鬱金の間 合わせ鏡(マイスラ甘め)


鬱金完結後。全てが片付いた後、平和な世界。
マイスラがパライス夫妻と偶然出会って絡まれるだけの話。極めて短いです。

【注意】マイスラが結婚前提で付き合ってます。結婚前提です。(強調)
スラヴィが最後ちょいデレ入ります。





『新しい靴が欲しい』とスラヴィエーラが言うので、マイダードは買い物に付き合うことにした。紐のついた靴は戦闘には不向きだが、これからは彼と出歩く機会も多くなるだろうから──とは彼女の弁だ。
気が強く真面目な幼馴染みは、彼が口を挟むまでもなく、妻と言う仕事を完璧にこなそうとしている。
嬉しい反面、彼女のそれまでの生活を変えてしまえるほどに、自分は価値のある男なのだろうか……ということも、たまに考えてしまう。
「スラヴィ」
熱心に商品を選んでいる恋人の背に、彼は語りかけた。
「なによ」
「結婚したからって、急におれが偉くなるわけでもないんだし、今まで通りでいいんだからな」
「そういうわけにもいかないわよ。マイダードにはもっとしっかりしてもらわないと」
「……しっかり……」
と言われても、具体的に何をすればいいのやら。
浮城の人間同士の婚姻となると、上層部があれやこれやと──主に子作りについて──口を出してくるわけで、その煩わしさを避けるため、ぎりぎりまで隠し通そうと言うのが二人で出した結論であった。
取りあえず現在の「しっかり」は、彼女の買い物を手伝うことだ。
人ごみの中、誰かと肩がぶつかり、マイダードが持っていた荷物が床に落ちる。
「失礼」
男はよほど急いでいるのか、謝罪もそこそこに足早に去って行った。
ふと気付くと、足元に財布らしきものが落ちていた。恐らくあの男が落としていったのだろう。雑踏に紛れてその姿は小さくなっていたが、彼の脚力なら今から追えば間に合うはずだ。
「届けてあげた方がいいんじゃない?」
スラヴィエーラは背中で告げる。いつも通りの姉ぶった物言いに、彼は内心嘆息した。
「……すぐ戻るから、いつもの場所で待ってろ」
「はいはい」
マイダードは一度だけ振り向いたが、婚約者は靴を選ぶのに夢中で、こちらを見ようともしていなかった。



