書庫 安らげる子(セスラン×衣於留)


【注意】※このセスランはサティンに片思いしてません





とある日の事。セスランと衣於留はサティンの部屋に誘われ、優雅に紅茶を飲んでいた。
「どう?一番摘みの葉のお味は」
実家から送られてきた木箱を部屋の隅に押しやりながらサティンが尋ねた。
箱の中には、紅茶の缶がぎっしりと詰まっていた。
友人を部屋に招く事が多いサティンのために実家が気を利かせてくれたのだろうが、現在サティンを始めとする『ラエスリールの保護者』たちは、浮城内でかなり孤立した存在となっていた。
とても自分一人では飲みきれないからという事でセスランたちが急遽助っ人に呼ばれたのだ。
かぐわしい紅茶の表面を見つめながら、セスランは感嘆の息を洩らす。
「ダージリンですか……これに蜂蜜でも入れたら最高なんですが」
「贅沢言わないでくださいな、セスラン。紅茶を飲むたびに蜂蜜なんかいれていたら、お給料が全部とんじゃうわ」
ただでさえ仕事ほされてるのに、などと言いながら、サティンは衣於留の前にカップを置いた。
「さあ、衣於留もどうぞ」
「ええ……」
セスランの隣の席に座っている衣於留は、何故か元気がない。カップに口をつけるが、すぐに離してしまった。
そのさまに、サティンが顔を曇らせる。
「もしかして、美味しくなかった?」
「え?あ、いいえ。そんな事はないわよ」
衣於留は耳元の黒髪をさらりと掻き上げると明るく笑った。
その表情に陰りを感じたセスランは、優しく問い掛けた。
「ミルクとお砂糖もありますけど、どうします?」
衣於留は、試すような目で彼を見た。
「……坊やはどうするの?」
セスランは苦笑する。
「その『坊や』というのはやめていただけませんか。せめてお兄さんと」
セスランは若い頃(今もある意味では若いが)一度衣於留に会っている。
その時の印象があまりにも強かったせいか、彼女はいまだにセスランを小さな子供扱いする。

「昔の事でも思い出したのか?」
不意に、サティンの背後から男の声がした。
鎖縛だ。
「あら、紅茶の匂いにつられた魔性がいるわ」
主人のからかいを無視して、姿を現した鎖縛は壁に背中を預けた。黙ってしまった衣於留をじっと見つめる。
セスランはこの無愛想な護り手に尋ねてみた。
「昔の事、とは?」
鎖縛は衣於留と旧知の仲だった。セスランと出会う以前の彼女をよく知っている。
「お前に答える必要はないと思うがな」
そっけなく鎖縛は答えた。
衣於留は目を閉じ、額に手を当てた。頭痛をこらえる時の表情に似ている。
「ごめんなさいね。気分が優れないので、やっぱり失礼するわ」
「え。えーと、衣於留?」
サティンが慌てて立ち上がったが、その時にはもう、衣於留は姿を消していた。
テーブルの上には紅茶のカップが、口をつけないままの状態で残されていた。
「どうしたのかしら」
魔性は本来自分勝手な生きものだ。だが、気紛れな誰かさんや、不器用な誰かさんならいざ知らず、いつも明るく社交的な衣於留が、その場の雰囲気を壊すような行動をとったことに、二人は呆然としていた。
ただ一人事情を知っているらしい鎖縛は、眉間に皺を寄せていた。
「古傷を抉っちまったか……」
「どういうことです?」
再び尋ねたのはセスランだった。はぐらかすことは許さない、とその瞳で告げている。
「教える義務はないと言っただろう」
彼よりも力で勝っている鎖縛は、余裕の表情を崩さない。
サティンは手を伸ばし、護り手の片腕をぎゅうっとつねった。
「つっ!……何だよ、乱暴な女だな」
そう言いながらも、サティンに向ける鎖縛の表情には、セスランに対する時のような冷ややかさはない。
それを解っているのか否か、彼女は厳かに告げた。
「黙らっしゃいな。何か知ってるのなら素直に白状しなさい」



