鬱金の間 二人きり(マイダード&モブ女性)


夕方から降り始めた雨は、深夜になっても止む気配を見せなかった。

雨が、足音や息遣いを消してくれるのがありがたかった。
マイダードは負傷した腕を押さえながら、仲間たちと落ち合う場所に向かっていた。
こんなはずではなかった。当初の予定では、とうに依頼を終えて帰途についている頃だった。小鬼の集団と聞いていたから、油断していたのかも知れない。
まさか、村を襲っていた小鬼の影に、彼らを束ねている妖鬼がいたとは。
人によく似た姿を持つ妖鬼は、浮城の護り手たちを遥かに凌ぐ実力の持ち主だった。純粋な戦闘能力だけで言えば、妖貴にも引けを取らないかも知れない───もっとも、マイダードは上級魔性と戦ったことはないから、これは憶測に過ぎないが。
ともあれ、捕縛師たちに配下の命を奪われた妖鬼は、怒るどころか嬉々として襲い掛かってきた。久しぶりに歯ごたえのある獲物だと、表情が物語っていた。
捕縛師数人がかりで、何とか相手に深手を負わせたものの、敵の追跡を逃れるうちに道に迷ってしまった。
散り散りになって逃げる際、背後であがった複数の悲鳴が気がかりだった。
頼む、と彼は祈った。待ち合わせ場所に、一人でも多くの仲間が集まっているように。出来れば全員無事でいて欲しい。
雨を振り切るように洞窟の中に飛び込んだ彼は、すぐにその考えが甘かったことを知る。
この場所で間違いない。間違いないのに、暗闇の中で蠢くものは無数の蝿だけだった。死臭を嗅ぎつけて、集まってきたのだ。
むっとした臭気が鼻を突いた。かつて仲間であった生き物は、折り重なる死骸の山と化していた。千々に引き裂かれた肉体は物言わず、ただ虫のたかるのに身を任せている。
倒れそうになるほどの吐き気を堪え、辛うじてその場に踏みとどまった。何人無事なのか、確かめなければいけないのに、死体の損傷は激しすぎて、誰の体か判別がつかない。
「……う」
蝿の羽音に混じって、かすかに女の呻き声が聞こえた。マイダードはぎくりとして身を強張らせる。血にまみれた肉の隙間から、細く白い指が覗いた。
「う、うう………」
死体の山を押しのけるようにして、若い女が姿を現した。衣服は破れ、裸の肩口から胸にかけて、大きな傷が走っている。
一瞬、誰なのか見分けがつかなかった。服や化粧を変えれば別人という例は多いし、死体の山から現れた女を仲間と認識するのは、かなり難しい。
女はマイダードの視線に気づくと、死体の一つから衣装を剥ぎ取って、そそくさと身に着けた。裸を恥ずかしがるような性格でもあるまいに、と思っていると、女は胸の谷間を隠し、媚びるような笑みを見せた。
「ふふ………」
この女がマイダードという人間に特別な感情を抱いていることは、出会った時から知っていた。
彼には子供の頃から想っている女性がいるし、不快でしかなかったから、一緒に行動していた仲間には、その事について何も言わなかった。この女にも優しい言葉など一切かけなかった。名前を覚える気すらない。
「生き残ったのは、私達二人だけみたいね」
凄惨な光景を気にもせずに、女は言った。この状況で笑えることが、彼には信じられない。
「そうだな」
敢えて感情を押し殺した声で、マイダードは告げた。
「他の連中は……?」
聞くまでもなかった。女は首を横に振る。そうか、とマイダードは呟いた。手で顔を覆い、大きく息を吐く。
もっと早く目的地に着いていたら、とも思ったが、実際間に合えばどうなるというものでもない。
敵は強い。いや、『強かった』と言うべきか。通常の状態であれば、死体がひとつ増えるだけのことだ。
「ちょっとぉ」
不満そうな声が耳を刺した。
「もっと嬉しそうな顔をしたらどう?せっかく助かったのに」
この状況で喜べることが───以下略。
しかし、女の怪我の具合だけは、念のため確認しておかなければならない。
恐怖はまだ残っているが、少しずつ理性が戻ってきた。生き残るために彼がしなければならないことは、一刻も早くここを離れることである。
「あんたは動けるのか?」
慎重に尋ねると、女は不意に顔を険しくした。
「動けるわけがないでしょう。あなたのせいよ!」
それまでの好意的感情を放り投げたような八つ当たりっぷりに、マイダードは目を見開いた。まるで、彼が彼女に直接、危害を加えたかのような言い方であった。
「……おれは、あんたをほっぽって、一目散に逃げただけだぞ?」
情けない事実を、ありのままに口にする。守ってやる道理などないし、自分の命が一番大事なのだから、敵わない相手には素直に負けを認め、逃げる。浮城ではそのような教育を受けており、彼は教えに忠実に従っただけだ。
「深手を負ったのは、あんたが未熟な証だろ。人のせいにされても困る」
未熟という言葉に、女の顔色がさっと変わる。戦いに身を置く者としての誇りを、汚されたとでも思っているのか。
これ以上無意味な会話を続ける気はない。相手が本当に動けないのを確認して、その場を離れようとした途端、女のヒステリックな声がかかる。
「どこに行くの?」
わかりきったことを聞いてくれる。マイダードは振り返って答えた。
「依頼主のところへ、報告に……浮城の人間は全滅した、おれたちでは手に負えない……と」
息が途切れがちになる。女は鋭い視線をマイダードに向け、二人きりであることを強調するように、両手を大きく広げて告げた。
「全滅はしていないと思うけど?」
相手の言いたいことは、よくわかっていた。正確には全滅ではないが、『この状況』で何が出来るというのか。
無防備に背中を向ける。後をついてくるかと思ったら、女は苦しげにその場にくずれ落ちてしまった。
見た目には、自分よりも女の体の損傷の方が激しい。だが今の動きを見るまでは、にわかには信じられなかったのだ。女がマイダードの気を引くために、嘘をついている可能性もあるのだから。
「本当に動けないようだな」
抱きついてくるのを避けるため、マイダードは少し間隔を開けて女の前に立つ。少し良心が咎める自分は、我ながらお人好しだ。彼女は、仲間の死を前にしても、眉一つ動かさない女なのに。
「だから……さっき、から、そう言ってるじゃない」
苦しげな女の瞳に、女を置いて再び逃げようとしているマイダードの姿が映る。
白い指が伸びて、こちらの袖を掴もうとしてくる。それは大好きな女性にだけ許された特権で、この女に許してやる気はなかった。身を引くと、女は悲しそうに瞼を伏せる。
「ねえ、どうして私を置いていくの?」
またしても、わかりきった質問───答えるのも馬鹿らしい。それでも、彼は親切に答えてやった。話している間は少なくとも『大丈夫』だからだ。
「こいつらには優しいのに、私には最初から冷たかった。ひどいわ、私の気持ちは知っているでしょうに」
「嫌いだからな」
彼はきっぱりと答えた。同情も哀れみも感じられない声音だった。
「それに、あんたの言う好きとおれたちの言うそれとは違う。わかるだろう?」

