鬱金の間 叶えられた願い【スラヴィ編】


(注意)
・津々螺さん戦に、こっそり雛ピーが介入していたら……という話
・雛ピーに加えて赤男さんも少し出てきます。ほんのり赤→スラかも。
・マイダードが見ていた夢とはちょっと内容が異なります
大丈夫そうな方のみどうぞ





足を踏み入れた部屋は、白い霧に包まれていた。
右の方が好きと言ったのには、深い意味はない。単に、迷って立ちすくんでいるアーゼンターラの後押しをしたかっただけだ。
本来なら、自分が真っ先に選択を済ませて飛び込みたかったのに、男性二人が美味しい役を取ってしまった。
「あの恰好つけ男どもっ……」
むろん、本心からの台詞ではない。スラヴィエーラの口元には笑みがある。
霧が晴れると、長い牙を持つ妖鬼が姿を現した。醜悪な外見は、さほどの力を持たないことを容易に想像させる。
「この程度の相手!」
振り下ろされる爪を瞬時にかわし、夢晶結を薙ぎ払った。
胴体に埋まった刃が魔性の命を啜り、肉体を切断する。くぐもった呻き声を上げて妖鬼は斃れ、黒い砂塵と化す。
息をつく間もなく、その背後から新手の敵が現れる。スラヴィエーラ自身の背後からも気配を感じた。さらに、遠くから複数の殺気。
「……同時に、五体?」
呟き、スラヴィエーラは破妖刀の柄を固く握り締めた。これで終わるとは思っていなかったが、さすがに数が多すぎる。
魔性の体液に塗れた夢晶結を、一振りする。床らしき場所に液が飛散した。
背後の敵は襲ってくる気配ではない。恐らくこの空間を支配している相手だ。配下をけしかけて、高みの見物を決め込もうと言うのだろう。
元凶を倒さない限り、妖鬼は次々に召喚される。消耗戦になると、人間であるスラヴィエーラにとって分が悪い。他の妖鬼を無視して、この相手にだけ斬りかかれば、突破口は開けるが……。
スラヴィエーラは背後の気配に違和感を覚えた。自分を取り囲んでいる妖鬼たちと違って、この相手にはまるで殺気を感じないのである。
むしろ、嬉々とした波動すら感じる……。
嫌な相手だ、とスラヴィエーラは思う。人の血肉を啜るのが目的の下級魔性は、必死なだけに隙が生まれる。この相手には焦りがない。つまり、かなり大物である可能性が高い。
殺戮を楽しむのが目的である上級魔性であれば、スラヴィエーラは勝てない。かと言って、尻尾を巻いて逃げる気にもなれない。
自分たちには、街の人間を、そしてアーゼンターラを守る義務があるのだ。
浮城が必要としているのは有能な人材──自分たちとて、実力だけなら「今の」アーゼンターラには決して劣らないつもりだが、彼女には何より若さが、未来がある。紅蓮姫という強力な破妖刀がある。
まだやり残したことは幾らでもある。悔しくないと言えば嘘になるが、それでも──自分の死が、アーゼンターラの成長に繋がるのなら。次世代の盾となって死んでいけるのなら、本望だ。
──欲がないのね。
スラヴィエーラの心を見透かしたかのように、背後から声が投げかけられる。
まだ年若い少女のそれに、彼女は引っかかりを覚えた。
「誰!?」
問うても、無駄なこと。
上級魔性が、人間の問いかけなぞに応えるはずもない。
「誰なの!姿を現しなさい!!」
それでも、スラヴィエーラは問いかけずにはいられなかった。
この相手に少しでも隙を見いだせなければ、自分に勝機はないのだから。
──哀れね。そして滑稽だわ。
少女がおかしそうに笑う。アーゼンターラよりも若い、艶のある高い声だった。
聞き様によっては、魅惑的と思えなくもない。その声に宿った、侮蔑の響きさえなければ。
──人間は本来、もっと身勝手で強欲な種族のはず。あなたは自らの欲望に蓋をしている。自分でそれに気づいていない……愚かな女。
「悪いけど何を言っているのか分からないわ」
戯言の間にも、妖鬼は襲いかかってくる。落ち着いて耳を傾けている暇などない。
二体目の妖鬼を倒すと、スラヴィエーラは見えざる相手に声を投げる。
「話がしたいのなら、せめてこいつらを倒してからにして頂きたいものだわね!」
ややあって、少女が呆れた声を出した。
──驚いた。津々螺の罠から逃れる気でいるの?
「知らないわよ!」
聞きながら、戦いながら、スラヴィエーラは混乱する。
津々螺の罠、と言うことは、この少女は空間の直接的な支配者ではないのか。無関係な魔性が、単にからかうためだけに姿を現したと言うのか?
……いや、自分で自分の名前を呼んだだけ、とも考えられる。そういうことが許される年齢だろう……実年齢を考えるとぞっとしないが。
「わたしは無理でも、仲間の誰かが、きっと突破口を開く。仲間のために死ねるのなら、わたしは後悔しない!」
三体目の妖鬼が襲ってくる。体液を払う暇もない。ぬるりと滑る刃は切れが悪くなる。敵の胴体に埋まった刃がなかなか抜けず、苦悶している間に追撃を食らった。
「くっ……!」
妖鬼の爪が脇腹を抉った。膝を着くと、背後から変わらぬ少女の声。
──ねえ、それがあなたの、本当の望みなの?
