書庫 嗤う砂塵2(カーガス×オリキャラ、バッドエンド)


浮城には、魔性の墓場とも言うべき一角がある。
 捕縛師によって封印された、魂の眠る場所……それが、封魔庫である。
 上層部さえも滅多に立ち寄らぬ閉ざされた部屋には、二重にも三重にも結界が施され、部屋の鍵は捕縛師長が肌身離さず所持している。
 その封魔庫に、また新たな命が納められる。丁重に布にくるまれて捕縛師長の眼前に差し出された真珠の指輪は、既に封魔具としての使命を終え、永い眠りについていた。
 捕縛師長の部屋は、封魔庫と隣接している。整頓された机ごしに向き合っているのは、妙齢の美女とその護り手……カーガスと志奇である。
「確かに、受け取ろう。遠路ご苦労だったな。今日はゆっくり休むといい」
 上役の労いの言葉に対して、カーガスは誇らしげに胸を反らす。
「疲れなど感じておりません。大した相手ではありませんでしたし」
 確かに、彼女の顔に疲労の影は全く見受けられない。依頼された仕事のみならず、その帰途につく途中で更にもう一体の妖鬼を封印しているのにもかかわらず、だ。
 その気丈な様子に彼は苦笑する。無理をしているとも取れるが、それが本心から出た台詞ならば、その若さを少々妬ましくも思う。彼も現役の頃は、かなり無茶と思えるような仕事を気安く引き受けたものだ。
「よく言うよ」
 結い上げたカーガスの髪の上に、音もなく志奇が現れる。
「僕の結界がなけりゃ、どうなってたか……」
「おだまり」
 主がぴしゃりと言うと、彼は頬を膨らませた。捕縛師長はそんな二人を微笑ましげに見つめながら、小さな護り手に声を掛ける。
「志奇もご苦労だった。お前の好きな飴玉を用意してあるぞ」
「ほんと。でも僕、飴玉より目玉の方がいい……」
 うぐ、と志奇がうめいた。口だけを塞ぐには彼の体は小さすぎるので、カーガスがきつく握り締めた結果である。
「お前は全く、人間の子供のようで可愛らしいことだ。こんなものが嬉しいのなら、幾らでも買ってきてやるさ」
 捕縛師長は飴の詰まった包みを志奇に手渡す。だが、受け取ったのはカーガスだった。
「ありがとうございます。志奇、行くわよ」
 一礼すると、彼女は部屋を出るための扉を開けた。



 ばん、と音がする。
「う」と誰かが低く呻いた。その声に聞き覚えがあり、カーガスは眉をひそめる。
「ね、姉ちゃん、大丈夫?」
 彼女が勢い良く開けた扉に思い切り激突してしまった女性は、鼻を押さえながら、その場にうずくまっている。女性の傍らにいた少年はきっとカーガスを睨み付けると、挑戦的な口調で言った。
「なにすんだよ、俺の姉ちゃんに!」
 年の頃なら、十四、五の、がりがりに痩せた少年だ。窪んだ瞳や、折れそうに細い手足も、見るからに貧相な感じがして、当然のことながら志奇とは似ても似つかない。
「とろとろ歩いてるやつらが悪いのよ。邪魔だからどきなさい」
 こういう傲慢な態度は、しかし別に相手を見ているわけではない。カーガスは誰に対してもこんな調子だ。先輩の捕縛師に叱責を受けることも度々あるが、彼女は全く意に介さない。結構な美女でありながら、なかなか言い寄る男が現れないのもその辺りに理由がある。
「なんだって!あんたなあ……」
 怒りをあらわにする少年を、立ち上がった女性は片手で押しとどめる。
「よせ、ザハト」
 女性の名は、ラエスリールといって、浮城ではその名を知らぬ者のない破妖剣士だ。陰気で友人は少なかったが、上級魔性を多々葬り去るなど、その実力は他の剣士の追随を許さない。
「ぼんやりしていてすまなかった。この通りだ」
 ラエスリールは頭を下げたが、カーガスは横を向いたまま返事もしない。それを見てまた怒りを触発されたらしい少年……ザハトが、再び文句を言いかけた時だった。
「ごめんなさい」
