鬱金の間 叶えられた願い【マイダード編】


【あらすじ】
スラヴィが本人の望み通り『夢晶結以外は何もかも失った』初期状態で仲間の前に現れるんだけど、コミュ力が高いため即行で気に入られて浮城に連れていくことが決定したところで幻覚オチな話

(注意)
・津々螺さん戦の頃の話
・悩ましいほどにマイ→スラ
・『何もかも失う』なら美貌や怪力や明るさも失っているはずですが、それだともはや違う人になってしまうので記憶だけリセットしました
・マイオルは女性にあんまり免疫がない設定(原作でもそうあって欲しい)
・ターラちゃんはいつも通り



ラエスリールが斃れてから、一日と半が経過した。
浮城には文を出している。紅蓮姫奪還の任務は図らずも終了したが、当のお姫様は未だラエスリールの身体の中に眠ったままだ。
ここから先は、城長の判断を仰がなければならない。追って浮城からの知らせが届くまで、マイダード達一行は各々の部屋で、退屈な待機を強いられていた。
「暇だな……」
寝台にごろりと寝そべって、刺青のマイダードは高い天井を見上げた。
割り当てられた部屋が広々としているのも、寂しさに拍車をかける。仲間の部屋に遊びに行こうにも、彼の同行者は朴訥な男と気難しい少女、同じく何を考えているのかわからない護り手が二人。うっかり仕事と関わりのない話題を振っては、不謹慎だと怒鳴られかねない状況だ。
欠伸をしながら寝返りを打った時、自室の扉がコンコンと音を立てた。
「マイダード……さん。いる?」
緊張を抑えきれない少女の声──アーゼンターラだ。
浮城では少年で通していた彼女は、この事件をきっかけに過去を思い出した。そのため、異性の部屋を訪ねるのにいささかの躊躇いが生じている。
「いるよ」
それは即答。
繊細な少女の心を気遣い、彼はつとめて明るい声を出した。
「あと、マイダードでいいって。どうした?」
扉の向こうで、遠慮がちな少女の声がする。
「ここでは言えないわ。私の部屋に来て欲しいんだけど……いい?」



アーゼンターラの部屋には、先客がいた。
一人は『氷結漸』の使い手、オルグァンである。寡黙ではあるが実力は確かで、信頼できる破妖剣士の男だ。
そして今一人は──。
椅子に腰かけて、若い女性の姿があった。
その隣にはアーゼンターラがいて、困ったような顔でマイダード達を見つめている。
「……ターラ?」
状況が把握できず、彼は真顔で呟いた。傍らのオルグァンも、苦虫を噛み潰したような顔をしている。
部屋の中央に陣取っているのは、見たことのない女性だった。年齢はマイダードと同じくらいか、少し上に見える。
短く清潔に整えた黒髪と秀でた額、生意気そうに吊り上がった瞳が印象的だった。引き結ばれた唇は赤く、すらりと伸びた健康的な手足、華奢な体つきは、彼の感覚からして充分に美人の範疇に入る。
アーゼンターラが着せたと思われる王宮の服を身につけているが、少なくともここの女官ではない。裾の長い服が、まるで似合っていないからだ。
しかし、それより先にマイダードが気になったのは、彼女が抱えている一振りの刀の存在だった。
あれは──。
同じことを、オルグァンも考えたのだろう。険しい表情のまま、女性にではなくアーゼンターラに問いかける。
「説明してもらおうか」
いつになく厳しい様子のオルグァンに、少女はやや気圧されたものの、すぐに勝気に言い返してきた。
「この人、中庭で倒れていたのよ。放っておくわけにはいかないでしょう?」
その言葉で、アーゼンターラの知り合いの女性ではないことが分かった。見ず知らずの女性を、仲間の判断も仰がずに自室に入れたのは、軽薄としか言いようがない。
「ラエスリールでもあるまいに……」
思いが口をついて出てしまう。厄介事を背負い込むのは本人の勝手だが、この状況で、仲間に伺いも立てずに、というところが大きな問題だ。
「なぜ、その時おれたちを呼ばなかった?何かの罠だったらどうする気だ」
オルグァンの糾弾に、アーゼンターラは即座に反論した。
「蜜里がいたから大丈夫よ!そ、それに……見つけた時はこの人、服を着ていなかったから、男の人を呼ぶのはちょっとまずいかなって」
しばしの間があった。
「服を……」
「着ていなかった?」
彼らは無意識に女性に視線を移したが、その瞳が彼女を捉える前に、すぐにアーゼンターラが、庇うように立ち塞がる。
「もう、食いつくところはそこなの!?違うでしょう、この人は少なくとも、魔性なんかじゃないってことよ!」