洞窟を出ると、まだ降り続いていた雨が頬を濡らした。
女は追って来ない。彼は、仲間の形見である護符をしっかりと握り締めて、その時を待った。
依頼人の落胆と軽蔑の眼差しを甘んじて受けるのも、生き残った者の務めである。本来ならその足で任務失敗の報告に行くことも出来た。だが、彼にはまだ微かな希望が残されていた。他の捕縛師たちには持ち得ない、本当に微かな希望が。
死んでいった彼らのために、マイダードは洞窟の外で準備をしながら、その時を待った。葉や枝の隙間から落ちてくる雨粒と、冬の山特有の冷気が、体温をゆっくりと奪っていく。
女は恐らく、マイダードが依頼人の元へ向かったとは思っていない。傷が癒えれば、洞窟から出てきて彼を探すだろう。
孤独な雨宿りは長時間続いた。止血した腕の傷が、ずきりと疼いた。寒さに意識が遠くなりかけた頃、女の甲高い悲鳴が耳を打った。
「出して、出してよ!!」
術が成功したことを確信し、マイダードはようやく安心して息を吐いた。その白い息は、彼が生きていることと、一流の捕縛師であることを証明している。
彼は洞窟の入り口に近づいた。女は姿を見るなり血相を変えて駆け寄ってきたが、見えない力に遮られて尻餅をついた。
「どうして!?出られない、出られないわ!!」
恐慌状態に陥る女を冷たく見下ろし、彼は言った。
「結界を張ったからな。あんたの力が弱まってて、助かった」
彼女に───いや、この『妖鬼』に深手を負わせた仲間に、マイダードは心から感謝していた。
自分ひとりで封じられる相手ではない。だからこそ、自分の不甲斐なさ含めて、目の前の存在が許せない。
喩え戦いの最中、目と目が合った瞬間に、相手に惚れられたことを確信したとしても。彼女に媚びへつらえば、自分だけでも助かることは、頭で理解していても。
彼はこの女が許せなかった。配下の小鬼たちを見殺しにし、仲間を惨殺した魔性の女に、どうして好意など抱けるものか。
「ひどい!あなたのこと、気に入ったから……あなただけは助けてあげようとしたのに!!薄情者っ!!」
女が、もはや悪鬼そのものの表情で喚く。気に入ったと言いながら、結界を解けば迷わずマイダードに襲い掛かるであろうことは、たやすく想像がついた。
相手の好意を踏みにじっても、自分のそれが踏みにじられる可能性など、微塵も考えていないらしい。
村人を襲っていた小鬼は、確かに悪だった。だが最終的には、主であるこの女を庇って封じられていった。それが当然だと信じ、悲しみもしない相手に、思いやりの大切さをいくら説いても、ザルに井戸水を注ぎ込むようなものだ。
だから彼は告げた。閉じ込めた敵に向かって。
「二人きりになった時に殺さなかったのは」
腕の痛みを堪えながら、彼は片手をすっと上げた。
「おれを従わせてから殺したかったからだろう。本当に、趣味が悪い」
女はマイダードとの会話を愉しんでいた。まるで、昔からの仲間のように。敵対する相手の死より、自分を崇拝している相手の死に酔う───女の歪んだ性格を、彼は見抜いていた。
同時に、救いようがないと思った。真に罪なのは相手の命を奪うことではなく、心を弄ぶことなのかも知れない。
「その性癖が、命取りになったな。悪いがおれは、おれの仕事をさせてもらう」
「ひ………」
女の顔が引きつる。先程までの自信に満ち溢れた表情が、今はない。
「やめて、封じないで!こんなに美しい私を、どうして要らないと思うの!?」
人間によく似た姿で男を誘惑し、その血肉を啜ってきた女。下級の小鬼を従わせて悦に入っていた女。それが、初めて自分の誘惑が通じない男を目の当たりにして、酷く混乱している。どんなに皮一枚が美しくとも、血の匂いがする女の誘惑に負けるほど、浮城の男は甘くはない。
───と言いたいところだが、前例がいくつかあることを、彼は知っている。恋愛は自由、確かにそれも一理ある。だが子供好きの彼としては、魔性との間に産まれる子供の事を考えろ、と声を大にして言いたい。
他の誰かを傷つけるのなら、多少は遠慮するのが人間ではないのか。自分たちの恋だけに溺れて周囲に迷惑をかけるのでは、理性を失ったただの獣と変わらない。
「魔性だからだ」
それが、答え。彼は人の温もりを知っているから、魔性の女に恋する事はない。
手の甲の刺青が、女の肉体から魂を引き剥がし、封印した。





