鬱金の間 繰り返す、約束・後編(マイスラ←闇主)


ここはどこだろう。
朝、予定していた時間になってもスラヴィエーラが起きてこないから、心配になって部屋まで迎えに行く途中だった。先ほどまでは確かに、王宮の廊下を歩いていたはずだ。それが何故、このような真っ暗な空間にいるのだろう。
ごつごつした、大小さまざまの岩がそこら中に散らばっている。いや、重力を無視して浮いている。マイダードの足元に足場らしきものはない。感触が全くしない。にも関わらず、歩く事が出来るという事は、目に見えない床が確かに存在しているのだ。
ひんやりとした空気が全身を包む。この空間だけが真夜中なのか。ここはどこだ。
彼は、次第に焦り始めた。出口も入り口も見えない。歩いていけばどこかに辿り着くはずなのに、岩以外は何も見えない。
自分は夢を見ているのだろうか。スラヴィエーラに求婚を受け入れられた喜びで、舞い上がって寝坊して、まだ寝台の中にいるのだろうか。
ふと足を止める。目の前に、白い椅子が一脚、ぽつんと置いてあった。
歩き疲れていた彼は、何となくその椅子に近づき、腰掛けてみた。ふわりと何かに包まれるような感触があった。
覚えがある、とても懐かしいような、ごく最近知ったような感触に、マイダードは思わず腰を浮かし、離れた。
背凭れと肘掛けの付いた、ごくありふれた椅子。乾いた白木のようなもので組み立てられており、肌色の革が張ってある。まだ新しいのか、傷も汚れも見当たらない。

「その椅子が気に入らなかったか?」
空気を震わせる美声───マイダードはぎくりとして振り返った。
そこには柘榴の妖主がいた。黒衣に身を包んだその男は、マイダードよりもやや背が高い。いつ見ても、恐ろしいほどの美貌の主である。
ラエスリールと一緒にいる時は、多少はゆるい表情も見せるが、彼女と敵対する普通の人間にとっては、恐怖の対象でしかない。
(何故、こいつがここに……)
夢の中ならば、仕事に関する不安が形を作って表れてもおかしくはない。だが夢と呼ぶには柘榴の妖主の姿はあまりにも生々しく、現実味を帯びていた。
マイダードが何も言えないでいると、柘榴の妖主は紅い瞳に残酷な光を宿し、笑った。
「遠慮せず、腰掛けたらどうだ」
返事もしないうちに、マイダードの身体はどすんと音を立てて椅子に縫いとめられた。強引に腰掛けさせられる。
確かに椅子の座り心地は抜群だった。まるでマイダードの身体に合わせて誂えたように、肘掛けの位置といい、背凭れの高さといい文句はない。
何より、この革の柔らかさはどうだろう。尻がまるで痛くならない。これなら長時間腰掛けていても、身体に負担はかからない。
「どうだ?」
柘榴の妖主が問いかけてくる。怪訝に思いつつも、マイダードは素直に答えた。
「……やわらかい」
何が可笑しかったのか、相手は盛大に吹き出した。
「そうだろうよ。なにせ、素材がいいからな」
高らかな笑い声が、妙に気に障った。椅子から動く事が出来ないマイダードは、眉を潜める。
素材とは何だ。ちりちりと、頭の奥に痛みが走る。考えてはいけないと思っても、思考は本人の意思とは無関係に、答えを探す。
マイダードを優しく受け止める白木の骨組み、肌にしっとりと吸い付くような革の感触に、何かを思い出した。

「人間の女の骨と皮膚を使った椅子だ。上出来だろう」
一瞬、頭の中が空白になった。
柘榴の妖主の姿が、二重にも三重にもぼやけて見え、それからようやく焦点が合った時、彼はマイダードのすぐ目の前にいた。
漆黒の腕が伸び、マイダードの前髪を乱暴に掴む。酷薄な笑みが、椅子に捕らわれた青年を見下ろしている。
「隠す必要はないぞ?おれも同じ男だ、気持ちはよくわかる。この女に跨ってみたいと思ってただろうが。望みどおりにしてやったぞ、感謝するんだな」
話しているだけで全身が腐りそうな悪意が、妖主の口から衝撃的な言葉となって迸る。
黒い染みのような不安が、胸の中に広がっていくのが判った。
