(※グロ悲劇注意) 「これを、わたしに?」 マイダードから受け取った箱を見つめて、スラヴィエーラは目を丸くした。 「ああ」 マイダードは頷いた。平静を装ってはいるものの、手のひらは汗ばみ、鼓動はしつこいくらいに高鳴っている。 男が女に指輪を渡すことの意味は、どの世界でも共通して同じである。彼女に似合う石を考えるのもひと苦労だったし、こうして返事を待つのもじれったい。 一生に一度の我慢だ。ここを乗り越えれば明るい未来が待っているはずだった───彼女の返事次第で。 スラヴィエーラは小箱の蓋を開けて、中に入っている金緑石の指輪を取り出した。光の加減で色彩を変え、気まぐれな猫の目のように見えるその石は、彼女にふさわしいと思った。 ────おれが、お前に指輪やったら、困るか? 以前にそう尋ねた事はある。スラヴィエーラはあの時、べつに困らない、嬉しいと答えた。 あれは互いにまだ幼い頃の事だったから、ひょっとしたら覚えていないかも知れない。そもそもスラヴィエーラが、あの言葉の意味を正しく理解していたかも怪しい。 スラヴィエーラは、青年が自分に合わせて選んだと言う指輪をじっと見つめていた。彼女の瞳に、美しく磨かれた金緑石が映っている。 「いらないなら、はっきり言ってくれ」 沈黙に耐えかねて、マイダードは口を開いた。 こういうことをする柄ではないことは、自分がいちばんよく知っている。 それでも彼は、形が欲しかった。いつ命を落とすかも知れないからこそ、大切な女性と繋がっている証が欲しかった。 でも、スラヴィエーラがそれを望まないのなら、仕方はない。 「いらないわけないでしょ?」 スラヴィエーラは顔を上げ、にっこり笑った。 「もらっとくわ。ありがとう」 マイダードの耳から入ったその言葉は、胸の奥にことりと落ちてくる。 深い安堵と甘い感情が胸いっぱいに広がり、詰まった。それだけで、あらゆる苦労が報われる気がした。 「………そうか」 緊張の糸が切れ、大きく息を吐く青年を見て、スラヴィエーラは小首をかしげた。 「断られると思った?」 「少しな」 マイダードは壁に背中を預け、呼吸を整えた。 スラヴィエーラは指輪を左手の薬指に嵌めようとして、ふと思いついたように青年を見た。 「わたしが嵌めていいの?それとも、マイダードが嵌めてくれるわけ?」 「そうだな……それじゃ」 腕を伸ばし、彼女の手を取った。小さな柔らかい手だ。 夜着に身を包んだ彼女は、とても破妖剣士には見えない。この白い手で破妖刀を操り、魔性を斬るとはとても思えない。 マイダードはもう片方の手で指輪を受け取ると、スラヴィエーラの薬指を他の指から離した。 こんなもので彼女を縛れるとは思っていないが、約束の証にはなる。そして、彼女が嬉しそうな顔をしていることが、一番の喜びだった。 皮膚を傷つけないよう、慎重に指を滑らせる。 指輪をゆっくりと押し込んだ時、マイダードの指の上に、ぽたりと水滴が落ちてきた。 驚いて顔を上げると、スラヴィエーラの瞳から涙が溢れていた。 目が大きいだけあって、粒も大きい。流れると言うよりは、零れたと言うのが正しかった。 「スラヴィ?」 寸法が合わずに痛かったのだろうか。 慌てて指の力を緩めると、彼女はマイダードの両手を押さえてそれを止めながら、首を横に振った。 「ごめん、違うの。何だかわからないけど、勝手に涙が……」 嫌なわけではないが、感情が高ぶって、止まらないらしい。 指輪を嵌めてもらうという事は、それほど女にとって大事なことなのだろうか。普段涙を見せない彼女が、こんなに脆く見えるほど。 どうしたらいいか判らないでいると、スラヴィエーラは強引に瞼を拭った。 「何でもないの。嫌じゃないから……平気だから、続けて」 彼女がそう言うので、再び指輪をつまみ、薬指の根元までそっと差し込んだ。