心の内を見透かすような声音に、スラヴィエーラの心はざわついた。
望みは、ある。今以上に強くなりたい。魔性に苦しめられる人々を守りたい。そのためには、夢晶結と心を通わせる必要がある。
ラエスリールから話を聞くまで、スラヴィエーラは破妖刀と意思の疎通が可能なことなど、知らなかった。怒っているのだろう、とか、喜んでいるのだろう、とか、それこそ動物を飼うように感じ取ることはできたが、人間同士のような会話は叶わないものだと思っていたのだ。
けれど、ラエスリールは紅蓮姫と会話が可能だと言った。知らされた時、スラヴィエーラは憤りで胸が苦しくなるほどだった。
アーゼンターラが紅蓮姫を選んだ時、ラエスリールは疑問にも思わず身を引こうとした。紅蓮姫がそうしたいのなら、それでいいと。
謙虚ではない、それは明らかな傲慢だった。あの女にとって、紅蓮姫はその程度の存在だったのだ。
紅蓮姫に選ばれ、会話が可能なほどに心を通わせながら、平気で彼女を手放そうとしていたのだ、あの女は!
八つ当たりに過ぎないことはわかっている。それでもスラヴィエーラには許せなかった。
妬み、嫉み、そんなくだらないものではない。彼女にはわかっていた。ラエスリールが既に、破妖刀よりも大切な存在を選び取っていたことを。
だからこそ、許せなかった。浮城の人間として、同じ破妖剣士として、また同じ女性として。
その選択は、決して認められるものではなかった。
スラヴィエーラは、夢晶結が何よりも大事だと、捕縛師である彼の前で言い切った。
彼は、理解に苦しむ、と言うような顔をしていた。本心を隠すのが上手な彼のことだ、本当はもっと傷ついていたのかも知れない。
それでも、スラヴィエーラは選んだのだ。女性としての幸せではなく、破妖剣士としての未来を。
夢晶結と心を通わせること。それが、今の彼女のただ一つの願いだった。
黙々と戦い続ける彼女の足を、腕を、敵の攻撃が切り裂いていく。余力を振り絞って最後の一体を倒した時、少女がくすくすと笑いだした。
──いいわ。その願い、叶えてあげる。
言葉が終るや否や、圧倒的な力が、スラヴィエーラの全身に叩きつけられる。
目も眩むような衝撃の中、視界が白い靄に包まれた。



肌を刺す冷気で、目が覚めた。
鼻先をくすぐる丈の短い草は、朝露に濡れている。よく手入れされた庭のような場所に、彼女は寝転がっていた。
重い瞼を無理にこじ開けるようにして、視線を彷徨わす。近くに人がいるのに気づき、身を固くする。
「……里、私の部屋から、毛布を持ってきて。……に気づかれないように」
すぐに、重みのある布が身体全体にかけられる。白い地肌に直接布地が触れる感触に、彼女はぎくりとした。
──わたし、今、何も着てない……?
羞恥心より、恐怖心が勝る。思わず毛布を胸元にかき寄せると、その動作に気づいた相手が、ほっとしたように声をかける。
「気がついた?あなた……大丈夫?」
寝た振りをしていても仕方ない。恥ずかしさに、いたたまれなくなって身を起こす。頬にまとわりついた草が、ぱらぱらと地に落ちた。
銀色の髪と菫色の瞳を持つ美少女が、目の前で心配そうな顔をしている。相手が女性であることに安堵しつつ、彼女は周囲を見回した。
朝靄に包まれた、どこかの庭園のようだった。少女の背後にそびえる大理石の柱には、見たこともない精密な彫刻が施されていた。それに、この毛布もよく見れば、かなり上等のものだ。
「……ここは、どこなの。あなたは誰?」
ぼんやりしながら尋ねると、少女は大きく目を瞠った。
「まさか、覚えていないの!?自分が何者かも!?」
苦いものを噛みしめながら彼女は頷く。
自分の名前──スラヴィエーラ、は思い出せる。
それに、胸に抱いているこの一振りの刀が、とても大切なものであることも。
それ以外の記憶は一切ない。どうして裸で倒れていたのか、この刀をどう扱うべきなのか、など。
とても大切なことだったはずなのに、思い出せない。
銀色の髪の少女は、複雑な表情で見下ろしてきたが、彼女が嘘をついていないことがわかったのか、黙って肩を貸してくれた。
「私はアーゼンターラと言うの。心配しないで、悪いようにはしないから」
豪華な私室に通されたスラヴィエーラは、そこで初めて己の容姿を知る。室内には大きな姿見があり、彼女の全身がはっきりと映されていた。
小さな頭に、すらりとした肢体。やや険のある顔立ちだが、美女と呼んで差し支えない姿がそこにあった。これなら、少なくとも異性には冷たく当たられることはないだろう。
「この室内着に着替えて、待っていてくれる?仲間を呼んでくるわ」
少女には、スラヴィエーラの処遇を決める権利はないらしい。こんな立派な屋敷に住んでいるのだから、貴族の姫君か何かだと思ったのだが、どうやらその『仲間』とともに、客人として招かれている立場であるようだった。
少女が去ると、彼女は裾の長い服に袖を通し、腰の辺りを帯で固めに結んだ。。王宮の中を、足音を立てずに歩くことを前提として作られた服のようで、非常に動きにくく感じられた。そう感じられると言うことは、自分は日頃、もっと活動的な服を着ているはず。
それに、刀を大事に抱えていたということは、誰かにこれを届けに行くところだったのかも知れない。途中で夜盗の類に襲われて、命からがら逃げて来て気を失った……。
すんなりと王宮に入れたのは、自分が王宮の関係者だったからかも知れないではないか。そうして一つ一つ推理していくと、だいぶ気持ちが落ち着いた。
こんな風にして、落ち着いて徐々に思い出していけばいい。今は取り敢えず、助けてくれた相手に逆らわないようにしよう。スラヴィエーラは椅子に腰かけ、アーゼンターラの帰りを待った。
床に置いた刀が光を放ったのは、その時だった。
「え……?」
気のせいかと凝視していると、再び光る。
まるで、『手に取れ』と言っているかのように。
スラヴィエーラは、恐る恐る手を伸ばした。怖いのは確かだが、今の自分にとって、記憶を取り戻す手掛かりになりそうなものは、この一振りの刀以外にない。
冷たい鞘を、そっと掴んでみる。持ち上げようとした、まさにその刹那。
──スラヴィエーラ!スラヴィ!
