「スラヴィ……」 硬い声で、マイダードが言う。繋いだ手から、彼の不安や緊張が伝わってきた。 「壁に背中をくっつけて、じっとしてろ。そうすれば、少なくとも背後から襲われることはないから」 マイダードの指示通り、背中に壁を預ける。その間にも妖鬼の集団は、じり、じり、と二人に迫ってきた。 先輩捕縛師の同伴で、もう何度も実戦を経験したことのあるマイダードの言葉は、心強かった。彼がいてくれて、本当に良かったと思う。修行中の身であるスラヴィエーラには、とても妖鬼の群れに挑みかかっていくような度胸はない。 いや、正しくはそれは度胸ですらない。 浮城の人間といえど、無闇に命を捨てるような真似は愚かでしかない。ましてやスラヴィエーラはまだ、浮城に何の貢献もしていない。一人の人材を育てるためには、長い年月や教育費がかかるのだ。ここで彼女が死んだら、その全てが無駄になる。 浮城に籍を置きながら、誰の役にも立てないまま死んで行くなど、そんな事は絶対に認められない…認められるはずもない。 「助かる方法が、ひとつだけある」 マイダードが囁いた。 「どうするの?」 暗くて、少年の表情は判らない。声は落ち着いていたが、顔色は彼女同様、青ざめているのかも知れなかった。 「外には出られない…が、逆に、こいつらを外に出すことは出来るかも知れない。その後、出口を塞いでしまえば」 スラヴィエーラは出口の方角を確認しようとした。だが、相変わらず真っ暗で何も見えない。 暗闇の中わずかに光っている妖鬼の目は、狼のそれに似ていた。四足で歩いていることからも、獣に似た外見をしていることは確かだろう。 「…いちかばちか」 マイダードが、獲物の入った袋に手をかけたのがわかった。今日一日の狩りの成果だったが、命には代えられない。 ひゅっと音を立てて、闇の中に、白いものが舞った。妖鬼が威嚇の唸り声を上げる。今にも襲い掛かりそうな前兆に、スラヴィエーラは思わず、マイダードの腕にしがみついた。 蹲っていた妖鬼の一体が、ゆっくりと身を起こした。それは、マイダードたちを一瞥すると、足元に視線を落とした。匂いを感じ取ったのか、興味深そうに、鼻先で、地面に落ちた袋をまさぐっている。 袋の中に詰まっているのは、まだ新鮮な、兎の肉だ。それに気づいた妖鬼は尖った牙で袋を引き裂いた。 一体の妖鬼が動いた瞬間、他の影がぞろぞろと動き出した。その時、洞窟内に月の光が差し込んだ。出口を塞いでいた妖鬼の位置が動いたためだ。 冷たい風が流れ込んでくる。先程よりは、嵐はおさまったようだ。 「出口は、あそこね」 スラヴィエーラはしっかりと位置を確認すると、自分が持っているもうひとつの袋を抱えて、動き出した。マイダードが慌てる。 「おい、危ないぞ」 「大丈夫」 この位置から投げたのでは、洞窟の外までは届かない。妖鬼たちはマイダードの投げた袋に気を取られていた。その間に彼女は、壁伝いに、出口へ歩いていく。 月明かりに浮かび上がった妖鬼の姿は、想像していたよりもずっと醜悪で恐ろしかった。全身に毛がびっしりと生え、鋭い牙と爪を持つ。その数は、五・六体はあった。 周囲に集っていた他の妖鬼たちも、一斉に肉にかぶりつき始めた。くちゃくちゃと咀嚼する音と、舌なめずりが周囲に響いた。 スラヴィエーラはなるべくそちらを見ないようにして、洞窟の出口まで辿り着いた。獲物の入った袋を、音を立てて振って見せる。 音に反応して、妖鬼たちが振り返った。マイダードの投げた袋は既に原型を留めないほどに食い荒らされていた。 幾つもの、欲望に満ちた目が、自分を見つめている。怯える心を押さえつけながら、スラヴィエーラは彼らを誘惑した。 「ほらほら。ここに、まだご馳走があるわよ」 言葉が通じたかどうかは判らない。だが、妖鬼たちは袋を眼にした瞬間、彼女に向かって一斉に襲い掛かってきた。 「きゃあああ!!」 