妖鬼であれば、多少は異形の名残が残っているはずだが、この女性は完全な人間の姿をしている。そして誇り高い上級魔性が、黒衣も纏わず、人前にあられもない姿を晒すとは考えにくい。つまり彼女は魔性の類ではない、とアーゼンターラは主張した。
「仮に彼女が人間だったとして……」
深く息を吐いて、オルグァンが告げる。
「王宮の厳重な警備をかいくぐって突然現れる、なんてことは、考えられないんだがな。そのあたりはどう説明するつもりだ?」
瞬間的に長距離を移動できる能力を持つ人間などいない。浮城の人間ならば、護り手の力を借りてそれに近いことは可能だが、仕事以外で護り手の能力を使うことは表向き禁じられている。
第一、この女性は浮城の人間ではない。これだけ目立つ容姿なら、マイダード達が顔を知らないはずがないのだ。正体が魔性ではないにしろ、怪しい人物であることには変わりがない。
「魔性に操られていると考えられなくもないが……破妖刀を、持っているしな」
オルグァンの忌々しげな呟きに、アーゼンターラは反応した。
「やっぱり、あれは破妖刀なの?触っていないのに、見ただけでわかるものなの?」
思いがけぬ理由で紅蓮姫の使い手候補となった少女は、女性が腕の中にしっかりと抱えている破妖刀らしきものを見つめて、戸惑いを隠せないでいる。
「ああ。並みの刀が放つ気配じゃない。……悪いがあんた、それをこちらに渡してくれ」
オルグァンがアーゼンターラの身体を押しのけ、女性の前に立つ。
大きな手が伸ばされると、女性はやや怯えたように身を竦ませた。マイダードは少し気の毒になり、屈強な破妖剣士の背後から声をかけた。
「……なあ、破妖刀だってわかってるんなら、確かめる必要はないんじゃないか?」
女性の目がマイダードの方を向く。
助けを求めるような、縋るような大きな瞳に、彼の心は妙に締め付けられた。
「その刀、あんたのなんだろう?そういや、まだ名前を聞いてなかったな」
オルグァンの隣に立ち、座っている相手と目線を合わせる。不安のためか、女性の長い睫毛がかすかに震えていた。
「スラヴィエーラ」
紅い唇から言葉が漏れる。無視される形になったオルグァンが不快そうに見下ろす中、彼女は刀を胸に強く抱えながら言葉を続けた。
「助けてもらっておいて悪いけど、この刀は多分、わたしにとって大切なものなの。あなたたちが何者かわかるまで、手放すわけにはいかないのよ」


スラヴィエーラと名乗った女性は、自分のことを何も覚えていないと言った。
怯えさせては逆効果だと判断した男性二人は、現在は廊下に出ており、室内では女性であるアーゼンターラが詳しく話を聞いている。
「どう思う?記憶喪失なんて、実際にあるのかねえ」
廊下の壁に寄りかかり、マイダードは相方に問いかける。
記憶を失うまではわかるとして、言葉や一般常識、名前だけを覚えているなどという都合のいいことが起こり得るのだろうか。
彼の疑問を、オルグァンは意外にも肯定で返した。
「喪失とまではいかないまでも、それに近いことはあるだろう。現に、ターラも自らに暗示をかけて、自分を少年だと思い込んでいた」
「ああ、そうだったな……」
ターラが親身になるのは、そのせいもあるかも知れない。
「彼女もターラ同様、何らかの事件に巻き込まれた可能性が高い。にしても、破妖刀だけ無事というのは腑に落ちんが」
──キン
ふと、刃物が擦れ合うような音が聞こえ、マイダードは周囲を見回した。
「……ん?」
オルグァンの耳には聞こえなかったらしく、不思議そうな顔をしている。
右腕の辺りに鈍い痛みが走った。筋肉痛だろうか、その部分を揉んでいると、相手はますます訝しげな表情をした。
「なんだ、虫にでも刺されたか」
「……いや」
よくわからないうちに音は止み、痛みも消えていった。



一晩経って、マイダード達はもう一度アーゼンターラの部屋に赴いた。
彼女の分の食事を分けてもらい、ひと心地ついたスラヴィエーラは、昨日よりは落ち着きを取り戻しているように見えた。
「アーゼンターラから話は聞いたわ。あなたたち、浮城の人間なのね」
刀はまだ、腕の中に抱いたままだった。身元がわかりそうな唯一の持ち物だから、無理もないが。
「仕事の途中だったんでしょう?迷惑をかけてしまったのは謝るわ……ごめんなさい」
こちらの言い分も聞かないうちから、彼女は自分なりに結論を出してしまったようだ。当惑するマイダード達に向かって、この刀と自分を、一刻も早く解放してくれるよう懇願してくる。