寸法は、合っているはずだ。 儀式が終わると、スラヴィエーラは微笑んで左手に右手を添えた。子供の頃と全く変わらない、無邪気な笑顔だった。 「本当に、いいのか?」 尋ねてみる───自分を安心させるために。 彼女の心の中に、恐らくは未だに棲んでいるであろうあの男を、追い出すために。 子供心に、決めていた。自分は絶対に、彼のようにはならないと。喩えスラヴィエーラが自分に刃を向けることがあっても、彼女を傷つけることは決してしない。 絶対に………。 「わたしは今、幸せだから、これでいいと思うわ」 スラヴィエーラは胸に手を当てた。そこにいる男に懺悔しているのか、あるいは追い払おうとしているのか、どちらとも取れる。 「選んでくれてありがとう。でも、ええと……今夜は、まだ心の準備が……」 真夜中であることと、薄着でいることを思い出したのか、スラヴィエーラは申し訳なさそうな顔で言葉を濁した。 普段は憎らしいほど強気なのに、こういうことになると急に及び腰になる彼女が、愛しかった。 「わかってる。この仕事が片付いたら、旅行にでも行こう」 いくらでも待つつもりだった。彼が預けて欲しいのは、スラヴィエーラの心なのだから。 「おれたちは、長い間戦い過ぎた。しばらくはどこか遠いところで、二人でゆっくりしたいもんだな……」 心底から呟くマイダードに、スラヴィエーラが一歩近づいた。 背中に腕が回り、柔らかな肢体が凭れ掛かってくる。心地の良い重みだった。 薄い夜着越しに感じる彼女の身体は、マイダードよりもずっと小柄なのに、まるで包み込まれているかのような錯覚を覚えた。 「これだけ待ってもらって悪いけど、もう少しだけ時間をちょうだい」 マイダードの肩口に顔を埋めて、スラヴィエーラが囁いた。 「ごめん。これが終わったら……本当に、今度こそ、応えられると思うから。だから、それまで待って」 自分にも他人にも厳しい彼女は、半端な気持ちでマイダードに寄りかかる事は申し訳ないと思っている。昔から、そういう少女だった。 あの男の夢を砕いておいて、幸せになることなど許されないと、ずっと自分を責めていた。償いのように破妖刀を振り続け、それでも人前では涙など見せず、悩みなど無いかのように快活に振る舞っていた。 破妖刀のみを生き甲斐とする者が、それを失った時どのような末路を辿るか、彼は目の当たりにしてきた。スラヴィエーラにはそうなって欲しくはない。図々しい願いである事は承知で、自分が彼女にとっての生き甲斐になれたらと思った。 「約束だけで良かったんだ」 腕の中にある小柄な身体を、壊さぬようにそっと抱きしめた。全てが手に入らなくとも、約束さえあればそれを理由に守ってやれる。 だから、指輪を渡した。他の男に彼女を取られないように。 「あの時みたいに、いきなり横から攫われて、傷つけられるのを黙って見てるだけなんてのは、もう二度と……御免だ」 幼いマイダードには力がなかったから、スラヴィエーラが傷ついていくのを、指をくわえて見ていることしか出来なかった。 けれど、今は違う。今度こそ、一生をかけて守ってやれると、約束できる。 幼馴染の青年が自室に帰った後、スラヴィエーラは寝台にごろりと寝そべった。 無造作な寝方をすると、来客用の高価な夜着に皺がついてしまうが、自分が洗うわけではないので気楽なものだ。 薬指に嵌められた指輪は一見地味に見えたけれど、彼女にとってはいかなる宝石よりも価値のあるものだった。子供の頃から見知っている相手に、慣れない台詞を口にしなければならなかったマイダードの心情を思うと、笑いと同時に愛おしさがこみ上げてくる。 大切に思われているのは、気づいてはいたけれど。 「………まさか、仕事の最中に求婚なんて」 右手を伸ばし、指輪をそっと撫でてみる。