戒心たっぷりの眼差しをマイダードに注いだ。
破妖剣士長から聞いたところによると、彼女は普段は同僚にも敬語で話す、堅苦しいまでに真面目で実直な人物だという。
内心はどうあれ、自分が新参者であることと、一応の礼儀作法は心得ているようで、出過ぎた真似もしなければ、無闇に人を怒らせたりもしない。
そのウルガが、スラヴィエーラに対しては本音を漏らしてしまった。浮城が気に入らない、破妖剣士になどなりたくないと、うっかり口走ってしまった。
気持ちは分からないでもない。スラヴィエーラはいつも相手に対して全力でぶつかってくるから、ウルガも被っていた猫をついつい脱いでしまったのだろう。
何とか、考えを改めさせることはできないだろうか。彼女のような人物が、スラヴィエーラの親友になってくれれば面白いのだが。
「話すのは初めてだったな。おれは、マイダードと言う。捕縛師だ」
ぶつかりそうになったくらいで、顔を覚えられているとは思わない。初対面のつもりで、彼はそう名乗った。
「……ウルガ・シェイラ」
まだ瞳に警戒を浮かべたまま、彼女も名乗った。
「私に何か御用か、捕縛師どの。私的なお誘いなら、申し訳ないがお断りしているのだが……」
「ん?」
言葉の意味が分からず聞き返すと、ウルガはやれやれと言ったように二の腕を組んだ。
「ここに来てから、私に声をかける男の話すことと言ったら、仕事の自慢話やら、夜伽の誘いやら、くだらないことばかりだ。正直、うんざりしている……」
心底疲れ果てたような口調に、マイダードは苦笑した。確かにそんな輩が多いので言い返せない。
だが、彼らばかりを責めるわけにはいかない。城内に娯楽はなく、休暇もおいそれとは貰えず、外出許可がなければ城の外にも出られない生活を送っていれば、多少なりとも性格が屈折してくるのは当然だ。誇りを高く持ち、己を律することが出来る人物は、そう多くはない。
皆と交わろうとしないミステリアスな美女に、男としてちょっかいを出したくなるのは、ある程度は仕方ないことと言えた。
「生憎、そういう話じゃないんだ。スラヴィエーラから、あんたのことを聞いたんでな。ほら、髪が短くて、目のでかい……やたら元気のいい」
「ああ」
身体的特徴を並べると、ウルガはようやく頷いた。
「あなたはあの女性の恋人か何かか。それは失礼した」
瞳から警戒の色が消え、慇懃な、社交辞令的なものに切り替わった。
「恋人じゃなくて、『か何か』の方だ。それに、別に説教に来たわけでもない。……あんたの本心はどうなんだ?」
スラヴィエーラを嫌っているのなら仕方ないが、そうでないのなら仲良くして欲しい。そしてもう一つ───ウルガが浮城を出奔しようとしているのなら、浮城の住人としては黙って見過ごすわけには行かない。
「素直で可愛らしい女性だな。怒らせてしまったことは、申し訳なく思っている」
こちらが拍子抜けするほど、まともな答えが返ってきた。浮城を抜けたがっていると言うのは、スラヴィエーラの考え過ぎなのかも知れない。
元傭兵ならば、戦うことにそれほど抵抗はないはずだ。雇われる相手が異なり、戦う相手がヒトではない、その違いだけで。
「私はどうも、言葉の選び方が不器用で……よかれと言った事でも、相手を不快にさせてしまうことがあるようだ」
重ねて申し訳ない、と言いながら、彼女は頭を下げた。悪い人物には思えないし、嘘をついているようには見えなかった。
それでも、スラヴィエーラの心とついでに浮城のために、彼は追及を続ける。
「ここでの生活は、気に入ってるのか?」
尋ねると、しばしの間があった。
ウルガは困ったような表情でマイダードに笑いかけ、肩をすくめる。
「……すまない」
確かに、嘘のつけない、真っ直ぐな女性だ。謝られてしまったらマイダードにはどうしようもない。
同時に驚いていた。ウルガはこの短い会話の間に、マイダードの人となりを見抜き、上に密告しにくくなるように先手を打ったのだった。
まるで友人に向けるような笑顔を見せたのは、そういうことだ。
「そう言われても、規則は、規則だしな」
胸に苦いものを感じながら、マイダードは言った。彼の中の正義と、浮城の正義は、しばしば一致しない。
「破妖刀に選ばれたら、拒否は許されない。捕縛師のおれが言っても重みはないが、歴代の使い手はみんなそうやって……」
「十分承知している」
強い口調でウルガは言い、毅然と睨み返してきた。
「それなのに、黙って見逃せって?ずいぶんと都合が良過ぎないか」
マイダードもつい語気を荒らげてしまう。
「望んでここにいる連中ばかりじゃない。勝手に選ばれた挙句に振り回されている破妖剣士や、以前の使い手を追い出すような形で後釜に納まって、肩身の狭い思いをして……それでも、浮城の未来のために、立派な破妖剣士になろうと懸命に頑張ってる奴だっているんだ」
ウルガはその場から微動だにしなかった。話の内容を全て理解していたか分からないが、真剣に聞いていた。
決意を翻すのは不可能であることを、彼は悟った。慣れるまでは夢晶結を片時も離さなかったスラヴィエーラとは違い、ウルガの腰に今、月晶華はない。
普段は部屋に置いてあるのだ。いつでも手放せる、その程度の気持ちだということだ。
「相性というものがある。浮城という組織自体を否定はしない。ただ、私には合わない、それだけだ」
淡々とした口調だった。
彼女の足元の影がふと消えたような気がして、違和感を覚えた。目の前にいるのは、紛れもなく人間の女性であるはずなのに……。
この女性は人情でも、名誉でもなく、もっと何か別の次元で生きている。マイダードはそれを強く感じ、束の間恐怖した。