「わたしのことはもう気にしないで。最寄りの街まで連れて行ってくれれば、後は仕事を見つけて、自分で何とかするから」
男二人に囲まれて尋問を受ける、この状況から逃れたい。
そして、あくまでも刀は手放したくはない、という姿勢だった。オルグァンは溜息をついて、彼女を宥めるように言葉を放つ。
「ことはそう簡単じゃない。あんたは破妖刀を持っている……すなわち、その刀に選ばれた破妖剣士ということだ」
今後の人生が決定されたとも言える無情な台詞に、スラヴィエーラはやおら立ち上がり、オルグァンの腕を強く掴んだ。
「急にそんなこと言われても、受け入れられるわけがないじゃない!わたし、今まで剣なんて握ったこともないのよ!?」
オルグァンが顔を顰めたのは、不快によるものではないとマイダードにはわかった。何故なら意表を突かれた彼の身体が後ろによろめき、辛うじて片足で踏みとどまったのが見えたからだ。
「……腕力はあるようだな」
マイダードも目を丸くしていた。相手が油断していたとはいえ、自分より一回りも大きい体格の男に掴みかかって後退させるだけの力は、尋常でない。
しかも片腕だけで。
「あ、ごめん。つい力が入っちゃって」
スラヴィエーラが腕を放す。見た目は普通の女性にしか見えないし、嘘をついているようにも思えないが……。
しおらしくなったのを好機とばかりに、マイダードは彼らの会話に割って入った。
「スラヴィエーラ」
「……なに?」
彼女の目がこちらを向いてくれる。それだけで、妙に心が浮き立つのをマイダードは感じていた。
「不安も多いだろうが、悪いようにはしないから」
少なくとも自分は、彼女に好感を持っている。初めて見た時から、悪い印象は受けなかった。
「あんたをどうするかは、城長が決める。おれたちに見つかったのが不運と諦めて、大人しく浮城まで着いて来てくれ。頼む」
真摯な口調が、通じたか否かは分からない。
ただ、スラヴィエーラがふっと身体から力を抜いた。
「わかってる……今は、あなたたちの言うことを聞くしかないって。でも、じっとしているのが我慢できないのよ。ここってすごく退屈だし」
それはマイダードも同感だったが、彼女を部屋から出すわけにはいかない。浮城から派遣された人数は三人と言うことで、王太后のミランスに話が通っているのだ。
帰る際に人数が増えている現象を、どう説明したものか……頭が痛い問題である。
「スラヴィエーラ。よかったら、わたしが稽古の相手ぐらいならできるけど?」
それまで黙って聞いていたアーゼンターラが、身を乗り出してきた。
彼女は封魔具の他に、訓練用の木刀を持ちこんでいる。身体を動かすのが好きだというのなら、やってみて損はないと言うのだ。
「破妖剣士になるのなら、今のうちに剣の扱いを覚えておいた方がいいでしょう?ね、オルグァン」
「そうだな。いい提案だ」
オルグァンが頷く。
「あなたたち、どうしてもわたしをその『破妖剣士』ってのにしたいわけね」
スラヴィエーラは不満そうだったが、結局はアーゼンターラの申し出を受けた。
それからしばらくして──事件は起きた。



「負けた?素人相手にか?」
蜜里の治療を受けているアーゼンターラを見下ろし、マイダードは唖然とした。
彼女の腕にはくっきりとした青痣が残っていた。他にも打撲らしき傷が何か所かある。
少女とはいえ、一応は浮城の人間であるアーゼンターラを打ち負かしたと言う、勇ましいスラヴィエーラ本人の姿は、室内に見当たらない。
だからマイダードを呼んだのだ、とアーゼンターラは言った。
「見ての通りよ。あの人、実は剣の心得があるんじゃないの?悔しいけど全然かなわなかったわ」
絨毯をどけた床には、二人の女性がやり合った足跡。そのうちの大きい方が出口まで続いている。
「……話が見えないんだが」
主に代わって、護り手の蜜里が状況を説明する。
「ターラは私に任せて。それより、あの女性をお願い。私が治療のために姿を現したら、驚いて逃げ出してしまったのよ」
それでようやく、納得がいった。早い話が、魔性に対する拒否反応が出たわけだ。


スラヴィエーラは、中庭で膝を抱えてうずくまっていた。
彼女が裸で倒れていたというその場所だ。
マイダードは背後から近づいて、その小柄な背中に声をかける。
「スラヴィエーラ」
びくりと背中が震える。
「ちゃんと説明してなかったのは、悪かった。あれは護り手と言って、無害な魔性なんだ」
