書庫 黒と銅(アーヴィヌス×カガーシャ←セスラン)


・アーヴィヌスと出来てるカガーシャにセスランがちょっかい出す話
・原作ではこの二人には何の接点もありません。「前線を退いたカガーシャが浮城に留まっていられるのは、上層部の誰かと通じているからでは?」という下卑た妄想から思いついた捏造カプです。
・後朝シーンあり


大丈夫そうな方はどうぞ↓



古傷が疼いて眠れぬ夜には、昔のことを思い出す。
忘れたはずなのに──否、心は忘れたつもりでも、体は未だにあの時の衝撃を記憶している。
間近に迫った魔性の爪と、同僚の悲鳴と……血の匂い。
視界を染める深紅が自分のものだと気づくのに、しばらく時間がかかった。
治せるか、と尋ねた際に、悲しそうに首を振った時の護り手の表情が、今も目に焼き付いている。
足が、疼く。
白く滑らかな肌には今は傷一つないように見えるが、その下の神経は麻痺し、以前のように動くことはない。
この傷を負った日から、彼女の日常は大きく変化した。友人たちの態度の推移も、あれほど親しかった護り手との距離も。
彼女は、自ら護り手に別れを告げた。
この傷を治せぬことで自らを責め続ける、護り手の顔を見ていたくなかったから。
地上に彼女の居場所はない。だから、浮城に残ることにした。
捕縛の術を自在に揮えない彼女が、ここで出来ることは限られている。
それでも彼女は笑顔でいることを選んだのだ。
微笑みを絶やさぬ相手に、魔性は悪戯に手を伸ばすことはない。そう教えてくれたのは──。


「あら、失礼」
身を起こした際に、相手の体に挟まった髪を、カガーシャは丁重に抜き取った。
真っ直ぐで長い黒髪は、自分でも気に入っているのだが、こういう時には邪魔になる。前線を退いて久しい彼女のそれは常に手入れが行き届いており、浮城の女性陣の羨望の的だった。
それほど見事な髪でも、抜け落ちた瞬間に、何の価値もないものへと変ずる。横たわる男の返答がないのをいいことに、彼女は一人言のつもりで、小さく呟く。
「……髪、切ろうかしら」
「駄目だ」
くぐもった声が返ってくる。
寝所から伸びた男の手が、弱弱しい仕種で彼女の髪の一房を掴んだ。
やはり、起きていたらしい。反応が鈍いのはいつものこととして、掴んだ手がすぐに力を無くして落ちていくのに、カガーシャは笑いを洩らした。
「まだ寝てらして、アーヴィヌス様。昨晩もお仕事が大変だったんでしょう?」
城長と呼ぶにはあまりにも威厳が足りぬその痩躯には、そこかしこに疲労と老いの影が見える。細い背中に軽く口づけて、彼女は上下に着替え始めた。
「……れ」
「はい?」
意地悪く聞き返してやると、相手は口ごもった。
立場が上なのだから、もう少し堂々としていればいいものを。そんなことだから下の者に舐められるのだ。
「どうしました?今日はもうお相手できませんわよ?」
にやにやと笑いながら、年上の男性を覗き込む──こんな時、自分が酷く愉しげな表情をしていることに、彼女は気づいていない。
「君の髪は、気に入っている。切らないでくれ」
顔を伏せたまま、男性がぼそぼそと洩らす。自信のなさげな口調に、不思議と癒される。絡まるたびに鬱陶しい思いをしているのは彼も同じなはずだが、何故かそのことでカガーシャを責めた試しはない。
束ね直した、長い黒髪。こんなものに、それほどの価値があるのだろうか。しかし少なくとも、彼に声をかけられた理由は他に思いつかなかった──悔しいことに。
自分が不美人の範疇に入るとは思っていないが、生まれてこのかた恋人と言うものがいた試しがないのだ……外見以外に原因があるとしか思えない。それに、美人と言うのなら浮城には他にも大勢いる。なぜ自分なのか、と問われれば非常に根拠に乏しいのは確かだ。
「まあ、そうおっしゃるなら……」
老いたりとはいえ、一応は浮城の長である。その気になれば女性などいくらでも……と、思いを巡らせたカガーシャは、枕元の時計を見てふと我に返った。
「いっけない!急がないと朝ごはん食べ損ねちゃう!」
甲高い声に、城長が辛そうに身を捩る。慌てて口元を抑えると、彼女は扉まで後退した。
「それじゃあ、私はこれで帰りますね。また何かありましたらお呼びください」
扉をほんの少し開き、廊下に人が通らないのを確認する。どこかの窓が開いているのか、早朝の涼しい風が頬をくすぐった。
「すまなかった……また、頼む」
「はいはーい。じゃ、アーヴィヌス様はごゆっくりー」


