「マイダードは、あの子のこと誤解してるわ」 あからさまに悪意のある囁きに、マイダードの眉間には自然と皺が寄った。 とは言え、食事をしているから席を立つわけにも行かない。匙を口に含んだまま、相手の次の言葉を待った。 「男の子には愛想よくしてるから、きっと気づかないんだろうけど。あたし、見ちゃったのよ……スラヴィが、ラエスリールを突き飛ばしてるところ」 その言葉は非常に不愉快な響きを持って、マイダードの胸のうちに沈んでいった。 「人前では明るく振舞っておいて、影ではこそこそ苛めなんて最低よね。あんな子とは、仲良くしない方がいいんじゃない?」 スラヴィエーラが夢晶結に選ばれて、1年あまり。彼女に関する悪い噂は、すっかりなくなったと思っていた。もともと、明るく屈託のない彼女に、いつまでも以前の使い手の影を重ねて見ることには無理があったのだ。 それでも、彼女が目立つ存在であることには変わりなく、今度は破妖刀とはまるで関わりのない部分まで否定しようとする輩が現れたか。 まずくなったスープを無理やり飲み込むと、彼は眉間に皺を寄せたまま、少女に向き直った。 「押しくら饅頭でもしていたんじゃないのか?」 事実であったとしても、どういう状況でそんなことになったのか、聞かないことには判断できない。 ラエスリールは城長の養女で、マイダードと同じ捕縛師の資格を持っている。人付き合いが苦手で浮いた存在だと聞いていた。 「そんなはずはないでしょう!口論をしていて、急にあの子がラエスリールを怒鳴りつけて、押したのよ!」 顔を真っ赤にして告げるその少女はたぶん、マイダードのことが好きだったのだと思う。 彼は他人の気持ちに鈍い方ではないし、一見図太く見られがちだが、自分がどう思われているかは、結構気にする方だ。 スラヴィエーラを悪く言うことで、自分に関心を向けようというつもりなら、悪いがそれは逆効果である。 「ふうん……」 気のなさそうな振りをしながら、マイダードはとりあえず、相手が喜びそうな台詞を返してみた。 「わかった、今度から気をつけて見てみる。ありがとうな」 そんなつもりはなくとも、こう言っておきさえすれば、余計な癇癪を起こされることはない。 少女は満足したらしく、まるで善行を施した後のように歪んだ笑顔を浮かべて去っていった。 少女が去り、食事を終えた後も、いやな気分が消えなかった。噂話そのものより、自分の気持ちに対して疑いを持ち始めたのである。 マイダードの中には、自分の好きになった少女が、苛めをするような娘だとは思いたくないという気持ちがある。 スラヴィエーラを信じているが、考えてみたらその「信じる」という思いそのものが傲慢ではないのか。 彼女にだって、醜い部分や陰湿な部分はあるだろう。自分の思った通りの少女ではなかったからと言って、勝手に裏切られたと思うのか? 相手の本質というものも未だによく分かっていないのに、自分の理想を押し付けるような真似はするべきではない。 ───頭では、わかっているのだ。 そもそも自分はスラヴィエーラのどこが好きなのだろう。 目が大きくて元気がいいから、と最初は思っていたが、彼女より明るく美しい女性を外で見ても、心は動かなかった。 かと言って、スラヴィエーラでなくては駄目だと言い切れるほどに、彼女のことを知っているわけではない。 悶々と考えていても埒が明かないので、ともかく事の真偽を確かめることにした。 スラヴィエーラは、流しの所で手を洗っていた。排水溝に叩きつけられた水滴が跳ねて、白い横頬にかかっている。 マイダードの目にはその柔らかそうな輪郭と後ろ姿だけが映っていた。食堂であの少女と話した直後のせいか、いつもより綺麗に見える。 