我ながら、自分の言葉に胡散臭いものを感じる。
マイダードとて、護り手の全てを無条件に信頼しているわけではないのだ。何も知らない地上の人間にしてみれば、魔性と仲良くしている浮城の人間自体が、信じられなくなってしまうのも無理はない。
「無害だなんて、どうしてわかるの!?」
彼女の言う通りである。そして実際に、『無害などではなかった』のが証明されてしまった。
柘榴の妖主は、破妖剣士のラエスリールに近づいて言葉巧みに騙し、結果として裏切った。浮城の人間であるセスランを拉致、半殺しの目に遭わせた。
それだけではない。カーガスもシャーティンも、ラエスリールが招いた災厄の犠牲者だ。自分が連れて来た護り手が、浮城に災いを呼び、他者を傷つけ、あるいは死に至らしめたこと。それについて、ラエスリールの口から詫びの言葉は一切聞かれなかったのだが……。
「何もない空中から、突然現れたわ。手を翳しただけで、傷が治ったわ。あんな……あんなものたちが、この世にいるだなんて!」
「……そうだな」
マイダードは否定せず、やんわりと相槌を打った。自分たちが常識だと思っていることが、地上では通じないことを、嫌でも思い知らされる。
それでも、言うべきことは言っておかなければならない。
「それはそれとして、あんたはちゃんとターラや蜜里に謝ったのか?おれたちを怖がるのは勝手だが、魔性に関係した相手なら、何をしてもいいってわけじゃないぞ」
彼女には、ラエスリールのようになって欲しくはなかった。
魔性と慣れ合うのでもなく、魔性の全てを悪と切り捨てるでもなく。公正な見方の出来る破妖剣士であって欲しかった。
否。
『彼女はそういう性格だったはずだ』。
ざらりとした違和感が彼の心を撫でる。
そうだ。自分はきっとスラヴィエーラのことを以前から知っている。
どこで?それはわからない。彼女を酷く身近に感じるのは、気のせいではないはずだ。
「それに、何もないところから突然現れたのは、あんたも同じだろう。おれたちにとっても、あんたはまだ得体の知れない相手なんだ。それを忘れるなよ」
否。
『彼女は得体の知れない存在などではない』。
気は強いけれど、本当はとても心の優しい女性であることを、彼は知っている。
何故?
振り返ったスラヴィエーラは、泣いてこそいなかったが気落ちしているように見えた。自分が傷ついたことではない、他人を傷つけてしまったことに。
「マイダード」
名前を呼ばれる。
どこかよそよそしく感じられるその響きが、彼の胸を締め付けた。
「あなたの言い分はわかる。アーゼンターラとその護り手には、悪いことしたわ。でも、魔性と人間が組んで戦うっていうのが、わたしにはいまいち信じられない。本当にあなたたちに、ついていっていいの?」
まずい流れだ、とマイダードは思う。
アーゼンターラは、マイダードが捕縛師であることは説明したが、それ以上は言わなかった。彼の捕縛方法が特殊であり、常人には到底受け入れがたいものであるからこそ、だ。
折を見て、マイダードの口から話すつもりだった。この身に刻んだ刺青のことを。しかし、これでは当分切り出せなくなってしまった。
気味悪がられるのは慣れているけれど、特にスラヴィエーラに避けられるのは辛かった。
「おれには護り手がいないから……」
何を言おうとしているのだろう。
おれは魔性を信頼しているわけではないから、安心していい、と告げようとしたのか。他の住人を貶めて、自分だけは彼女に気に入られようとしたのか。
卑怯なやり方だった。そして案の定、スラヴィエーラには通じなかった。
「それなら、マイダードはどうやって怪我の治療をしてるの?」
背中にひやりとしたものが伝う。彼女の言葉が、今は触れて欲しくない部分に触れる。
「捕縛師だって、怪我をするんでしょう?マイダードの捕縛って、どういう類の……」
「どいてろ」
低い声がその場に響いた。
アーゼンターラから話を聞いたのか、いつの間にかオルグァンが木刀を携えて立っている。
天の助けとでも言うべき状況に、マイダードは素早く脇に退いた。草を踏みしめて近づいてきたオルグァンは、スラヴィエーラを軽く一瞥した。
「そもそも、ターラでは不足だったのだろう。女とは言え、立派に筋力のある成人だ。あれが負けるのも無理はない」
筋力云々と言われ、スラヴィエーラがむっとしたように眉を吊り上げた。
「悪かったわね。わざと負けてあげればよかったっての?」