恐怖に悲鳴をあげながら、スラヴィエーラは夢中で、重い袋を洞窟の外に放り投げた。 投げた袋は、外の強風に攫われ、遥か遠くへ転がっていった。 「スラヴィ、こっちだ!来い!!」 言われるまでもない。 彼女は猛烈な勢いで出口から遠ざかっていた。 それとほぼ同時に、妖鬼たちが洞窟の外に向かって突進する。荒れ狂う白砂の中に、破れた袋が転がっていた。 最も早く辿り着いた者が、それに喰いかかり、同じように食いちぎる。袋は、瞬く間にぼろぼろになり、吹雪のように舞って行った。 「マイダード!」 駆け寄り、思い切り少年に抱きつく。喉を圧迫され、少年はげほごほと咳き込みながら、涙目で頷いた。 「…よくやった」 「でしょう?もっと褒めて褒めて!わたしだってねー、やれば出来るんだから!!」 「少し、静かにしててくれ。出口を封じるから」 「なによー、つまんないの」 洞窟内に、妖鬼の姿は見当たらなかった。全員外に出たようだ。 それを確認して、マイダードは魔除けの結界を張った。いつまでもつか判らないが、取りあえず身の安全は確保出来た。 「信じられない…こんなにうまくいくなんて」 スラヴィエーラは、その場に座り込んだ。心臓が、まだばくばくと高鳴っている。結界の外では、マイダードたちの姿を見失った妖鬼たちが、悔しげに周囲を徘徊しているのが見えた。 「気を抜くなよ。あいつらが諦めてどこかへ行くまで、動かないように」 「う、うん…」 彼女は、まだ少年の腕を抱えていた。何かにしがみついていないと、不安だった。 それにしても、この腕はいつの間にこんなに逞しくなったのだろう。触れていると、安心する。まるで己の一部でもあるかのように、肌になじんで、違和感がない。この腕を傷つけられたら、自分もきっと、同じように傷ついてしまうだろう。 力を込めて、ぎゅっと抱きつく。 そんな彼女を、マイダードは困惑したように見下ろした。 「そろそろ離してくれないか」 スラヴィエーラはむっとして、顔を上げた。 「なんでよ。いいじゃない、怖いんだもの」 唇を尖らせる自分の姿が、相手の目にどのように映っているか、考えもしなかった。 「だって当たるんだよ」 「なにが?」 「……胸が」 しばらくして、「ごきっっ」という派手な音が洞窟内に響いた。 「信じられない!助平っ!!」 真っ赤になって拳を震わせているスラヴィエーラの足元には、撃沈された少年が転がっている。 「助平って言うな!お前がしがみついてくるから悪いんだろ!?」 むきになって反論する彼を、再び大量の拳が見舞った。 「そういうことは口に出さずに黙ってればいいの!胸胸言わないでよ、大きいの気にしてるのに!!」 『くくくく』 「ちょっとー、不気味な笑い方しないでくれる?」 「おれはなにも言ってない」 『くくくく』 「ほら、笑ってるじゃない!」 「だから、言ってないって…」 二人は、同時に息を呑んだ。 『くくくくく……』 それは、低い、男の声としか、言いようのないものだった。 反射的に背後を振り返った二人の目に映ったのは、異形の獣の姿だった。 『新鮮な餌が二匹も見つかるとは』 大きな、鷲のような姿──にも関わらず、首から上は、男性の顔をしている。口の部分が嘴の形をしており、開かれた瞼の中に見えているのは、白目の部分だけだった。 不気味さに、スラヴィエーラは口元を覆った。 『どちらから、いただこうか…?』 ───カタカタ、カタ。 夢晶結が、再び震え始める。 先程よりも震えが大きい。まともな人語を話す妖鬼となると、相当力も強いはずだ。 「…うかつだった」 マイダードが呻く。 スラヴィエーラも同じ事を思っていた。 結界を張る前に、洞窟の内部は一通り確認したが、唯一、天井だけは見落としていたのだ。 なるほど、鳥形の妖鬼ならば、洞窟の上に身を潜めていることが出来る。こんなに強そうなのが、最後まで残っていたとは思わなかった。 