好きな女性が、この世のあらゆる悪意から切り離された存在であって欲しいと願うのは、やはり少年特有の幻想であり、我侭なのだろうか。 話しかけたいような、このまま見ていたいような気持ちに捕らわれながら、彼はしばらく声をかけることが出来なかった。 手を洗い終えたスラヴィエーラが振り向き、彼の存在に気づいた。 つまらなそうにしていた彼女は、マイダードの姿を見つけると顔を輝かせ、さながら宿り木を見つけた小鳥のように飛んできた。 「マイダード!!」 大きすぎる小鳥の存在に、彼の梢は激しく揺れ、葉を散らした。とても、他の鳥を止まらせる余裕などない。 この腕がスラヴィエーラにとって必要ならば、いつでも空けておくべきなのかも知れない。 「どこに行くの、何してるの?どうせ暇でしょ、遊んであげる!」 勝手なことを言いながら、濡れた手で袖を掴もうとするスラヴィエーラを避けると、彼女はますます面白がって執拗に攻撃をかけてくる。 「手を拭け、手を」 文句を言いつつも気持ちが浮き立つのを、マイダードは止められなかった。先ほどまでの憂鬱が、嘘のように晴れていくのを感じていた。 「いいじゃなーい。えいっ、水鉄砲!!」 スラヴィエーラは組んだ手に溜めていたらしい水を、手のひらの水圧で飛ばした。 その手は食うかと避けた途端、背後に硬い、壁のような感触があたった。 嫌な予感に、恐る恐る振り向くと、スラヴィエーラの水攻撃をまともに食らった、不機嫌な顔をした破妖剣士長がいた。 「は、破妖剣士長……」 厳格で知られた破妖剣士の長が、マイダードの背後に立っていた。ぽたぽたと顔から水滴が落ちている。表情が変わらないから余計に怖い。 「お前たち………」 殴られると首を竦めたマイダードだったが、破妖剣士長は彼らを交互に見つめると淡々と言った。 「仲がいいのは結構だが、節度は守るように」 髭から雫を垂らしたまま説教をするあたり、意外と笑いの才能があるのかも知れない。 意表を衝かれて答えられないでいると、破妖剣士長はスラヴィエーラに視線を移して、短く告げる。 「それと、スラヴィエーラ。城長が直々にお前に話があるそうだ。後で来い」 夕日が地平線の向こうに沈む頃、スラヴィエーラが執務室から放り出されるようにして出てきた。 落ち着かず、廊下を行ったり来たりしていたマイダードは、すかさず物陰から出てきて彼女に歩み寄った。 「終わったのか?」 スラヴィエーラは疲弊した顔でマイダードを見上げた。 「うん、今……って、ひょっとして、心配してずっと待っててくれたの?」 驚きの目を前にして、マイダードは咳払いした。 「お、おれはそんなに暇人じゃない。今日の用事が終わって、たまたま通りがかったんだよ。本当に、たまたま、だからな」 苦しい言い訳だったが、素直なスラヴィエーラはふーん、と納得していた。 それ以上突っ込む気力が残されていないせいもあるだろう。城長たちによからぬことを言われたのは、顔を見ればわかる。 「何を言われたんだ……?」 少し離れた場所にスラヴィエーラを連れて行き、小声で尋ねる。浮城の最高権力者である城長が、ひよっこ破妖剣士であるスラヴィエーラに、どんな用件があったのか。 彼女の生活態度は、ややお転婆ではあるものの、概ね良好だ。それでも、以前の使い手の件や今回の水鉄砲の件があるだけに、心配になる。 まさか、仕事で実績を上げるまでは男女交際は禁止、などと、黴臭いことを言い出したのではあるまい。 色々考えているマイダードをよそに、スラヴィエーラはぶすっとした表情で答えた。 「別に。ラエスリールと仲良くしろって言われただけ」 「は……」 予想の斜め上を行く答えに、マイダードは目を丸くした。 しかしすぐに、あの少女の言っていた言葉が、汚泥のように胸に迫ってきた。 