「そうは言っていない。おれが相手をしよう」
「おい、旦那!?」
どうやら本気だと悟り、マイダードは慌てる。
──キン、キン。
また刀の音だ。
どこから聞こえているのか、この音はマイダードにしか聞こえていない。
「あなた……オルグァンが?いいけど、先にアーゼンターラたちに謝らせてよ」
「後でいい。その代わりおれから一本でも取ったら、お前を連れていくのは諦める」
「ほんと!?」
また、腕に痛みが走る。
オルグァン達は会話に夢中で、マイダードの異変にはまるで気付かない。
彼はそっとその場を離れた。オルグァンがうまく場を収めてくれて、助かった。彼が女性に負けることは、まずあり得ないだろう。
スラヴィエーラは不満ながらも納得し、自分たちは彼女を浮城に連れて帰ることができる。
そうしたら、ずっと一緒にいられる……これからも。



程なくして、スラヴィエーラとオルグァンは戻ってきた。
汗まみれではあるが、二人とも笑顔である。
どうやら、交渉は成功したようだ。ほっとする反面、何やら面白くないような気もする。スラヴィエーラの華が咲くような笑顔──自分には、決して向けられなかったもの。
それがオルグァンに向けられている。
「筋がいいな」
破顔しながらオルグァンが告げると、スラヴィエーラも笑って答える。
「そう?追い付くのに必死だったわよ。でも身体を動かしたらすっきりしちゃった。あっアーゼンターラ、お水をもらえる?」
「え、ええ……」
入っていけない空気を感じて、捕縛師二人は、困惑のまま顔を見合わせた。
「あの二人、随分仲良くなったみたいね」
「そうだな……」
剣を交えるとやはり違うのだろうか。アーゼンターラから受け取った椀に口をつけると、スラヴィエーラは一気に中身を飲みほした。
ふう、と息をつく。
「さっきはごめんなさい、アーゼンターラ。それと、蜜……」
「蜜里」
にこりともしないで蜜里が答える。
「そう、蜜里ね。考えてみたらわたし、満足にお礼も言っていなかったわ」
「そんなのは、いいのよ」
アーゼンターラは首を横に振った。護り手の治療を受けた彼女の身体には、もう傷一つ残っていない。
「私だって、最初は護り手も含めて、浮城の人間のことが信じられなかったもの。だからスラヴィエーラの気持ち、すごくわかる。気にする必要はないわ」
「ターラちゃんも大人になったもんだねえ」
マイダードが茶化すと、アーゼンターラは一瞬顔を赤くしたが、『大人』なので堪えたらしい。スラヴィエーラに向き直った。
「それより、浮城に来てくれる決心はついた?私としてはあまり強制はしたくないんだけど、このひとたちがスラヴィエーラのこと気に入ってるみたいだから」
「おい、ターラちゃん……!」
さては逆襲のつもりか。マイダードは焦って声を上げたが、オルグァンは否定はしなかった。黙って腕を組んで、彼女の次の言葉を待っている。
その余裕ぶりに、心がざわついた。戻ってくる前、二人の間ではすでに話が付いているはずだ。一体どんな会話が成されたのだろう。
スラヴィエーラは一同を見渡して、笑顔のまま告げる。
「行くわ」
その言葉は、凛として室内に響き渡った。
「正直、浮城ってところがどういうところなのかは、行ってみないとわからないと思うんだけど……あなたたちを見ていたら、そんなに悪いところじゃなさそうだしね」



「気持ちのいい女だな」
二人きりになった時、オルグァンは彼女をそう評した。
「剣の筋もいいし、話もわかる。あれなら浮城に行ってもうまくやれるだろう」
マイダードもおおむね同じ評価だった──だが。
つまりそれは、他の男も放っておかないということなのである。
「旦那はスラヴィエーラに気があるのか?」
念のため確認はしておく。この男が相手ならば、彼にはあまり勝ち目がない。女性はより逞しい男に惹かれるもの、というのが彼の認識だった。
オルグァンは呆れたように首を横に振る。
「馬鹿を言え。ああいう女もいるのだな、と感心しているだけだ。浮城には何を考えているのかわからん、腹黒い輩が多いからな」
具体的に誰のことを言っているのかは不明だが、これにも全く同感であった。
ともあれ、狙いが被っていないのなら問題ない。安心してスラヴィエーラを口説ける。
浮城には彼ら以外にも腕っ節の強い男が大勢いる。彼女が目移りしないうちに、自分という人間をよく売り込んでおかなければならない。
密かに算段を練っている彼を横眼で見つつ、オルグァンは冷ややかに言葉を投げた。
