鬱金の間 別れの杯(マイスラ、シャーティン、オリキャラ)


陰口の数年後のお話です




──幼鬼の咆哮とともに、血の雨が降る。
小さな岩の陰に、マイダードたちは身を隠していた。夜の闇が落ち、持久戦と言う名の地獄が彼らを待ち受けていた。
村人たちを安全な場所に避難させ、現れた獲物を五人で取り囲んだはいいが、中でも血気盛んな破妖剣士が、段取りを忘れて真っ先に斬りかかったのがまずかった。
「レイテルの……馬鹿野郎っ!」
息を殺す彼の傍らで、小柄な女性が毒づいた。彼女の視線は、数十歩先で事切れている青年に向けられている。妖鬼の牙で引き裂かれたその肢体は、硬直が始まり冷たくなっていた。
その上を、妖鬼の巨大な足が更に蹂躙していく。青年の近くにいた捕縛師二人も巻き添えになり、マイダードの傍らにはこの女性しか残らなかった。
「あいつさえ独断に走らなければ、もっと楽に片付いてたのよ!これだから破妖剣士は……本当に、連携ってものを知らないんだからっ!」
ぎり、と岩に爪を立てて、女性は憤る。仲間に犠牲が出たのは全て、先走ったあの青年のせいだ。敵を怒らせるだけ怒らせて先に逝ってしまった責任は重く、マイダードもあまり同情する気にはなれなかった。
妖鬼は破妖刀によって傷つけられた額から紫色の体液を流し、己を傷つけた人間を皆殺しにすべく、土埃を上げながら周囲を徘徊している。
マイダードたちが近くに潜んでいる事を知っていて、この場から動こうとしない。護り手に救援を頼んだが、朝まで持ちこたえられるとは思えなかった。
「もう駄目よ。少しでも動いたら見つかってしまう。私たちここで死ぬんだわ」
女性の封魔具は使う以前に破壊されていた。陶器で出来た壷の破片が、足元に転がっている。それを一瞥した後、マイダードは彼女と向き合った。
「らしくない事を言うんだな、ウルシーア。スラヴィに笑われるぞ?」
その名前を出すと、途端に女性の顔が曇る。
スラヴィエーラより少し遅れて浮城に入った彼女は、美貌の破妖剣士に恋慕にも似た思いを抱いていた。それゆえマイダードにはやたら冷たい態度をとっていたわけだが、今は反論する気力すらないようだった。
「……私が怯えてたなんて、絶対に言わないでね」
弱い女だと思われて、嫌われたくない……。
気配を消し、膝を抱えて俯くウルシーアは、無力な女性そのものだった。封魔具と同時に、捕縛師としての誇りまで打ち砕かれたように見えた。
震える華奢な肩に、彼はぽんと手を置いた。そのまま下に押して、彼女の身体がより自分の陰になるようにする。
「マイダード……?」
怪訝な顔で見上げてくるウルシーアに、言わない、と彼は約束した。好きな相手に軽蔑されたくないと思う気持ちは、自分もよく判っているつもりだ。
「その代わり、もう弱音は吐くな。生きて、あいつに伝えたいことがあるんだろう。だったら、今は泣き言なんて言ってる場合じゃない」
恋敵───と呼ぶには、性別的に大いに疑問があるのだが───の女性が軽く目を瞬いた。やがてその幼い顔が、どうにか笑みを作る。
その時、屍を漁っていた妖鬼の目玉が、二人が潜む岩の方角を向いた。
マイダードはウルシーアの顔を見ていて、気づかなかった。妖鬼が樽ほどの太さがある腕を振り上げ、獲物を岩ごと叩き砕こうとしているのを。
「そうね……浮城に戻ったら、ちゃんと」
びしゃ、とマイダードの頬に深紅が降りかかった。地面に膝を着いた姿勢のまま、ウルシーアの首から上が綺麗になくなっていた。
彼は正面を向いた。一撃で獲物を仕留められなかった妖鬼が、不快そうに唸りながら目の前にいた。
彼が腰を浮かすより、敵の動きの方が早かった。横に薙ぎ払われた腕が腹部に命中し、粉々に粉砕された岩の破片が、マイダードの身体ごと上空へ吹き飛ばした。その間にも女性の顔であった肉片は、妖鬼の腕に削り取られ、血飛沫とともに後方へ飛んでいく。
元より知能が低い妖鬼は、自らの攻撃によって標的の姿を見失ってしまった。高い木の枝に偶然にも引っかかった彼は、肋骨が折れているらしい痛みに耐えながら眼下に意識を集中する。
聞きたくも無い、湿った音がする。柔らかい肉を裂き、女性の下半身を食っている音だ。 密やかな、しかし確実な怒りと共に、手の甲に刺青が浮き上がった。封魔具がないというのは、こういう時に便利だった。身体さえ無事ならば、死なない限りどこを粉砕されようが勝機はある。
枝から地面へ、滴り落ちる血に妖鬼が気づいて顔を上げた。視線が交差した瞬間、マイダードは迷わず右手をかざした。


