書庫 妖主の動く城・中編(闇主×白煉、ギャグ)


「な……なんだっ、こりゃ!?」

眼下に聳える母親の居城──名称不明──が徐々に形を崩していく様に、邪羅は狼狽した。
浮城よりも更に大きく荘厳な造りの、陽炎の城。璃岩城とはまた違ったその凛とした姿を、見るたびに彼は誇らしく思ったものだ。
今やそれは、建物としての形を留めていない。風に流されて崩れる雲のように、別の何かへと変化しつつある。
内部に飛ぼうと思えば、一瞬で飛べる。
にも関わらず、彼が踏み込む事を躊躇っているのは、その城の中に、母親の気配をまるで感じないからだった。
つまり、主の意思とは無関係に動いているのだ。
「何があったってんだよ………」
彼の疑問に答えるように、女の声が響いたのはその刹那。
「お戻り下さいましたか、若君」
まるで彼が現れる事を確信していたかのような、間の良さだった。
「焔矢!」
説明を求めようときつい眼差しを送る青年を前に、美女は静かに口を開く。
「私もこの城に長く仕えて参りましたが、我が君がご不在の際に動き出した事は、二度しかありませぬ」
言って、焔矢は目を伏せる。遠い記憶を探るように、長い黒髪が後方に靡いた。
「一度目は、遥か昔、柘榴の君と一戦交えた際。二度目はそう……我が君が紫紺の君の手に落ちた際」
主に危機が迫った時のみ、城は動くのだと言う。
「母ちゃんの身に、何か……?」
不吉な予感に、邪羅は端正な顔を歪めて聞き返す。
母親に危害を加えられる存在など、この世にわずかしかいない。そのうち、可能性の低い者から順に消去していくと、やはり浮かび上がるのはあの男しかないわけで………。
「まさか、兄ちゃんが……って、でも、好敵手だったのは昔の話で、今は完全に休戦状態だろ?そりゃあ、ユラクの件では色々あったけど、いつまでも根に持つような母ちゃんじゃ……」
言いかけて、邪羅は口を閉じた。
母親はともかくとして、赤男の性格は陰湿だ。あの一件を水に流したわけではなく、実は密かに復讐の機会を狙っていたとしたら……?
有り得る、と邪羅は思わず口元を覆った。
「こうしちゃいられない、すぐ兄ちゃんの所へ」
「お待ち下さい」
「は?」
「一つだけ、お聞かせ下さい。若君にとって、我が君とは何なのです?」
当たり前の事を問う配下に、邪羅は眉を潜めた。
「……母親だよ。決まってるじゃんか」
その表情は、説教を嫌がる子供そのものであった。
焔矢は母親の背後で、いつも彼に向かって、咎めるような視線を向けてくる。
「でしたら何故、我々の元に戻っては下さらないのです」
焔矢の声には、明らかに邪羅を責める響きがあった。
六人目の妖主を名乗ることも可能なほどの力を秘めた魔性の純血種が、人間と親しくしている様が、彼女は気に入らないらしい。
「お忘れでしょうが、人間と魔性は本来、相容れぬ存在。お優しい若君がいくら真摯に歩み寄ろうとなさっても、連中が貴方を受け入れる事など、決して無いのですよ」
母親の側近の言葉は、邪羅の心に深く暗い影を落とした。
頭の片隅では判っていた──それでも、出来るだけ考えないようにしていた現実。
「何言ってんだよ……」
浮城の人間の顔が脳裏をよぎった。ラエスリールの事を抜きにしても、親しく付き合っていきたいと思えるようになった、魅力的な面々。
魔性である邪羅を避けることなく、当たり前のように輪の中に入れてくれた温かい人々。そして、愛する姉兄の心を魔に奪われ、自らも魔性の守護を受けながらも、断じて闇に染まることの無い、勝気な金髪の少女。
あの輪の中にいると、邪羅は幸せだった。父と母に囲まれ、人間の子供として暮らしていた頃に戻れるような気がしていた。
「あいつらは、そんなつまらない連中じゃないんだ。種族とか、しきたりとか、そういうのは抜きにして、おれと対等につきあってくれるんだ」
「睦まじいように見せていても、自らの身が危うくなれば、連中はたやすく掌を返すことでしょう」
熱に浮かされた子供を哀れむ目で、女は告げる。彼の心を追いつめるかのように。
「所詮は人間など、自らの保身が第一の生き物──口先だけの絆など、容易に壊れるものではありませんか」
「やめろよ!」
焔矢にとってかけがえのない大切な存在は、世界で一つ。だが、邪羅は人間の世界で数え切れぬほどの愛しいものを得てしまった。
それが彼の弱さであり、欠点だ。克服するためには、どれかを切り捨てなければならない。
「おれは、姉ちゃんが好きだ」
動く城塞を見下ろしながら、邪羅は苦しげに言葉を紡ぐ。
「でも、母ちゃんだって父ちゃんだって大事だし、兄ちゃんだってむかつくけど嫌いじゃねえし……それに」
辛い時に思い起こされるのは、柔らかい曲線を描く金の髪だ。
生き生きと輝く緑の瞳と、自分を罵る時の尖らせた唇、怒りに赤く染まる頬──酷く涙脆いくせに、他人に弱さを見せる事を嫌う。
そんな彼女を、いつも見ていたい、と思う。
「大切なものは、一つじゃなきゃいけないのかよ……?」
邪羅よりも幾分長い時を生きた女は、青年の主張を眉一つ動かさずに聞いている。
「では、若君は我々の敵という事になりますか……」
「そうじゃないだろ!?」
邪羅は声を荒らげた。
「なんでいちいち極端な例に走るんだよ!おれはどちら側にもつかない、中立だって、前から言ってる!」
母親も父親も、放任主義と言うか、基本的に邪羅の行動に口出しはしない。うるさいのはむしろ、彼らの配下の方だ。
二言目には『若君の御為には』『御子息として』だ。好きで妖主の息子に生まれたわけでもないのに。
「中立……?」
焔矢は口の端を持ち上げた。可笑しいのを堪える表情に似ている。
「以前、柘榴の妖主と手を組み、我が君の命数を減らしたこと、忘れたわけではありますまい?」
ユラクの事件に、彼女も関わった。
主人が実の息子に裏切られ、命数を減らした挙句、退場を余儀なくされたあの場面は、側近たる焔矢にとっては、不快でしかなかっただろう。
「あ、あれは……」
口ごもる。
ぎり、と焔矢は奥歯を鳴らした。上目遣いに彼を睨むその顔には、普段は決して見せる事の無い憎悪が滲んでいた。
「悔しゅうございます。あの方の危険を目の前にして、私は何の手出しも叶わなかった。貴方が我が君の御子息でさえなければ、と何度呪ったことか……」
邪羅にはかける言葉が見つからなかった。焔矢の忠誠は本物であり、ただ一つの存在を選ぶことの出来ない彼が、それを笑うことは許されない。
「……無礼を、お許し下さい」
「いや、気にすんなって」
ましてや、怒る権利などあるはずもない。
「母ちゃんも幸せだよ。あんたみたいな有能で真面目な側近がいるんだもんな」
彼女が傍にいるのなら、邪羅の存在は必要ないだろう。紫紺の妖主にとって必要なのが、白煉でしかないように。
「ですが」
世辞に気を良くした様子も無く、焔矢は告げた。
「どれほど抗おうとも、貴方が最後に帰るべき場所は『ここ』なのです。お忘れなきよう、若君」