 すい、とザハトの前に立ちはだかった志奇が、深く頭を垂れる。
 思いも寄らない彼の行動に、カーガスは一瞬言葉を失った。は?という感じである。
「主人にかわって僕が謝ります。どうもすみませんでした」
 彼の体は小さいが、声までが小さいわけではない。普段の話し声も、普通の人間のそれと変わらず聞こえる。魔性にはそもそも声帯というものがないのだろう……ともかく、彼の今の言葉は誰の耳にもはっきりと届いた。
「ちょっと……」
 どきなさいよ、と言いかけたカーガスの唇に、志奇は小さな背中を押しつけて言葉を出させない。
 ザハトは、じっと志奇の姿を見つめていたが、やがて、随分偉そうな口調で言った。
「まあいいや。お前に免じて許してやるよ……いこうか、姉ちゃん」
 くるりと背を向け、歩きだした。
「そうだな。サティンに早く清水を持って行かなければ……」
 そんな会話をしながら、二人の姿は廊下の角を曲がって見えなくなる。

                      ※


 自室へ戻るや否や、机の上に飴玉を置いて転がし始める志奇を、彼女は指で弾いた。
「あ!」
 小突かれた志奇は、飴玉と共に転がり、机の端で踏みとどまった。予測しない攻撃を受け、幼い顔に一瞬魔性の鋭さが走ったが、すぐに穏やかなそれに戻る。弾かれたのは気に入らないけど、カーガスだからいいや……そんな顔だった。
 感情が読めてしまう魔性というのも、ある意味不気味なものではあったが。
「あ、じゃないわよ。どういうつもりなのあんた」
 掌にひょいと彼を乗せ、カーガスは尋ねた。封魔具兼装身具である指輪は既に外されているため、彼に触れる手つきには全く遠慮がない。
「なんであんな子供に頭を下げてやる必要があるの」
 志奇は上目遣いに主人を見て、それから少し困ったような顔を見せた。
「ええと……うーん……何て言うか……」
 カーガスは知らない。
 ラエスリールが連れて来た、あのザハトという子供が、ただの人間ではないということを。一部の力のある護り手は既に気付いているその事実を……カーガスは知らない。
「ごまかしたわね。まあいいわ……それと、さっき捕縛長の前で口を滑らせたわね。ああいうのもやめてちょうだい」
 志奇は賢く、それなりに強く、また聞き分けもよい。
 護り手同士のちょっとした諍いにも何ら巻き込まれることのない、かなり模範的な部類に入る護り手である。
 だが、カーガスにはどうにも理解しかねるのが、彼の趣味だ。
「別にいいだろ、死体から目玉掘り出してくるくらい。どうせ腐るだけなんだしさ」
 そう。
 収集癖のある彼が、『コレクション』と称して集めてきた眼球は、既に五百余り―これはもちろんカーガスが数えたわけではなく、彼の報告に基づくものだが―彼の得意とする空間術を応用して、彼の目にしか見えないように保存してあるとはいえ、この部屋のどこかに膨大な数の目玉があって、昼夜を問わず自分を見つめているのかと思うと、……考えただけで背筋が寒くなる。
 捨ててしまえと命令するのは簡単だったが、彼の唯一の趣味を否定するほど心の狭い主だとは思われたくない。それに、彼が執着しているのが物言わぬ眼球だけであれば、まだ許せるのだ……これがもし、自分以外の人間にだったら……。
 ずきり、と再び胸が痛んだ。指先に志奇の温もりを確かに感じていても、心の中には常に冷たい風が吹いている。彼を手に入れた時から、いずれこうなることは覚悟していたはずなのに……。
「カーガス?」
 掌の中のきょとんとした瞳と目が合う。
「なんでもないわ」
 左胸にそっと片手を当て、擦ってみた。そんなことをしても、内側からくる痛みには何の効果もないこと、知ってはいたけれど。
 指にまとわりつく護り手の、綿毛のような髪を弄びながら、問うてみる。
