書庫 嗤う砂塵3(カーガス×オリキャラ、バッドエンド)


何でも一番でなければ、気が済まない性質だった。
 後から生まれて来た妹に、両親の愛情の一切を奪われた過去のせいだろうか。人の倍順位にこだわる彼女にとって、浮城という組織は適切な場所だった。
 完全な能力主義。誰から受け継いだわけでもなく、ある日突然希有な力に目覚めた彼女の前に、浮城の関係者が現れ、その能力を伸ばすべきだと告げられた時に、彼女は目の前が開けた気がした。初めて妹に勝ったと思ったのだ。
 人形一つ買い与えてはくれぬ親など、こちらから捨ててやった。組織の一員となったカーガスは腕を磨くことに専念した。妹は封魔具など持てない。魔性とかち合えば、何の能力も持たない彼女などすぐに餌食となってしまう。だが、自分は違うのだ。
 美しいだけではなく、魔を封じる力をも合わせ持ち、選ばれた人間として世界を救う組織の一端を担う有能な捕縛師。
 それが、カーガスという女の肩書きでなければならなかった。


「志奇」
 真夜中、寝汗をびっしょりとかいて、護り手の名前を呼ぶ。
 程なくして小さな少年が姿を現す。手には、彼女の汗を拭くための布を持っていた。
「遠くまで行ってたから、遅くなっちゃった」
 明かりをつけ、ぺろりと舌を出すその仕草は、魔性に関する知識に乏しい人間の目からすれば、完全に幼い少年のものだった。
「すごい汗だなあ。水も欲しい?」
「いらないわ……ねえ、志奇」
 カーガスは肩で息をした。
さすがに、ここ数日続いた仕事の疲れが蓄積している。
 最近、彼は呼んでもすぐには現れない。目玉の採集に忙しいのだろう。それでも姿が見えないと、不安になって探してしまうし、呼んでしまう。そんな自分の弱さを彼には悟られたくなかった。
「あんた、最近シバに会った?」
 綿埃のように目の前に漂う彼を布ごと包み込んで、挙動を見逃すまいとする。
『会うな』と直接命令した覚えはない。彼がその気になれば、壁をすり抜けてでも空を飛んででも……それこそいくらでも、シバの元へは行ける。それをしていないとしたら、カーガスへの忠誠心が勝っているのか、それとももうあの男には、真実の意味で、全く関心がないのか…………。
 どちらでも構わなかった。また、そのどちらかでなければいけなかった。彼の瞳をじっと覗きこみながら、切り出す。
「昼間、久し振りにあいつと話したのよ」
 彼もまた、じっとカーガスの目を見ていた。その瞳に動揺は感じられない。
「シバが……僕のこと、何か言ってたの?」
「心配してたわ」
 カーガスは正直に教えてやる。
 許せないことは一つだけだった……否、ある意味では、ふたつか。
 志奇がいまだにシバへの思いを引きずっているのではないかということ。そしてシバも……。
「でも、あたしはあんたと契約してるんだからね」
 念を押すように彼女は告げる。彼の瞳は相変わらず澄んでいて、とても魔性のそれとは思えない。
「判ってるよ。契約だもん」
 それ以上の気持ちがあることなど、とても伝えられない。伝えたら、きっと離れていってしまう。 そんなことは堪え難かった。
 何故、こんなにも捕われてしまったのか。
「そうね」
 汗を拭いてもらいながら、カーガスは目を伏せた。髪の色と同じ薄茶の睫が、痩せた頬に陰影を作る。
「おやすみ、カーガス」
「……ええ……」
 それ以上の気持ちがあることなど、とても伝えられない。