「だから付けにしてくれと言ってるじゃないか!」
「そう言われてもねえ、今までの支払いもたまってるし……」
男を探すのは思いのほか時間がかかり、入った店で、男は既に食事を済ませてしまったらしい。
案の定、財布がないのに気づいて酒屋の主人と揉めていた。
「この財布、あんたのだろ?」
近づいて背後から話しかけると、男は緩慢に振り向いた。
「さっきの……」
ぼんやりしていた男の目の焦点が合う。ややあって、彼の手から財布をひったくるように受け取った。
血走った目で、執拗に中を改める。やや傷つく反応だが、男のみすぼらしい恰好を目にしては、腹を立てる気にはなれなかった。男はマイダードと同じ年頃の子供がいてもおかしくない年齢に見えるが、繕ってくれる相手もいないのか、衣服のそこかしこに穴が開いていた。
「ありがとう、おかげで助かったよ。お礼に一杯だけでも奢らせてくれないか」
社交辞令であることはわかっているので、マイダードは首を横に振った。
「いや……連れを待たせているので」
浮城の人間は、市井の誰かに奢られるという機会があまりない。ましてやこの男の貧しそうな身なりと今の行動を見ると、金銭に余裕がある生活だとはとても思えない。ここは本音を察して、断るのが礼儀と言うものだろう。
しかし、マイダードの言葉を聞いた途端、男の顔が微かに歪んだ。
「連れと言うのは、さっき一緒にいた女性のことかい。綺麗な娘さんだったね、お似合いだ」
「はあ……」
「ただ、聞こえていたが、君にあれこれと意見していただろう。ああいう気の強い態度はどうかと思うよ。結婚を考えているのなら相手は慎重に選ぶべきだ」
大きなお世話以外の何物でもない。
彼は店を出ようとしたが、悪いことに新しい客が次々と入ってきて、あっという間に通路は塞がれた。
「主人、この青年に蒸留酒を」
マイダードは袖を引かれ、無理やり椅子に座らされた。ややあって出てきた酒は美しい色をしていて、一目で上物だと分かった。
居酒屋の主人と目が合う。すまないね、彼は酔うといつもこうなんだ。目がそう告げていた。
恐らくこの酒は主人の厚意で、男に料金は請求されないだろう。マイダードは仕方なくグラスに口をつけた。思いのほか美味い酒だった。
「まあ聞いてくれ。私の妻も若い頃はそれは美人で、しかも富豪の令嬢だったんだ」
何やら、財布を拾った礼と言うよりは、愚痴をこぼせる相手を見つけた、とばかりに食らいついてきたように思える。
「それが今では化けの皮が剥がれたと言うか、態度は年々大きくなるし、甲斐性なしと、尻に敷かれる毎日だよ」
彼は沈黙を守っていた。気の毒だがよくある話なので、意見の挟みようもない。
「結婚したら女は豹変する。気をつけた方がいい」
豹変も何も、スラヴィエーラは昔からずっとあんな感じだ。
「……お前さんは、相手が美人だから妻に選んだのか?」
尋ねると、男は不思議そうな顔をした。
「容姿は大事だろう。君だってそうじゃないのか」
「おれは別に……。子供の頃から知ってるってだけで」
「子供、か……」
男は何か痛い記憶をたどるように、遠い目をした。
「昔ね、同情で引き取った子供がいたんだよ。思えばあの子を連れて来てから家庭がめちゃくちゃになった。妙な親切心など起こすものではないね」
「子供?」
「うちだって経済的に恵まれていたわけではないのに、父が孤児を拾って来たんだ。妻はそれに怒って家族に当たるようになり、そのうち母親も死んでね」
不穏な流れに、マイダードは眉を寄せた。
「……その子供は?」
男の愚痴などどうでもいいが、幼い魂が不幸な目に遭うのは胸糞が悪い。
「妙に食いつくな。君は、子供が好きなのかい?」
男は自嘲するように口元を歪ませた。
「うちには、とうとう産まれなかった。多分、あの子を見捨てた罰が当たったのかな……」
男は結局、マイダードの質問に応えることなく、赤い顔をして酔い潰れてしまった。
相手が動かなくなったのを見計らって、彼は席を立つ。逃げないようにしっかりと袖を掴まれていた指を、一本ずつはがして離れ、会計を済ませた。
「常連が迷惑をかけたようだね、兄ちゃん」
主人が苦笑いしながら告げる。
「いや……八つ当たりされるのは慣れてるんで」
ある女性の顔を思い浮かべる。それでも、自分だけに心を許してくれるのが伝わってくるから、別に嫌ではない。
「あの人の言うこともわかるんだがね。いわゆる自業自得ってやつだ……夫婦は合わせ鏡、って昔から言うだろう。相手のすることが気に入らないのは、自分の嫌な部分を相手に見ているからだと」
「合わせ鏡……」
では、自分と彼女もどこか似通った部分があるのだろうか。スラヴィエーラと似ているなどと言われたことも、思ったことも一度もないが。
彼女のどこが好きかなど、具体的に考えたことはあまりなかった。
幼馴染みで良く知っているという安心感、いわば惰性、なのだろうか?年頃になり、手近な相手で手を打っただけなのだろうか。
そんなつもりはない。彼女のことはちゃんと好きだ。だが──。
相手も同じ気持ちでいてくれるとは限らない。これから先もずっと。
もやもやした、嫌な気分を引きずりながら、マイダードはスラヴィエーラが待っている店へ急いだ。