「一応釘を刺しておくが……」
「んー?」
「助けた恩をかさに着て、スラヴィエーラに手を出そうなどと考えるなよ」
釘を刺したつもりが逆に刺され、マイダードは目を瞬かせる。この男性がその手のことに口を出してくるとは、意外だった。
「何でだよ、恋愛は自由だろ?恩を着せるだなんて、別にそんなつもりはないぞ」
そもそも、最初に彼女を見つけたのは、アーゼンターラなのだし。
告げると、オルグァンはいよいよ呆れたように首を振った。
「お前は何もわかってない。お前にそのつもりがなくても、スラヴィエーラは負担に感じるだろう。あいつにとっておれたちは命の恩人、それは揺るぎない事実だ」
「はあ……」
「その恩人に迫られたら、たとえ本当は迷惑に思っていても、無下に断るわけにはいかんだろう」
酷い言いぐさである。
「旦那、ちょっとそれはあんまりじゃないか?なんで最初からおれが嫌われてる前提で話すんだ?」
マイダードが情けない顔をすると、オルグァンもさすがに言い過ぎたと思ったのか、軽く咳払いをする。
「いや、悪かった。おれも以前似たような思いをしたことがあってな」
「旦那が?」
「仕事でへまをやって、左谷芭とも引き離されて、行き倒れていたところだった。たまたま通りがかった地主の一人娘に助けられた。そこまではよかったんだが……」
その娘に妙に気に入られてしまい、一日のはずの滞在がずるずると延びて、最終的にはずっとここにいて欲しいと、結婚の話まで出たと言う。
「助けられた負い目があるから、こちらも邪険には出来なくてな……」
「……で、やっちゃったワケ?」
言い終わらぬうちに、げしっ、と頭に鉄拳が振り下ろされた。
「痛ってえ……」
頭を抱え、涙目で見上げる彼に、怒りで拳を震わせたままオルグァンが怒鳴る。
「浮城の名に傷をつけるような真似をするか!第一、おれは女なら誰でもいいというわけではない!」
よほど相手の女性が好みではなかったのだろう。思い出すのも煩わしいというような顔をしている男に、マイダードは深く同情し、同時にそれ以上の追及を許されなかった。
「おれだって、そうだよ。いい加減な気持ちで付き合いたいわけじゃ……」
スラヴィエーラの笑顔を思い浮かべる。あの表情を自分だけに向けてくれるのなら、浮城での生活がずっと楽しいものになるはずだ。
「なら、なおさらだ。お前が彼女を大切にしたいのなら、今は少し待てと言っているんだ。自分が何者かもわからずに、ぐらついているところに付け込むような真似は、男らしくない」
「う……」
男らしさの塊のような人物に言われてしまっては、ぐうの音も出ない。
「わかったよ。スラヴィエーラがちゃんと浮城で居場所を作ってから、正々堂々と気持ちを伝えればいいんだろ?」
かたり、と背後で音がした。
嫌な予感に振り向くと、そこには案の定、噂の張本人であるスラヴィエーラが立っていた。
どうやら扉が開いて、話し声が筒抜けだったらしい。
「あ……え、えーと。お茶を運んで来たんだけど、ここ、置くわね」
スラヴィエーラの手には盆があり、その上では陶器の器が湯気を昇らせている。
音もなく部屋に入って来た彼女は、近くの円卓にそっと盆を載せると、そのまま素早く身を翻した。
マイダードはしばし硬直していたが、やがてあることに気づいてオルグァンを見た。
「……空気が滞るから、扉を少し開けておけって言ったの、旦那だよな?」
斧を持つ破妖剣士は、悪びれもせずに応える。
「そうだが?」
「じゃあ、スラヴィエーラに、茶を運んで来いって言ったのは……?」
「もちろん、おれだ。さっきの打ち合いで喉が渇いたんでな」
オルグァンはしれっとした顔をしている。温厚な彼もさすがに殴ってやろうかと思ったが、今はそれどころではない。
マイダードはスラヴィエーラを追った。部屋を出る前に、彼女が淹れてくれた茶を飲んでおくことは忘れなかった。
スラヴィエーラの足は異常に速く、追い付くのに時間がかかった。
掴んだ腕は熱く、こちらから辛うじて見える耳が赤くなっている。
オルグァンの言う通り、自分たちは性急にことを進め過ぎた。彼女にしてみれば、突然慣れない状況に放りこまれたのだから、混乱するのは当然だろう。
「……離してよ」
本来彼は、女性が嫌がることはしない主義だ。
だが、今のスラヴィエーラに王宮内をうろつかれては困る。彼女の姿を誰かに見咎められたら、上手く説明が付けられない。