スラヴィエーラに、何の気なしに聞くなら、今しかない。本当にラエスリールを苛めているのかどうか……。 ───それを知って、どうする? 胸の中で、もう一人の自分が問うた。 ───自分の選んだ相手が間違っていなかったことを知って、安心したいのか? それは、スラヴィエーラが好きなのではなく、スラヴィエーラを好きな自分が好きなだけではないのか、と。 ───本当に相手を信じているなら、よからぬ噂の真偽などどうでも良いはずだ。確かめずにいられないのは、思いが揺らがない自信がないからだ。 意地悪なもう一人の自分が、臆病なマイダードを哂ってくる。 「ラエスリール………か」 心を落ち着けるため、息を吐く。スラヴィエーラが怪訝そうに見てきた。 「マイダードにも何か失礼なことしたの?あの子」 棘のある言葉に、マイダードは息を呑んだ。彼女の言葉にわずかながら悪意を感じたのだ。 マイダードの知っている彼女は、明るく屈託なく、誰とでも仲良くなれる少女。しかしそれは彼が見ている一面に過ぎない。 「この間、稽古の輪に加わろうとしなかったから、誘ったのよ。そうしたら他の大人が庇って……」 そのときの光景を思い出したのか、スラヴィエーラは悔しそうに唇を噛んだ。 「城長の養女だからって、特別扱いはよくないと思わない?わたしは一緒に稽古しようって言っただけなのに、この子はそういうのが向いてないからって」 仲間の輪に入れようとするスラヴィエーラとそれを避けるラエスリールを、大人たちが引き離したというのが真相らしい。 「じゃあ、突き飛ばしたって言うのは」 思わず聞くと、スラヴィエーラは驚いたように見てきた。 「誰から聞いたの?」 しまったと思ったが、もう遅い。 気まずい空気と、スラヴィエーラの悲しそうな表情が胸を締め付けた。こんな顔をさせたくないから聞くのをためらっていたのに、最悪だ。 「突き飛ばしたりはしてないわ。いつもマイダードにするみたいに、ラエスリールの袖を掴んだのは確かだけど……振り払って逃げられたら、そんな風に見られるかもしれないわね」 それだけ聞けば十分だった。 スラヴィエーラを信じていなかったわけではない。信じられなかったのは、自分だ。 「そうか、ごめん……小耳に挟んだだけだから。おれは、お前がそんなことする奴じゃないってわかってたから」 自分のものとも思えない───もとい、浮城に来る前の自分らしい、情けない声が口からこぼれ出る。 捕縛師の資格を得て強くなったつもりでも、本質的に臆病な部分は変わっていなかった。大事な存在を前にすると、尻込みしてしまう。 「城長さまにも同じことを言われたわ。でもね、そうやって聞くこと自体、もう疑ってるってことじゃない」 その言葉は鋭くマイダードの胸を抉った。 マイダードとて、城長のことを責められない。結局、自分がいちばんだ。 「そのくせ、今頃ラエスリールと友達になって欲しい、だなんて。どういうつもりなのかしら」 「だから……城長の養女と親しくしておけば、今後何かと便利だし……」 「いやよ!わたし、そうやって打算で誰かと仲良くするみたいなこと、大嫌い!!」 ───ああ、彼女のこういうところに、心を捕らえられたのだと悟った。他人の悪口を一切言わない、天使のような少女に惚れたわけではなく、誰かと対立して、傷つけて傷ついて、それでも前に進もうとする心が。 自分には決してないもの───憧れてやまないもの。 毒を吐き出した後、スラヴィエーラは不意に不安げな顔になり、ぎゅっとマイダードの腕を握った。 「ごめんね、マイダードに当たっても仕方ないのに………」 相変わらず、強いのか弱いのかはっきりしない少女だ。その不安定さが彼の心を乱し、また幸福な気持ちにさせる。 