                      ※



 無邪気な護り手に見守られながら、カーガスが切ない夢を見始めた頃、浮城の長い長い廊下の上をふらふらと歩いている……いや、浮いている物体があった。


 どこまでも青い幼女だった。髪は青、瞳も青、細く短い腕も青。頭元には―通常は足下と表現すべきだが、彼女に足はない―影が存在しない。頭が下を向き、腰から先に続く炎が静かに燃えている。 誰もが寝静まった部屋の、そのうちの一室に、音もなく幼女は侵入した。
 ころころころ……………………ころりん。ころころりん。
 窓枠で目玉を転がして遊んでいた志奇は、その姿を見て顔を輝かせる。
 久し振りに見る知己の姿に単純な喜びを示し、おいでおいで、と彼は手招きする。対して、青い炎の化身とも見紛う、愛らしい幼女の表情はどこか沈んでいた。
 志奇に近付くと、カーガスの寝台の上に顔を伏せ、うわあああん、と派手に泣き真似をして見せる……あくまで、真似だ。魔性に涙はないのだから。
「カーガスが起きちゃうだろ」
 迷惑そうな顔をする少年を、夢依はシーツを噛みながら睨み付けた。
「冷たいのね……自分の方がうまくいってるからって、余裕こいちゃってさ。ああ、あたしたちもうだめだわ。破局よ。終末よ。この世の終わりよっ!」
「いいから、落ち着けって。……シバと喧嘩でもしたのか」
 大方、この嫉妬深い幼女が必要以上にシバにつきまとって、彼を辟易させているのだろう。つきあいが長い分、彼女の性格は充分把握していたが、それにしてもこの世の終わりとは大袈裟だ。その態度に普段と違う深刻さを感じて、志奇は問い掛ける。
「カーガスから聞いたよ。あの人、まだ僕のこと気にかけてくれてるんだって?」
「そうなのよ!最近、彼ってば変なの。あたしに対する優しさが感じられないのよ」
 何やら、問い掛けに対する返答が一段階遅れているような気がするが、いつものことなので志奇は気にしない。
「そんなこと僕に相談されても、困るんだけど……変って、いつから」
「言っとくけど、シバは誰にでも優しいんだからね。あなたにだけじゃないのよ」
「はいはい……それはさっきの質問の答えだろ。じゃもう一回聞くぞ。優しさが感じられなくなったのはいつから?」
「他に誰も相談する人がいないから、あなたのとこに来てるのよっ。そのくらいわかってよね!」
「はいはい。それで、シバが変になったのはいつから?」
「……この間から」
 ようやく、彼の質問が届いたらしい。けれどまだ答えとしては不十分だった。
「この間からじゃわからないだろ。具体的に言ってくれないと」
 夢依は攻撃型の妖鬼で、深く考えたりすることは得意でない。