──まただ。
足の腱から伝わってくる鈍い痛みに、カガーシャは顔を顰めた。
ここ数年、痛みは治まっていたと思ったのに、数日前からまた騒ぎ始めた。
匙を握る手が震える……知らず、虫歯を堪えるような表情になっているのがわかる。
アーヴィヌスとの情事のせいではない。彼はいつもカガーシャの足を気遣ってくれるし、乱暴な行為などした試しがない。
では、なぜ……同僚に聞いたところ、古傷が疼くのはよくあることらしいが、『この場合』は明らかに違う。
精神的なものもあるのだろうか?心はうまくごまかしているつもりでも、体は正直に反応する。自分でも知らないうちに葛藤を溜めこんで、それが体に反映されているというのか?
「心当たりなんて……ないわ」
文字通り匙を投げて、カガーシャは天井を仰いだ。
確かに、この数年で魔性絡みの騒ぎが増えて、浮城の人間は忙殺の日々を送っている。しかし彼女のような非戦闘員にはあまり関係のない話で、仲間に申し訳なくなるほど安穏な生活をさせてもらっている。
一方で、いつまでこんな生活が許されるのか不安ではあったが──極秘の愛人ができたことで、その悩みもひとまずは解消した。浮城の長を絡め取った彼女の安泰は約束されている……それこそ、アーヴィヌスが失脚でもしない限り。
「私ってもしかして悪女の素質ある?」
痛みを紛らわすため、笑えないことを呟いてみる。思いがけず、背後から反応が返って来た。
「ほう、悪女ですか」
ブロンズの鮮やかな髪が視界に入ってくる。口を開けたまま呆ける彼女に穏やかな笑顔を返すと、万年捕縛師は静かに歩みを進めた。
「少し、お話を伺ってもよろしいですか?」
頭の位置を正面に戻した頃には、セスランは既にカガーシャの隣の席に腰かけていた。
ざわ、と周囲がどよめく。食堂に集まった皆の視線が痛いほど突き刺さり、さすがの彼女もいたたまれなくなった。
「ちょ、ちょっと、セスラン……何を考えているのよ。今のあなたたちは……」
上層部に睨まれている──そう続けようとした彼女の言葉を、にっこりと微笑みかけることで封じたセスランは、相変わらず食えない笑顔のままスープを口に運んだ。
「近頃、サティンと話をされていないようですね。以前は随分と仲がよろしかったのに」
「当たり前でしょう!?」
知らず、彼女の声は裏返る。
「ラエスリールの……いえ、少なくともラエスリールと関係のある魔性のせいで、カーガスやシャーティンがどんな目に遭ったか……それを、あなたたちは!」
聞いているのかいないのか、セスランは瞼を伏せる。カガーシャの激昂など、彼には何ら意味を為さなかった。同僚の死も、浮城が被った迷惑も、彼らの心を揺さぶることはない。
ラエスリール……今、こうして会話を交わしている間さえも、セスランはあの娘のことだけを考えている。
無駄なのだ、と彼女は悟る。ただひとつ大切なものを信じ、それ以外の者の言うことなど一切耳を貸さない──なまじ力があるから始末に負えない。魔性に魂を売った、と見なされるのも無理もないことだった。
「あなたたちがそんなひとだとは思わなかった。軽蔑するわ」
どうでもいい相手なら、ここまで落胆はしなかった。昔、傷ついてぼろぼろになった少女の心を、サティンが解すことに成功した時、カガーシャは心から喜んだのだ。セスランも加わって、これからきっとラエスリールはいい方向に行く。そう、信じていたのに。
きり、と唇を噛みしめる。傍らで、セスランが苦笑する気配が伝わって来た。
「あなたのような明るい人でも、負の感情を露にすることがあるのですね。意外でした」
同僚を殺されて怒らない人間の方がどうかしているが、彼ならきっと、カガーシャの死にも涙一滴流さないだろう。それが、伝わって来た。
「城長の部屋に通っていたのも意外でしたが……」
次に彼が洩らした言葉に、カガーシャは目を瞠った。瞬間、彼女の頭は素早く回転し、予め用意しておいた言い訳の言葉を羅列し始める。
「あ、あれは今後の私の身の振り方について、色々相談に乗ってもらっていたのよ。ほら、私ってば足を痛めて以来浮城のお荷物でしょ?魔性が増えてきたこんな状況でもまともに戦えないし、正直、いつ追い出されるか冷や冷やものなわけ。アーヴィヌス様を丸めこめば安泰だと思って──」
「夜中に、人目を避けて行く必要があるのですか?」
穏やかな、しかし有無を言わせぬ声が被さってくる。
セスランの目は笑っていなかった。そして、かつてカガーシャを救ったあの時のように、どこか悲しそうにも見えた。
「一度や二度の話ではありませんね。今朝も、空気の入れ替えのために窓を開けて歩いている際、あなたが城長の部屋から出てくるのを見ました」
淡々と告げる彼のことを、これほど恐ろしいと思ったことはない。手をつけることのない食事が冷えて行くのを、カガーシャはただ眺めていることしかできなかった。
「安心してください、誰にも言いませんよ。ただし──」
セスランが何を目的としているかは、聞かずとももうわかった。
「上層部の情報を、できるだけこちらに流して欲しいのです」