「ふう……参っちゃうわね」
衣於留は、食堂でため息をついていた。
長い黒髪の先には、別に枝毛など出来ていないが、する事がないと何となく指でもてあそんでしまう。
夫と息子を亡くしたのはもう何十年も前のことだ。
だから大丈夫だと思っていたのに、紅茶の薫りを嗅ぐとつい思い出してしまう。幸せだったあの頃のことを。
幼い息子の誕生日を家族で祝った。
料理は得意ではなかったが、奮発して生菓子を作った。息子には蜂蜜をたっぷり垂らした、夫には砂糖抜きの渋めの紅茶をいれた。
そして、あれが一家最後の団欒となったのだ。


『おのれ!』


怒りは深紅の炎となって、周囲を焼き尽くした。
『よくもわたしの夫を、坊やを奪ってくれたわね、参叉っ!』
自分に懸想するあまり許しがたい暴挙に出た妖貴の名前を、彼女は溢れだす憎悪とともに呼んだ。
『仕方がなかったのだ。全てはお前を取り戻すため』
愛しい彼らを殺めたその両腕を広げ、参叉は不気味に笑った。
『さあ、衣於留。今度こそわたしのものに』
『ふざけるなっ!』
彼女の叫びは空気を震わせ、森や大地を深紅の奔流に飲み込んだ。
『殺してやる……千々に引き裂き、息絶える瞬間まで、地獄の苦しみを味わわせてやる!』
衣於留が人間の男と恋愛の真似事を始めたのは、単なる暇つぶしだと参叉は思っていたらしい。
確かに、最初はそうだった。
けれど一緒に過ごしていくうちに、衣於留は彼から大切なことを教えられた。
人の心の温かさ、老いることの素晴らしさ、自分の中にもう一つの命が生まれたことの喜び。
全てが、一瞬のうちに奪われた。



『参叉、どこに隠れた!出てらっしゃい』
相手が既に退散したことにも気付かずに、彼女は少しでも気配を感じた場所に灼熱の業火を放った。
『ここか!』
『ここかっ!』
視界に入る全ての物が、衣於留にとっては敵だった。
力を削り、命を削り、衣於留は自分自身さえも破滅に追い込む寸前だった。
街で妖貴が暴れているという知らせを受けた浮城の人間どもが、衣於留に向かって、槍や剣を繰り出した。
「静まれ魔性め!お前のせいで幾つの街が焼けたと思っている!」
それが何だというのか。街はいずれ復興するが、大切な人の命は二度と戻らない。
彼女の意識は、もはや正常ではなかった。がむしゃらに襲い掛かってくる人間を、蝿を追うように手のひらで弾いた。
人間の柔らかい体は水風船のように破裂して、深紅の液体が飛び散った。
『あの人を返して……あの子を返してえっ!』

「かわいそうに…………」
いっそ静かとさえ言える声が、衣於留の意識をほんの一瞬だけ正常に戻した。
彼女が作り出した血の海の中に、彼はいた。
仲間の返り血を全身に浴びて、それでも臆することなく彼女を見つめている。
まだ年若い、青年だった。不思議な色をした瞳を持っていた。
魔性である衣於留に対する怒りや、攻撃の意志は微塵も感じられない。
「あなたをそこまで追い詰めたものが何であれ、わたしは見過ごすわけにはいきません」
初めて聞く声だというのに、それはとても懐かしく、彼女を安堵させた。
坊や、と衣於留は擦れた声で呟いた。
彼は倒れた仲間の懐から何かを取り出した。
「あなたの力は強すぎて、今のわたしには受けとめられませんが……」
穏やかな瞳で衣於留を見つめ、彼は白木を掲げた。
それが封魔具と呼ばれるものであると知ったのは、ずっと後のことだ。
「代わりにこれを使います。どうか眠って下さいね」
封じられようとしているのに、不思議と腹は立たなかった。
守ることが出来なかった息子の面影が、目の前の青年に重なった。
心が甘い安らぎに満ちていく。
「お眠りなさい……安らかに」
再び薄れゆく意識の中で衣於留が最後に目にしたのは、強風に揺れるブロンズの髪だった。