「先月からよ。なんだか急に人が変わったみたいに冷たくなって……そりゃ、多少はしつこくしたかもしれないけど、元はといえば、あの人の女癖が悪いのがいけないのに。誘われたらホイホイ誰の上にも乗っかるんだから……ふんだ、どうせあたしには足がないわよ。でも、女の魅力は下半身だけじゃない」
 おいおい、と志奇は呟く。魔性には人間ほどの羞恥心はないが、それでも今の発言は明らかに節度を越えている。
「はしたないよ、君……」
「何よ」
 今ごろになって頭の回路が回ってきたのか、それとも単にかちんときたのか、夢依の返答は急に正確なものになった。
「志奇なんかこの綺麗なお姉さんと毎晩、もっとすごいことやってるくせにい」
「やってないやってない」
 志奇は顔の前で片手を振る。そんなことしたら殺されるって、と内心で呟きながら。
「冗談はそのくらいにして。あまり思い詰めるなよ。マンスラム様も言ってたじゃないか。『仕事』と『私事』は別にして考えろって。僕たちは主にだけじゃなくて、浮城という組織全体に忠誠を誓った身なんだから」
 一人の人間に入れこんでも、後が辛くなるだけだ。自分だけではなく、相手にとってもそれは負担になる。共にいることが苦痛なだけなら、護り手の存在する意味はない。
「そうね。あなたは強いし、世渡りもうまいものね……でも、あたしは、そんな風には考えられない」 熱のこもった言葉だった。
「彼の笛の音に捕らわれたあの瞬間、あたしの心は決まったの。彼の側にいられないのなら死んでもいい。彼の側にいられるのなら死んでもいい」
「要するに君は、死にたいのか」
「ちがーう!」
 相変わらず女心に鈍感なのね、と忌ま忌ましげに夢依は叫ぶ。
「それより、あなたの方も気をつけた方がいいわ。シバってば、どうもこのお姉さんのことあんまり良く思ってないみたい。この人を見る時の目つきが鋭くて、ちょっと怖かったもん」
 近々、もうひと悶着あるかもしれないわ。
 夢依の言葉を、彼は意外に思う。
 あの、気弱なシバが、カーガスを睨み付ける?
 小首を傾げつつも、彼はそれも一つの可能性として考慮に入れた。
「まあ、確かにカーガスは、口は悪いし態度も大きいし、生意気で身勝手な上に傲慢で高飛車で、自分に自信を持ち過ぎているうぬぼれやさんだけど………………」
 本人が起きていたら激怒ものの台詞に、さしもの夢依も目を丸くする。
「……でも、彼がカーガスを憎む理由なんかどこにもないじゃないか。むしろ、嫌っているのは彼女の方だろう」
 決めつける口調に、彼女は眉宇をひそめる。
「どうしてそう思うの?」
「カーガスは僕のことが好きだから、シバに妬いてるんだよ」
 ぬけぬけとよく言えたものである。が、事実であることは疑うべくもない。
 眠っている女性の薄茶色の髪の毛を、そっと指で梳いてやりながら、彼は微笑む。
 窓辺には眼球がひとつ、無造作に置かれたままだった。女性の閉じられた瞼の奥にも、同じ形のものが二つ埋まっている。
 けれど、彼はそれを掘り出そうとはしない。その瞳に彼の姿を映して、彼女が怒り、笑い、その度に長い睫が震えるのを見るのが好きだったからだ。
 志奇は、カーガスの一日の瞬きの数をはっきりと数えることができる。


「あっきれた……でも、今、幸せなのね。うらやましいな……」
 夢依の愛らしい横顔に、ふと寂しげな影が落ちる。
「自信を持ちなよ。シバが選んだのは君なんだ、僕じゃなくて」
 あの時、シバに選ばれず、落胆する彼を慰めてくれたのは夢依だった。今は見事に立場が逆転している。だが、素直に優越感に浸れる程に、今の彼には余裕がなかった。
 ここ数日、主のご機嫌が麗しくないのは、こちらとしても同じなのだから。シバの件が後を引いていることは明確だが、いかんせん、『女心に鈍感』な彼ではすぐには対処の仕様がない。夢依の話を聞くことで解決の糸口が掴めるのではないかと思ったのだ。余裕を装うのはこの幼女の手前仕方のないことと言える。よもや、自分を頼って来てくれた相手の前で弱音を吐くわけには行かないではないか。
「うん……あたし、帰るね。実は明日、仕事が入ってるの」
 ゆらり、と夢依は上昇する。逆さから彼を見据えながら、カーガスの方へ顎をしゃくり、「そっちのお姉さんにもよろしくね」と告げた。
「仲直りできるといいな」
 本心から彼はそう言った。既にかけがえのない存在を手に入れている彼に、それ以外の言葉は見つからない。
 夢依は力のない笑みを返すと、扉を開けることもなく静かに部屋を出ていった。彼女の残していった青い軌跡が、彼の目の前でしばし瞬いて消える。
 灰色の髪をくしゃりとかき混ぜながら、志奇は呟く。
「手のかかる女達だな」
 苦笑しながらも、彼女達に向けるまなざしは優しい。包み込むようなそれは父性的な愛情とも言えた。幼い姿を選び取っている彼にその感情はあまりに不釣り合いで……だからこそ、時として危うい魅力を醸し出す。
「さて、と……どうしようかな」
 調べなければならないことが、幾つか出て来た。
 夢依の話によれば、シバの態度が変わったのは、一月前ということだった。
 何か、うさん臭いにおいがする。 探っておいて損はないだろう。
 