「ねえ。志奇は、あの女をどう思う」
 親指の先で頭を撫でられ、くすぐったそうにしていた志奇は、その言葉にふと顔を上げる。
「あの女って……ラエスリールさんのこと?」
 カーガスの指の動きがぴたりと止まる。
「さん、ですって?」
 思わず口の端がひきつるのを知ってか知らずか、志奇は無邪気に「うん」と答える。
「なんかさ、人間の間じゃ嫌われてるみたいだけど、僕は結構好きだよ。目が綺麗だしさ。あのおっかない紅蓮姫さえついてなきゃ、僕だって護り手になりたいって思うな………………あ」
 冷たく眉をつり上げた主人の顔をまともに見てしまい、彼はあわてて補足を加える。
「で、でも、カーガスも綺麗だよ、うん。ちょっと怖いけど……」
 焦った揚げ句、余計な感想までも口にしてしまい、志奇は掌から放り投げられる結果となった。
「ふん。怖いのは案外あの女の方かも知れないわよ。例の噂、知ってるでしょ」
 カーガスは寝台の上に乱暴に腰を下ろした。
 デュリーンの街に、ラエスリールと瓜二つの魔性が現れたらしい……という話が、ここ数日浮城の住人たちの間で囁かれていた。緋炎を纏ったような美貌の女魔性は、街を焼き、破壊の限りを尽くし……多くの人間の命を奪って、姿を消した。上層部は必死にその事実を覆い隠しているが、情報とはどこからでも漏れるものである。
 先日まで友人のサティンの見舞いに出かけていたラエスリールは、まだ何も知らない。だが、じきに本人の耳にも入ることだろう。実力は確かだが、その反面厄介ごとの種として皆に疎んじられている彼女に、いまは誰も嫌がらせをしようとしないのもそのせいだ。皆は得体の知れなくなった存在を遠巻きに眺め、恐れをなしている。
 破妖剣士ラエスリールは、実は魔性のモノかも知れない……。
 この噂が広く行き渡り、浮城という組織自体が世界各国から信用を失えば、行き着く先は見えていた。
「まあ、あたしはあの女が人間だろうが魔性だろうが、嫌いなことには変わりないからいいけどね。あんまりこっちの仕事の支障になるようだったら……いよいよ消さなきゃならないかもね」
 恐ろしいことをさらりと言うカーガスを、志奇はしかし微笑みながら見つめている。
「でも、カーガスに人が殺せるのかな」
 彼にしては挑戦的な台詞に、彼女はすぐに反応した。
「馬鹿にしないで。いくら人間の形をしていたって、魔性と思えば殺せるわ」
 挑発に乗りやすい性格は、己の弱みだ。それは命を縮める結果にもなりかねない……その事実に彼女はまだ気付いていない。
「とにかくあたしの前であの女の話はしないでね」
「うん。わかった」
 志奇は素直に頷くが、その後で一言付け加えることも忘れなかった。
「でも、初めにこの話題を持ち出してきたのは、カーガスの方だよ」


                      ※


 食堂は、浮城に集う人間達の交流の場所であり、また多くの情報が飛び交う場所でもある。
 外界から切り離された狭い空間の中、個性溢れる人々がひしめき合って暮らしているこの組織は、規律正しいといえば聞こえはいいが、ある意味窮屈そのもので、刺激を求める若人にしてみれば、日常の噂話に捌け口を求めるのも当然のことと言えた。
 特に女性にその傾向が強く、雑談が大好きなカガーシャや、問題児ラエスリール、そして彼女と最も親しい捕縛師サティンなどは、いつも話題の中心にいる。
「聞いた?ラエスリールがとうとう軟禁されたんですって」
 黙々とスープをすするカーガスの耳に、女性の囁き声が飛び込んでくる。
「やはりデュリーンの件は、本当だったんだな。あの女には以前から得体の知れないところがあったよ」