弾けるように元気な声が、頭の中に直接響いた。
誰かに話しかけられていると思い、部屋を見回しても、閉ざされた室内にはスラヴィエーラ以外誰もいない。
そのはずだ。アーゼンターラが、しっかりと鍵をかけて出たのだから。
記憶を喪失した不審な女を、人目に晒すわけにはいかないと考えた彼女の判断は正しいから、スラヴィエーラも大人しくそれに従ったのだ。
──もう、どこを向いているの?私、私よ。せっかくお喋りができるようになったのに!
なのに、刀を掴んだ手からは、若く嬉々とした意思が流れ込んでくる。それだけではない、相手ははっきりと自分の名前を口にしたのだ。
──私、ずっとスラヴィと話がしたかったの。
以前から自分をよく知っているような、気安い口調だった。
「か、刀が、喋って……」
今起こっている現象は、スラヴィエーラの理解を超えていた。
どうしてこんなことになったのか。何故、自分はこんな化け物じみた刀を抱えて倒れていたのか。
それを知るのは、アーゼンターラが連れてきた仲間たちの話によって、だった。



アーゼンターラの仲間は二人いた。
一人は大柄で屈強な、いかにも剣士と言った出で立ちの男。もう一人は、細身で背の高い男だった。
「説明してもらおうか」
二人の男は、釈然としない表情でスラヴィエーラを見下ろしている。歓迎されていないことは肌で伝わった。
彼らとて、この王宮では居候の身らしいから、部外者を連れ込んだアーゼンターラが責められるのは仕方ないと言える。
「この人、中庭で倒れていたのよ。放っておくわけにはいかないでしょう?」
スラヴィエーラは口を挟まない。自分の身元が分からない以上、その権利はないに等しく、それに先ほどから胸に抱いているこの刀が、しきりに話しかけて来て、正直それどころではなかったのだ。
──スラヴィ、本当に私のことを覚えていないの?
悲しみの波動を、しつこいほど送りこんでくるが、応えない。アーゼンターラたちには、刀の声は聞こえていない。ここで返事をしたら独り言になってしまうし、刀と会話ができるなどと言ったら、奇人扱いされるに決まっている。
──スラヴィ、どうして応えてくれないの?私の声が聞こえているんでしょう?スラヴィ、スラヴィ、スラヴィ……
どうして、なぜ、と責める声音。こっちが聞きたいくらいだ。
それでも、この刀はスラヴィエーラの過去を知る唯一の手がかりだ。せいぜい手元から離さず、一人きりになった時に、再び話しかける以外にない。
「魔性に操られていると考えられなくもないが……破妖刀を、持っているしな」
大柄な男の忌々しげな呟きに、アーゼンターラは反応した。
「やっぱり、あれは破妖刀なの?触っていないのに、見ただけでわかるものなの?」
破妖刀。
この刀はそういう種類の刀なのだろうか。どこかで聞いた響きのある言葉だ。
「ああ。並みの刀が放つ気配じゃない」
スラヴィエーラが顔を上げると、大柄な男は彼女の胸の刀に向かって、大きな手を伸ばしてきた。
「悪いがあんた、それをこちらに渡してくれ」
反射的に、身を竦ませてしまう。相手に害意がないのはわかったが、これを取り上げられてしまったら会話が叶わなくなる。
恐らくは自分の過去を知っているらしいこの破妖刀と、言葉を交わすことができなくなる。
待って、と言いかけた時、のんびりとした声が室内に響いた。
「……なあ、破妖刀だってわかってるんなら、確かめる必要はないんじゃないか?」
救いの声の主は、男の背後から現れ、スラヴィエーラをじっと見下ろした。
アーゼンターラの連れの、もう一人の男性だ。長身ですらりとした体つき、長髪を後ろで一つに縛っている。男性にしては大きめの、大地の色をした瞳に、好奇心という名の光を宿して。
自分を覗き込む青年は、心なしかどこかで会ったような気がする……しかし、思い出せない。
「その刀、あんたのなんだろう?そういや、まだ名前を聞いてなかったな」
青年の問いに、睫毛が震えているのが、自分でもわかった。
──名前なんて、知ってるくせに。
脳裏に、焦れたような言葉が閃く。
──どうして思い出してくれないの。わたしはあなたを良く知っているのに。
それは果たして、刀の意思だったのか、スラヴィエーラのそれだったのか。頭の中で深く重なり合っていて、自分でも区別がつかなくなっていた。
「スラヴィエーラ」
ただ一つ明らかになっている自分の名を、口にする。
無視される形になった男が不快そうに見下ろす中、彼女は刀を胸に強く抱えながら、言葉を続けた。
「助けてもらっておいて悪いけど、この刀は多分、わたしにとって大切なものなの。あなたたちが何者かわかるまで、手放すわけにはいかないのよ」



アーゼンターラたちは、『浮城』の人間だと語った。
記憶はなくとも、一般常識は覚えているスラヴィエーラは、それで得心がいった。