「衣於留」
優しい声で名前を呼ばれて、彼女ははっとして顔を上げた。
目の前にはあの時と同じ…………いや、むしろ若返ったような印象さえある捕縛師の青年が、にこにこ笑顔で立っている。
「ああ、坊や……じゃなくて、セスラン。さっきはごめんなさいね」
近付いてくる気配に気付かなかったとは、本当にどうかしている。まあ、この青年が人間離れしているせいもあるのだろうが。
「いいんですよ。鎖縛から全て伺いました」
セスランはわずかに苦笑して、衣於留の向かいの席に腰を下ろした。
「わたしたちはもう少しお互いの理解が必要ですねえ」
「鎖縛……か。いつからそんなお喋りになったのかしらね」
衣於留は遠くを見つめた。
誰にでも忘れてしまいたい過去はある。あの青年はそれが判っているはずだ。
「いえいえ、わたしたちが無理に聞き出したんですよ。探るような真似をして申し訳ありませんが」
セスランは彼女から目を逸らさずに言った。
「あなたの事は、わたしもずっと気になっていたんです。何しろ、あんなに幸せそうな顔をして封じられた人は初めてでしたから」
彼は衣於留の心を素手で鷲掴みにするようなことは決してしなかった。ただ興味本位で傷に触れたがっているわけでもない。
「ええ」
衣於留の顔に笑みが浮かぶ。
「封じてくれた事、感謝しているわ。あのままだったらきっとわたしは壊れていた」
自暴自棄になっている間、何人の命を奪ったか覚えていない。
その中には確かにセスランの仲間もいたのだ。
けれど衣於留を見つめる彼の視線はとても柔らかく、彼女の心の鎧を溶かしていく。
「わたしね、旦那と約束したのよ。どちらが先に死ぬことになっても、互いの生を全うしようって」
セスランが僅かに目を瞠った。
それは昔、彼の父と母からも同じような台詞を聞いたからなのだが。
「途中で生きることを放棄してしまったら、あの世で旦那に合わす顔がないわ」
言って、彼女は艶やかに微笑んだ。
先程までの何かをこらえるような表情は失せている。
セスランもつられて笑った。
悲嘆にくれて無駄に費やした年月を取り戻すために、衣於留は生きなければならない。
「それはつまり……」
セスランが、妙に思わせ振りな口調で言った。
「わたしと一緒に、やり直してくれる気になったということですね」

がたがた、と派手な音がした。
少し離れた席で聞き耳をたてていた捕縛師が、椅子からずり落ちた音だった。
「今の発言はよからぬ誤解を受けたのではない?」
二人の会話を立ち聞き──正確には座り聞きだが──していた青年は、後頭部をさすりながら食堂を出ていった。
彼は上層部の息がかかった者だから、この事は速やかに、現城長に報告されてしまうだろう。
「まあまあ、うるさい外野は放っておけばいいんですよ」
セスランは彼に聞こえよがしにそう言うと、おもむろに立ち上がって、衣於留の手を取った。
「さて、それではわたしの部屋で飲み直しましょうか?」
今度は誰に見られているか判りませんからねえ。
衣於留の耳には、そこまで聞こえていた。
「あなたって、本当に面白い坊やね」
手をひかれながら、衣於留は半ば呆れていた。
周囲の好奇の目を彼は気にしている様子がない。
この図太さをいつまで保ち続けることが出来るか、興味があった。
「でも、飲み直すと言っても、わたしは……」
その先を云わせまいと、セスランが言葉をかぶせた。
「紅茶が駄目なら、緑茶がありますよ。粗茶ですが」
さりげない優しさも、その底にあるしたたかさも、昔と全く変わっていない。
手のひらから伝わってくる温もりで、衣於留は束の間、悲しい思い出を拭い去る。


「ええ…………それなら、頂くわ」




──おわり──


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