「また生き残ったの?ガンディアの時といい、あなたって本当に悪運が強いのね」
帰還早々、そんな憎まれ口をきくスラヴィエーラの目は、赤かった。マイダードの一行が依頼先で運悪く大物の妖鬼に当たり、生還は絶望的という噂を聞いて、夜も眠れずにいたらしい。
彼の方も、仲間の埋葬や事後処理で疲れ果て、浮城に帰る頃には見事に熱を出していた。
「これに懲りたら、今度こそわたしを連れて行きなさいよ。わたしの実力はとっくにあなたより上なんだから、わかってる?」
スラヴィエーラはそう言って、手拭いを絞ったり氷嚢を作ったりしながら、枕元から離れようとはしない。そのくせ、触れようとすると手が熱いと言って嫌がる。どこまでも残酷な女性だ。
「あと、こういう時に面倒みてくれる恋人も、早く作らないとね。マイダードはもてないから」
真実を知らない彼女は、何かと人を馬鹿にしてくれる。自分の方こそどうなのだ、とは、彼女の辛い過去を知っているだけに何も言えなかった。
好かれることが幸せとは限らない。大事なのは想いの質である。
「おれだって、女に告られたことぐらいはあるぞ」
苦し紛れに、マイダードはそう答えた。スラヴィエーラが身を乗り出してからかう。
「へえ。どこの妖鬼?」
「………」

彼は答えられない。
なかなかの美人だったし、名前ぐらい聞いてやっても良かったか、と思わないでもなかった。



──おわり──




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