彼らがどのような用件で、このガンディア王宮に滞在しているのかは不明だが、単なる市井の人間に、国が上等の客間を三つも用意するはずもない。
一部屋に、一人ずつ。しかも女官が常に身の回りの世話をしてくれ、食事も毎回用意されている。噂には聞いていたが、さすが世界で唯一魔性に対抗できる組織だけのことはあって、破格の待遇であった。
スラヴィエーラは、自分が王族の一員である可能性を主張し、王太后ミランスに謁見を願った。
が、その提案は彼らによって即座に却下された。
「ないない。ターラちゃんならいざ知らず、あの女はお姫さまって柄じゃあ絶対にない」
「上に同じ」
「ちょっと、聞こえるわよ!女性にあまり失礼なこと言わないで!」
扉の向こうで、彼らが自分の処遇について、ぼそぼそと話し合いをしているのが聞こえる。
散々な言われようであったが、自分でもそれは薄々、気づき始めていた。こんなに短い髪をした姫君など聞いたことがないし、それに……・どうも、椅子に長い間座っていられない性分だと言うことに気づいたのである。
しかしそうなると、王宮で倒れていた理由の説明がつかない。アーゼンターラが先に見つけてくれなかったら、恐らくは不法入国者として捕らえられていたに違いない。
それについて感謝はしているが、自分の意思とは裏腹に物事が進められていく状況には、我慢がならなかったのだ。例え牢獄に入ることになろうとも、ここの主に直接交渉した方が早いのではないか、と思っただけのことである。
これ以上、彼らに迷惑はかけられない。
そう告げると、アーゼンターラは不意に表情を曇らせた。
「そのことなんだけど、スラヴィエーラ……」
「なに?」
礼を要求されるのか、と身構えていると、少女は困ったように首を傾げながら言った。
「私たちは、あなたを浮城に連れて行かなければならないの」



暗い、暗い深淵の城──。
未だ名もなきその城に、美の化身たる影が二つ存在した。
玉座に身を置く漆黒の少女。
その背もたれにしなだれかかる、深紅の男。
一見、絵になる光景であるが、彼らをよく知る者は決してそうは思わない。
何故なら二人の間に漂う空気は、およそ主従と呼ぶには似つかわしくない剣呑なそれ、だったから。
「おやおや……」
従うべき相手の背後に回り、挨拶はおろか、視線すら交えることなく。
礼節を知らぬと見える深紅の男が、おかしげに口元を歪める。
「随分と都合のいい夢を見ているようだな。さすが雛の君、羽虫相手にもお優しくていらっしゃる」
いずれ死すべき存在に、束の間の甘い夢を見せて差し上げるとは──。
もちろん、厭味である。人間に対する慈悲など、両者の心には微塵もない。
傍らの少女は、不機嫌極まりなかった。この男の不躾な態度は今更だが、それ以上に、漆黒の床に映し出される映像が気に入らない。
「歪みが足りない、と仰りたいのかしら。私が、かの君から奪った夢の力を、充分に使いこなせていないと?」
本来なら楽しい遊戯になるはずだった。夢の檻に人間の女を捕らえ、さながらそれが現実の出来事であるかのように錯覚させ、徐々に心身を侵食し、破滅に至らしめる。
初めて使う術に心浮き立ったのも束の間、夢は彼女の意思に反して、幸せな光景を紡ぎ出した。苛立っているところに、まるで狙いすましたかのようにこの男が口を挟みに来たのだ。
「あなたが、ってことじゃあない。単に、対象となる人間が図太いだけだろう」
言葉の意味が掴めず、少女──雛の君は小さく舌打ちする。
この男は、全てを知っていながら、敢えて多くは話さない。こちらが聞き返すのを待って反応を楽しんでいるのだ。
その手には乗るか。
「まるで、この女を知っているような口振りね。さすがは二の君、噂に違わぬ悪喰ぶりだこと」
柘榴の妖主たるこの男が、変わり種を好むことは知っている。興味本位で人間の娘に手を出したことも、一度や二度ではない──だからこそ、特に意味もなく口にした揶揄に過ぎなかったが。
「悪喰、か。そいつはいい」
男は実に、心底楽しげに笑った。その見透かしたような笑みも、傲慢な振る舞いも、いちいち癇に障る。
いやな、男──。
苛立つ思いは歪みを生じさせ、歪まされた檻は新たな夢を紡ぐ。



銀色の少女が、床に膝をつく。
その背後から現れた化け物の姿に、スラヴィエーラは思わず木刀を取り落とした。
「ターラ!ターラ、大丈夫!?」
それは、不気味なほどに美しい少女だった。
年は、アーゼンターラよりいくらか下だろうか。夜を閉じ込めたような漆黒の髪と瞳、それにこの美貌は、明らかに人間のそれではない。
床には、影が映っていなかった。
「あ……?」
何もない空間から現れた存在に、スラヴィエーラは二の句が告げなくなる。
部屋でじっとしているのは退屈だと言った彼女のために、アーゼンターラが稽古を申し出てくれたのは、つい先刻のことだった。
アーゼンターラたちに与えられた私室は十分な広さがあり、調度品も少なく、多少走り回っても問題のない造りであった。