「また、他の連中は全滅だって?」
浮城に戻ったマイダードを待ち受けていたのは、同僚の悪意ある発言であった。 ここまであからさまだと怒る気もしない。明らかに酒が入っていて機嫌が悪い相手なら、なおさら、だ。
「全く、お前の生還率は尋常じゃないな。何か秘訣でもあるのか」
低く笑いながら壁に背中を預けるシャーティンは、これから仕事に行くらしく、刺繍の入った正装を着ている。
城長に報告を済ませ、疲れていたので飲む気力もなく自室に戻ろうとしたのだが、厄介な相手と鉢合わせてしまったものだ。 かなり鬱陶しく思いながら、マイダードは瞼を伏せ、出発前のウルシーアの言葉を思い起こしていた。
この仕事が終わったら、思い切って打ち明けてみる、と言っていた彼女の姿を。
「……ないさ、そんなもん」
単に運がいいだけだ。しかしこういう事が何度も続けば、自ずとマイダードと組みたがる仲間はいなくなる。単独の仕事も嫌いではないが、帰りに酒場に寄って皆で祝杯を上げる楽しみがなくなるのが、彼としては寂しかった。
振り切ったと思ったら、シャーティンはしつこく後をついてくる。気に入らないのなら放っておいてくれればいいのだが、わざわざ絡みに来るのが彼という男だ。
「判るもんか。ひょっとして自分が生き残るために、仲間を盾にしているんじゃないだろうな」
先陣を切って死んだ破妖剣士は、彼の友人であった。そのこともあって、今日のシャーティンは異様なまでに絡んでくる。マイダードがあまり反論しないのも、彼にとっては気にいらないらしかった。
(余裕ぶりやがって)
そんな声が聞こえる。これだけ狭い空間で毎日似たような顔を突き合わせていれば、人間関係にも自然と歪みが生じるものだ。 一人一人は温厚な人物であっても、些細な事で気持ちはすれ違う。ちなみにシャーティンが温厚の部類に属するか否かは──各々の判断に委ねるとしよう。
「それとも、その呪われた刺青のせいかよ?」
熟成された、毒のある言葉がマイダードの背中を刺した。
「彫った奴の怨念が篭ってるんだろ。よくもそんなものを刻んで平気でいられるなぁ、普通の女は引くだろ」
「………」
動きが止まったのは怒りのためではない。その程度で腹を立てるぐらいなら、彫り師の悲しみごと背負ったりはしない。
「シャーティン、逃げろ」
沈黙の理由は、背後から聞こえてくる独特の足音に、耳を澄ませていたためだ。
気配に敏感なマイダードは、嫌味な同僚のために親切に忠告した。しかしシャーティンは、ただ訝しげな顔をするだけだ。
「はあ?」
「いいから逃げろ。……あー、間に合わなかったか」
マイダードは片手で顔を覆う。その瞬間、シャーティンの脇腹に強烈な飛び蹴りが炸裂した。風のように滑り込んできたスラヴィエーラは、そのまま華麗に着地を決める。
床に崩れ落ちた青年は、最初は何が起こったのかわからないようだった。
やがて「普通でない女」に蹴り倒されたことに気づき、怒りに顔を真っ赤にして上半身を起こした。
何となく助け起こそうとしたマイダードの手を、シャーティンは振り払う。
触るな、と低い声が聞こえた。マイダードが微かに眉を顰めたのは、本気の怯えを感じ取ったからだ。差し出した手を引っ込め、とりあえず腕を組む。
仕事以外で、誰かに危害を加える気はない。救おうとする相手に拒否されるなら、害意がないと証明するために、せめてそうするしかない。
自力で起立したシャーティンは、気を取り直して襲撃者に向き直る。
「スラヴィエーラ!貴様ぁっ!」
そう言えば、スラヴィの名前はスラヴィエーラだったな、とマイダードは改めて思った。子供の頃から愛称で呼んでいるから、一瞬誰のことかと思ってしまった。
呼ばれた当人は、怯えもせずに肩を竦める。薄暗い廊下で、大きな瞳が猫のように光った。
「あーら失礼。でっかい蚊が止まっていたもんだから、つい手が出ちゃったわ」
夜稽古の帰りなのか、スラヴィエーラは持っていた木刀を、シャーティンの鼻先にすい、と突きつけた。
「ついでに、ここにも虫が。叩いちゃっていいかしら?」
「う……」
シャーティンは、中腰の姿勢のまま微動だにできなかった。少しでも動こうものなら、彼女は躊躇い無く彼の鼻を打つだろう。
浮城の人間同士の暴力沙汰はご法度、しかしスラヴィエーラは一応女性であり、手を上げればシャーティンの分が悪い。
「よせ、スラヴィ」
後ろから肩に触れ、マイダードは彼女の暴走を嗜めた。破妖剣士が、魔性でもない男を攻撃してどうするのか。
見かねて、仲裁に入ってくれたのは判ってはいるが、却って事態をややこしくするのは、彼女の得意技だ。シャーティンの恨みがスラヴィエーラに移ったら、彼も気分が良くない。
「だって、こいつが悪いんじゃない!マイダードも何か言い返しなさいよ!!」
スラヴィエーラの瞳は、正義感と義憤の感情に溢れていた。昔から彼女は変わらない。
「いいから。何で今日に限ってここを通るんだ。お前の部屋は、あっちだろ?」
シャーティンの顔から木刀が離れると、彼は床に尻餅をついた。それを冷たく見下ろすと、スラヴィエーラは頷いた。
「そうそう、あなたに話があって探してたのよ。……ウルシーア、死んだんですってね」
声が少し低くなった。慕ってくれていた女性の無残な死を、彼女はどう受け止めているのだろう。
俯くマイダードの手を、スラヴィエーラはためらいもなく握った。本当に、何の躊躇もなく。
「なんて顔してるのよ、あなたのせいじゃないでしょう。ちょっとこっち来なさい」
有無を言わせず彼の手を引き、スラヴィエーラはすたすたと歩き出した。
振り返ると、シャーティンは脇腹に靴の跡を付けたまま、埃を払う事も忘れているようだった。