「動き出したようだな」
白煉の首根っこを、猫にそうするように掴んだまま、深紅の男が笑う。そのさまは、妖主と妖主──ではなく、幼女と誘拐犯にしか見えない。

「はなせ と いって おる っ!!」
幼女もとい白焔の妖主は、苛立ちのままに足をばたつかせていた。
柘榴の妖主は、彼女の肉体もろとも、記憶を強制的に巻き戻そうとしたのだろう。しかし、白煉の力ゆえ、記憶の巻き戻しまでは叶わなかった。
戻されたのは、肉体と術力のみ──それも、紫紺の術に嵌まった十数年前ではなく、誕生間もない数千年前に遡って。
「この 半端 もの めが っっ!!」
自由にならない身体で、彼女はひたすら毒を吐く。
「さっさ と もどさぬ か!たわけ!!」
白煉の力は、現在に向かって緩やかに再生されている状態だった。時間が経てば元の姿に戻り、術も使えるようになるだろうが、その『時間』が果たしてどれほどのものなのか、時を操る妖主に尋ねても真っ当な答えが返ってくるはずもない。
それでも、彼の喜々とした横顔を見ていると、次第に読めてくることがある。つまり、白煉をこの姿にすることで、何か得られるものがあるというわけだ。
彼を楽しませるような、何かが。