刀など扱ったこともないのに、少女が用意してくれた木刀を握った途端、不思議と気分が高揚し、以降は夢中で打ち合っていた。
気がつくと、二の腕を強打されたアーゼンターラが膝をついており、そして──。
「大丈夫よ、蜜里。このくらいのことで騒がないで」
アーゼンターラの背後に立つ化け物は、蜜里、と呼ばれた。
無機質な、冷たい漆黒の双眸が、スラヴィエーラを見据える。
殺されるのではないか、と一瞬思った。しかし、すぐに相手はスラヴィエーラから視線をそらし、怪我をした少女の腕に触れる。
「すぐに治すから!」
治す?
何を言っているのだろう──疑問に思う間もなく、蜜里と呼ばれた化け物がもう片方の手をかざす。
痣のついたアーゼンターラの肌が、見る見るうちに元の白さを取り戻していく。他の擦り傷も同様だった。
繰り広げられる光景に、スラヴィエーラは目を瞠った。気づいたアーゼンターラが、慌てたように声を上げる。
「蜜里、待って!人間が見ているのよ!?」
人間──その言い方に、激しく違和感を覚える。この少女も同じであるはずなのに、何故か彼女は今、スラヴィエーラを枠の外に置いた。
アーゼンターラそのものは、紛れもなく人間だ。なのに何故、明らかに人外であるこの異様な存在と、親しげに慣れ合っているのだろうか。浮城とは、人々を絶望の底に陥れる、悪しき魔性を倒すための組織ではなかったのか……?
疑問と、恐怖が、頭の中で渦を巻いている。そもそも、彼らが浮城の人間であると言うのは、自己申告だ。証拠など見せられてはいない。
自分は、騙されたのだろうか?浮城に連れて行くと見せかけて、このまま、身売りされる……?
スラヴィエーラは、知らず後ずさった。部屋から出てはいけないという彼らとの約束を破って、背後の扉に手をかけた。
「スラヴィエーラ!大丈夫よ、この魔性は護り手と言って……ああ、もうっ!」
自棄になったようにアーゼンターラが叫ぶ。
「蜜里っ!彼女を逃がさないで!」
その時、床に置いていたスラヴィエーラの刀──木刀ではない方、である──が、光を帯びた。
触れてもいないのに、まるで生き物のように起き上がり、スラヴィエーラの手の中に納まる。
腕が勝手に持ち上がった。その切っ先が、正面に立つ蜜里の喉元にぴたりと突きつけられる。
「な、なによ、これっ……!」
スラヴィエーラは刀を放そうとしたが、それより先に例の声が脳裏に響く。
──大丈夫。私はスラヴィの味方。
全く信用のならない内容の言葉を、楽しげに送りこんでくる。
──この魔性が邪魔なんでしょう?食べてもいいの?
「食べる、って……何を言っているのか、全然わからないわ……」
困惑するスラヴィエーラに代わって答えたのは、目の前にいる魔性だった。
「破妖刀は、魔性の心臓を食らうの。つまり、その刀は私を斬るつもりなのよ」
淡々と告げる少女の瞳には、恐れや不安といった感情は、一切存在しなかった。
その気になれば、スラヴィエーラごと倒す自信がある、ということなのだろう。破妖刀の方はこの魔性を斬る気満々でいる──しかし、それが正しいことなのか、今のスラヴィエーラにはわからなかった。
とにかく、今の状況から逃れたい。魔性と関わるくらいなら、王族に捕まって牢に入れられた方がまだましだ。罰を受けるとしても、少なくとも殺されることはないはずだ。
「無駄よ」
蜜里が傲然と告げる。
「狭い範囲だけど、結界が張ってある。あなたの姿が他の人間の目に触れることはないわ」
スラヴィエーラが理解するより早く、腕の中の刀が笑い声を上げた。
──あ、そういうの私、得意だから。
パリン。
刀が扉を貫き、何かが砕けるような音とともに、膜のようなものが飛散した。
「馬鹿っ、なんてことを……!」
王宮の扉を壊したのか、と思わず刀相手に怒鳴ったスラヴィエーラであったが、刀を引き抜けば、貫かれたはずの扉には傷一つついていない。
きい、と扉が開き、廊下の空気が流れ込んでくる。
しめたとばかりに、スラヴィエーラは室外へと躍り出た。背後でまだアーゼンターラの叫びが聞こえたが、追ってくる気配はなかった。
──やっと二人きりになれたわね。
「なんなのよ、あなた……」
恋人同士のような口調にうんざりしながら、スラヴィエーラは廊下を歩いていた。
抜き身の刀を持って歩いているのに、王宮の誰一人として彼女の存在には気づかない。
すれ違う人々の目には、彼女が見えていないのだ。こちらからは見えるのに、声をかけようとしても透明な硝子のような壁に遮断されて伝わらない。触れることも近付くこともできない。
蜜里の言っていた結界とは、恐らくこれのことであろう。試しにこの破妖刀で貫いて見たが、先ほどの件で強化されているのか、もう二度と割れることはなかった。
──スラヴィ、これからどうするの?あの魔性を倒さない限り、この結界は破れないのよ?