 腰に巻き付けた黒い布を翻すと、彼の姿は寝室からかき消えた。







笛の音が聞こえる。
 深く、それでいてどこまでも澄んだ、笛の音が聞こえる。
 草を分け、谷を越え、夜空までも突き抜けてそれは届く。その音色に彼らは聞き惚れ、また酔いしれ、さらに近くで耳にしようと、一体、また一体と集ってくる。
 この魅惑的な音を奏でる人物を、一目拝もうと集ってくる。
 林の奥から、こちらを興味深げに窺っている子供姿の妖鬼。
 泉に潜み、じっと聞き耳をたてている、水棲形の小鬼。
 笛を吹き始めた頃から、彼の肌に触れる空気は、ぴんと張り詰めたものに変わっていた。肩に、腰に、額に頬に……幾つも注がれる、興味深げな視線。
 魔性は集う。
 ある者は好奇に、ある者は憎悪に、ある者は動揺にその身を任せ。
 彼の音色に引き寄せられ、魔性は集う。
 
 彼は目を伏せ、体躯をくの字に曲げるようにしながら強く息を吹き込む。狭い穴に一気に押し込まれた空気が切ない音を奏で、彼がその指を自在に動かして気の抜ける位置を変える度に、様々な音階が浮かんでは闇夜に溶け込んで消える。
 彼の頭の中には、その時その時に思い付いた旋律が誕生する。
 同じ曲は二度とは吹かない。
 それが彼の鉄則であった。
「これは、君達の為の曲だ……」
 息継ぎの合間に、魅縛師の青年は告げる。いつの間にか、彼の周囲を囲むように存在している、無数の……人に近い形を取りながら、決して人では有り得ぬそのモノ達を、眼下に敷いて彼は告げる。
「ここでしか吹かない。ここでしか吹けない。……どうだい、気持ちがいいだろう?」
 支配の響きを露骨に宿した、声であり態度であった。だのに、彼らは反発の様子も見せず、静かに頭を垂れている。
 シバは、再び唇を割れ目に押し当てた。優しく、優しく息を吹き込む。半分だけ塞がれた穴から漏れる、繊細にして美しい音色は、女神の吐息のように甘美であった。
「ああ……あたし、もう……っ」
 その場に膝をつき、降伏の姿勢を取るのは、耳の尖った、少女姿の妖鬼だ。彼女を筆頭に、それまで立ち尽くしていた妖鬼たちの肌を突き刺すような敵意も、徐々に薄れ、形をなくしていく。
「いい子達だ……俺と一緒に来るね?」
 ここよりは、ずっと楽しいことがあるよ………………と、彼は笑う。
 ただし、その先の責任までは持てないが。
「行くわ」
「行きたい。行く」
「もっと笛を吹いてくれ」
「音が聞きたい」
 幾つもの、期待に満ちた声。悠然と腕を組みながら、シバは魅縛した魔性達を見下ろしている。
「そうだね……わかったよ。それじゃあもう一曲……」
 再び、笛を吹きはじめる。その繊細な指づかいに、誰もが酔い始めたその刹那…………演奏は、中断された。
「シバっ!」
 不快げに、顔をしかめる彼の眼前に現れたのは、彼の護り手たる幼女だった。