 答える男の声は、どこか安堵を含んでいるようにも思える。ラエスリールへの好悪の情は抜きにしても、誰であれ、厄介ごとにかかわるのは御免なのだ。仕事に出かけるたびに、事件の解決と共に更なる火種を持ち込んでくれる彼女の身動きが当分の間取れないとなれば、その間の平穏は約束されており、自分達の職務の支障になることはない……というのが大抵の人間の胸の内だろう。
 かちり、と匙を置いて、カーガスは布で口許を拭った。彼女の考えは少し違う。……もし、件の街に現れた魔性の女が、彼女と同一人物であったなら……もしくは、単なる上級魔性の悪戯ではなく、ラエスリール本人と何らかの関わりがあったなら。
 彼女はこのまま、軟禁と言う行為を甘んじて受けるだろうか。答えは……否、だ。ラエスリールにはこれまで数々の妖貴を倒してきた経験があり、さらに魔性の息のかかった者ともなれば、監視の目など振り切って逃走することは可能性として充分考えられる。そうなると、かえって面倒なことになり……今回の処置はカーガス達にとって決して快いものとは言えなくなるのだ。
 あの女のことなどどうでもいいが、余計な仕事が増えるのは嬉しくない。
 それが、カーガスの紛れもない本心だった。溜め息をつきながら、再び匙をとる彼女の耳に、穏やかな、けれど聞きようによっては弱々しい声がかけられる。


「やあ、カーガス……久し振りだね」
 振り返ると、長い髪を後ろで一つに束ねた、長身の男が立っている。
 彼の腕に寄り掛かっているのは、見たことのない女だった。顔立ちは美しかったけれど、それにも増して化粧が濃い。
「シバ。だあれ、この方は?」
 当然のことだが、美女は、彼とカーガスとの関係が気になるらしかった……もっとも、彼女の懸念しているような色恋沙汰など、ひとつもありはしないが、とカーガスは思った。
「知り合いの捕縛師だよ。ちょうどよかった。話があるんだ」
 前半の台詞は厚化粧の美女に、後半はスープの表面をつつきながら黙り込んでいる美女に向けたものである。親しくもない男に振りまく愛想など、カーガスは持ち合わせていないのだ。
「まあ。でしたら、私も……」
 同席を求める美女の言葉を、やんわりとシバが遮る。
「アイシャン……悪いけど、彼女と二人で話がしたいんだ」
 アイシャンと呼ばれた美女は、怪訝そうに彼女とシバを見比べたものの、すぐに穏やかな笑みを繕うと、「ええ」と言って背中を向けた。その後ろ姿は賑わってきたテーブルの奥の空席へと消えていく。日に焼けていない肌や優雅な物腰を見る限り、おそらくはあの美女も彼と同じ魅縛師の一人だ。
 回りは全て敵――とまでは行かないが、他人とはある程度の距離を置いて接するのが当然と考えているカーガスとは対照的に、シバは誰にでも愛想良く振る舞おうとするきらいがある。女性に対してもそれは言えることで、姿を見掛ける度に、彼の傍らには毎回違う女性の姿がある。人の好みは千差万別、当人同士のことに口出しする気などカーガスにはないが、彼女達が一体この凡庸な男のどこに魅力を感じているのか、いささか腑に落ちないことは事実である。
「座らせてもらっていいかい……」
 シバは彼女の返事も待たず隣に腰掛ける。ぎし、と椅子の軋む音がどうにも不快に思えた。彼がこれから話そうとしていることの内容が、彼女には見当がついていたからだ。
「毎度毎度、お盛んなことね。あの女で何人目だったかしら?」
 もちろん、皮肉だ。だが、シバからは反論らしき言葉が返ってこない。それどころか、軽く肩をすくめて苦笑しているだけだ。
 声を聞きつけ、新たな噂の種を見出だしたと思ったのか。それまで夢中でお喋りに興じていた端向かいの女性がふと顔を上げて二人を見る。視線の中には同情のそれも混じっており―カーガスの気性の激しさは誰もが認めていることだったのだ―彼女は逆に睨みをきかせてその抑圧をはねのけ、それからシバに向き直って一喝した。
「へらへらしないで、何とか言いなさいよ」