「気を遣わせて悪かったわ。わたしとあの子の問題なのに」
他に誰もいない食堂の片隅で、スラヴィエーラは小さく呟いた。
向き合い座る二人の間には、食事当番が残していった水差しと杯がぽつんと置いてある。器の水は既に温くなっていたが、就寝前に喉を潤すには充分だった。
「知ってたのか?」
ウルシーアが友情以上の想いを抱えていたこと──この依頼が終わったら、喩え嫌われることになっても、スラヴィエーラに気持ちを告げるはずだったこと。
彼女が最後の仕事で怖気づいたことは、もちろんマイダードの口からは言わなかった。未使用の封魔具は亡骸と共に埋葬し、秘めたる思いは永久に知れることはない。
そう思っていたのだが……。
「何となくよ。本当はもっと早く距離をおくべきだったのに、懐かれると邪険にはできなくて、つい……ね。好きでもない相手に優しくするのは、却って残酷だったと思う」
マイダードはやや耳が痛かった。無邪気に慕ってくれる、はしばみ色の瞳を持つ後輩の少女を思い出したからだ。
しかし懐かれているだけで、はっきりと告白されたわけでもない。そのうち同年代の少年に心を移すだろうし、申し込まれる前から断るというのも妙な話だ。
ただでさえ、彼は一度ウルシーアで失敗している。子供の頃にスラヴィエーラとの仲を詮索され、てっきり好意を寄せられているものと勘違いして、大恥をかいたのだ。
ウルシーアの本命は、スラヴィエーラその人であった。同性同士で恋愛が成り立つものなのか、マイダードには判らない。ただ、彼女が本気だったのは確かで、その真摯な思いはマイダードにも伝わってきた。
「返事を先延ばしにしたわたしがいけないのよ。まさかこんな事になるなんて」
両手で持った杯の中の水に顔を映し、彼女はきり、と唇を噛む。相手の気持ちに気づかぬ振りをしたりやり過ごしたり、そういうことの出来ない女性だった。
ウルシーアと今のままの関係を維持し続けるのは、どちらにしろ不可能だった。妙な噂が立つ前に引導を渡さねばならないと、思っていた矢先の事だった、と彼女は語る。
「出来れば応えてあげたかったけど、やっぱり無理だわ。わたしは、男の人しか好きになれないもの。そうでしょう?」
顔を上げた彼女の大きな瞳の中に、マイダードが映っている。意志の強さを象徴するかのような双眸にじっと見つめられ、胸の奥がざわついた。
(違う……)
平静を装い、自らに言い聞かせる。杯をあおり、乾いた喉を湿らせた。
(おれに言ったんじゃない)
該当しそうな人物の一人や二人や三人、咄嗟に浮かんできてしまうのが悲しい。スラヴィエーラの交際範囲はそれなりに広い。
彼がウルシーアを憎めなかったのは、スラヴィに馴れ馴れしくしないで、と言い放てる彼女が羨ましくもあったからだ。だからと言って、同じようになりたいとは思わない。好きな相手を困らせて喜ぶ趣味は無いし、第一、ウルシーアが死んだ以上それは二番煎じだ。
彼女は先に不幸な死を迎える事によって、スラヴィエーラの中に永遠に苦い思い出として残る。……そういう意味では、憎いあの男と似たり寄ったりだ。
(じゃあ、三番煎じか)
真水では酔うこともできず、彼の中には鬱屈だけが溜まっていく。 残された相手がどう思うかも考えず、ただ自分の想い、言動だけを押し付ける───身勝手な、愛し方。
それを受け入れてしまうスラヴィエーラにも腹が立つ。 ウルシーアが死んだのは本人のせいではないが、長い間彼女を苦しませていた事には変わりない。
「お前が気にすることじゃないだろう」
この流れでは故人を悪く言ってしまいそうで、マイダードは話題を変えた。