マイダードとよく行く居酒屋に、スラヴィエーラは一人で立ち寄った。
既に顔馴みである店主が、いらっしゃい、と愛想よく迎える。
浮城の人間は金払いがいいので、どこへ行っても歓迎される。彼女たちが進んで身元を名乗ったことなど一度もないが、わかる人間にはわかってしまうのだろう。
「ここ、座ってもいいかい?」
スラヴィエーラが選んだ席の隣では、見慣れない中年の女が酔い潰れていた。声をかけても、こちらをちらりと見ただけで返事もしない。
四十も後半くらいだろうか。手入れを怠っているのか肌の艶は悪く、髪も荒れている。
女はここの常連らしい。店主が心配そうに頭上から声をかける。
「奥さん、すまないね。このお嬢さんがあんたの隣に座りたいって。少し詰めてくれないか」
「んう……うるさいわねぇ……あたしが先客なのよ……」
スラヴィエーラは他に空いている席を探したが、生憎すべて埋まっていた。マイダードが戻ってくるまでの辛抱だと、女の隣に腰を下ろす。
「確かにあんた、飲み過ぎだよ。旦那がいるんならそろそろ家に帰った方がいい」
黙っているのも間が持たないので、話しかける。
女の傷んだ髪には、酒の匂いが染みついている。どれほど長くこの場所にいるのか知らないが、自分のような親切な客ばかりではない。
「金は払ってるんだから文句を言われる筋合いはないわ!」
女が顔を上げて、きっとスラヴィエーラを睨みつけた。昔はそれなりに美人だったのだろうと思わせる、険のある顔立ちだった。
「なによ、まだ小娘じゃない。目上に向かってその口のきき方は何?」
年上と言うだけで、彼女より地位が上だと思い込んでいるかのような口調であり、態度であった──しかし、女の自信には根拠があったのだ。
「気に障ったなら謝る。でも、最近は柄の悪い連中も多いから……自分の身を自分で守れない人は、あまり夜遅く出歩かない方がいいって話」
スラヴィエーラは身体が温まる程度の安い酒を注文した。ちらりと女の卓を見ると、下げられていない皿が大量に積まれている。
「はっ。あんたは自分を守れるって言うの!?」
卓を拳で叩く。店主が急いで皿を片づける。女が食べて飲むそばから次々と注文するので、なかなか片付かないようだった。
「それなりにはね。少なくとも呂律が回らなくなるまで飲んだりしないよ、戦えなくなるから」
「……お待ちどう」
店主が丁重な手つきでスラヴィエーラの前に酒を置く。大丈夫かい?というような目つきで、彼女を心配そうに見ている。
彼は元傭兵で、引退した後この店を開いたと聞く。だからスラヴィエーラの纏う気配にも、最初から気づいているのだろう。
「戦うって、何と戦っているのよ。まさか魔性とか言わないでしょうね」
一方、真贋を見抜けぬ女は彼女の発言を鼻で笑い、グラスに残っている酒をあおった。
「まさか、ね。浮城の人間がこんなところに来るはずがない。たんまり金もらって、魔性の手も届かないお空の上で、安全に生活してるんだから」
「……」
「あたしの血筋がなんだかわかる?なんと、貴族よ。本来なら、あんたなんか口を利くこともできない相手。旦那と一緒になりさえしなければ、こんな貧乏生活を送ることもなかったのよ」
耳に入れる価値のない、愚痴だった。
スラヴィエーラは静かにグラスに口をつける。黙って飲んでいても、女の不躾な視線が突き刺さるようだった。
「ちょっと聞いてるの!?あたしほど不幸な女もいないわよ。幸せにする、だなんて言葉に騙されて嫁いだら、とんだ貧乏所帯で、舅姑の世話をさせられるわ、住んでた街が魔性に襲われるわ、引越しの後は各地を転々として……旦那が甲斐性なしのせいで、しまいにはこんな場末の酒場で飲むしか楽しみがなくなるなんて!」
聞くに堪えない。スラヴィエーラは静かに告げた。
「自分で選んだことだろ?」
「うるさい!」
バシャ、と冷たいものが顔にかけられた。女がグラスの酒を彼女に浴びせかけたのだ。
ざわついていた店内が、沈黙に包まれた。濡れた髪から、滴が垂れて落ちる。
スラヴィエーラの正体を知っている店主の顔色が変わる。二人の女が暴れて、店内が荒らされる──そんな筋書きを、一瞬で思い描いた顔だった。
しかし、スラヴィエーラはにっこり笑って店主を見た。
「騒がせてごめんなさい。お会計、ここに置くわね。この人の分も」
財布から紙幣を数枚出し、卓の上に置く。それを見た瞬間、女の目つきが変わった。
「あんた……」
スラヴィエーラの方に視線は向けながらも、女の手はごく自然に動き、卓の上に置かれた紙幣を固く握り締める。
「突き返さないのかい?」
顔から水滴を滴らせながら、スラヴィエーラは笑う。
「元貴族としての誇りがあるのなら、そんな紙切れは、わたしの顔面にでも叩きつけるはず。でも、それはしないだろう?」
「な……」
女の顔が引きつる。反論の言葉は、不発に終わった。
青ざめた唇が、怒りに震える──しかし、それ以上の暴力はなかった。
「お金だけはしっかりと掴んで、浴びせられるのはせいぜい罵倒と水だけ。ここまで情けない女にはなりたくないね」
スラヴィエーラは荷物を掴み、椅子から立ち上がった。
「過去の夢に浸るのも、ほどほどになさい。早く家に帰らないと、旦那さんきっと心配してる」
靴を抱えて、出口へ向かう。奥に引っ込んでいた店主が、布を持って慌てて出てくる。
「お客さん、今拭くものを……」
「いらないよ。じきに男が迎えに来る約束だから」
呆然としている店主と女を置いて、スラヴィエーラはきい、と店の扉を押した。