「………どこだ?」
自分の声であるはずなのに、随分遠くの方で聞こえた。
全身の血液と言う血液が、凍り付いてしまったかのように、痛みも温度もまるで感じなくなった。
「あいつを、どこへやった」
脳裏に浮かぶのは、大切な大切な───出会った時から守りたいと願っていて、しかし彼女自身が強すぎたためにその必要もなく、諦め続けていた女性。
笑った顔が好きだった。真っ直ぐ前を見て、自分の事より浮城の事を第一に考えていた、破妖剣士の鑑のような……だからこそ、破妖刀が与えられない幸せを、与えてやりたいと思った。
誰にも傷つけさせない、今度こそ。今度こそ、彼女は自分が守るのだと……。
「頭の悪い男だな。そら、そこにいるだろうが」
柘榴の妖主は容赦なく、青年に現実を伝える。マイダードの身体越しに、変わり果てた姿となった女性を指差す。
前髪が容赦ない力で引っ張られ、椅子ごと揺らされる。それでも椅子から離れる事は出来ない。
ギシッ、ギシッと音を立てて、椅子が軋む。まるでスラヴィエーラが悲鳴を上げているようだった。
認めたくはないのに、確信せずにはいられない。彼の身体は、スラヴィエーラの優しく強い感触を覚えている。これからもっと、それを知るはずだった。
自分の身体を揺り動かす妖主に、マイダードは制止を求めた。相手は聞かない。背もたれが苦しそうに音を立てる。ギシッ、ギシッと、泣いている。
柘榴の妖主の顔立ちはどこまでも麗しいのに、今は醜く歪んで見える。
「女が喘いでるぞ。もっと動いてやったらどうだ」
「やめろ!!」
持てる力の精一杯を振り絞って怒鳴っても、相手はマイダードを揺するのを止めない。
苦悶する彼の顔を覗き込み、侮蔑の言葉を吐く。
「そんなに大事な女なら、ずっと傍について守ってやりゃ良かったんだ。それが出来ないなら、なんで添い遂げようと思った」
知っている。柘榴の妖主は、知っているのだ。スラヴィエーラに指輪を渡したことを。
「この女は、お前が弱いから死んだんだよ」
その言葉は鋭い棘となって、マイダードの胸の底を抉った。
相手が妖主だから、化け物だからということは、言い訳にもならない。選択肢はいくらでもあった。危険を承知で、マイダードたち奪還チームはラエスリールを追ったのだ。
その時点で、命など投げているはずだった。浮城に戻るまで緊張を解いてはいけなかったのに、紅蓮姫がこちらの手に渡った事で、気を抜いていた。
スラヴィエーラがこの男の恨みを買っていることなど、彼女の口から聞かされて十分注意していたはずなのに。あのラエスリールが、自分たちに危害を加えることを許すはずがないと、根拠もない確信を抱いていた。
「だから、おれを責めるのは、筋違いってやつだ。違うか?」
相手の手が離れた。ついでに、前髪を何本か持って行かれる。
色素の薄い髪が、ハラハラと落ちた。痛みなど感じない。むしろ痛んだ方がいい。
妖主が離れても、振動はまだ続いていた。
まるで揺り篭のように、マイダードの意思などお構い無しに、椅子が前後に揺れる。
スラヴィエーラが泣いている。大きな口だけ叩いて、守れなかった彼を責めるように、そんな男から指輪を受け取った事を悔いるように。
柘榴の妖主の冷酷な顔が、心を黒く塗りこめていく。
行方を尋ねるまでもない。この世の何処を探しても、もうあの女性はいないのだ。もう二度と、スラヴィエーラに会う事は叶わない。あの大きな瞳で自分を見つめ、大口を開けて笑い、平気で人の頭を殴るお転婆な………。
指輪を渡した時、抱きしめた時の柔らかい感触は、この椅子そのものだった。滑らかな肌は引き裂かれ皮に。健やかな骨は分解され、残りの血肉はどこへ消えた。
「目障りなんだよ、お前ら」
嘲笑と共に、マイダードの膝の上に、何かが落ちてくる。
それは、女性の指だった。薬指だけが、無理に千切られたような形でそこにあった。
今にも動き出しそうなほど、まだ血色が良い。それがスラヴィエーラのものである証拠に、マイダードが渡した金緑石の指輪が嵌まっていた。