絶望的なことを告げてくる刀の無神経さに、スラヴィエーラは苛立った。
「スラヴィ、スラヴィってうるさいっ!わたしをそう呼んでいいのは……」
『スラヴィ』
優しく自分を呼ぶ、誰かの姿が脳裏に閃く。
子供の頃は、泣きべそをかきながら自分の後をついて来たくせに、今は身長も追い越して立派な青年になって、そのくせいつまでも昔のことを根に持って、スラヴィエーラをからかってくる──無論、仕返しは倍くらい返してやっていたが。
あれは……誰だっただろう。思い出せない。
「……仲のいい人間だけよ。全然覚えていないのが癪だけど」
──本当に何も覚えていないのね。
こちらを責めるような、悲しそうな声が癪に障る。
スラヴィエーラは歩みを進めた。結界は狭い範囲だと、蜜里は言っていた。あの魔性がどれほどの力を持つのかは知らないが、王宮を丸ごと覆うような真似は、さすがに出来ないだろう。
つまり、歩き続ければ必ず終わりが見えるということ。結界が途切れるところまで行けば、きっと逃げられるはずだ。
自分が倒れていたという、中庭まで来た。老いた庭師が木の手入れをしていた。相変わらずスラヴィエーラの存在には気づかない。
正面に回って、舌を出してみる。やはり、気づかれない。切り落とされた枝がスラヴィエーラ目がけて落下してきたが、見えない壁に弾かれて地面に落ちた。
それを見ていると、スラヴィエーラの身体から徐々に力が抜けていった。恐ろしい、常人には理解のできない現象。こんな力を持つ魔性に、人間がどう対抗しろと言うのか。
どこまで逃げても、所詮は手のひらで踊らされているだけのような気がしてきた。アーゼンターラたちは、こんなことが出来る相手と一緒にいて、何故正気を保っていられるのだろう……?
草の上にうずくまって、膝を抱える。腹は立つが、今のスラヴィエーラが信じられそうな相手は、この破妖刀だけだった。
「あなた……」
──夢晶結って呼んで。それが私の名前。
「では、夢晶結。わたしが記憶を失った理由を知ってるの?だったら勿体ぶってないで教えてちょうだい」
これまで散々冷たく接したから、素直に教えてくれるとは思っていなかった。
しかし、この破妖刀は相当屈託のない性格らしい。
──理由も何も、私が原因なのよ。スラヴィエーラが、こうなることを望んだのよ。
「なんですって!?」
思わず声を上げる──どうせ、誰の耳にも聞こえない。
自分の話に関心を示してくれたことが嬉しいのか、夢晶結は嬉々として告げた。
──そうよ。これは、スラヴィの望んだこと。私とこうして話すことと引き換えに、あなたは何もかも失ってしまったのよ。
「うそ……なんで、わたしがそんな」
──そんなの、スラヴィが、人間なんかよりも私を愛しているからに決まってるじゃない。
「嘘よ!!」
人間なんか、などと、人間を下に見る発言も許せないが。
それより、スラヴィエーラが好きだったのは、こんな奇妙な刀などではない。
本当に、好きなのは──。
「スラヴィエーラ」
背後からかけられた声に、びくりと肩を震わせる。
この声は、アーゼンターラの連れの一人である青年のものだ。
名前は……確か、マイダード、だったか。
一見温厚そうに見えるが、魔性と慣れ合っている人間の一人なのは間違いないから、まだ信用できない。
──この男、嫌い。スラヴィが取られちゃう気がする。
何やら寝言を言っている夢晶結を、地面に置く。
すぐに振り向く気にはなれなかった。自分はきっと今、相手に対する不信で、酷い顔をしている。そしてそんな表情を、彼には見せたくないと思っていた。
「ちゃんと説明してなかったのは、悪かった。あれは護り手と言って、無害な魔性なんだ」
青年が困ったように告げる。スラヴィエーラは彼の言うことが信じられなかった。
「無害だなんて、どうしてわかるの!?」
忘れていたはずの思いが、彼女を苦しめる。
信じていたのに、裏切られた。受け入れるつもりだったのに、拒絶で返された。
浮城に迷惑はかけない前提で引き取られたはずなのに、護り手と称する魔性を引き込み、災厄だけ撒き散らして去った、あれは、あの女は……。
そう、魔性に心を開いても無駄だと言うことを、彼女は身を持って味わったのだ。
例外があることは、知っている。ごく稀にだが、人を害さない魔性もいることを。あの女は例外ではなかったし、無害でもなかった。
ただそれだけのことだ。
「何もない空中から、突然現れたわ。手を翳しただけで、傷が治ったわ。あんな……あんなものたちが、この世にいるだなんて!」
違う。蜜里は何も悪いことはしていない。
悪いことをしていない魔性を、彼女は責めているわけではない。信じられないのはあの女だ。
名前も思い出せないのに、多くの人間を傷つけ、死をもっても償えぬほどの大罪を犯したことだけは記憶している……。