外に出ると、そこには見慣れた長身の青年の姿があった。壁に背をもたれたマイダードが、肩を震わせて笑っていた。
刺青のマイダード──捕縛師であり、彼女の幼馴染みであり、今は婚約者でもある。
「いやー、さすがスラヴィ姐さん。オトコマエすぎて痺れちゃう」
「……見てたんなら助けに入りなさいよ」
不愉快を隠そうともせずに言うと、マイダードは肩を竦める。
「お前なら、余裕で撃退すると思って。実際おれの入る隙なんてなかったしなぁ」
信頼しているのだと言わんばかりの態度が癇に障る。婚約者が酷い目に遭ったと言うのに、その感想はあんまりではないだろうか。
「どうだか……。内心いい気味だって思ってたんじゃないの?」
日頃から尻に敷いている自覚はある。子供の頃からの習性なので今更治るものでもないが、彼が嫌だと言ったのなら改善する努力程度はしてやってもいい、とスラヴィエーラは思っていた。
しかし、犬の真似をさせても、上に乗っても、不本意なことで八つ当たりをしても、マイダードはそれに関して迷惑そうな顔はしても、嫌だと言ったことは一度もなかった。
だからスラヴィエーラは彼に甘えてしまうのだ。彼が選んだことなのだから彼の責任だ、自分は悪くない。
そう結論付けて、スラヴィエーラは彼を見上げた。
睨みつけていると、マイダードは苦笑しながら腕を伸ばした。濡れた彼女の両頬にそっと手を添え、指先で滴を拭ってくれる。
「そんなことないって」
大地の色をした瞳が、珍しく真剣な光を宿している。いつもこんな顔をしていればいいのにと感じつつも、それは自分の好きなマイダードとはちょっと違う、とスラヴィエーラは思い直した。
「実は、さっきまで少し嫌な気分だったんだが……」
瞳が少し陰る。
「何か、あったの……?」
財布を届けたら、逆に泥棒扱いされたとか?ありがちな話ではあるが。
「大したことじゃない。スラヴィの啖呵見てたら、そんな気持ちはどこかに吹き飛んだし」
話したくないことは無理に聞き出さない。それが彼らの暗黙の了解だった。
「お役に立てて良かったわ。でもそんな、いつも怒ってるみたいに言わないでくれる?わたしだってマイダードがそんなのほほんとしてなきゃ、腹を立てる回数は減らせるわよ」
「そのままでいい。スラヴィが笑ったり怒ったりしてるのを見るのが、おれは大事なんだ」
よくわからないことを言いながら、彼は笑う。
「お前が一発でも殴られてたら、相手を椅子ごと潰してた」
「……女でも?」
「うん」
おれは、お前以外の女なんて──。
マイダードの前髪が額に触れた。頬に触れた手が、滑るようにして落ちて頤を持ち上げた。続いて、こつん、と額がぶつかる。
調子に乗って近づいてくる顔を、スラヴィエーラはむんずと片手で鷲掴みにする。
「痛い痛い痛い!もうしませんごめんなさい」
林檎を潰すだけの握力が加えられた口が、悲鳴を上げた。人前で迫られるのも嫌だが、もうしないなどと言われては、それはそれで腹が立つ。
彼の口を押さえていた手を放すと、くしゅん、と今頃になってくしゃみが出た。酒が首筋を伝い、胸に染みを作っていた。
「どこかで着替えないと風邪ひくぞ。待て、今おれの上着を……」
「いいわよ、どうせすぐ脱ぐんだし」
「え………」
スラヴィエーラは着替えと靴の入っている鞄を持ち上げた。
「言ってなかったっけ?今晩はこのあたりに泊まるの。先日、よさそうな宿を見つけたのよ。外泊許可は二人分もらってあるから」
「聞いてない」
「じゃあ言い忘れてたのね、悪かった。でも、もう暗くなって来たわよ。マイダードが嫌なら、別にこのまま浮城に帰ってもいいんだけど、どうする?」
「一泊します……」
神妙な顔で答えるマイダードに、彼女はぷいと背中を向けた。
「なら、最初からそう言えばいいのよ。宿はこっちだから、ついて来て」
スラヴィエーラは濡れた服のまま、すたすたと歩き出した。
背後で、本当にオトコマエだなあ……とぼやいている声が聞こえる。
男前。
皆、口を揃えてそう言うが、馬鹿にしないで欲しい。スラヴィエーラにも、女性としての恥じらいはある。
早く彼と二人きりになりたい。往来でああいうことをされるのが苦手なだけで、誰の目も届かない密室ならば嬉しいし、問題はないのだ。
『お前以外の女なんて──』
どうして、そう恥ずかしいことを、言おうとするのだろう。
追い付かれないよう、速足で歩く。触れられた頬が赤くなっているのを、とりあえずマイダードには見られたくなかった。



──おわり──



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