書庫 嗤う砂塵4(カーガス×オリキャラ、バッドエンド)


夢依の訃報は、やがてカーガスたちの耳にも届けられた。
 依頼された仕事を無事終えたシバは、心労もあるだろうから、しばらくは休養を取るようにと申し渡された。


 仕事先で命を落とす護り手は、珍しくない。志奇もそれは知っていたはずだが、やはり消沈した様子は隠せなかった。
 窓枠に寄り掛かりながら、彼の目はどこか遠くを見ていた。話しかけると、返事はするのだが、力がこもっていない。普段のカーガスなら怒鳴りつけてしまうところだが、それだけ幼馴染みの存在が大きかったのだろうと、今なら見守っていられる。
 夢依という幼女と、直接会って話をしたことは実はほとんどない。城長や上層部に対してもはっきりと物を言う態度や、シバへ向ける執着心などは、決して人事とは思えず、結構好感を抱いていた部分もあったのだが。
 志奇の悲しみは、カーガスのそれとは比にならないだろう。しかしまた、のんびりと感傷に浸っている場合ではないことも、事実であった。


 新調した封魔具を、カーガスは一つずつ指に嵌めていく。封魔具職人の手によって丁寧に磨き上げられた真珠は、以前のものよりも少しばかり大きい。
 一つ一つが、時間と労力を費やす手作りであるが故に、瓜二つのものが世に出回ることなどごく稀である。同じ真珠であろうと、同じ水晶であろうと、作者や作った時期が同じであろうと、それは言えることであった。
 長い髪をきゅっと結い上げ、身支度を整えたカーガスは珍しく遠慮がちに、傷心の護り手に声を掛ける。


「志奇、そろそろ行くわよ」
 彼は小さな背中を丸めて、相変わらず窓の外に目を向けている。
 落ち込んでいるのなら、姿を現さず、隠れていれば良いものを……彼は、呆れるほどに律義なのだ。
ラエスリールの出奔という非常事態が持ち上がり、浮城全体が不穏な空気に包まれているこの状況下で、勝手に主人の側を離れることは彼の責任感が許さないらしかった。
「志奇」
 もう一度呼び掛けると、ようやくこちらを向いた。いつもの元気な返事を期待していたわけではなかったが、それでもその瞳に、かつての輝きが戻っていないのを認めて彼女は心を痛める。
「あたしの思っていた通りだったわね」
 夢依のことを考えさせまいと、カーガスは無理に仕事の話へ持って行く。
「やっぱりあの女、逃げ出したわ。これであんたも、あれが文字通り魔性の女だってことが判ったでしょう」


 浮城の中でも腕利きと呼ばれる精鋭たち……カーガスを含む捕縛師や破妖剣士数名は、この日の早朝から転移門に集合することになっていた。表面上はごく通常の『仕事』と称して……裏の目的は、もはや組織に仇なす存在となったラエスリールを捕らえ、処分する為に。
 だから、と彼女は慰めたつもりだった。
 だからあんたも、落ち込んでいる場合じゃないのよ……と。
 志奇は、窓枠を離れようとはしなかった。時計の針の進み具合を気に掛ける一方で、同時に護り手の心も気に掛けるあまり、次の行動に移ることをためらっているカーガスを見つめたまま、ぽつりと言う。
「行くの?」


 彼の気持ちが掴みかねて、カーガスは戸惑った。指輪を嵌めているせいか、汗ばむ掌を、しきりに握ったり開いたりしてしまう。
「決まってるじゃない。あたしは追っ手として選ばれたのよ。つまりそれだけあたしが優秀だってことなのよ……選ばれた者が、任務を遂行出来なくて、どうするの」
 そして、手を差し伸べる。彼が乗ってくれることを願いながら。
「さあ、行きましょう。時間がないのよ」