ラエスリールが安置してある部屋、自分たちの部屋。それに比較的自由に出歩ける中庭あたりは、蜜里の結界があるからどうにかなっているが……そこから先に、出すわけにはいかない。
「質問に答えたら離す。どこから聞いてた?」
美しい鳥を籠の中に閉じ込めるような苦い気分で、マイダードは問いかけた。彼女の自由を束縛する権利など、本来自分にはないのだ。
スラヴィエーラはしぶしぶ口を開く。
「オルグァンが女性に言い寄られて、やるだのやらないだの……」
最悪だ。
よりにもよって、一番聞いて欲しくないところを聞かれた。
暗澹たる思いにとらわれつつ、彼はどうにか弁明の言葉を口に乗せる。
「あのな、スラヴィエーラ。おれは何も……」
「仕方ないのよね。アーゼンターラの部屋で鏡を見せてもらったけど、わたしは他人から見て、割と美人に見えるみたいだし」
諦めを滲ませた口調が、マイダードを戸惑わせる。
ようやくこちらを向いたスラヴィエーラは、笑顔ではなく、どこかぎこちない、固い表情をしていた。
「若い美人が裸で倒れてたんだから、犯されてもおかしくなかった。それなのに、マイダード達にはこれだけ親切にしてもらってる。何かお礼をするのが礼儀だけど、わたしには何もないし……」
その固い表情のまま、スラヴィエーラは彼が決して望んでいない言葉を吐いた。
「身体で払えって言うんなら、断る権利なんて……」
「違う!」
彼は思わず怒鳴った。
そんなことは望んでいない。そんな、悲しそうな顔をさせたいわけではない。
質問に応えてくれたから、約束通り腕を放した。彼女もわかっているのか、再び走り出そうとはしない。
話を聞かれた以上、気持ちを隠しても無駄だろう。自分も、誤解されたままでいるのは耐えられなかった。
「おれは、ただ……スラヴィエーラが浮城に来てくれて、一緒に暮らせたら、楽しいだろうって……」
綺麗事に過ぎないかも知れないが、今は紛れもなくそれが、彼の本心だった。
「思っただけだから。お前が怖がるようなことは、絶対にしない。今までも……」
──これからも。
何かが彼の琴線に触れる。
子供の頃からずっと、彼女を傍で見守って来たのだ。今更、焦って彼女を傷つけるようなことは決してしない。
例え彼女が、他の誰を選んでも───否、何を選んでも。
その大きな瞳が、あの破妖刀だけに向けられて、決してマイダードを見つめることはなくても。
──キン、キン。
まただ、と彼は思う。
耳鳴りにも似た金属音──刃のぶつかり合う音。
耳を塞ぐ。そうだ、これは現実ではない。本当はずっと前から気付いていた。
「マイダード?」
黙ってしまった彼に、スラヴィエーラが心配そうに声をかけてくる。
「もしかして、具合が悪いの?大丈夫……?」
彼はかぶりを振った。
この音に耳を傾けてはいけない。聞こえない振りをしなくてはいけない。
近づいてくる温もりを彼は引き寄せた。今のうちに、スラヴィエーラに伝えておくべきだ。
この世界が、幻となって消えてしまう前に。
「大丈夫だ。そのまま、聞いてくれ」
──キン。
耳障りな音はいよいよ大きくなる。
脹脛に衝撃が走った。裂けた部分から血が噴き出す。
スラヴィエーラは気付いていない。そう、こちらが現実だ。彼が今見ているのが幻。
わかってはいても、マイダードは目の前の女性にどうしても伝えたかった。
こんな機会でもなければ、恐らく一生口にすることはできない、この想いを。
「おれは、子供の頃からずっと……」



言葉が終わらぬうちに、目の前に白刃が迫る。
ちっと舌打ちして、マイダードは一瞬で身をかわした。
胴体を薙ぎ払おうとする刃が、空振りして横に走っていく。
「スラヴィ!」
視界が一気に晴れる。
幻の中では、決して愛称では呼べなかった女性の名を──叫ぶ。
向かい合った相手は、自らの刃によって切り裂かれたマイダードの姿を見て、呆然としていた。
そしてそれは、マイダードにしても同じことだった。
スラヴィエーラの衣服は彼のナイフで無残に裂かれ、白い肌があらわになっていた。誰よりも大切な女性が、自分の攻撃で傷ついている。
だが、どちらかと言えば彼女は軽傷で、自分の方が流血しているのが癪に障る。無意識のうちに彼女に対して力を加減していたのだと、そう思わずにはやっていられなかった。
「マイ……ダード?」
夢晶結を握りながら、スラヴィエーラが呟く。
こちらが、現実だ。彼女は夢晶結の使い手で、護り手の未羽とともにこの任務についている。