アーヴィヌスの机の上は書類で散らかっていた。
直そうとすれば、そのままでいい、と言われる。カガーシャを警戒しているのか、情事の際にまで仕事のことは考えたくないのか──恐らく両方だろう。
不意に後ろから抱きすくめられ、体を強張らせる。相手にもそれは伝わったらしい。
「……カガーシャ?」
いい年をして、母親に拒まれた子供のように怯えた声を出す。
彼の求めを断れなかったのはそのせいだ。浮城にもはや自分の居場所がないことを知らされてしまったあの時から、彼女はあらゆる愛情にしがみつこうとした。
失って初めて、カガーシャは失ったものの大きさに気づいた。それまで当たり前に持っていた浮城の住人としての地位とは、普通の人間がどんなに焦がれても手に入らないものなのだと。
『あなたの足を治せるかも知れません。いえ、ほぼ治せる、とお約束しましょう』
昼間のセスランの言葉が、耳の奥にこだまする。
『既にご存じでしょうが、こちらには治癒に秀でた上級魔性がいます。あなたがお望みならば、すぐにでも以前のように捕縛師として戦えるように……』
「どうかしたのか?気分が乗らないのなら、私は別に……」
枯れた手が肩に触れ、離そうとする。カガーシャは首を横に振った。
「何でもありません。それよりアーヴィヌス様、前の城長とはお親しかったんですか?」
足がまた、ずきりと痛む。痛みの原因に彼女は気付き始めていた。
アーヴィヌスは露骨に顔を顰めた。彼にとって前の城長のことは苦い記憶であることは、知っていて口にしたのだ。
「マンスラム様とは……」
「あら、言い方がまずかったかしら。私がお尋ねしているのはチェリク様のことです」
間近で顔を見つめ、カガーシャは問うた。
初めて彼の寝室で一夜を明かした際、寝言でその名前を聞いた。眉間には苦悩を示す深い皺が寄せられており、どう見ても、いい思い出がある様子ではなかった。
それでも、カガーシャの記憶にある肖像画の城長と、彼女が持っていた長く美しい黒髪に、自分と僅かながらも一致するものを見た途端、癒えたはずの足の傷が再び疼きだしたのだ。
彼が切るなと言った、長い髪──本当に求めていたのは、カガーシャのそれではなく。
セスランに問い詰められた際、思いは確信となった。それまでは、悪女ごっこを楽しんでいたのに──彼とのことは計算ずくだと、思いこもうとしていたのに……正直ではない心に代わって、体の他の部分が悲鳴を上げている。
笑顔でい続けることは、確かに大切なことだろう。けれど、たまに自分の本当の気持ちがわからなくなる。心から楽しくて笑っているのか、そうあろうと努力して、本当の気持ちを抑えつけているだけなのか。
カガーシャの場合は後者だった。明るさには自信があるが、嘘はつけない。どう足掻いても、セスランのようには生きられない。
遊びでも、打算でもなく。この関係を終わらせたくないと、カガーシャ自身が思ってしまった。
(だから……答えて)
誰かの代わりでもいい。今、考えていることを、正直に答えて欲しかった。
アーヴィヌスは目を逸らした。心底困ったようなその顔に彼女は少しだけ後悔した。古傷に悩まされている自分が、今度は他人の古傷を抉るような真似をしている……。
やがて、彼が口を開いた。
「チェリク様は、私にとって命の恩人だった。だが今は……」
「今は?」
「志を違えている。マンスラム様にしてもそれは同じだ」
きっぱりと告げる口調に、迷いはない。
その言葉を吐くまでに、彼の中で様々な葛藤があったことは、カガーシャにもわかった。同時に、彼女が何故そんなことを尋ねたのか、気づこうともしないその鈍さを、心の底から愛しいと思えた。
彼と、こうなった経緯を思い出す。階段から転げ落ちそうになったカガーシャを助けようとして、彼は自分が下敷きになったのだ。ひたすら恐縮して謝る彼女に、アーヴィヌスは痛がりながらも告げたのだ。
『弱い者を護るのは当然だ』
その言葉に反感はなかった。何故なら、彼自身もとても弱かったからだ。
弱いなりに、更に弱い者を守ろうとしている──それを知るにつれ、カガーシャは彼から離れることができなくなった。
「なら、いいんです。変な心配しちゃった。アーヴィヌス様が何故、私みたいなうるさいだけの女に声をかけてくださったのかって……黒髪の女が好きなだけじゃないかって」
「何を馬鹿な!」
アーヴィヌスは首を強く振り、彼女の肩を抱く手に力を込めた。
「君は、誰かの庇護を必要とする、普通の女性だ。チェリク様とはまるで違う……第一、私は君の快活さに惹かれているのであって、その、髪云々はあくまでもひとつの長所と言うか……」
「はいはい、わかりましたわよ」
くすくす笑いながらカガーシャは言い、散らばった書類に背中を向けた。
以前、黒髪の女性ばかりが攫われた事件があった。あの時、カガーシャは囮には選ばれなかった。
安堵する一方で、自分の唯一の美点を生かせる機会だったのに、と落胆する思いもあった。足が悪いからという理由の他に──女性としての魅力に欠けるからだと、らしくもなく落ち込んだりもしたけれど。
もうそんなことを気に病む必要はないようだ。
「私も正直に言いますね。実は、セスランに情報を流せって言われてるんですけど、どうします?」
「な、何だと!?」
慌てふためく愛しい人の体に腕を回し、カガーシャはいつの間にか足の痛みが消えていることに気づいた。