                      ※

「なんだい……」
 突き放したような返事に、きゅっと唇をかむ。
 彼に危険を知らせる為に、夢依は現れたのだ。
 雲間に月が隠れて、足下さえも見えぬこんな夜には、彼女の纏う青い光はそれでなくとも重宝するはずだった。
 だのに、いつから彼はこんなに冷淡になったのだろう。初めて会った頃はとても紳士的で、いつも彼女を側から放さずにいたというのに。
 彼の為なら、この命、いつでも投げうつ覚悟が出来ているというのに……………………。
「御大が動き始めたらしいわ」
 主の心が離れつつあるのを知りながら、彼女はどうすることも出来ない。
 今の夢依にできることは、彼の手足となり、少しでも彼の役に立つ仕事をして、自分が存在することの意味を確信することだけだった。
「だから……悠長なことしてる場合じゃないって、伝えにきたの」
 今までの音色は黒幕をおびき出す為のほんの小手調べのようなものだった。真の標的が現れるまでは、魅縛の力は温存しておかなければならない。
「そうか」
 顔色ひとつ変えずにシバは言う。近付いてくる妖気に耳を澄まし、こちらの方は決して向いてはくれない。
 彼を守る為に、夢依がその力を発動させようとした時だった。
「結界を頼むよ。この子逹の分もね」
 当然のことのように放たれた言葉に、夢依は耳を疑った。
 一人でも難儀な守護結界を、この場にいる全ての雑魚達に対しても張り巡らせよと。
 彼はそう言ったのだ。
「無理よ、そんな……っ!」
 彼女の憤りはもっともだった。
「第一……どうしてこんな連中まであたしが守らなきゃいけないの!」
 渋る護り手を、しかし彼は全く取り合わない。
「彼らは無傷で連れ帰りたい。今浮城は人手が足りないんだ」
 心身共に青い幼女は、彼の言葉にきつく歯噛みする。
 思うことは一つだ―――昨日今日出会ったばかりの小物に、そこまで砕く心があるのなら。
 なぜその分の慈悲を、少しでも自分にまわしてはくれぬのか……!
 自然と彼女の口から、つれない主をなじる類いの言葉が漏れる。
「あたしは……っ、志奇みたいに、結界張るのは得意じゃないって……知ってるくせに……っ」
 何故ここで、彼の名前が出てくるのか、自分でも判らなかった。
 昔から、志奇には何一つ敵うことなどなかった。だがシバに選ばれた時点で、夢依は彼に勝った。その事実により、彼に対する劣等感が、少し薄らいだような気持ちさえしていたのに。
 それは先日、あんな場面を見てしまったせいだと彼女は思う。彼女の大切な主人と、彼女の大切な幼馴染みの主人が、食堂で言い争っているのを目撃してしまったからだ。
 シバは、まだ志奇のことを諦めきれないでいる。そのことが夢依の自信を崩し始め、嫉妬心にも拍車を掛けているのだ。
「そうだね……」
 魅縛の準備に掛かりながら、シバは幼女に冷めた目線を送る。
「志奇ならこんな時、二つ返事で引き受けてくれただろうね」
 はっとして夢依は主人の横顔を凝視する。
 闇夜に浮かび上がるその肌は青白く、まるで別人のように思えた。
 とぎれた会話の合間に、虫の音が聞こえる。彼の口にした内容を考えるよりも先に、頭にひらめくものがあった。
 これは……シバ?
 不意に浮かんだ疑問を、夢依は胸の中で転がし始める。
 これは、あたしが好きになった、あのシバなの?