 巧みなものだ。返事をしなければ、まるでこちらが一方的に彼を攻撃しているように周囲には見えてしまう。
「あんたはそうやっていつも自分を被害者に、相手を悪者にしてしまうんだわ。周囲の同情を集めてその力を拠り所にして生きてるのよ」
 まるで寄生虫ね……とは、あんまりな言い様だとさすがに思ったので、口には出さない。ただ、彼女は自らの感情を叩き付けることでしか、相手の反応を得る術を知らなかった。そうすることでますます心を閉ざし、自分の殻に籠ってしまうような人間の存在を、その心の働きを、カーガスは理解できなかったし、知ろうとも思わなかったのだ。
 そういう存在を『弱い』『暗い』と決めつけ、その種の人間に出くわす度に無関心と拒絶、果ては苛立ち紛れの攻撃を繰り返してきたカーガスの、それは弱さの裏返しと言えよう。
 心に真の光を持つ人間ならば、外から忍び込む闇すらも払拭するもの。
 カーガスが弱者を頑なに拒むのは、自分もともすればその闇に引きずり込まれてしまうことを恐れている、彼女の無意識下の防衛反応に他ならない。
「そう怒鳴らないでくれよ……なにも、君を責めに来たわけじゃない」
 シバは目の前の食事には手を付けず、遠慮がちに切り出す。責めるわけではない、と言うことは、話の内容自体はカーガスに不快感を与えるものであることを意味している。
 この男は馬鹿だろうか。聞けば嫌な気分になることが判っていて、話を聞く人間がどこにいるというのか。
「聞いてくれるかい」
 人の顔色をいちいち窺うシバを、殴り付けてやりたい衝動に駆られながらも、カーガスは耐えた。 会話を拒まないのは、彼の『話』というのが気に掛かるからだ。大切な、かけがえのない護り手に関する重大な秘密を、シバが明かしてくれるのかも知れないという一抹の期待があった。
「……志奇のことなんでしょう?」
 慎重に、問い掛ける。その他の話題であれば即、席を立つつもりだった。
 志奇と組むようになって、もう随分たつ。けれどカーガスは自分でも意外な程に彼のことを知らない。人間そのものの容姿を持ちながら極めて小さな体しか保てないこと、攻撃力はさほどないが結界を張る力は特に優れていること、聡明で悪戯好きなこと、死体の目玉を集めることに命を懸けていること……あとは。
 唇を噛み、目の前の男に目を向ける。
 あとは……………………この男に惹かれて、人間に膝を折ったこと。
 悔しいが、それは揺るがせない事実として心に根付いている。
 シバは魅縛師としては極めて優秀だった。カーガスにしてみれば貧弱としか思えない細い指と、薄い唇を使って奏でられる笛の音は、これまでも多くの妖鬼たちを魅了し、浮城という組織に忠誠を誓わせてきた。
 志奇も、かつてはその一人だったのだ。
「あいつ……元気にやってるのか?」
 あいつというのが誰のことを指すのか、わかりすぎるほどわかっていた。
 だからこそ、匙を折れるほどに固く握り締め、カーガスは熱いスープを強引にかき込むのだ。そんな彼女を、シバは複雑な表情で見つめている。
「志奇のやつ、最近ちっとも姿を見せないから、どうかしたのかと思って……聞けば、護り手同志の集まりにも参加しないことが多いと言うし……」
 これまで仕事の上でも、また性格的にもあまり接点のなかった彼女に対してこうも熱心に語りかけてくるのは、志奇の身を案じているが故だ。
 主人とはうまくやっているのだろうか。辛い目に遭っているのではないか。
 そんな思いが透けて見える彼の言動に、カーガスは苛立ちを抑えることが出来ない。彼はカーガスのことを、鬼婆か何かと勘違いしているのではないか。志奇を嫌う理由など、この世のどこを探してもありはしないというのに……。
「あたしが志奇を苛めてるっていうの?」