約束の時間を半刻ほど過ぎた辺りで、セスランは諦めたようにふう、と息をついた。
隣にいた砂色の髪の女性が、怪訝そうにそんな彼を見やる。
「セスラン?」
彼女のために吉報を運ぶ予定だったのだが、どうやら当てが外れたようだ。カガーシャは現れないし、こちら側につくことも多分ない。
何でもありませんよ、と彼は答え、明日向かう予定の仕事先を確認するために地図を広げた。
最初から、密告などという無粋な真似などするつもりはなかった。それでも敢えて、卑怯とも思える交渉を持ちかけたのは、サティンのためと、それからカガーシャ自身のためを思ってのことだった。
セスランが口を挟むまでもなく、あのような関係は長続きしない。さりげなく出した助け舟は、当の本人の手によって今度はあっけなく沈められた。
今度──そう、一度目は彼女は確かに、セスランに従ってくれたのだ。
だから、次もまた、と淡い期待を抱いていた。

『どうしよう、出血が止まらない!』
『カガーシャ、しっかりして!カガーシャ!』
『どきなさい。私が治療します』
『セスラン……あなた、その力は……?』
『心を強く持って。笑ってさえいれば、魔性に傷つけられることはありません』
『……無理よ。こんな足じゃもう、浮城にはいられない』
『居場所なんて、自分で作るものではありませんか?私はずっとそうやって生きてきたのですから』

あの時の出来事を、彼女は今でも覚えているだろうか?
いずれにせよ、自分の居るべき場所を見つけた黒髪の女性に、セスランがかける言葉はもうなかった。



──おわり──




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