兎の肉につられないあたり、知能もあるはずだ。そう言えば、連中は妙にあっさりと餌に釣られていた──この妖鬼が、自分ひとりだけ人間の肉にありつくために、わざと他の妖鬼たちを外に誘い出したのかも知れない。 『今までの威勢はどうした、人間よ』 妖鬼が低く笑う。 魔性の中でも比較的知能の高い者は、獲物をすぐには殺さず、会話を楽しむことさえあるという。 ひょっとしたら助かるのではないか───そんな期待を抱かせておいてから、じっくりと時間をかけて、嬲り殺しにすることもあるらしい。 その際の人間の絶望の表情が、彼らにとってはたまらない娯楽なのだとか。 ふざけた話だ。 ───カタカタ、カタ。 スラヴィエーラの気持ちも知らず、夢晶結はただ喜んでいる。 ───カタカタ、カタ。 抜かなければ。この破妖刀を。 実戦で使ったことは一度もないが、このままでは殺される。 抜かなければ。 しかし、動いたのは少年の方が早かった。肩を衝撃が襲い、彼女は後方へ突き飛ばされた。今まで立っていた場所に、矢のようなものが降り注ぐのが見えた。 地面に尻餅をつき、スラヴィエーラは痛みに呻いた。 突き飛ばした相手に文句をつけようとして顔を上げ、目の前の光景に目を見開く。 マイダードがうつ伏せに倒れていた。その背中からは、夥しい量の血が流れている。 「マイ…」 ダード、と言葉を続けようとしたが、出来なかった。 少年の背中には、鳥の羽が刺さっていた。それが、身体を深紅で埋め尽くしている。まるで針山のように。 腕を伸ばし、少年の身体を揺り動かした。左右に動いたが、それはあくまでもスラヴィエーラが『動かした』のであって、マイダードが自分から動いたわけではない。 彼の気は、完全に失われていた。かすかな呼吸が、辛うじて彼がこの世に留まっている証拠であった。 つい先ほどまで傍らにあった温もりが、奪われようとしている。その恐怖に、スラヴィエーラは怯えた。先ほど妖鬼に襲われた時の比ではない。 『人間とは、時折不可解な行動をする生き物だな』 ゆっくりと羽を広げながら、男の顔が言った。 スラヴィエーラを庇った少年に対する、そっけない感想であった。 『自分よりも大切なものがあるとでも言うのか…?』 スラヴィエーラは夢中で、気を失っている少年の背中から羽を引き抜いた。 鮮血が飛び、頬にかかった。 「わ…わたしの…!」 真正面から、鳥形の妖鬼を睨みつける。 「わたしの友達に何をするのよ!」 『ほう…』 いかにも非力そうな少女の訴えに、妖鬼は可笑しそうに嘴を歪めた。 『お前は、この少年と『つがい』だな?ならば、安心しろ。一緒に喰ってやる』 自分に判らない単語が出てきた。スラヴィエーラは首を傾げる。 「なによ、どういう意味よ…」 問いかけを無視して、妖鬼はしげしげと少女の全身を眺める。人間を餌としか見なさない、下級魔性特有の目つきだった。 その目つきが、次第に粘り気を帯びたものになる。彼女の丸みを帯びた手足、膨らみかけた胸元、細い首に、執拗なまでに視線を這わせる。もしもこの時、マイダードに意識があれば、妖鬼に殴りかかっていたに違いない。──そういう視線だった。 スラヴィエーラは急いでマイダードの傷口を縛り、止血した。 不思議なことに、その間、妖鬼からの攻撃はなかった。おかげで、応急処置をする時間は充分にあった。 だが、それにしても静か過ぎる。 応急処置を終えたスラヴィエーラは、不気味な静寂に怯えながら、妖鬼を見上げた。 『…なかなか、愛らしい。殺すには、いささか惜しいかな』 今までずっと、検分していたのだろうか。妖鬼は紅い舌を覗かせて、微笑んだ。 『だが…』 妖鬼の表情が、瞬時に冷たいものへと変化する。その視線の先が辿るのは、彼女の腰にあるもの──。 見とれていたのは、スラヴィエーラに、だけではなかったらしい。彼女の相棒である夢晶結に、妖鬼は憎悪の眼差しを注いでいたのだ。 