「壊す理由としてはそれで十分じゃないのか?」
マイダードは薬指を手のひらに乗せた。小声で呼びかけても、それはぴくりとも動かない。彼女の魂は既に肉体を離れている。
こんなに小さな肉片でさえもとても柔らかく愛しいのに、彼女らしさがまだ残っているのに、もうスラヴィエーラ本人はどこにもいない。
「使えそうな部分だけ残して、後はそこいらの雑魚に食わせた。そうそう、ついでにあのなんとかという破妖刀も、分解して組み込んでやったぞ」
柘榴の妖主の声が、遠くから降ってくる。
スラヴィエーラの愛刀は、最後まで彼女と運命を共にしたのだ。さすがは破妖刀だ。
彼女が一番辛い時に傍にいてやれなかった自分とは、まるで違う。本当に、口先だけだった。
スラヴィエーラがその美しい肢体を柘榴の妖主に解体されていた時、自分はまどろみの中にいた。彼女の悲痛な叫びなど、聞こえはしなかった。
何を思って、彼女はこんな姿にされたのだろう。最後の瞬間、マイダードの名前を呼んだだろうか。
殺したのはこの男だ。引き裂かれ、血を抜かれ、人でない形に組み直され────さぞかし、辛かっただろう。
あの世で恐らく殴られる。遅いじゃない、何で来てくれなかったのよ、と。
その時が待ち遠しいくらいだ。目の前の、この忌まわしい化け物を片付けてから、彼女のところに逝く。すぐにでも逝く。
椅子から立ち上がった。抵抗する力はもう働かない。手の甲が熱くなる。魔性を封印するための刺青が浮き上がり、光が迸った。
自分の内側で、これまでにない力が暴走を始めているのがわかる。懐にスラヴィエーラの指をしまいこむと、彼は面を上げ、捕縛師の顔になった。
柘榴の妖主が可笑しげに目を細めた。触れられてもいないのに、その目を見ただけで全身に裂傷が走った。
浮城の正装が裂け、血が噴き出す。こんな傷など意味を成さない。スラヴィエーラのいない世界で、彼を真実の意味で傷つける事が出来る者などいない。
「柘榴の、妖主………!」
彼は全身から憎悪の力を放っていた。命を削りながら、捕縛の術を発動させている。
死ぬつもりか、という相手の言葉など、耳に入らなかった。
相手の叩きつける力が、首筋を、肩を、容赦なく切り裂いて血を流させる。
夥しい出血は、肌を伝う事もなく風に散って血の玉を作る。朱の雪が舞い上がっているような、異様な光景であった。
「おれを捕縛する気か。確かに、心臓はもう一つしかないが………」
世界最高の力を持つ魔性の男は、人間の足掻きを鼻で笑う。
「お前ごときに封じられるとでも?思いあがるのも大概にしろよ、羽虫が」
柘榴の妖主が放った力で、突風が巻き起こった。それは渦を巻いて、マイダードの身体にまともに叩きつけられる。辛うじて踏ん張ったが、体中の関節が、ミシミシと悲鳴を上げる。
命を投げ打ってまで、好きな相手に殉じようとする青年に、柘榴の妖主の顔がふっと緩んだ。
「お前には、別に恨みはないんだ。態度次第じゃ見逃してやってもいいんだがな」
その言葉は、マイダードの感情を爆発させるのに十分だった。漆黒の空間で、風が唸り声を上げる。
風がはためき、青年の広い額が覗いていた。憎悪に燃える瞳に、柘榴の妖主は何故か、ほんの一瞬だけたじろいだ。
「九具……」
マイダードの背後にいた『スラヴィエーラ』が、風の圧力に耐え切れずに弾け飛んだ。
椅子はバラバラになり、その破片の一つが、宙を舞って柘榴の妖主に襲い掛かる。夢晶結の欠片が、その頬を掠めた。体液が流れる。だが、それだけだった。
すぐに体勢を立て直した柘榴の妖主は、闇の刃を躊躇うことなくマイダードに叩きつけた。
青年の端正な顔が、怒りの表情を浮かべたまま切断される。彼の意識は、その時点で永遠に途切れた。
腕、足、首───あらゆる部品が宙を舞い、風に飛ばされていった。
マイダードという青年であったものは、一瞬にして肉の塊と化した。最も重い胴体が先に落ち、その上に、舞い戻ってきた部品が積み重なっていく。