優しく冷たい石の感触が、スラヴィエーラを安心させた。 まあ、自分たちらしいと言えば言える。浮城に戻ってからでは、緊張が解けてまた普段の二人に戻ってしまうだろうし、それでもいいと思えるほど、彼らに残された時間は多くない。吊り橋効果だろうが何だろうが、彼がこんな絶望的な状況下で自分の手を求めてくれた、その事実が嬉しい。 いつまでも、幼い頃のように一緒に楽しく遊んでいられたら、それはそれで良かったのだけれど、スラヴィエーラはともかく、マイダードの方はそれでは満足しないだろう。彼は護り手ではなく、生身の男性なのである。 スラヴィエーラたちは今、紅蓮姫奪還のために青月の宮に来ている。求婚を受け入れたことは、この仕事が終わるまでは隠し通さなければいけない。オルグァンはともかくとして、この事がリメラトーンもといアーゼンターラに知れたら一大事である。 せっかく嵌めてもらった指輪だが、翌朝には外した方が賢明だろう。腕を下ろすと、スラヴィエーラはふうっとため息をついた。 「とにかく、今は……ラエスリールの問題を片付けてからでなくては、ね」 静寂を破る男の声が聞こえて来たのは、その時だった。 「何を、片付ける、だって?」 一度聞いたら忘れられない魔力を秘めた声に、スラヴィエーラは跳ね起きた。 枕元に立てかけた夢晶結が、度を越した瘴気に反応して震えているのがわかる。 姿も見せぬうちから、これほどの存在感、これほどの悪意に溢れた気を放てる男など、彼女は一人しか知らない。 マイダードほどの感覚の鋭さを持ち合わせていない彼女は、目を皿のようにして、室内を見回せねばならなかった。 天井の隅に、紅い染みのようなものが生まれている。その染みが次第に大きくなり、一人の美しい男性の姿を取った。 ぞくり、と首筋に怖気が走る。 スラヴィエーラを見つめる切れ長の瞳、通った鼻筋に、意地の悪い笑みを浮かべる優美な口元。細く長い指───その先を彩る爪は、磨いているわけでもなかろうに、艶やかな光沢を放つ。 同じ男性なのに、マイダードとは何もかも違った。ラエスリールの護り手である柘榴の妖主が、傲慢な笑みを浮かべてその場に立っている。 「わ………」 極度の緊張に、口の中が乾いてくる。ラエスリールが傍にいない時のこの男の恐ろしさを、スラヴィエーラは漠然とではあるが知っていた。 「わたしに、何か用?」 持てるだけの勇気を振り絞って、問いかけた。 破妖剣士として幾つもの依頼を片付けてきた彼女だったが、その素顔はごく普通の女性である。寝室に現れるといった不意打ちには、対処のしようもない。 声に震えが出ないように気を遣ったが、相手はお見通しらしい。 「なぁに、すぐ済む。時間はとらせんよ」 低い声────本性を知らなければ、すぐにでも捕らわれてしまいそうな。笑みを浮かべてはいるものの、心から笑ってはいないことは明白だった。 その言葉、態度だけで、スラヴィエーラは自らの運命を悟った。先ほどから姿を現さない未羽、そして背後で震えている破妖刀が、全てを物語っている。 そんな些細なことで、とも思ったが、魔性とはそもそも『些細な理由』で簡単に、人を殺すことができる生き物ではないか。 かつてこの王宮で起こった、血生臭い事件。浮城に密告された腹いせに、当時の国王を惨殺した妖貴────確か、名前を亜珠と言ったか。あの魔性の例にあるように、上級魔性だからと言って性格的に大人であるとは限らないのだ。 ラエスリールといい雰囲気でいたところを邪魔した、という単純な理由で、この男がスラヴィエーラに殺意を抱いたとしても、何らおかしくはない。 「……どういう、ことかしら?」 会話を続けながら、夢晶結に手を伸ばす………大切な人から受け継いだ、水晶のような刀身を持つ破妖刀。