『だが、その刀は、我らの命を脅かすもの。破壊する』 冷ややかな言葉と共に、スラヴィエーラ目掛けて、羽の矢が降ってきた。咄嗟に左に避けた彼女は、洞窟の壁に激しく頭を打ち付けた。 「くっ…!」 痛い、とは言わない。マイダードはもっと痛かったはずだ。 妖鬼は、再び羽を広げた。その一つ一つが、鋭い先端をスラヴィエーラに向けている。 『そして、その使い手も同じ…始末する』 破妖刀に嫌な思い出でもあるのか──それとも、魔性は本能的に、破妖の剣に恐怖を抱くように出来ているのか。 いずれにせよ、敵が攻撃の対象をスラヴィエーラに絞ったことは、間違いなかった。 「や、やれるもんなら…」 もう、迷ってなどいられない。スラヴィエーラは腰紐を解き、夢晶結を鞘から引き抜いた。腕に、ずしりと重みがかかる。 二の腕だけで支えるには、あまりに重い。腕がふらつき、思うように動かない。支えているのがやっとだ。 けれどこれは、『彼女』が、これまで吸ってきた命の重さだ。受け止められない者に、破妖刀を振るう資格はない。 「やれるもんなら、やってみなさいよ!」 スラヴィエーラは叫んだ。大声を出していないと、恐怖に負けそうになる。 『まだ、使いこなせていないようだな』 妖鬼が目を細める。 『そんな及び腰で歯向かおうとは、人間とはつくづく…』 洞窟内に、羽が舞う。男の身体を離れた瞬間、それは矢に変化した。 『愚かしい生き物よ』 羽で出来た矢が、獲物目掛けて垂直に降ってくる。 命無きものに、破妖刀は反応しない。ただの棒切れとして、彼女の身を守るものにしかならない。 「えい、えい!」 無我夢中で、夢晶結を振り回す。払い落としきれなかった羽が、スラヴィエーラの華奢な身体に、まっさらな皮膚に、傷をつけていく。 何と重いのだろう、この刀は。木刀など比べ物にならない。 首筋を、羽の矢がかすめた。よろけて地面に膝をつく。その刹那、目前に矢が迫った。 「ああ…っ!」 だが、その矢は、スラヴィエーラの眼前で、ぴたりと動きを止めた。まさに、眼球に触れるか触れないかという距離で、矢が止まったのだ。 スラヴィエーラは、あまりの恐怖に、開いた瞼を閉じることも出来ない。唇は開け放たれたままに、金魚のような動きを繰り返していた。 あとほんの少し、動いただけで、この矢は己の目を潰す。それなのに、この妖鬼はあえて、止めたのだ。 『顔は狙わない』 自分に酔ったような妖鬼の声が、ひどく耳障りだった。 『私は紳士だろう?』 優しい声と共に、矢が目前で砕け散った。軽やかな、そしてどこか狂気じみた笑い声が、洞窟内に響き渡る。 くらり、と眩暈がした。 彼は、人間以上に、人間の心理を理解している。出来るだけ長く苦しめ、追い詰めて弄ぶために、スラヴィエーラに致命傷を負わせることをしない。殺すと見せかけて、殺さない。希望を与えつつ、絶望を展開していく。 (勝てない…) 紅い、命の水が、ぽたぽたと地面を濡らす。 夢晶結に選ばれ、嬉しかった。修行をすれば、いつかは強くなれると思っていた。 それが、そもそも甘かった。魔性は、スラヴィエーラが強くなるまで、待っていてはくれないのだ。 体力的な問題もあり、現役の破妖剣士で居られる期間には、限りがある。一分でも一秒でも、無駄にしてはいけなかったのに。 勝てそうにない妖鬼と対峙してしまった時にどうすれば良いか、確か講義で習った気がする。けれど、復習をしていなかったため、思い出せない。 マイダードの言う通りだった。苦手なこと、面倒なことを後回しにしていたら、最後にはかならずツケが回ってくる。 (もっと、勉強しておけば良かった…) せめて語学だけでも真面目に学んでいれば、辞世の句ぐらいは詠めたかも知れない。 スラヴィエーラは背後にいるマイダードを庇うように、じりじりと前進した。血で汚れた掌に、避け切れなかった羽が刺さっている。 (…刺さって、る?) その瞳が、不意に大きく見開かれる。 