 コンコン、と部屋の扉が鳴った。
 誰かが催促に来たのだ……そう思ったカーガスは、慌てて声を飛ばす。
「ちょっと待って。すぐ行くから」
 しかし返ってきたのは、全く予想していなかった人物の声だった。
「俺だよ……開けてくれるかい」
 息を飲んだのは、彼女一人だった。志奇はまるでシバが現れることを予想していたかのように、見えない力で静かに扉を開けて彼を迎え入れた。
 現れた青年は、心なしか以前よりやつれたように思える。カーガスはさりげなく護り手を自分の方へ引き寄せようとした。静養中の青年がわざわざ何をしに来たのかは知らないが、彼にだけは志奇との不和を見られるわけにはいかないのだ。
 だが、既に会話の一通りは聞いていたらしく、それは徒労に終わる。
「ひょっとして、まずいところに来てしまったかな?」
 自分と志奇とを見比べながら、尋ねてくる。
「別に。そっちこそ意外と元気そうじゃないの。さすが、女に逃げられ慣れてる男は、立ち直りも早いわね」
 嫌味のつもりだったが、シバは軽く肩を竦めるだけだった。その仕種にカーガスは妙な違和感を覚える。こちらの許可も得ないうちから、部屋にあがりこんで、この態度だ。彼がこんな行動に走るとは予想していなかった。
「久し振りだね、志奇……元気かい」
 カーガスの前を素通りして、シバは彼女の護り手に話しかける。有無を言わせぬ瞳だった。


 食堂での一件以来、シバと顔を合わせるのは今日が初めてだ。だが、しばらく見ないうちにどこか印象が変わっていた。以前の、相手の顔色を窺いながら慎重に話を運ぶ癖は消え去り、変わって不敵な笑みが口許に浮かんでいる。
 何があったというのか………………彼は、こんな顔で笑う男だっただろうか。
「うん……元気だよ」
 志奇は笑みを作っているが、心から笑っているわけではない。痛々しく感じたのか、シバはそっと指を伸ばして彼に触れようとする……無論、主の許可なしにだ。
「ちょっと……勝手に触らないでよ!」
 取られてしまう………………!
 今更、何故そんな風に思ったのかも判らない。女の直感とも言うべきものだろうか。
 叫んだ後、自己を嫌悪し、俯いてしまう彼女に、シバは斜めから見下ろすような視線を送る。それに気付いていたのは志奇だけだった。
 シバは、カーガスに向き直ると、機嫌でもとるかのように彼女の手を取ってくる。
「ああ、指輪を換えたんだね。いいものになったじゃないか」
 そう言うと、もう片方の手も取って、光沢のある真珠を指で撫でる。それは素早い動作で、不自然な印象を全く与えなかった。
「支度は出来たのかい?捕縛師長が呼んでいたよ」
 実はそれを伝えにきたんだ、とシバは屈託なく言う。彼にうさん臭げな匂いを感じながらも、時間が迫っていることは事実なので、彼女はうなずく。
「判ってるわ。……行きましょう、志奇」
 再び手を伸ばすが、彼は乗ってこない。
「僕は後から行くよ」
 今までとは違う、はっきりした答えだった。
「ど……どうしてよ」
 思いも寄らない返事に、うろたえる。
 志奇の知性的な瞳が、彼女には理解できない輝きをもってこちらを見ていた。
「今回はいつもの仕事とは違うんだし……それに、みんなと一緒に行くんだろ?護り手の一人や二人、遅刻したってどうってことないって。僕は少しシバと話がしたいから、後から行くよ」
 彼は少しからかうようにして、小首をかしげる。
「カーガスは強いから、一人でも大丈夫だよな?」
 かっ、とカーガスの頬が染まった。それが怒気によるものであることは、本人が一番良く知っている。
「わかったわよ……せいぜい男同士でいちゃついてるがいいわ!」
 椅子にかけてあった仕事着を掴むと、カーガスは足音も荒く部屋を出て行った。何よ、何よ……なんなのよ、と怒りもあらわに呟きながら。