助かる事は叶わずとも、せめて一太刀だけでも浴びせてやりたい。女を物のようにしか考えていないこの男に。 柘榴の妖主が、一歩足を踏み出した。スラヴィエーラの脇の下を汗が伝う。 「何を期待してるか知らんが、お前なんぞと遊んでやる気は、さらさらないんだよ」 せせら笑う声が、耳に滑り込んでくる。 「戦って愉しんで死ねるのは、ごく一握りの強者だけだ。お前程度じゃ、暇潰しにすら値しない」 屈辱的な台詞を浴びせながら、男が手を伸ばした。嫌がるスラヴィエーラの顎を捕らえ、強引に上向かせる。 間近で見た柘榴の妖主は、底知れぬ深紅の闇を背負っていた。これまで屠ってきた人間たちの血や慟哭が、この男を妖しい魅力で彩っているように思えた。 だが、スラヴィエーラの心は微塵も揺れ動かされることはない。彼女が想うのは、こんな作り物の美しさを持つ男ではない。血の通った温かい心を持つ、平凡な人間の男性だ。 夢晶結の鞘を握る手が汗ばんでいる。スラヴィエーラは、上級魔性と戦ったことはない。出来れば一生関わりたくない相手だ。 特にこの男は、ラエスリールの護り手になる以前は非道極まりない妖主として名を馳せていたらしい。 初めて見た時は猫を被っていたため、ただの顔のいい男としか思えなかったが、本性を晒した彼はこれまで見たどんな化け物よりも恐ろしかった。 殺される前に、辱められるかも知れない。こんな卑劣な男に陵辱されるくらいなら、舌を噛み切る。 「顔のいい女は一通り楽しんでから殺すのが、おれの流儀だったんだが」 彼女の思いを見抜いたかのように、柘榴の妖主は言った。 殺すという言葉を、まるで遊戯のようにたやすく使う。人間を羽虫のようにしか思っていないのを、今は隠そうともしていない。 「生憎、今のおれはラスひとすじなんでね。運が良かったなお前は。いや、おれと楽しめないんだから、むしろ悪かったのか?」 勝手なことを言いながら、指に力をこめる。優美に伸びた長い爪が、顎に食い込む。スラヴィエーラは歯を食いしばってその痛みに耐えた。 魔性という生き物は、例外なく性格が悪い。人間が怯えれば怯えるだけ、面白がってますます痛めつけようとするのだ。 「殺さないで……って言っても、どうせ聞き入れてくれないんでしょうね」 スラヴィエーラはどうにか笑みを作った。 命乞いして助命が叶うのなら、いくらでもこの額、床に擦り付けよう。破妖剣士としての誇りなど、この恐怖の前には意味を成さない。 彼女にはまだやり残したことがあった。ラエスリールの存在を放っておけば、これから先、多くの血が流されるだろう。それを阻止したい。 そして、子供の頃からずっと傍にいて、自分を支え続けていてくれた男性の気持ちに、まだ応えていない。 「まあ、話くらいは聞いてやるよ。おれは紳士だからな」 どこが───と、口から罵倒が飛び出しそうになるのを、スラヴィエーラはどうにか飲み込んだ。 相手は、萎れかかった花でも見つめるような目で、彼女を見ている。その殺意を覆すのは、容易なことではなさそうだった。 「………わたしを殺したら、ラエスリールに嫌われるんじゃないの?」 恐怖を気合いで押し潰し、スラヴィエーラは挑発的な口調で告げた。 柘榴の妖主は、何故かラエスリールだけには弱い。そしてラエスリールは、無駄な殺生は好まない性格だ。スラヴィエーラとは特に仲が良いわけではないが(むしろ悪いくらいだが)、浮城の人間に犠牲が出れば、彼女はそれなりに心を痛めるだろう。 普通の人間ならば、そうだろう。しかしよく考えてみれば、ラエスリールは普通の人間ではないのだ。魔性の血を引き、妖主と破妖刀を魅了し、数々の上級魔性を倒してきた。 その心が魔に染まっていないと、どうして言い切れる? 