スラヴィエーラは夢晶結を引きずり、柄の部分を、岩の窪みに深く突き刺した。ちょうど、壁から破妖刀の先端が突出したような格好になる。 そして、ゆっくりと、破妖刀から手を離した。妖鬼が目を細める。 『ほう、あきらめたか』 スラヴィエーラは、力なく頷いた。その身体からずるりと力が抜け、汚れた地面に崩れ落ちる。 妖鬼は、広げていた羽をたたみ、満足げに歩み寄ってきた。 『それでいい。下手に逆らっても、苦しみが長引くだけだ』 「お願いがあるの…」 か細い声で、少女は告げた。 「わたしの代わりは居るけど、夢晶結の代わりはいないの。お願いだから、破妖刀だけは見逃して」 妖鬼は鼻で笑った。 『それで、破妖刀を手放したわけか。だが、そんな願いが通るとでも?』 スラヴィエーラは片腕を上げた。血に塗れた指先が、かすかに震えている。 「お願い…マイダードと、夢晶結だけは…」 『どうやら、破妖刀を先に始末した方がよさそうだ』 妖鬼の目が、ひときわ冷たく光った。くるりと背中を向け、壁に刺さっている夢晶結を見つめる。 『悪く思うな、小娘』 瞬間、妖鬼の身体は斜めに傾いだ。 突然の衝撃に、狼狽する妖鬼の目に映ったのは、しおらしい振りをしていた人間の小娘の、不敵な表情だった。 スラヴィエーラが背後からその羽を掴み、地面に引き倒していたのだ。 『こ、こいつ……!』 凶器であるその羽を、両手で鷲掴みにして、スラヴィエーラはにやりと笑った。 「隙を見せたわね。わたし、狩りは得意なのよ」 相手が、自分から近づいてくるのを待っていた。この妖鬼は、遠距離からの攻撃が専門らしい。 ならば、羽さえ封じてしまえば、攻撃できない。できたとしても、攻撃の暇など、与えなければいい。 妖鬼は、スラヴィエーラの両手と膝に押さえつけられ、じたばたともがく。 『無駄なことを!は、破妖刀を操ることの出来ないお前に、私を倒すことは不可能のはずだ!』 確かに、通常の武器では魔性を傷つけることは出来ない。それくらいは当然、理解している。 「破妖刀なら使うわよ、もちろん。そこにあるもの」 スラヴィエーラは妖鬼の羽を持ち、立ち上がった。 『まさか…』 彼女の意図を知り、妖鬼が顔色を変える。 『や、やめろ!やめてくれ!!』 それまでの余裕が嘘のように、必死の形相で暴れる。 洞窟の壁に刺さった、破妖刀。鋭く突き出した先端。その方角へ、スラヴィエーラは腕を振るった。夢晶結を操ることが出来ないのなら、他の方法があるはずだ。 マイダードの、先ほどの言葉を思い出していた。 『外には出られない…が、逆に、こいつらを外に出すことは出来るかも知れない』 破妖刀が動いてくれないのなら、『刀』ではなく、『獲物』の方を動かせばいい。夢晶結の刃をあらかじめ固定しておき、妖鬼の身体をそこに刺せばいい。 『は…離せ、離せ!!』 羽を広げること叶わない妖鬼は、ひたすら暴れた。嘴で、スラヴィエーラを突こうとした。 それより早く、彼女は両腕を振り上げ、鳥によく似たその身体を、壁に向かって、勢い良く振り下ろしたのだ。 「このおおおおっっ!!」 壁から突き出している破妖刀に、スラヴィエーラは思い切り、妖鬼の背中を叩きつけた。ずぶり、と嫌な感触が伝わってきた。耳を塞げるものなら、塞ぎたかった。 妖鬼の絶叫が響いた。鋭い刃が、皮膚を貫いていく音。 壁に叩き付けられた妖鬼は、破妖刀が歓喜の声を上げながら、自分の心臓を食いちらかしていくのを受け入れた。 「…はっ、はあっ…」 両肩で大きく息をしながら、スラヴィエーラは執拗に、妖鬼の身体を壁に押し付ける。己の全体重をかけて、ぐいぐい、と、ひたすら押し付けた。 妖鬼の目が、次第に虚ろになっていった。まるで、白昼夢でも見ているかのような、ぼんやりした表情だった。 スラヴィエーラは、目を逸らした。後は、相手が命の全てを食い尽くされ、砂と化すのを、待った。 (まだなの…?) しかし、その時はいつまで経っても来ない。心臓は確実に貫いたはずなのに…まさか。 (まさか) その可能性に思い当たり、スラヴィエーラははっとした。 (心臓が、もう一個あるの?) 一瞬、腕の力が緩んだのが、命取りだった。妖鬼の足の爪が、彼女の鳩尾を直撃したのだ。 悲鳴を上げて転倒する少女の身体に、妖鬼は踊りかかろうとした。だが、それまでに失った力は、大き過ぎたらしい。壁から離れることが、すぐには出来ない。 スラヴィエーラの身体は、少年の倒れている位置まで転がって行った。 打撲が激しい身でも、無意識に、彼だけは守ろうとしたのかも知れない。最後の力を振り絞って、少年の身体に覆い被さると、少女はそれきり動かなくなった。 妖鬼は羽ばたくことも出来ずに、壁から剥がれ落ちた。羽を削がれ、肉が剥き出しになった背部から、大量の体液を流している。白目には、激しい憎悪が浮かんでいた。 『お、のれ…』 這って、這って、少女に近づいた。自分をこんな目に遭わせた人間。八つ裂きにしても、まだ足りない。 自らの不覚が招いた事態だとは、彼は思わない。弱い人間と侮って、油断したせいだとも思わない。 この小娘が、刺された者に悪夢を見せるという破妖刀、『夢晶結』の使い手であったからだ。そうでなければ、この自分が負けるはずがないのだから。 魔性は眠りを必要としない。よって夢も見ない。 だが、以前この刀に命を奪われたことのある仲間が、彼に言い残した。貫かれた瞬間、恐ろしい幻覚を見た、と。 だから、夢晶結の事は、知っていた。しかし、新たに選ばれた主というのがこれほど幼い少女だとは、誰が思うだろう。 許せない。この小娘の存在も、この刀も、ここで闇に葬らなければ、また、仲間の命が奪われる。 『よくも、私の命を…!』 憤りのままに、気を失った少女に爪を振り下ろそうとした、まさにその時───。 「そこまで、ですよ」 いっそ優しいとさえ言える声が、その場に響いた。突然の闖入者に、妖鬼は爪を下ろす。 入り口に、一人の青年が立っていた。 年齢は二十を越えたくらいだろうか。それにしては、僧侶のような穏やかさと、落ち着きがある。 月明かりに照らされ、美しいブロンズ色の髪が、光沢を放っていた。 青年は、外の烈風をものともせず、静かに洞窟内に足を踏み入れた。靴も、身に着けている服も、あまり汚れていない。どのようにして、ここまで辿り着いたのか……。 「もう、勝負はついています。あなたはその少女に負けたのですから」 ですから、おやめなさい。 命じる口調に、妖鬼は顔を強張らせた。 『貴様、何者だ』 抑えた声で、問う。 青年から感じる気配は、通常の人間のそれとは明らかに違った。浮城の人間であることは疑うべくもないが、それ以上に、身に纏う空気に、眷属に近いものを感じる。 「捕縛師の、セスランと申します」 妖鬼の疑問に、青年は笑顔で応じる。 「浮城の子供が二人、狩りに出たまま戻らないと言うのでね。探しに来たんですよ」 言って、妖鬼を凝視する。その刹那、凄まじい引力が働いたように思えた。 『こ、こんな…お、お前…!?』 自らの身体に起こった変化を、信じられぬといった顔で受け止めている妖鬼に、青年は微笑む。 「外に居た、あなたのお仲間は、全て私の中におりますよ。いま、会わせてあげます」 『な…!!』 「おやすみなさい」 その言葉の意味を理解できぬままに、妖鬼の身体は四散した。 ──正確には、青年の身体の中に封印されたのだったが。 後には欠片すら残らず、洞窟内に散らばっていた羽さえも、紅い砂となって消えていった。 ふう、と息をつき、青年は振り返った。そこで目にしたのは、少年を守るようにして折り重なり、倒れている少女の姿だった。 ブロンズの髪の青年は、口元を綻ばせた。 「やれやれ…泣かせてくれますねえ」 互いを思う気持ちが、実力以上の力を生むことがある。