 ……そして、彼女が再びこの部屋に戻ってくることは、ついぞなかったのである。 


                      ※


「すごい剣幕だったね。いつもあんな調子なのかい」


 先程までカーガスの腰掛けていた椅子に悠然と腰を下ろし……まるでそこが、昔からの自分の場所であるかのように、シバは振る舞う。その一連の動作に違和感を感じていたのは、何もカーガスだけではない。空中で腕を組み、何やら物思いに耽っている彼女の護り手にしても同じことだった。
「まあ、女は皆同じさ。男をいつも自分の手元に置いておきたがるんだ」
 志奇はシバには目を向けず、カーガスの消えていった方向を見つめている。
「僕は、そういうのはよくわからない。けど、契約したんだから、僕はカーガスのものだ。カーガスのいうことには逆らえないし、逆らいたくない」
 志奇の一途さを、彼は鼻で笑った。
「君は、残酷なほど生真面目なんだな。浮城の契約なんて、どうせ相手が力を失うか、死んでしまうまでだろう。捕縛師や破妖剣士は、俺たち魅縛師とは違って、そう長生きは出来ないぞ」
 彼が何を言わんとしているのか、志奇は既に承知していた。少し距離をおいて座っていた彼が、椅子ごと移動して自分の浮かんでいる方へ、段々と体を近付けてきた理由も、また承知していた。
 何も彼もが、彼の計算通りだったのだ……そう、ある一点を除いては。
「なあ、志奇……『今度こそ』、俺の護り手にならないか?」
 いつの間にか、シバの顔が目前まで迫っている。吐息がかかるほど近くにいながら、志奇は身動ぎもしなかった。
「君のことはずっと気に掛けていたんだ。あの気性の荒いお嬢さんのもとで、君がうまくやっているのかどうかってね」
 その言葉を聞いた時から、志奇の推測は確信へと変わったのだろう。青年へ向ける目が微妙に変化し、これまで見せていたわずかな隙もなくなっている。
「護り手を失ったばかりにしては、少し気が早すぎるんじゃないかな?」
 にっこりと、志奇は笑顔で応じる。言葉に含まれた刺に、シバは気付いているのかいないのか、話を続ける。
「もちろん、無理強いする気はないよ。知っての通り、俺は強引さとは程遠い男だからね……だから、もし君が彼女の束縛を心地良いと感じているのなら、君のことはあきらめて、他の子と契約することも考えているけど」                
 
 他人の護り手にちょっかいを出すなど、前例のない話だ。主と結ぶ契約は絶対で、気紛れによってそれを違えることなど許されない。
 シバはそれを承知した上で、彼を唆している。
「別に、予約という形でも構わないんだ。なあに、時間はたっぷりあるし、君の今のご主人が、つまり、カーガスが何らかの事故で命を落とすか、戦えなくなり次第、ってことでも」
「口には気をつけた方がいいよ…………」
 ぞっとするほど冷たい口調で、志奇は告げた。以前のシバであれば竦み上がり、失言を恥じたことだろう……だが、今の『彼』は違う。
「はは、冗談だよ。むきになるなって……カーガスが本当に好きなんだね、君は」
 少年は、不機嫌そうに軽く眉をひそめた。
「茶化してるのか」
「いいや。褒めてるんだよ」
 さすがにまずいと思ったか、シバは少し身を引くが、少年の視線がそれ以上の間合いを許さない。
「よくもそんなことが言えるな」
 いつの間にか、志奇の顔に酷薄な笑みが浮かんでいる。



「夢依を殺しておいて」


 小柄な体から、飛沫のように迸る憎悪……それは決して、シバに向けたものではない。
 目の前の青年を通り抜けて、その内側にいるモノに向けられている。
 それが、伝わったのだろう。 青年が笑いだした。


『さすがだな……何も彼も、お見通しと言うわけか……』


 彼は、シバではない。
 志奇の脳裏にひとつの顔が浮かぶ。生まれた時から一緒だった、やきもちやきで好奇心の強い少女姿の妖鬼。
 あの時も、すまなさそうな顔をして言ってくれた。
『志奇、ごめんね。あなたもシバも、どっちも好きだからね』
 カーガスの護り手になることが決まったときも。
『あのお姉さん、絶対あなたに気があるわよ。ちゃんと尽くしてあげなさいね』



 しゅるり。
 腰に巻き付けた布を胸元まで引き寄せる。彼は久しく忘れていた殺意というものを、目の前の魔性に対して抱き始めていた。
「お前が何者で、何を目的としているか探るまでは、もう少し粘ろうと思ってたけど……僕は、今の言葉だけは我慢できない」
 主である女性に暴言を吐いた男を見下ろし、志奇は冷ややかに告げる。
「シバの口を借りて、よくも言ってくれたな……カーガスに謝れよ。もっとも、彼女にまた会う時まで、お前の命があればの話だけど」
 シバの体内から感じる力は、大したものではない。せいぜいが妖鬼止まりだろう。ただ、彼を人質に取られているということだけが、厄介だった。