過去、ラエスリールの追っ手として派遣された浮城の人間は、悉く酷い目に遭った。 セスランは攫われ、ウルガやカーガスは死に、シャーティンは瀕死の重傷を負った。しかし、そのことに関して、ラエスリールが心を痛めている様子はなかった………。 ラエスリール一人のために浮城の信用が失墜し、また多くの犠牲を払ったことに対して、彼女は何の償いもしていない。 少なくともスラヴィエーラにはそう見えた。 (あの女は……わたしたちが死んでも、悲しんだりしない、のかしら) 昔よりも感情表現が豊かになったとは言え、ラエスリールはまだ、人間としての道徳心を欠いているように思える。奪還チームがいなくなったら、少しは驚くかも知れないが、それで柘榴の妖主を恨んだりするだろうか。 (……しないわね) それは確信。ラエスリールは、一度懐に入れた相手にはとことん甘い。好きな相手が、喩えどれほどの罪を犯しても、許し受け入れてしまう。 恐らく、この男にうまく言いくるめられて、また罪のない人間の死を見過ごす事になるだろう。故意ではなかった、不運が重なっただけだ、という言い訳のもとに。 この仕事を請けたのは、もちろん紅蓮姫奪還のためでもある。だがそれ以上に、ラエスリールを更生させたい気持ちが大きかったからだ。 スラヴィエーラなど足元にも及ばぬ才能や力に恵まれているくせに、それを悪用し、浮城の至宝を持ち出し、この男と逃げた。 惜しいと思うからこそ、彼女と話し合う機会を設け、懸命に説得したのだ。けれど、ラエスリールは判ってくれなかった。生まれながらにして力を持っている女に、努力して今の地位を築いた凡庸な人間の訴えなど、伝わるはずがない。 そこまで考えて、スラヴィエーラは息を呑む。 まさか、柘榴の妖主がここに来たのは、ラエスリールの指示を受けてのことでは。 「おい」 ぐい、と顎を引っ張られる。男の端正な顔が、息がかかるほど近くにあった。 「何を考えている。まさか、ラスが望んだことだとは思っちゃいるまいな。そんな姑息な真似を、おれの女がすると思うか?」 容姿に似合わぬ子供じみた物言いに、彼女は少し笑った。 「自分でも姑息って判ってるのね。だったら、今からでも考え直してくれないかしら」 背中に回した腕が震える。柘榴の妖主は、今や完全に間合いに入っている。 それなのに、全く隙がなかった。顎を捕まれているだけなのに、全身から力という力が奪われていく。 今の彼女は破妖剣士ではなく、意思を持つ人形に過ぎない。それでも一縷の望みに縋ろうと、懸命に言葉を紡ぐ。 「柘榴の妖主ともあろう者が、たかが人間の女一人にむきになるなんて、格が下がると思わない?わたしたちは、ラエスリールを傷つけるつもりはないわ。ただ紅蓮姫を取り戻したいだけよ。あなただって、邪魔な紅蓮姫がラエスリールから離れた方が、嬉しいんじゃないの?」 ミランスと渡り合った巧みな弁舌が、唇から淀みなく零れてくる。 交渉の秘訣は、相手にとって有利な点を出来るだけ多く並べることだ。この男を動かすには、ラエスリールの名を口にするしかない。 「言ってる意味がわからんな。ラスはもう、とっくにおれに惚れてるんだよ。なまくら刀が傍にいようが、おれたちの恋路には何の影響もないってことだ」 大した自信である。確かに、柘榴の妖主ほどの魔力に溢れた存在ならば、そう思い込んでしまうのも仕方ない。 だが力だけで、女の全てが手に入るとでも思っているのか。この男から魔力を取ったら、醜悪な化け物しか残らないではないか。 「本当に、そうかしら」 命を懸けた挑発に、柘榴の妖主の眉がぴくりと動いた。 愉しげな光を浮かべていた瞳に、怜悧な光が宿る。恐ろしさに、息が詰まりそうだった。 気を失わずにいられるのは、スラヴィエーラの気丈さと、命への執着故だった。 