彼らの名誉のために、浮城には、偽の報告をした方が良いのかも知れない。スラヴィエーラとマイダードの二人が協力して、洞窟内の妖鬼を殲滅させた、と。 「こんな子供たちが居るのなら…浮城もまだまだ、捨てたものではありませんね」 くすり、と青年は笑う。 その瞳には、二十代の者が持つには相応しからぬ落ち着きと、謎めいた光を宿していた……。 「窓を開けてもいい?」 書庫で新しい本に熱中している少年に、スラヴィエーラは話しかけた。 返事がない。 少女は、ととと、窓辺に駆け寄り、窓枠に手をかけた。 「せえの!」 閉め切った窓を、左右に開放する。窓の外は中庭に続いていた。爽やかではあるが、強い風が室内に吹き込み、机の上に置いてあった本の山が崩れだした。 ばらばらとめくれてしまう頁を押さえながら、マイダードは眉をしかめた。 「ひょっとして、おれの邪魔をしに来たのか?」 迷惑そうな顔が楽しく、スラヴィエーラは笑い声を上げた。 「そうよ。わかった?」 あれから一ヶ月が経ち、スラヴィエーラたちの怪我は、順調に回復していた。 助けてくれた捕縛師の手当てが適切であったことと、彼らが本来頑丈な身体に生まれついていたことも、幸いしたのだろう。 例の妖鬼は、どうやらいつの間にか死んでいたらしく、洞窟内を徘徊していた雑魚妖鬼たちも、スラヴィエーラたちが倒したことになっていた。 破妖剣士長に労いの言葉をかけてもらい、褒美として部屋を移動させてもらうことも決まったので、彼女は現在、大変機嫌が良い。 「全く…元気な奴」 包帯を巻いた肩を押さえつつ、マイダードがぼやく。 「死にそうな目に遭ったってのに、全然懲りてないんだな」 「当たり前じゃない。だってわたし破妖剣士だもの。怪我が完全回復したら稽古再開よ」 「張り切るのはいいが、今回の試験はどうだったんだ?」 スラヴィエーラは、親指と人差し指で輪を作った。 「ばっちりよ!勉強も、やってみると楽しいものよね。見てなさーい、すぐにマイダードなんて追い抜いてやるんだから」 「ああ、楽しみにしてる」 「きーっ、何それ!むかつく!!」 「じゃあどう言えばいいんだよ……」 風が、二人の頬を撫でていく。あの晩の嵐とは違った、優しい風だ。 「ねえ、マイダード」 「ん」 「『つがい』ってどういう意味?」 少年は、訝しげに顔を上げた。 「今度は何だ?」 「うん…あのねえ」 先日の状況を思い出しながら、スラヴィエーラは遠くを見つめた。 「例の妖鬼がね、死ぬ前に言ってたのよ。わたしとマイダードは『つがい』なんですって」 「……」 マイダードが、読んでいた本を閉じた。 「ねえ、どういう意味なの?」 マイダードは、しばらく少女の顔を見つめた後、思い切ったように言った。 「教えてもいいが。お前、それ聞いてどう思った」 「はあ?意味がわからないから聞いてるんじゃない」 「いいから、感覚だけで答えてくれ。どう思った?」 何やら真剣な表情で聞かれてしまったので、スラヴィエーラはたじろいだ。 「そうね…少なくとも、イヤな感じはしなかったけど。でもそれが何なのよ」 瞬間、彼は素早く椅子から立ち上がった。 思いも寄らない行動に、スラヴィエーラも思わず、腰を浮かせてしまう。 「え、ちょっと…どこ行くのよ!?」 マイダードは背中を向けた。 「ちょっくら用事を思い出した。じゃあな」 顔の半分は本で隠していたが、辛うじて見えている口元は、どうやら笑っているようだった。 「ああっ、待ってよ、ずるいわ!教えてくれるって言ったじゃないっ!」 窓の外で、羽音が聞こえる。 スラヴィエーラの大声に、中庭の梢にとまっていた二羽の鳥が、慌てて飛び去っていった音だった。 ──おわり── セスランにはこういうおいしい役が似合います。 あと、「鳥がかっこいい」というご好評を頂きました。鳥か、そうか……。 [*前] | [次#] ページ: |