「……お前は誰だ?」
 灰色の髪を怒りに逆立たせた、志奇の目付きは鋭いものへと変わっている。すぐにでも攻撃に転じかねない勢いであった。


『あんたたちが封じた妖鬼さ』
 シバの中の声が答える。
 彼は思考を巡らせる。心当たりは確かにあった。
 人間に憑き、内側から支配することが可能な、実体を持たぬ精神だけの魔性が存在することは、彼とて良く知っているし、昔、実際に戦ったこともあった。
 シバの異変も、よもやその種の魔性の仕業なのではと思ったのだ。彼の挙動の不審なことに気付いていたのは、何も夢依だけではない。アイシャンも、カーガスも……以前の彼をよく知る者ならば、誰もがその可能性を否定出来なかっただろう。
 だが、浮城は今、それどころではない事態に頭を悩まされていた。魅縛師一人の性格が多少変わろうが、確かな証しがなく、また仕事に影響も出ない限り、気の回し過ぎだと片付けられてしまうことは明らかだ。
 自分の周囲のことは、自力で何とかするしかない。けれど、カーガスがこれまで封じた数多の妖鬼の中には、実体を持たぬ者など一体としていなかった。彼の記憶している限りでは、皆、醜悪な姿の化け物であったり、人に近い子供姿の魔性であったりした。
 こんな離れ業が出来る妖鬼などと、護り手になってから一戦交えた覚えはない。
『覚えていないのか。残念だな……まあ、随分あっさりやられちまったからな。あの女の裸を拝ませてもらった妖鬼……って、言えば判るかい?』


 脳裏にひらめくものがあった。水浴びをしていたカーガスを、不意に襲った品のない化け物……あれは、つい先日のことではなかったか。
「封印が……?」
 まさか……という思いがあった。
 彼女の封印が、完璧ではなかったというのか。頭に浮かんだ考えを、志奇は即座に否定した。そんなはずはない。あの時の妖鬼は確かにカーガスの珠に吸い込まれ、魂ごと封じられたはず。
 嫌な予感が、胸の内側を占めていく。あの晩、主人を寝かし付けて、幼馴染みの愚痴を聞いた後、寝室を出て向かった先で見た悪夢のような光景を、彼は思い出し始めていた。
 封魔庫の結界が、何者かの手によって内側から破られていたのだ。
 物の見事に。
 長い浮城の歴史の中でも、結界が破られることなど、考えられぬことだった。結界を維持し、内部を監視する担当の護り手たちは、彼がその場にたどり着いた時にはほとんどが手傷を負って倒れ付していた。
 その内の一体を助け起こし、事情を問うと、彼は悔しげにこう語った。
 逃げられた、と―――。
 その一言で彼は全てを悟った。その場の護り手たち全てに口止めし、このことは気付かれるまで一切他人には漏らすなと告げた。無論、彼らとて自分達の失態を上に知られることを恐れていたから、それには素直に頷いた。
 いずれ判ることであっても、このことが人に伝わるその前に相手を捕らえ、再び封魔庫に押し込めてしまえば何の問題もなかった。不意を突かれたとはいえ、今度は逃がさないという自信が彼らにはあった。
 結界を張る力において、志奇の右に出る者はいなかった。以前と寸分変わらぬ空間を構成し、異変が外部に漏れぬよう細心の注意を払った。
 この事態に全く気付く気配もない上層部への不信感ももちろんあったが、それ以上に、捕縛師たちの立場を志奇は案じていたのだ。
 中途半端な封印が災いして、結界から魔性が漏れたのなら、その魔性を封じた捕縛師がまず責任を問われ、処断されることになる。万一の可能性として、その中にカーガスが含まれていないとも限らない。
 そんな彼の先を予測する慎重さが、皮肉にも功を奏したと言えよう。青年の口が、その推測が事実であることを肯定する。
『そうさ。あの女はオレの封印に失敗した。心に迷いがあったんだ』
 主の弱さを知り尽くしているような男の口調に、考えに沈んでいた彼は顔を上げる。
「迷い……だって……?」
 ああ、と男は告げる。
『弱い心。寂しがる心。迷う心……葛藤、と言うのだったか?まあ、そんなものさ』

  
 それこそが封印の効力を弱めたのだと、妖鬼は言う。いったんは封じられたものの、封魔庫の中でのたうち回るうちに、出口を見つけた。
 かつて封じられた力弱き同胞達の魂をも、彼は片端から食いあさり、ついには強固な結界の隙間を縫って外に出たのだ。
 体を再構成する力は持たずとも、人の弱い心に付け込んで、内側から操ることは容易だった。シバの肉体は、彼に取ってもっとも御しやすく、居心地のいいものだった。
『人間の内側に直接入るのは初めてだったが……意外と楽なものだったよ。この男もオレと同じ目的を持っていたから、というのもあったかもな……あの女を憎く思い、そしてあんたを…………』
 言葉の後半は良く聞き取れない。
 男は、じゅる、と涎を啜る。彼を見る目付きが、ぎらついて異様だった。