ウルガが殉死したという報せを受けたのは、それから数日後のことだった。


「もう嫌!!ラエスリール絡みで何人死人が出るのよ!!」
ラエスリールの追っ手として向かった精鋭が、転移門近くで魔性の敵襲を受けた。その中にウルガがいたのだ。
捕縛師のカーガスも死に、その前に派遣されたシャーティンも重傷を負った。拉致されたセスランは未だ戻らない。全てラエスリールが原因だ。
髪をかきむしり、スラヴィエーラは机に顔を伏せた。彼女はたまたま仕事で浮城を空けていたが、そうでなければ追っ手として選ばれていた。要は命拾いしたわけだが、少しも嬉しくはなさそうだった。
「スラヴィ………」
「これで、女の破妖剣士は三人しかいなくなったわ。次はいよいよ、わたしの番かしらね」
自嘲気味に告げるスラヴィエーラに、マイダードがかけてやれる言葉はひとつだった。
「お前は殺したって死なないだろう」
それは、彼の願いでもあった。スラヴィエーラがいなくなることなど、少なくとも今の彼には考えられない。
「わたし、ラエスリールを散々いじめたもの。柘榴の妖主が黙ってないでしょ。上級魔性がその気になれば、いち破妖剣士なんて一捻りよ」
本当にそうだろうか。
マイダードは数年前、妖貴を倒すためにガンディアに派遣される予定だった。彼の実力を遥かに越えた、生きて帰れるとは思えない無謀な仕事だ。それが、ラエスリールのおかげで行かずに済んだ。
スラヴィエーラも今回、ラエスリールの追っ手として選ばれなかったから、結果的に死なずに済んだ。
ウルガを殺したのは───直截的ではないにしろ、恐らくラエスリールだ。あの娘が、ウルガの死に関わっていることは間違いない。
マイダードには、ラエスリールが死神のように感じていた。相手の望むままに死を与えてくれる、親切で恐ろしい死神に。
『ここは私の居場所ではない』と言っていたウルガが死に、マイダードたちは生きている。つまり、自分たちはまだ死ぬ時期ではない、ということだ。
ならばまだ大丈夫だ。生きたい、死にたくないと思っているうちは、自分たちはまだ大丈夫だ。

「ラエスリールが、お前を殺させるはずがない」
「なによ!マイダードは昔っから、あの女を庇って───」


スラヴィエーラの声が途中でかき消えた。マイダードが抱き寄せたからだ。
捕縛師であること以外にはまるで無力な彼が、出来ることは何もない。自分よりほんの少し先に生まれたこの女性の、支えになることぐらいしか。
死神が気まぐれを起こさない限り、平和な日常は約束されている。周囲で誰が何人死のうが、大切な人さえ無事なら、彼は構わない。
───落ち着きを取り戻したスラヴィエーラに思いっきり殴られたとしても、彼は別に構わない。



──おわり──



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