 がさがさがさ………………

 不穏な音と共に、目の前の茂みが揺れる。
 びくりとして、夢依は構えの姿勢を取った。
「お前……そうか、お前だね。私の下僕達をたぶらかしてくれたのは」
 低い、女の声……聞こえた方向に反して、それは背後から現れた。
 長い黒髪、黒い瞳、何より人間より遥かに美しいその姿態―――。
 その全身から放たれる圧倒的な力が、先手を狙っていた夢依の戦意を早くも挫いてしまう。
「妖……貴……!」
 認識した瞬間、震えが走る。
 読み誤った、と夢依は思った。まさか今回の依頼に、上級魔性が絡んでいようとは。
 すぐさま主人を振り返るが、彼はそこから一歩も退こうとはしない。怯えているのとは、また違うようだった。相手の力量が読めないのか、それゆえに勝てるとでも思ったのか、いましがた虜にした魔性達を下がらせ、自分は一歩前に踏み出す。
「シバっ!逃げてえっ!」
 精一杯の力で、結界を張る。彼が逃げおおせるまでの間、自分の体力が持つかどうか、それは賭けだった。だが、シバは動じない。
 夢依の瞳には彼の背中のみが映り、表情までは伺えなかった。
 女性も彼の行動を不審に思ったのか、しばらくは怪訝そうにシバを眺めていた。
「どういうつもりなの。ここまで挑発しておいて、今更、憶したのかしら……それとも、私の美しさに声も出ない?」
 優雅な動きで、近付いてくる。漆黒の巻き毛は地を這うように長く、その声はシバの奏でる音色よりも遥かに魅惑的であった。
「それもいい……お前、私の力が判らないほど愚かではないだろう。ならば早く家にお帰りなさい。私はかなり寛容に出来ているからね、子供の悪戯を咎めるつもりはない。後ろの子達を返してさえくれれば、見逃してあげてもいいわ」
 そう言うと、シバの背後にいる小鬼たちに、ちら、と視線を投げ掛ける。
 それだけで彼らは怯え、竦み上がった。主の不在に他の者に心を移したこと、咎められるのは承知のこととはいえ、その時の女性の眼光の鋭さは尋常ではなかった。
 殺される。
 夢依を初めとする、その場に居合わせた誰もが、そう思った。
 一同が固唾を飲む中、しかしその次に、シバが放った言葉こそが、場の空気を大きく変化させるものとなった。
『いやだなあ。オレですよ』
 シバの口が滑らかに動き、その中の何かが告げる。
 女性がわずかに目を見張った。純粋な、驚きに満ちたその表情が、人間に向けるそれとは明らかに違ったものに変化する。
「お前……」
 その双眸が、なつかしげに細められる。
 女性の敵意がみるみる薄れていくのを、肌で感じながら、夢依は不信感を拭えない。
「お前なの?しばらく姿を見ないと思ったら……こんなところにいたの」
 ゆっくりと、シバに歩み寄る。女性の美しい指がシバに触れた。
『楽しい遊びを見つけましてね。これもその一環ですよ』
 魅縛の笛を手の中で転がしながら、シバが告げる。
 どうして、と思う。
 なぜシバが、妖貴と親しげに話をしているのか。
「お前にそんな芸当が出来たとはね。見直したわ」
 くすりと笑いながら、女性はふと夢依に目を向ける。
「では、あの小娘は……?」
 見つめられただけで、彼女は逃げ出したい衝動に駆られた。
『ある程度は、役に立ってくれました。……だが、もう用済みです。始末しますよ』
 そういって振り返った彼の顔は、明らかに魔性のモノだった。
 違う。
 これは、シバじゃない!
 コレハ……………………ナニ…………?
「やだ…………」
 じり、と後退りする。
 逃げようと思うのに、体は動かない。
 妖貴の女が婉然と微笑み、その横にいた、シバであってシバでないものが、ゆっくりと近付いてくる。
「い……や……あっ……!」
 悲鳴を上げかける口を塞いでくる彼の手は、驚く程に冷たかった。
 その掌から口を通じて、体内に、冷ややかな風が容赦なく流れ込んでくる。冷気は夢依の内側に入り込み、心臓が持つ熱を徐々に奪っていった。
 手から力が抜け落ち、全身の気力が萎えていく。身体を包んでいた青い輝きも、見る見る小さくなり、細い体の輪郭だけが浮かび上がってくる。