 志奇は再び視線を床に落としていた。認めたくはなかったが、男の言うことが真実であると認識したからだ。
「カーガス……どうして……」
 彼の主人は気丈な女性だった。不安げな顔など一度たりとて見せなかった……少なくとも、自分の前では一度も。
 そしてそんな彼女を、志奇は確かに愛していた。
『見ない振りをしていたんだな』
 男が囁く。
『その方があんたにとって楽だったからだろう。主人と護り手という関係が、自分にとっても相手にとっても、最良の関係だと思い込もうとしていたんだな』
 すべて判っているのだと、言わん許りの男の口調に、苛立ちが募ってくる。
「お前に…………何が……」
 何が判るというのか。
 他人の心に付け入ることを得意とする妖鬼の言葉は、容赦なく志奇の心にまで迫ってくる。それを戯言と聞き流してしまうには、彼はあまりにカーガスに心を傾け過ぎていた。
『気の毒な女だ。あれはずっと、あんたを想って泣いていたっていうのに。見て見ない振りをしていたんだな。ほんとは判っていたんだろう?溺れるのが怖くて、見て見ない振りをしていたんだな』
 全てを見透かしているような、不気味な男の言葉が、志奇の仮面を一枚ずつ剥がしていく。主に忠実で礼儀正しい、品行方正な護り手、という偽りの仮面を。
 一見無垢なその心の奥には、人間であるあの女性には決して見せられない、どろどろとした欲望が渦巻いていることを、男は実にあっさりと看破する。
「うるさい…………」
 頭を抱えても、耳を塞いでも、男の声はどこまでも纏わり付いてくる。耳元で囁くように、声はすぐ近くから聞こえてくるのだ。
『あんたも所詮、臆病者さ……………………』

「うるさい、うるさい…………っ……!」




 飾りのない、澄んだ青年の声が耳を打ったのは、その時だった。
「よせ。奴の挑発に乗るんじゃない……君は賢い子だ」
 それは紛れもない、彼の良く知っている魅縛師の声に他ならなかった。のろのろと顔を上げた志奇の目に飛び込んできたのは、心底心配そうにこちらを見ている青年の顔だった。
「……シバ?」
 かろうじて残っていた青年の意識が、志奇に訴えかける。
「すまない、志奇。俺が心をしっかり持っていれば、こんなことにはならなかった」
 その声に、また別の声が覆い被さってくる。
『この体はオレのもの。オレが自由に使える。お前は……邪魔だ』
 男の声に、青年の真摯なそれが重なる。
「夢依を殺めてしまった。もう、俺の罪は拭いようがない……頼む。構わずこの妖鬼を浄化してくれ」
 彼の声に、妖鬼のそれが再び重なる。
『できるかな……この男は、人間。脆い器だ。壊せば二度と元には戻らんぞ』
 シバに取り憑いたことで、彼の過去の記憶の一切を網羅した妖鬼は、彼と志奇との関係までも熟知しているらしかった。志奇はぶるんと頭を振って、これまでの雑念を振り払う。
「シバ……だけど……っ!」
 かつて自分が魅縛された、気弱でお人好しの青年の魂が、未だ残っていることに彼は戸惑う。
「志奇っ!」
 切ない、悲鳴に近い叫び……それは、今まさに不幸な末路を辿ろうとしている彼の、血を吐くような本心の叫びだった。
「君はカーガスの護り手じゃないのか!ならば自分が今、どうすべきかよく考えるんだ……っ!」
 それは、彼が初めて見せた、魅縛師としての誇りに満ちた瞳だった。志奇がはっと胸を突かれた瞬間、彼の意識は妖鬼の力によってねじ伏せられ、唇からは再び別の男の声が漏れた。
『無駄なことを……』
 人の体となった今、転移門を使えば、ここから抜け出すことは容易だろう。なぜそれをしないのか……深く考えるまでもない。彼の目的は、脱出のみならず、カーガスへの復讐にある。ならば、今のうちに始末しておかなければならない……うまくやれば、シバも……無傷とまではいかないだろうが、命ぐ らいは助けられるかも知れない。
 覚悟を決め、攻撃の姿勢を取る彼をからかうように、男が告げる。
『いいのかい?オレなんかに構っていて』
「な、に……?」
 優位を確信した口振りだった……なぜだろう。