「ラエスリールと気持ちが通じていると言うのなら、八つ当たりでわたしを殺す理由もないじゃない。そうでしょう?」 図星を突かれたのか、男の眉間に皺が寄った。 指に、また力が加えられる───意図的にではなく、無意識に力が入っているようだった。 「この行為は、あなたの弱さの証明にもなるのよ。本当にあの女と両思いなら、何も、わたしに邪魔されたくらいで怒ることないじゃ……!」 言い終わる前に、言葉は封じられた。顎を捕らえていた手が喉元に向かい、強く締め付けられる。 男は、そのままスラヴィエーラにのしかかった。背中から寝台に押し倒され、夜着の裾がまくれ上がった。 膝小僧があらわになったのが判る。誰も見ていないと知っていても、羞恥に裾を押さえずにはいられない。頬を染め、抗議の声を上げようとするスラヴィエーラには構わず、男は彼女の身体を押さえつけ、やすやすと夢晶結を奪い取った。 上級魔性の気配を間近に感じ、夢晶結は歓喜の波動を室内に撒き散らす。これから己の辿る運命が、悲劇であるとも知らずに。 「なかなかいい刀だな」 多くの魔性が恐れを抱く破妖刀を、何の躊躇いもなく手にとって眺める男の瞳は、冷ややかだった。 己の吐いた言葉が逆効果であったことを、スラヴィエーラは悟った。鞘から抜かれ、水晶のごとく輝く刀身が、彼女の顎に突きつけられている。 この男は不安なのだ。ラエスリールが、いずれ自分から離れていくことが。スラヴィエーラにそれを指摘され、逆上した。そうとしか考えられない。 闇の中で、男の黒衣がふわりと舞った。死神が鎌を持つように、魔王は魔を滅するために作られた刀を、人間の女へと向ける。 「決めた。この刀で刺してやるよ。破妖剣士が破妖刀で絶命するってのも乙なもんだろう」 恐怖が、津波のように全身に襲い掛かった。 嫌だ。あの人から受け継いだ大事な夢晶結を、そんな風に使われることだけは絶対に、嫌だ。 人を死に至らしめた破妖刀が、使い手にとって恐怖の対象となることは知っている。紅蓮姫もそうだった。かの刀は浮城最強であるが故に、その凶暴性を補って余りあるほどの実績を持つが故に、辛うじて存在を許されているのだ。 けれど夢晶結はどうだろう。紅蓮姫ほどの力は持たない、普通の破妖刀だ。人殺しの刀の汚名を着せられるようなことがあれば、歴代の使い手に顔向け出来ない。 死への恐怖より何より、夢晶結の価値を下げてしまう事への絶望が、彼女を恐慌状態に陥らせた。己の存在が、破妖刀を穢してしまう。破妖剣士としてそれは耐え難い苦痛であった。 皮膚の上に、冷たい刃先を感じる。 (嫌……そんなの、嫌よ!!) それまで比較的冷静だった彼女が、急激に暴れだすのを見て、柘榴の妖主は満足げに笑った。まるで恋人にそうするように、スラヴィエーラの耳元で、優しく囁きかける。 「心配するな。こいつもすぐに送ってやるよ。一人じゃ寂しいだろうからな」 そう言って愉悦に浸る深紅の瞳を見た時、スラヴィエーラの心は絶望に染まった。 この男は夢晶結までも、亡き者にしようとしている。では恐らく、マイダードたちも同じだ。 「ん、んんーーーーーーーっ!」 瞳に涙が滲む。腹筋を使って、岸に打ち上げられた魚のように何度も跳ねた。どれほど抵抗しても男の体を揺るがすことは出来ず、正確な言葉を発することも出来なくなっていた。 暴れたせいで、刀の先端が顎をかすめる。傷ついた部分に小さな血の玉が生まれ、首筋へと零れていった。 こんな形で最後を迎えることになるとは、思ってもいなかった。命を落とすのなら戦場で、と漠然と思っていた。 スラヴィエーラは、目で訴えた。せめて夢晶結だけは、見逃して欲しいと。以前にも、同じ事を願った気がする。あの時戦ったのは妖鬼だった。結果的に、油断した相手を倒し、勝利を収めた。 