 痩せこけたその姿は、体毛を刈られた獣のようだった。ぶるぶると肩を震わせ、自らの恥ずかしい姿を晒さなければならなくなった彼女は、シバに縋るような目を向ける。
 だが、シバの瞳には何の感情も宿ってはいなかった。
 寒い………………痛い………………!
 吹き込まれた冷気によって、彼女の心臓は凍りつき、活動を止めつつある。
 シバの唇がはっきりと動くのを、彼女は見た。
『お前にもう用はない』
 長く連れ添ってきた護り手を、彼はあっさりと切り捨てる。
『オレの目的は、……………………ただ一人。だからお前はもう要らないんだよ』
 その言葉に、夢依の目が大きく見開かれる。
「あ、なたは………………最初から……っ」
 『彼』が目的で……!
 呟く彼女の首を、きつく締め付けてくる男がいる。傍らで笑っている魔性の女の顔が、不意にアイシャンのそれと重なった。
「あなたは消えるのよ?」
 おかしそうに笑う女性の声が、夢依の持ち前の気性の激しさに火をつけた。
「あんたたちが…………っ、シバを操って…………そうよ。そうなのね」
『馬鹿な小娘だ』
 男が笑う。
『これはこの男の意思さ。お前を心底欝陶しく思っていながら、契約とやらのせいで身動きの取れないこいつに変わって、オレが引導を渡してやるのさ』
 彼の意思を全て把握しているかのような男の口振りが、夢依の心に焦りを生む。
「嘘よ…………そんなのうそっ…………」
 自分の勝手な性格を思えば、嫌われることは仕方がないのかも知れない。
 けれど、そこに第三者が関わってくることなど、許しがたかった。シバ自身の口から、嫌いだ、離れてくれと言われたのなら、夢依は彼を傷つけてまで共に居ようとは思わない。
「うそ…………よ…………」
 シバは迷惑そうな顔はしても、夢依自身には何も言ってはくれなかった。
 彼の意思を告げるのは、いつも周りの人間ばかりだったのだ。
『あなたのこと、彼は迷惑がってるのよ』
 魅縛師の女は、知ったような口調で彼女に告げてきた。
『護り手の権利を使って、いつもべったりしていたら、彼とて疲れてしまうわ。それと、この間あなたが破いた服も、弁償して下さる?行き過ぎた好意も大概にしないと、魅縛長に訴えるわよ』
 シバ自身は、決して何も言わない。
『シバが、あたしのこと迷惑だって、そう言ったの?』
 静かに問い掛ける彼女に、アイシャンは聞き分けの悪い子供を見るような目付きで答える。
『それくらい聞かなくても判るでしょう!少しはシバの気持ちも考えて下さらない?』
 彼の気持ちなど、夢依には判らない。直接聞いたことなどないのだから。
 だから、同じ思いを抱いているはずの志奇を訪ねた……彼ならば、この気持ちを判ってくれると思った。
『あまり思い詰めるなよ』
 久し振りに会った志奇は既に、シバとは別の、大切な存在を得ていた。少なくとも夢依の目にはそう映った。眠っている美女の髪を梳きながら、これまで見たこともないような穏やかな微笑みを浮かべる幼馴染みの姿を見た時、彼女は困惑した。
 今まで自分がしてきたことは、一体何だったのだろうか。
 彼に負担をかけ、その周囲の人間にも煙たく思われているだけ……?
 違う。
 ここで弱気になっては、自分を選んでくれたシバの心までも、裏切ることになる。
 彼と築き上げた一つ一つの思い出までもが、偽りだったとは思いたくはない。
 これは意地でもあった。勝手な恋であろうと、彼の口から直接本心を聞くまでは、意地でも彼から離れるわけにはいかない。
 魔力を吸い取られ、逃れられないことを知りながら……だから、渾身の力で、叫ぶ。
「シバを………………っ…………!」
 ぎらぎらと光る憎悪の目だけは、辛うじて力を失ってはいなかった。
「シバを返して…………返してよっ…………!」
 それが、彼女の最期の言葉となった。



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