恋でなくとも構わない。この少女に少しでも必要とされているのなら、力になりたかった。 「いいって。部屋まで送る」 こんな腕でよかったら、いつでも握っていて欲しい。 「え?すぐそこなんだけど」 「送る」 自分がそうしたい気分だった。 次の日、マイダードは食堂で例の少女を見かけて、声をかけた。 「あの件な、誤解だったらしいぞ。スラヴィは、ラエスリールに暴力を振るったりはしてない」 目論みが失敗した少女の顔が、ぐにゃりと歪んだ。 対するマイダードは、極めて上機嫌だった。夕べ、スラヴィエーラが初めて部屋に入れてくれたからだ。 もちろん深夜になるまでには自室に帰ったが、それまで菓子を食べながら楽しく話が出来て、気分がよくなっていたのだ。 単なる異性の友人から、親友に進展したような気がする。これまでよりずっとスラヴィエーラを近くに感じた。 喜びのあまり、普段なら気づいていても言わないようなことまで口にしてしまった。 「どうしてあんなでたらめを言ったんだ。あんたの気持ちは嬉しいけど、おれはまだ誰ともつきあう気はないから」 付き合う気がないとは、もちろんスラヴィエーラを除いての条件付きである。そう言えば、少女の心を傷つけずに諦めさせることができると思った。 「はあ?」 ───しかし、返ってきたのは露骨な侮蔑の視線であった。 「何言ってるの、あんた?頭がおかしいんじゃないの?」 「え……」 本気で嫌がっているらしい少女の声に、マイダードの血がすうっと冷えて、固まった。 その瞬間、背後から明るい声が聞こえてきた。スラヴィエーラだ。 「おはよう、マイダード。ウルシーアもおはよう」 ウルシーアというのはこの少女の名前だった。 親しげな様子に唖然としていると、少女はマイダードを突き飛ばすようにして、スラヴィエーラに駆け寄って飛びついた。 「スラヴィ、ひどいじゃない!最近ぜんぜん、あたしと遊んでくれないなんて!!」 あまりの変わりように、マイダードは己の耳と目を同時に疑わねばならなかった。 これは、どういうことなのだろう。スラヴィエーラの悪口を吹き込んだ張本人が、目の前でスラヴィエーラに懐いている………。 スラヴィエーラは自分より二つ下の少女の頭をよしよしと撫でながら、優しく声をかけた。 「やっぱり、マイダードに余計なこと言ってたのはあんただったのね。大丈夫よ、マイダードは弟分、あんたは妹分。どっちも大切なんだから」 なにやら聞き捨てならないことを聞いたような気がしたが、この際それはどうでもいい。 頭の中を整理したかった。マイダードはよろける足を一歩前に踏み出した。 「ちょっと待て……お、お前ら、仲が良かったのか?」 思考が追いつかない。それなら、先日のあの態度は何だったのか。スラヴィエーラと仲良くしない方がいいと言っていた、あれは。 「そうよ!」 ウルシーアがきっとマイダードを睨みつけた。 「あんたがスラヴィに馴れ馴れしいから、釘を刺したのよ。うぬぼれないでよ、この勘違い野郎!!」 盛大にあかんべをされ、マイダードの膝から力が抜けた。 「な………」 盛大な勘違いをしていた恥ずかしさに、顔から火が出る。 それにしても友人の悪口を、あんなに嬉々として話す方も悪いのではないか。 あれでは、誰だって嫉妬による行動だと誤解する。好意と悪意は表裏一体。果たしてあの態度の中に、真実が含まれて居なかったと断言できるのか。 「ご、ごめんマイダード、また後でね」 スラヴィエーラは友人を引きずって姿を消した。一気に疲労が出てきたマイダードは、がっくりとその場に膝をつく。 「お、女って………」 まだまだ修行が足りない──本当に心から、そう思った朝であった。 ──おわり── 戻る [*前] | [次#] ページ: |