マイダードの幼馴染みで、破妖剣士であることに、誰よりも誇りを持っている。
『──何を失っても惜しくはないのに!』
彼女もあるいは、自分と同じ幻を見ていたのか。
夢晶結との強い絆を求める彼女の想いが、あの幻を見せたのか。
金属音は、互いに刃を振るい続けていた音。腕や足の痛みは実際に斬られた痛み。
自分たちが戦うのをやめたことで、それも止んだ。
「そうだ。わかるよな?」
肩で息をしながら、マイダードは崩れかかった体勢を立て直す。
本物のスラヴィエーラが駆け寄ってきて、傷だらけの彼の身体を支える。
「ごめん……!わたし、どうかしてた!」
胸元がはだけているのも構わず、彼の脇の下に頭をくぐらせる。あまりその恰好で密着して欲しくはなかったが、拒む気力もない。
「こんなに近くにいたのに、気づかなくて、わたし──!」
伸ばされた右手が、ちょうどスラヴィエーラの胸のあたりに置かれている。そちらの感触が気になって仕方なかった。
「お前だっておれにやられてるだろ。平気か?」
「平気よ、このくらい。それより早く手当てを……」
──キン。
別の方角から、刃を交える音。
マイダードとスラヴィエーラの視線が、空中で絡み合う。
言葉は要らなかった。
互いに頷き合うと、二人は音の聞こえる方角に走り出した。
オルグァンとアーゼンターラ──共に戦う、大切な仲間のもとへ。






紫紺の妖主はどういう風の吹きまわしか、彼らに休憩所らしきものを与えてくれた。
アーゼンターラ、スラヴィエーラ、マイダード、オルグァンの四人は、しばらくはそこで身を休め、傷を癒すことにした。
引き離されてから、それほど時間が経ったようには思えない。それでも魔性に苦しめられる街の人々を思えば、のんびりなどしてはいられない。
再会の喜びに身を浸す間もなく、彼らは再び、戦いの場に赴かなければならなかった。
影糸術を操る紫紺の妖主──その配下である津々螺の幻影に、彼らは今の今まで苦しめられていたが、ここから先は更に厳しい戦いになるだろう。
「……じゃあ、ターラちゃんたちは本当にただ、戦ってただけだったのか?」
未羽の治療を受けながら、マイダードは後輩の少女に尋ねる。
オルグァンも、アーゼンターラも、互いを敵とみなして戦っていたらしいが、マイダードが見たような生活感のある幻覚は、一切見なかったという。
アーゼンターラの傷を癒す蜜里が、漆黒の双眸を陰らせながら告げた。
「そう。紫紺の妖主の配下は、光の屈折を利用した錯覚を作り出した、それだけのはずよ。でもマイダードの話だと、それは錯覚というより、より現実的な夢に近いみたい」
「夢……?」
言われてみれば、夢の中にいるような感覚だった。起きようと何度も思っていても、なかなか決心がつかないところも。
「夢の中に生身の人間を閉じ込める、と言うのは確か、翡翠の妖主の配下が得意とする術だったようだけど。まさか今回の事件に、関与しているとは思えないし……」
マイダードも話には聞いたことがある。
人間の夢を操り、相手にとって都合のいい夢を見せたまま、穏やかに死に至らしめる術──一。
「恐ろしいこと言わないでよ、蜜里。紫紺の妖主だけでも手一杯なのに、翡翠もだなんて、冗談じゃないわ」
スラヴィエーラが大仰にため息をつく。マイダードの良く知る、いつもの勝気な彼女だった。幻の中で見た、彼にとって都合のいい、『記憶を失った心細い女性』の姿は、もうどこにもない。
マイダードには、ひとつ気がかりなことがあった。肝心なところで告白をしそこなったのは仕方ないが、彼女はあの幻の内容をまだ、詳細に覚えているのだろうか?
実はマイダード自身も、記憶がおぼろである。恥ずかしいところを多々見せたような気もするし、出来れば忘れてくれた方がありがたい。
見つめていると、スラヴィエーラが近付いてきた。ぎくりとする間もなく、彼女はマイダードの隣に腰を下ろす。
「わたしも、記憶を失って、マイダード達に迷惑をかける夢を見てたわ」
「そ、そうか……」
頼むからこのまま忘れてくれ。
心の中で祈るマイダードの願いは、しかし今回ばかりは叶えられなかった。
「それで、最後の場面だけよく覚えてるんだけど」
スラヴィエーラは彼の腕をしっかりと捕まえて、迷いのない眼差しで言ったのだ。
「子供の頃から、何なの?はっきり言いなさいよ」


──終わり──



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