 言葉遣いや態度がかなり悪い自覚はある。それが時折周囲の人間の反感を買う事実も知っている。けれど、彼を大切に思う気持ちに偽りはないのだ。
「どうやら話はそれだけのようね。じゃあ、さよなら」
 皿を持って立ち上がろうとすると、シバが慌てて腕を掴んでくる。
「待ってくれ。そんなつもりじゃないんだ」
「放してよ、この女好き!」
 シバは絶句する……確かに図星ではあったが。
 もっとも彼は決して女性を弄んでいるわけではない。言い寄ってくるのは大抵相手の方からで、別れを切り出すのもまた相手側から、ということが多いらしく……つまり、明確な意思を持たない彼の軟弱さが、遊びたい盛りの女性側から見れば楽な男と映るのだろう。
「放せと言うのなら、放すよ……だから聞いてくれ」
 盆を持って近付いてきた人間が、二人の間に流れる険悪な空気を察し、そそくさとその場を離れ、遠くの席につく。
「何よ。まだあの子に未練があるわけ?あんたは夢依を選んだんでしょ」
 夢依というのは、彼の相棒の名前だ……そう、シバは彼女を護り手として選び、その結果、カーガスは志奇を得た。
「あいつらのことは、本当に可愛かったんだ……双方ともだ」
 煮え切らない自身に苛立ったのか、シバは毛髪をかきむしった。カーガスは露骨に嫌な顔をして、抜け落ちた毛が入らないように、スープの皿を腕でかばう。
「しかし、セスランのような特例を除いては、一人の人間に二体以上の護り手がつくことは禁じられているから……俺だって辛かったさ。志奇、夢依……どちらか選べと言われて、片方の手を離さなければならなかったんだから……」
「ええ、確かに、優柔不断のあんたにとっては、辛い選択だったでしょうね」
 同意するような言葉をかけておきながら、その裏には静かな怒りが潜んでいる。
「志奇は確かにあんたに魅縛された。でも、あの子はあたしの護り手よ。あんたのじゃないわ」
 過去がどうあれ、今、志奇が守護しているのは自分であって、この男ではない。
 シバもそれは重々承知しているだろう。ただ、一個の生命体を束縛し、その生涯を他者の……人間の為に奉仕することを強いる、魅縛師の責任はあまりに重い。
「俺にはあいつの幸せを見届ける義務がある」
 魅縛を行い、それに成功したとしても、肝心の浮城が彼らを受け入れるか否かは判らない。洗礼を受けさせ、情操教育を一からやり直すことから始まって、城長に敬意を、人間に愛情を抱くように教えこみ……そして、各個、己にもっともふさわしい主を見つけて、幸せになるまでを見届けて初めて、魅縛師の任務を全うしたと言えるのだ。
 彼がいなければ、志奇はカーガスと出会うこともなかった。そのことに感謝こそされても、恨まれる筋合いはない……シバの言い分はそんなところだろう。
 同時にそれは『シバ』の言い分にすぎなく、カーガスの方には、憎む理由は……十二分にある。
 身勝手な感情であることは承知している。
 それでも……この男は、志奇を捨てた。
 どんな言い訳も、その事実の前には霞んでしまう。
「あたしたちのことに口を出す権利はないはずよ」
 勘のいいあの少年は、シバの話をするたびに不機嫌になる主を見て、いつしか彼の名を口にしなくなった。彼女はなおさら不安になる。心の底では、意地の悪い、嫌な女だと思っているのでは……と。「だったら、大事にしてやってくれ。俺の分まで、愛してやってくれ……頼むよ」
 頭を下げられると、またしても自分だけが悪者にさせられたような気がして、唇をかむ。
「言われるまでもないわ」
 がたり。
 隙を突いて素早く席を離れると、縋るようなシバの視線が追いかけてくる。それを欝陶しく思う気持ちは、先程までと何ら変わりはなかった。
「あんたさえいなければ全部うまく行くのよ。もう二度と、志奇の前に顔を出さないで」