「……そうだな」
青年は、やんわりと相槌を打った。
「それはそれとして、あんたはちゃんとターラや蜜里に謝ったのか?おれたちを怖がるのは勝手だが、魔性に関係した相手なら、何をしてもいいってわけじゃないぞ」
正論である。一分の狂いもない。
スラヴィエーラはのろのろと振り返った。確かに、謝らなければいけない。自分が傷ついたことではない、他人を傷つけてしまったことに。
「マイダード」
名前を呼ぶと、青年は何故か、少し困ったような顔をした。
さんづけの方が良かったのだろうか。どこか切なげに感じられるその表情が、スラヴィエーラの胸を締め付けた。
「あなたの言い分はわかる。アーゼンターラとその護り手には、悪いことしたわ。でも、魔性と人間が組んで戦うっていうのが、わたしにはいまいち信じられない。本当にあなたたちに、ついていっていいの?」
あなたに──。
相手の目をじっと見つめる。この刀も言っていた通り、この青年が最初から自分に好意を抱いている様子なのは、何となくではあるが、わかった。
自分が比較的美人の範疇にあることは、理解はしている。故に、大人しくさえしていれば異性から杜撰に扱われる心配はない、と踏んだのだが、結果として大人しくは出来なかった。
確実に、心証は悪くしているだろう。それでも、この青年なら、スラヴィエーラに本当のことを言ってくれるような気がした。
「どいてろ」
無骨な声が割り込んだ。
アーゼンターラから話を聞いたのか、いつの間にかもう一人の男が木刀を携えて立っている。
確かこちらは、オルグァン……だった。破妖剣士として、仲間を傷つけられたことに怒っているように見えるが、蜜里に睨まれた時ほどの恐怖はない。誠意をこめて話せば、わかってくれそうな程度の不機嫌さを漂わせている。
それが、人間と魔性の違いだと思った。気に入らないと言う理由で相手を死に至らしめようとする化け物とは、根本的に違う。
「そもそも、ターラでは不足だったのだろう。女とは言え、立派に筋力のある成人だ。あれが負けるのも無理はない」
筋力云々と言われ、スラヴィエーラはむっと眉を吊り上げた。
確かに、一度彼の身体を押し動かしてしまったことはあるが、あれは本人が気を抜いていたからだ。彼が本気で打ってくれば、経験のないスラヴィエーラが勝てるはずがない。
「悪かったわね。わざと負けてあげればよかったっての?」
それに、アーゼンターラとて、充分強かった。勝てたのはまぐれだ。
部屋に閉じ込められて気分が塞いでいる彼女を喜ばせるために、アーゼンターラこそがわざと負けを選んでくれた可能性もある。
彼らは、スラヴィエーラを浮城に連れて行って、破妖剣士とやらにしたいのだ。そのためには手段を選ばない。
「そうは言っていない。おれが相手をしよう」
オルグァンは、もう一振りの木刀を何の前触れもなくスラヴィエーラに向かって放った。
空中で回転する凶器を、スラヴィエーラは素早く掴む。その時、相手の口元が少し緩んだような気がしたのは、見間違いだろうか。
「あなた……オルグァンが?いいけど、先にアーゼンターラたちに謝らせてよ」
傍らで聞いていたはずの、マイダードの気配が離れるのを感じる。何故か、胸がずきりと痛んだ。
彼は、スラヴィエーラが刀を持って戦うことを、本当は快く思っていないのだろうか──根拠もなく、そんな思いに捕らわれる。
彼だけでも、スラヴィエーラの浮城行きに反対してくれれば、それは喜ばしいことのはずなのに、まるで拒否されているようで辛い。
矛盾だった。自分で自分の気持ちが、わからなくなった。
黙って着いて来てくれと言われた時にはあれほど反発を感じたのに、こうして他の男性と構えあっていても文句も言わず、無言で立ち去られても腹が立つなんて。
まだ、大事な話の途中だったのに………!
「後でいい」
彼女の葛藤を知ってか知らずか、オルグァンは一つ条件を出した。
「その代わりおれから一本でも取ったら、お前を連れていくのは諦める」
仲間の敵討ちのつもりではなく、スラヴィエーラにこれ以上騒ぎを起こされる前に、年長者として引導を渡しに来たのだろう。
「ほんと!?」
勝てば、解放される──ようやく自由になれる。
彼らから、ではない。この悪夢から。



──キイン。
耳障りな金属音が耳を打つ。
スラヴィエーラは寝返りを打ち、そしていつの間に部屋に戻ったのか、記憶がないのに気づいた。
中庭で、オルグァンと言う男と剣を交えていたはず、なのに。
「覚えてない……」
腕を額に当てると、ぬるりとした赤いものが視界に入り、身体を強張らせた。
が、よく見るとそれはただの寝汗だった。血液に見えたのは静脈が浮いていたからだろう。
「気の、せい……?」
確かに赤いような気がした。手首まで伝わる一本の筋──色まで間違えるだろうか?