──じき、動き始めるぞ?お前の城が。

先程柘榴の妖主が口にした言葉を、反芻する。
居城が動き、形を変えていることは、力の弱まった今の彼女には感じ取れなかった。
「よっと」
白煉を捕らえていない方の腕で、深紅の男は大きく、空中に円を描いた。
巨大な鏡が現れる。そこに映し出された映像は、白煉を少なからず驚かせた。
「これ は……どう いう こと じゃ!」
驚きに目を瞠る彼女に、満足そうな様子で男は告げる。
「お目にかかるのは千年ぶりかな?」
居城が崩れ、まるで渦巻く雲のような形になっていた。それだけではない、徐々にこちらに向かって近づいてきている。
主の意思も働いていないのに、城が動き出すことなどこれまでなかった。任意の場所に移動する際には、必ず白煉の力を必要としていたのだ。
「忘れているだけだろう、白煉」
深紅の男の笑い声が、虚空に響く。
「主の危機に、城が勝手に動き出すよう術をかけたのは他でもない、お前だよ」
言われて白煉は思い出した。
柘榴の妖主と最後に派手な喧嘩をしたのは、千年ほど前だった──その際、この男は今回のような卑怯な手を使って、白煉を追いつめたのだ。




『く……、よくも!!』
傷ついた腕を床に落とし、うなだれる若き日の白煉がいた。
確実に急所を狙いに行く彼女とは異なり、目の前の男はわざと浅い傷をつけて、相手の反応を楽しんでいる。そのために、自らが多少の傷を負っても構わないと考えているようだった。
相性が悪すぎる。敵に回したのは失敗だった。
『そろそろ降参したらどうだ?』
嘲笑う深紅の男は、己の勝利を確信していた。男の肩から腕にかけても大きく焼け爛れたような跡が残っており、両者の力がほぼ互角であったことを示していた。
『おれとしても、お前のようないい女を、これ以上痛めつける趣味はないんでな』
紫紺の野郎もうるさいし。
その言葉に、白煉は不快な表情を隠そうともしなかった。紫紺の妖主は、以前からしつこく言い寄ってくる若造で、名前を聞くのも鬱陶しい存在だった。
『誰がそなたなぞに……するものか!!』
あの若造もこの男も、白煉にとって到底好ましいとは言えぬ相手であった。妖主の男にろくなのはいない……唯一例外があるとすれば、金の妖主だ。あの威厳と気品を、この男たちも多少は見習えばいいものを。
『おれに負けた事を口外されたくなきゃあ、素直に従った方が身のためだぞ?』
そう続けた柘榴の妖主の表情が、ふと曇った。何かの気配が近づいてくるのを感じたらしい。
『これは……』
『油断したな、千禍よ』
俯いた白煉の顔に、笑みが浮かぶ。
『我が城の力、とくと目に焼き付けるがよいわ!』




「思い出したか?」
男の声で、白煉は現実に引き戻された。
「あの後、おれはすぐに退いたが、城は追いかけてこようとはしなかった。それで勝負はおあずけとなったわけだが……」
言葉を切り、男は鏡に映った映像を見つめる。
「もう一度、お前の城が動くのを見てみたいと思ったんだ。まさかこんな形で叶うとはな」
白焔の妖主の城は、主の危機を察知すると、自在に動き出し、分裂して標的を攻撃する。
現在、城が向かっているのは、本来なら柘榴の妖主の居城があった場所──二人の妖主が佇んでいる、虚空城跡地だ。
あの時は、人間界の、それも野外での戦闘だった。だからこそ、街ひとつを破壊する程度の影響で済んだ。
だが、今回は違う。跡地とはいえ、かつて虚空城があった場所なのだ。時空が歪み不安定なこの場所に、白煉の城が衝突したらどうなるか。
白焔と柘榴、二つの城がぶつかり合った時の衝撃は、想像を絶する。己の手を離れた魔力の暴走は、妖主と言えど抑えることは出来ない。最悪の場合、城もろとも消滅する可能性もあるのだ。
その事実に気づき、白煉は顔色を変えた。
「にげるのじゃ、 ざくろ の!! いますぐ わらわ をつれて にげろ!!」
子供の声と姿で、見苦しいことこの上なかったが、命の危険が迫れば誰しも同じような態度を取るだろう。
「何を慌ててる」
男はあくまでも余裕の笑みを崩さない。
「お前が城の名前を思い出し、その名にかけて、『止まれ』と一言命じれば済むんだよ。簡単な話だろうが」
この男は……その簡単なことが出来ないから、これほど慌てているのではないか!
協力してくれるのは有難いが、手段というものを知らないのだろうか。白煉が時間内に名前を思い出さなければ、城は止まらず、この場に激突する。
「わらわ と 心中 する 気 かえ!?」
堪りかねて彼女は叫んだ。
「それも悪くないな」
「な……」
白煉は絶句した。男は紛れもなく、本気でそう言っているように見えた。
「なに を かんがえて おる のじゃ!!」
「決まってるだろう?」
もう何度も聞いたお得意の台詞を、柘榴の妖主は繰り返す。

「おれは、退屈なんだよ」




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