 言い放った後、彼女の胸を占めたのは、どうしようもない敗北感だった。
 過去は消せない……それゆえに、無駄だとは思う。
 志奇とシバを、物理的に遠ざけても同じことだ。どこまで逃げても、いつまでも切れない糸のように、彼の影は追ってくる。自分と志奇とのつながりは、所詮彼がいなければ成り立たないものだったのだろうか。シバを間に挟まなくとも、どこかで別の形での邂逅が待ち受けていたはずだと……そう思うのは都合のいい考えなのだろうか。
「もし、あたしが……」
 シバよりも先に、志奇と出会っていたら…………。
 いいえ、とカーガスは首を横に振る。
 考え出したらきりがなかった。今の彼女がすべきことは、一刻も早く自室に帰って……彼の笑顔を見て、安心を得ることだったのだ。


                      ※


 ヒステリックな女捕縛師が、自分の言いたいことだけ言って去って行くその後ろ姿を、シバは呆然と見送った。
 料理は既に冷めきっている。椅子に座り直し、瞼を伏せた彼は、しばらく動く気配もなかった。
 ……だが、やがてその口許に暗い笑みが浮かんでくる。
「あんたさえいなければ、か……」
 固く握り締めた拳は、何を意味するのか。
「その台詞、そのうち君に返すことになるかも知れないよ……カーガス」
 告げると同時に、空間が揺らいだ。
「ふうん、そういうこと……」
 不意に頭上から振ってきた声に、彼は体を震わせる。
『あの子』だ。
 また、覗き見していたのか……。
 紙の焦げるような匂いと共に、天井の一角の空気が澱み、そして―――。
 肩の上に、頭のみを用いて逆立ちするような格好で、ひとりの幼女が現れる……本来足であるはずの部分には、ゆらゆらと燃える青い炎。その体の小ささとあいまって、遠目に見ると人魂のような輪郭を作っている。
「やっぱり、まだ志奇のこと気にしてたんだ」
 瑠璃をはめ込んだような双眸が、逆さから鋭く見据えてくる。
「夢依……」
 苦い思いが胸中を占め、彼は護り手と目を合わすことをしない。聞かれてはまずい内容であった。「急に使いに出てくれなんて言うから、おかしいと思ったわ」
 あたしは何でもお見通しなんだから…………と、悪戯っぽく笑う。その笑顔にかつては惹かれた。けれど、誰にでも立ち入って欲しくはない領域というものはある。それを侵すのであれば……こちらにも考えがある。
「……頼んだ用事は済ませたのか」
 居直りとも言える、抑えた声音で彼は問う。夢依はぷいと顔を背けると、彼の肩の上でゆっくり回転する。
 彼女の瞳には、シバの姿しか映っていない。
「お願いだから他の女……ううん。他の人は見ないで。あたしだけを見て。でないとあたし、何をする か判らないよ」
 きらりと瞳が光り、それが脅しではないことを予感させる。
 彼女が恋人との逢瀬を邪魔したことは、一度や二度ではないのだ。
 ああ……誰か。
 永遠に続くかと思われる束縛に、シバはそっと瞳を伏せた。
 誰か俺を救ってくれ……と。
 思う側から声が重なる。
『救うさ……』
 誰の声なのか、疑問すら今は感じない。
 既に彼はシバの一部となっていた。
 シバ自身となっていた。
『救ってやるよ……ここから出してやるよ』
 こことは、どこだ?
 この窮屈な組織から?
 欝陶しい女たちから?
 煩わしい任務から?
『すべてさ』
 自らの意思で、自らの道を決定することに彼は疲れ果てていた。
 それには責任が常につきまとい……既に決定したことに文句をつける輩も出てくる。
 彼は疲れ果てていた。

 ゆえに………………………………………………
 彼が『彼』に全てを委ねるのに、そう時間はかからなかった。



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