全身を突き刺す感覚──悪寒とも呼ぶべきものが、白煉の心を支配した。 真っ先に案じたのは、配下の安否である。いまや凶器と化した城がこのまま衝突すれば、内部にいる者も無事には済まないだろう。可愛い配下も、憎たらしい旧友も、全て巻き込んで消滅する。最も古参である焔矢が、機転を利かせて全員を退避させていることを願うばかりだった。 絶望的状況の中、白煉は思い出していた。 この男は、かつての配下──九具楽を巻き添えにするために、自らの居城を破壊した前科を持つのだ。 人を陥れることしか知らなかった柘榴の妖主は、あの小娘にそれほどの価値を見出した。 逃げ場の無い状況で、白煉は必死に記憶を辿る。 数年前、ラエスリールと戦闘に及んだ時の状況を───。 初めて見た時は、ただの人間だと思った。 がりがりに痩せて、お世辞にも美しいとは言えない容姿だった。 長い黒髪と、琥珀の瞳だけが強い光を放っていた、ごく普通の少女だった。 その少女は、白煉が唯一尊敬の念を抱いている金の妖主の一人娘であったが、眷属を裏切り人間側についたことで、実の弟と敵対していた。 あの時の娘は、自らが人間であると信じて疑わなかった。だからこそ、破妖剣士として白煉の前に現れ、破妖剣士として白煉の命を奪った。 『いくぞ、紅蓮姫!!』 火傷で皮膚を損傷しながらも、決して怯むことなく白煉に挑みかかって来た少女。 『我が君!』 『手を出すでない!』 これは自分の戦い──何人たりとも邪魔をすることは許さない。 そう、例え我が城であっても。 柘榴の妖主との戦闘の時でさえ、これほど心躍ったことはなかった。だからこそ、この娘との決着は、己の手でつけたかった。 心臓の一つを貫かれ、命を啜られた時、白煉は居城が動き始めるのを感じた。 己の命を奪った少女を八つ裂きにするべく、城が動き出すのを……。 白煉は、己の敗北を認めていた。このラエスリールという少女を殺しても、負けはなかったことにはならない。虚しい思いが残るだけだ。 だから、来なくていいと言った。城の名を呼んだ。 ──止まるのじゃ。 「止まれ、×××よ!!」 目も眩むような光が、目前に迫った。 力と力がぶつかり合い、轟音が耳を殴る。浮遊する岩石は凶器と化し、白煉たちに向かって襲い掛かってきた。 ほぼ同時に、動きの自由を奪われ、彼女は目を見開く。視線の先にあるのは、柘榴の妖主の姿だ。 白煉には判らなかった。何故この男は、手を離してくれないのだろう。逃げようと思えば、彼一人でも逃げられる。 自らの死すらも遊戯として楽しむつもりなのか。それとも、本気で身体を張って、白煉の記憶を取り戻そうと……してくれているのだろうか……? いや、そんな殊勝な男ではない。 読めない。この男の考えることだけは、いつでも理解の範疇外だ。 「間に合わなかったか………」 霞む視界の端で、深紅の男が呟いた。 否、そうではない。衝撃波は、妖主二人の体に一切傷はつけなかった。 「だいじょうぶ じゃ」 危機が去ったのを感じながら、白煉は大きく息を吐いた。 「なを よんだ ……もう、 うごく ことは ない」 全身から、ぐったりと力が抜けていく。 「ふうん……」 命拾いしたというのに、柘榴の妖主は、何故か気のなさそうな返事を返した。いつの間にか、男の腕の中に抱きかかえられている事実に、白煉はむっとした。 「どさくさ に まぎれ て なにを しておる?」 「いや、またとない機会だから、何となくな」 「はなさぬ か!!」 白煉が子供の姿だから、気を遣ったとでも言うのか。馬鹿馬鹿しい。 「兄ちゃんっっ、居るんだろうっ!?」 突然の闖入者に、白煉は目を丸くした。 飛び込んできた息子は、かなり泡を食った様子で周囲を見回していた。深淵の闇に漂う岩石と、抱き合っている妖主二人。 邪羅は、深紅の男が抱えている子供をまじまじと見つめた。 「か……母ちゃん?どうしたんだよ、随分と小さくなっちまって……」 さすがは親子と言うべきか、柘榴の妖主に抱えられているのが母親である事を、邪羅は一目で見抜いた。事態までは把握しきれないようだったが。 「ったく、相変わらず騒がしい餓鬼だな」 わざとらしく耳に蓋をし、柘榴の妖主は悠然と告げる。 「少し姿が見えないだけで、血相変えて『母ちゃん』と来たもんだ。たまには母親に息抜きさせてやれ」 下手をしたら永遠の息抜きになるところだった状況を作っておいて、よくも言えたものである。 「これで まんぞく かえ?ざくろ の」 息子の前で醜態を晒す破目になった白煉は、恨めしげに男を見上げる。 「きが すんだら、 はやく わらわ を もどせ」 「そうしてやりたいのは山々なんだが、おれにも戻し方はわからんな」 「なん じゃ と!」 「本来なら、戻した針の分だけ時間を進めれば良かったものを、お前が中途半端に防御するから悪いんだよ。目分量で力を流し込んだら、精神に悪影響が出るかも知れん。まあ、自然に元に戻るのを待つしかないってわけだ」 ぶちっ、と何かが切れる音がした。 「この やくたたず の 古 狸 がっ !!!」 舌足らずな口調で暴れる母親に、邪羅は普段とは別の意味で恐怖を感じたらしい。額に汗しつつ──もちろん人間の少年だった頃の名残である──白煉を宥める。 「ま、まあ落ち着けよ。そうだ、父ちゃんなら人体の造りに詳しいし、元に戻せるかも知れないぜ?」 しかし、その提案は母親の怒りに油を注ぐだけだった。 「ごめん こうむる わっ!あんな 男 の かおを 見るくらい なら こども 姿 のほうが まし じゃ!」 「今そんなこと言ってる場合じゃないだろ?おれからも頼んでやるからさあ」 「それには及びませぬ」 凛とした声が虚空に響いた。 動きを止めた城の入り口から現れたのは、側近の焔矢だった。 彼女もやはり、愛する者の姿を見間違うことはない。子供の姿であっても、変わらず尊敬と畏怖に満ちた眼差しを、白煉へと送る。 そして、すい、と音もなく、また臆することもなく、三人の上級魔性の間に割り込んだ。 「我が君が元のお姿を取り戻されるまでは、私がお世話を致します」 言って、焔矢は静かに主を抱き上げた。それを見て、邪羅がようやく安堵に肩を落とす。 「……まあ、あんたに任せておけば、安心だよな」 柘榴の妖主による盛大な悪戯は、こうして幕を下ろした。 衝突は免れたとは言え、妖主同士の城の接近が、下界にもたらした影響は計り知れない。 地上のとある街ではしばらく、草木の一本も生えなかったらしく、人間たちの間では、ガンダル神の怒りか、天変地異の前触れではないかと噂された。 そして子供姿の白煉は、見た目に合わせて精神の方も退行しつつあり。 「えほん を よんで きかせろ」 「もうおやすみなさいませ」 「いやじゃーーーーー!!」 そんなふざけたやり取りを、限られた時間の中で意外に楽しんでいるようであった。 ──おわり── [*前] | [次#] ページ: TOPへ |