崩れた達磨落としに似ていた。切り口が綺麗に切断されているため、あの女の時ほど凄惨な光景ではない。
異様な光景である事は疑うべくもないが。
「……もう終わりか」
人と遊ぶのは久しぶりだったから、力加減を間違えた。つまらなさそうに呟き、柘榴の妖主は肉塊を蹴飛ばした。
破妖刀に傷つけられた頬に、そっと指を這わせると、瞬時に傷口は塞がった。殺す前に一瞬躊躇ったのは、青年の気迫に圧倒されたからではない。
憤るマイダードの姿に、とある人物の姿が重なったからだ。マイダードにはそのようなことは、知る由もなかったが。
血塗れになって、相手に敵わぬことは承知で、命を捨ててぶつかってくる姿が、ほんの一瞬、彼の記憶にある古傷を疼かせた。
「もう少し楽しませてくれると思ったが……」
失望まじりの溜め息が終わる頃、妖主が作り上げた空間に白い亀裂が生まれる。
闖入者の存在を、柘榴の妖主は敢えて無視することにした。急ごしらえの結界だから、破られたからと言ってこの小僧の実力が伸びてきている証にはならない。
結界の外から差し込む光と共に入ってきたのは、乳白色の髪を持つ魔性の青年だった。
「兄ちゃーん……」
呆れたような言葉とともに、魔性の青年───邪羅が歩み寄ってくる。
柘榴の妖主に勝るとも劣らない美貌を持つ彼は、相変わらず子供じみた所作で彼の隣に並ぶ。
「またやっちゃったのかよ?いくら姉ちゃんとうまくいかないからって、他人に八つ当たりするのやめたら?」
魔性の青年は別段、足元に転がっている死骸に同情しているのではない。奪還チームとやらの死によって、ラエスリールが心を痛める事を案じているのだ。
また、という言葉にも、柘榴の妖主は反応しなかった。この青年に全て見抜かれていても、彼は遊戯を止める気はなかった。
「『次からは』気をつけるとするよ」
言いながら、柘榴の妖主は懐から丸い鏡を取り出した。
「これを、わたしに?」
マイダードから受け取った箱を見つめて、スラヴィエーラは目を丸くした。
「ああ」
マイダードは頷いた。平静を装ってはいるものの、手のひらは汗ばみ、鼓動はしつこいくらいに高鳴っている。
男が女に指輪を渡すことの意味は、どの世界でも共通して同じである。彼女に似合う石を考えるのもひと苦労だったし、こうして返事を待つのもじれったい。
一生に一度の我慢だ。ここを乗り越えれば明るい未来が待っているはずだった───彼女の返事次第で。
スラヴィエーラは小箱の蓋を開けて、中に入っている金緑石の指輪を取り出した。光の加減で色彩を変え、気まぐれな猫の目のように見えるその石は、彼女にふさわしいと思った。
────おれが、お前に指輪やったら、困るか?
以前にそう尋ねた事はある。スラヴィエーラはあの時、べつに困らない、嬉しいと答えた。
あれは互いにまだ幼い頃の事だったから、ひょっとしたら覚えていないかも知れない。そもそもスラヴィエーラが、あの言葉の意味を正しく理解していたかも怪しい。
スラヴィエーラは、青年が自分に合わせて選んだと言う指輪をじっと見つめていた。彼女の瞳に、美しく磨かれた金緑石が映っている。
「いらないなら、はっきり言ってくれ」
沈黙に耐えかねて、マイダードは口を開いた。こういうことをする柄ではないことは、自分がいちばんよく知っている。
それでも彼は、形が欲しかった。いつ命を落とすかも知れないからこそ、大切な女性と繋がっている証が欲しかった。
でも、スラヴィエーラがそれを望まないのなら、仕方はない。
「いらないわけないでしょ?」
スラヴィエーラは顔を上げ、にっこり笑った。
「もらっとくわ。ありがとう」
マイダードの耳から入ったその言葉は、胸の奥にことりと落ちてくる。深い安堵と甘い感情が胸いっぱいに広がり、詰まった。それだけで、あらゆる苦労が報われる気がした。
「きゃっ…!」
突然、スラヴィエーラが小さく悲鳴を上げて後ずさった。
怯えた表情で、背後の扉に凭れ掛かる。手に持っていた指輪の小箱が滑り、床に落ちた。