 シバと自分の覚悟が決まった今、どう考えても不利なのは相手の方だろうに。
 遠く離れているカーガスに、ここから手出しなど出来ないはずだ。だからこそ志奇は彼女を突き放すような言動を取った。カーガスの性格を考え、敢えて彼女を挑発した。そうして自分から遠ざけておいて、この不埒な輩は自分一人で片付けるつもりだった。
 彼女の心の底にある優しさ、人間ゆえの甘さを、志奇はとうに見抜いていた。
『人の姿をしていたって、魔性と思えば殺せるわ』
 それは、嘘だ。知り合いの人間に乗り移った魔性を―それをすればその人の魂にも影響を落とすと知った上で―彼女が封じきることが出来るとは思えない。仮に封じたとしてもそのことで自分を責め続け、心を痛めてしまうだろう。ならば、咎められるのは自分だけで良い。罪に手を染めるのは自分だけで良いのだ。


 彼の決意を嘲笑うかのように、相手の言葉は紡がれる。
『一時とは言え、オレを封じた憎い女に、何の手出しもしていないと思うなよ』
 男の声は、志奇の心に不吉な影を落とした。罠である可能性を考慮しながら、彼は慎重に問い掛ける。
「どういう、ことだ……」
 脅しのつもりで小さく放った力が、男の頬をかすめる。それをものともせぬ男のふてぶてしさが、志奇をなおさら不安にさせた。
『何もかも……あの妙な珠がいけない。あんなものがあるからいけないんだ』
 そう言って男が笑うのと、志奇が先程この男の取ったあの不自然な行動の意味を理解するのとは、ほぼ同時だった。
「……お前……っ……!」
 彼が、カーガスの指輪にいやらしい手つきで触れていたことを思い出す。
『気付いたようだな。でももう遅いんだよ……あの真珠が使えなければ、あれもただの女だ。そこいらの小鬼にやられちまってもおかしかあないな。さて、力もない、護り手もいないただの女が……果たして無事に帰ってこられるかな』
 彼は、カーガスに直接害を加えるつもりは毛頭なかった。彼女の側には常に志奇がいるのだから。男の目的はむしろ、自分とカーガスを引き離すことにあったのだと、今になって気づく。
 魔性である彼等にとって、封魔具は脅威の存在だった。だが人間であるシバの体を通じて触れる分には、直接の害はない。この妖鬼がそれを利用して、自らが蓄えた命の幾つかをカーガスの珠に流し込んだのだとしたら……?
 しかし、それには相当な力を要するはずだ。
「そんな……ことが……」
 男の力は、シバの力でもある。二つの能力を合わせれば、可能でないとは言い切れない。それを認めたがらないのは、志奇の願望でもあった。
 もはや全ての先手を、男に打たれてしまった、志奇の微かな希望でもあった。
『可能なのさ。あの真珠に触れるのは気持ちいいもんじゃなかったが、なかなか気の利いた策だったろう?』


 一度命を吸収した封魔具は、二度とは使えない。媒介となる道具が使えないとなれば……今のカーガスには、何の力もないということになるのだ!
「カーガス……っ!」
 不安と焦りが、彼の心を大きく動かす。
『行かせんよ』
 今すぐに、主の元へ飛ぼうとする志奇を、シバであってシバでない者の手が押さえ付ける。
「どけ……っ!どけよ、畜生が……っ!」
 彼は願った。魔性に出会ってしまう前に、彼女が今一度封魔具の状態を確認し、少しでも早く異常に気が付いて、引き返して来てくれることをひたすら願った。
 けれど、その可能性は極めて薄かった。何故なら、彼女を怒らせてしまったのは自分なのだ。
 カーガスは怒りだすと周囲のことが全く見えなくなる。そのことを承知で、彼女の心を操り、自分から離れて行くように操作したのは他ならぬ、自分なのだ。
 それも全て、彼女を守る為だったというのに、その全てを見事に逆手に取られてしまった。何もかもが、この得体の知れない妖鬼の計算の内だったのだ。
「どけ……どけったら!僕はカーガスの所に行くんだ……っ!」
 決定的な一撃を、彼は加えられない。中にはシバがいるのだ。カーガスとシバと、両者の命を握られている志奇は、力では遥かに勝っているこの相手に、その点で遅れを取っていた。


『そう焦るなよ……オレが相手じゃ、不満かい?』
 覗き込む妖鬼の瞳は、暗く濁っている。



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