「レイテルとサリスとアーシェインも、不運が重なっただけだ。おれが生き残ったのも……」
単に、運だけで片付けられない問題かも知れない。自分さえも気味が悪いと思っているのだから、他人から見ればなおさらだろう。
ふと意地悪な気持ちになって、彼は言ってみた。
「……それとも、おれが代わりに死んだ方が良かったか」
「馬鹿っ!!」
がたん、と椅子を背中で突き飛ばすような勢いで、スラヴィエーラは立ち上がった。
「冗談でもそんな事言わないで!これ以上昔馴染みがいなくなるのはまっぴらよ!!」
彼女がこんな反応をする事を判っていながら、口に乗せた。そうして、予想通りの言葉を引き出し喜んでいるあたり、我ながら小さいと思う。
弟分として、でも構わない。傍にいられるなら。あの男のように傷つけたりはしないししたくもないが、たまにこうしてからかうくらいなら許されるはずだ。
もしや、それ以上を望んだからウルシーアは散ったのではないだろうか。
破妖刀に依存したまま最後を迎えるのが破妖剣士の運命ならば、その破妖剣士に心捕らわれて身を滅ぼすのは、さしずめ捕縛師の運命といったところか。
ならば、諸悪の根源は破妖刀だ。武器の分際で人間を操ろうとするあの刀は、ある意味魔性以上に悪辣と言えるかも知れない。
破妖刀も少しは苦しめばいい。己が食欲のために次々と使い手を乗り換えたりせずに、最初の主が死ぬと同時に砕け散るくらいの貞淑ぶりを見せてくれれば、少しは考えを改めてやってもいいのに。罰当たりにも、彼はそのようなことを考えた。
「悪かった」
あまり悪いと思っていない口調で答えたが、スラヴィエーラの瞳に涙が溜まっているのを見て、ぎくりとする。
「スラヴィ……」
「わかればいいのよ」
詫びの言葉は見事に遮られた。動揺してあらぬ事を口走りそうになった彼は、それで命拾いをする。
瞼を拭い、彼女は椅子に座り直すと深く息を吐いた。長い睫から透明な雫が散るのを、見てみぬ振りをした。
「わたしね、仕事に出かける前に、いつも手紙を一通引き出しの中に残しておくの。死んだら誰かに開封してもらえるように」
浮城の人間が出先で命を落とした場合、遺産は家族がいればそちらへ、天涯孤独の場合はそのまま吸い上げられて浮城の運営資金に化ける。それが不満な場合は前もって遺書を残しておく者もいる。
尤も、遺書が存在するが故の揉め事もあるから、一概に良い手段とは言えないが、少なくとも死ぬ当人だけは、安心して逝ける。
「でも、あの子は何も残さなかった……だから、わたしも何もしてやれない。それが悔しいのよ」
どうやら、惚れさせた者の義務、というやつを感じているらしい。
それなら真っ先に果たすべき義務が目の前にあるのだが、男は数の内に入らないのだろうか。
マイダードが死んだ時、彼女がどんな顔をするのか見ることは出来ない。悲しまれないのは辛いけれど、それでも笑っていて欲しいなどと矛盾した事を思う。
「ねえマイダード、聞かせて。ウルシーアは、捕縛師として立派に戦ったんでしょう?」
鬼籍に入った者の残した言葉を忘れぬよう、スラヴィエーラは真剣に尋ねてきた。
どんなに眠かろうと、疲れていようと、この熱のこもった眼差しには逆らえない。
「……ああ、最後まで勇敢だったよ」
酔えない水の入った杯を傾け、捕らわれた相手に請われるままに、マイダードは語り始める。
スラヴィエーラのために、そして彼女と同じくらいの深さであの女性の死を悲しむ事が出来ない自省もこめて。


そんな風にして、今日も浮城の夜は更けていく。


──おわり──


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