「どうした?」
慌てて尋ねると、スラヴィエーラは蒼白な顔で、マイダードの背後を指差した。
「い、今、そこに柘榴の妖主が………」
「何!?」
マイダードはぎくりとして振り返った。
しかしそこには誰もおらず、庭園からの風が流れ込んでくるだけだった。
今宵は新月───闇夜の晩である。月の光がなければ青月の宮も、本来の美しさを発揮できない。
「驚かすなよ……ただでさえ緊張してるのに」
人の悪い奴だな、と彼は苦笑いした。床に落ちた小箱を、屈んで拾おうとする。
スラヴィエーラは、ぶんぶんと頭を振ると、マイダードの袖を乱暴に掴んだ。
「だって確かに、そこに立ってたのよ!本当よ、わたし見たもの!」
言い張る彼女を、マイダードは呆れた目で見下ろす。
「疲れてるんだろ。それともお前、柘榴の妖主に恨みを買うような心当たりでもあるのか?」
「…………」
あるのか、と青ざめて呟くマイダードに、スラヴィエーラは小さく告白した。
「昼間、ラエスリールといい雰囲気になってたところを、邪魔しちゃって。その時、もっっのすごい怖い目で睨まれたのよね……」
「ああ、それはおれでも腹が立つな」
納得した様子のマイダードを、彼女は心外だと言わんばかりに睨んだ。
「なんでよ、そのくらいで!?」
「男は一度盛り上がってくると、抑えるのは難しいんだよ。おれが柘榴の妖主なら、邪魔した相手を解体して、骨と皮だけにして、血と肉はそこらの妖鬼に啜らせるかな」
あからさまに意地悪な言葉に、スラヴィエーラは震え上がった。
「お、脅かしてるのはあなたの方じゃない!やめてよ、そんな事言われたら、眠れなくなっちゃうじゃ……」
言いかけたスラヴィエーラの言葉が途中で消える。
しばらくマイダードの顔を見つめていたかと思うと、袖を掴む手に更に力を込めた。
「ねえ…………」
「ん?」
「怖いから、朝まで一緒にいてくれない?」
奥手なスラヴィエーラの言葉とも思えなかった。
指輪を貰ったから、ようやく解禁という事だろうか。女と言う生き物はそこまで現金なのか。
ともあれ、嬉しい事には違いない。頬をつねって、これが現実である事を確かめたくなる気持ちを抑えつつ、彼は表面上は平静を装って確認する。
「………いいのか?」
マイダードの問いに、彼女はこくりと頷いた。
一緒にいる、が単なる添い寝を意味するのではない証拠に、スラヴィエーラの白い頬は桃色に染まっている。そのまま、袖を強く引いた。
狐に化かされているのではないかと思いながらも、彼は大人しく導かれるままに、部屋に入った。


スラヴィエーラが見たのは、幻などでは決してなかった。
二人の姿が部屋の中に消えた後、深紅の髪の、黒衣に身を包んだ男が、扉の前に現れた。
男は美しかった。手には、小さな鏡を持っていた。鏡の中には壊れた白い椅子と、四肢を分断され、人ではない形にされたモノが映っている。
壊れた椅子は、よく見れば皮膚と骨で出来ていた。崩れかかった死体は、マイダードと名乗る、捕縛師の青年に違いない。
男がふっと息を吹きかけると、その映像はたちまちに消え失せる。
次に浮かんだのは、寝台の上で折り重なって倒れている男女の姿だった。
その表情は苦悶に歪み、目を見開いたまま絶命している。身体には刃物で斬りつけられたような無数の傷がついていた。溢れ出した血液が、寝台を紅く染め上げていた。
凄惨極まりない光景だったが、男にとってはこれが初めてのことではない。何回繰り返したか、自分でもよく覚えていないくらいだ。
目を閉じていても、男には見える。幸せな恋人たちの語らいが。お互いをよく理解し、愛し合い支えあう二人の姿が。
それは彼の神経を逆撫でし、邪悪な感情を呼び起こすものでしかなかった。


男は、目の前にある部屋の扉に触れた。室内から漏れてくる男女の睦言に、ほくそ笑みながら。


──おわり──


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