けれど今の相手は妖主である。どう足掻いても、慈悲を与えてくれる相手ではない。みんな、殺される。スラヴィエーラだけではない、彼女の大切な仲間たちも。みんな、この男の稚気ゆえに殺される。 (ラエスリールは、どうしてこんな存在を野放しにしているの) 好きな相手なら、何をしても許されると思っているのか。自分にさえ危害を加えなければ、他の人間を傷つけても許されるのか。 柘榴の妖主の手が喉から離れた。悲鳴を上げようとしたが、腹部に男の膝がめり込む。 「ぐ……う」 容赦がなかった。苦痛に呻く彼女の眼前に、夢晶結の先端が掲げられた。 これまでだ、とスラヴィエーラは悟った。瞼を閉じようとしたが、それすらも男は許してくれない。不思議な力で、瞼が動かないようにされている。目が乾き、夜の空気がヒリヒリと染みる。 「頼むから、こういう時は目を閉じてくれ」 あまり感情の感じられぬ声で男は言い、にやりと笑った。 「………と言った時に、妨害してくれたっけな」 白い手のひらに、破妖刀が突き刺さる。スラヴィエーラは、今度こそ喉の奥から悲鳴を上げた。 溢れ出した血液で、寝台が深紅に染まっていく。心臓が脈打ち、傷口に向かって新たな血液を送り出していくのが判る。 結界でも張っているのか、悲鳴を聞きつけて助けに来てくれる者はいない。成す術もなくこの暴力を受け入れるほかはない。 「意識がある間は、そのままでいろ。自分の体が切り刻まれるのを、そうやって見てるがいいさ」 言葉通り、スラヴィエーラは自らの最期を目の当たりにしなければならなかった。 大切な男性に捧げるはずだったまっさらな体が、別の男によって無残に引き裂かれ、壊されていく。皮膚は裂け、血が噴き出し、それでも彼女は気を失うことすら許されなかった。 夢晶結が体に刺さるたびに、その嘆きが全身に伝わってきた。魔性の心臓ではなく、人の生き血を啜る事を強いられる絶望───それが、伝わってきた。 皮肉にも、最後の最後で、彼女は破妖刀と思いが通じ合ったのだ。 夢晶結は紅蓮姫ほどの図太さを持たない。主人を手にかけては、もう使い物にならないかも知れない。 志半ばにして浮城を去った、先代の使い手の意思を継ぐためだけに、スラヴィエーラは努力を重ねてきた。言い寄る男たちを蹴散らし、ひたすら依頼をこなしてきた。 ここ数年で、ようやく破妖剣士としての実績が認められるようになったのに、もうこれで終わりなのだ。 紅蓮姫奪還の任務を受けたのが、間違っていたのだろうか。そもそも、あの時グレザールについていけば良かったのだろうか。 破妖刀を持ち出して、男と逃げる。それではあの女と同じだ。 (違う。わたしは、ラエスリールとは違う……!) 間違ってなど、いない。スラヴィエーラは正義に殉じるのだ。 ただ、自分の迂闊な行動の結果が、マイダードたちにまで及んでしまう事が辛かった。彼らとて、もとより死は覚悟してこの仕事に臨んだのだろう。けれど、死ぬ時は三人一緒だと、約束もしていないのに漠然と思っていた。 アーゼンターラは敢えて数に入れない。彼女はまだ若いし、未来がある。大人たちが犠牲になってでも生き残るべきだ。 (どうか……命乞いして助かるものなら、助かって) 柘榴の妖主を怒らせてはいけない。彼らだけでも、無傷では済まなくとも、助かって欲しい。無駄だと判っていても、祈らずにはいられなかった。 肉が引き裂かれ、血の雫が飛んで、頬に降りかかった。涙と一緒に頬を伝っていく。喉は潰された。もう声も出せない。次々と内臓が晒されていくその状態から、目を逸らせない。 (こんなことになるなら、もっと早く、あいつと……) 命の灯火が消えるその時まで、スラヴィエーラは残された仲間のことを思っていた。 ──後編へ続く── 戻る [*前] | [次#] ページ: |