身体のあちこちが痛い。まるで、鋭利な刃物で切り裂かれているように。
寝台から起き上がる。隣の寝台ではアーゼンターラが寝息を立てていた。
彼女が起きると同時に、壁に立てかけてあった破妖刀もふわりと起き上がり、寄り添うように後をついてきた。
これは、夢の続きだろうか。はたまた現実だろうか。
扉が音もなく開き、彼女は廊下に歩み出る。真っ白な光景が広がっていた。
──うふふ。くすくす。目覚めちゃだめよ。
どこかで聞いたような、少女の声。
──そのまま、幸福な夢の中で死になさい。
「何が……幸福なものですか」
スラヴィエーラは呟く。と、まるで空気の怒りを買ったように腕が裂け、今度は本物の血が吹き出した。
痛みは現実だった。よろけながらも、彼女は二本の足でしっかりとその場に立つ。
「夢で願いが叶っても、少しも嬉しくない。だってこれは本当のことじゃない……!」
──キイン。
今度は刀の音だと、はっきり分かる。
思い出した。自分は浮城の破妖剣士。夢晶結と通じ合いたいという願望を、恐らく魔性に付け込まれた。
だから、これは覚めかかった夢だ。現実の自分は、きっと誰かとまだ斬り合いをしている。
早く目覚めなければ、夢の方が現実になってしまう。しかし、頬を抓っても頭を殴っても、スラヴィエーラの意識は現実に戻らない。
この夢を見せた悪しき魔性は、きっとスラヴィエーラの……いや、スラヴィエーラ達の破滅を望んでいると言うのに!
「スラヴィ!」
凛とした青年の声が耳を打った。
「──マイダード!?」
白い、何もないはずの空間の向こうから、おぼつかない足取りで青年が歩いてくる。彼もまた、目に見えぬ鞭で打たれてでもいるかのように、全身が血まみれだった。
スラヴィエーラには、わかっていた。彼を傷つけているのは紛れもなく自分だと。
──キイン。
夢の自分はこうして彼と向き合い、現実の自分は、操られるまま容赦なく彼を剣で斬っている。その光景が、脳裏に浮かんだ。
「ごめん、わたしのせいだわ!」
彼に駆け寄ると、思ったより傷が深いことに気づく。こういう時に、手当てをしてくれる護り手──未羽の存在もようやく思い出したが、恐らく呼んでも阻まれるだろう。ここは夢の世界、現実ではないのだから。
現実のスラヴィエーラが言葉を発しない限り、未羽は応えてはくれない。
「マイダード、ちょっとわたしを殴りなさい!それで目が覚めるかも知れないわ」
自分ではなく、他人から衝撃を与えてもらえばあるいは……と思ったのだが、青年は首を横に振る。
「できない」
「なんでよ!?いいから早く!わたし、多分あなたを斬りまくってるのよ!?」
彼の出血は止まらない。夢であるとはいえ、こちらの世界の彼もスラヴィエーラは嫌いではなかった。
よそよそしく接してくる彼、というのは新鮮だったし……彼が、得体の知れない女にどう振る舞うのかもよくわかって、それでも彼が彼らしかったので、安心していられたのだ。
マイダードがそばにいてくれなければ、夢晶結と気持ちが通じ合っても意味はない。それに、ようやく気付いた。
現実に戻ったら、今度こそ彼を大切に扱おう。そう決意している彼女の耳に、マイダードの声が入ってくる。
「どうせ夢なら、一言言っていいか?」
顔を上げたスラヴィエーラに、彼はゆっくりと告げた。



傷つけてしまった、彼を。
好意を抱かれていることを知っていながら。
子供の頃から、共にあることが彼の望みならば、出来れば応えてあげたい、と思ってもいた。
夢晶結に選ばれたあの時までは。
破妖刀と心を通わせることができる、あの女の存在を知るまでは。
『なにを失っても惜しくはないのに!』
彼は、呆れた顔をしていた。
いや、引いていた、というのが正しいだろう。
破妖剣士でない者に、破妖刀に執着する気持ちがわかるはずもない。
自分と彼の道は、似ているようで決して交わらない。
なのに、彼は着いてきた。命の保証などない、この危険な任務に。
他の仲間よりも冷たく当たった。殴って罵倒した。それでも彼は笑っていた。
彼は、間違っている。このままでは彼は幸せにはなれない。
だから彼はもっと、大人しくて可愛い女性と一緒になって、幸せになるべきなのだ。
刀に魅入られた、がさつで乱暴な女などではなく、彼だけを見つめて愛してくれる、ごく普通の女性と──。
そう、思っていたのに。
まんまと魔性の罠にかかった愚かな彼女を責めもせず、彼は言った。
「おれは、子供の頃からずっと……」
そんな簡単な一言で、世界に色がつき、花が咲いた。
自分の方から言いたかったのに、先を越されたと、悔しい気持ちは起きなかった──スラヴィエーラを縛っていた頑ななまでのこだわりが、彼の言葉を聞いて解ける音を、聞いた時。
夢の終焉は、すぐそこに見えていた。



──おわり──


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