※チェリクの過去編が出る前に書いた話です ※オリキャラいます その少女の姿を初めて見た時、マンスラムは一瞬、呼吸をするのも忘れていた。こんなに美しい生き物が、この世に存在して良いのだろうかと思った。 彼女が現れた瞬間にでも、その場の空気ががらりと変わる。皆が息を詰めて彼女の肢体を凝視する。 それほどにチェリクの美貌は特異だったのだ。 長い、長い……手入れの行き届いた黒髪は磨きあげられた鏡の表面のような光沢を放ち、睫毛に縁取られた双眸は極上の翡翠、唇はその人の意志の強さを示すかのように、きつく引き結ばれて紅い。 気が付けば部屋に集められた子供たちの誰もが、ぼうっと魅入られたように彼女を見つめている。 「綺麗な子……」 「どこから来たのかしら」 「きっとどこかのお姫さまなんだわ」 「でも、だったらどうして浮城なんかに」 子供たちの好奇に満ちたざわめきが聞こえているのかいないのか、チェリクは微塵も表情を変えずマンスラムの隣の席に静かに腰を下ろした。 そのままじっと正面を見つめている。 何となく落ち着かず、ちらりと彼女の方を見るが、表情に変化はない。 「さて、これで全員揃ったわね?」 きちんと結い上げた黒髪と空色の瞳が美しい城長は、謁見室に集った十四・五人の子供たちに向かってにっこりと微笑みかけた。 「それではまず私から皆さんに自己紹介を」 三十代後半とおぼしき黒髪の女性はそう言って椅子から立ち上がると、東の国独特の深いお辞儀をして見せた。 「ようこそ浮城へ。私は城長のアレン・テノールです」 母譲りの美貌と父譲りの聡明さを併せ持つ城長は、背筋を伸ばし凛とした声で言い放った。 「浮城の明日を担う若い才能がこれだけ集まってくれた事を、私はガンダル神に感謝します。あなた方は本日から浮城の一員。人々を魔性の脅威から護るべく、己を磨き、日々鍛練を積むのですよ」 マンスラムは膝の上で拳をぎゅっと握っていた。 小さな胸が、どきどきしていた。 お空の上でいちばん偉い城長さまが、今私の目の前にいる。話をしている。 しかも噂に聞いていたよりずっと美人だった。これからはこの人の下で働けるんだ。夢のようだった。 マンスラムは幼い胸を期待に高鳴らせながら、ふと隣に座るチェリクを見た。そしてぎょっとした。 入室するや否や皆の注目を集めまくった絶世の美少女は、何と椅子に座ったまま堂々と居眠りをこいていた。 かくん、かくんと一定のリズムで細い首が動いている。 城長の声を子守歌に、気持ち良さそうに瞼を閉じているその横顔はとてつもなく愛らしい。 ただし、その可憐な唇の端からは透明な唾液が垂れているのだったが……。 「ね、ねえ、ちょっとあなた」 この時点でマンスラムはまだ彼女の名前を知らなかった。 肩を掴み、小声で彼女を揺り起こそうとした。 「起きなさいよ…ねえ、ねえってば」 しかしチェリクは起きる気配がない。 それどころか、 「うーん……もうお腹いっぱい」 完全に寝呆けている。 マンスラムが呆れて肩を落とした時、壇上から鋭い声が飛んできた。 「そこっ!何をしているの!」 先程まで穏やかな表情を浮かべていたはずの城長は、 居眠りしているチェリクを見付けるや否や鬼のような形相で歩み寄ってきた。 「あ……」 うろたえるマンスラムを差し置いてチェリクの前に立った城長は、眠りこくっている彼女の頭を掴むと強引に上を向かせる。 「いい度胸をしているわね。私の話はそんなにつまらなかったかしら?」 さすがにここまでされれば目が覚める。 チェリクはまだ焦点の定まらない目で城長を見ながら、恐いもの知らずにも言った。 「つまらなくはなかったですけど。少し話が長いかな、って」 城長が顔をひきつらせた。 マンスラムは真っ青になり、その場にいた子供たちもしんと静まり返る。何という事を言うのだ、この美少女は。 城長は皮肉げな笑みを浮かべてチェリクを見下ろした。 「父上がよく言ってたわ。他人を責める前に自らの行動に過ちはなかったか、よく考えてみろと」 青い瞳がわずかに陰る。 「けれど母上はこうも言っていたの。淑女を育てる為には子供のうちから厳しくしつけることが肝心だ、とね。……廊下に立ってらっしゃい」 ぴしゃりと叱りつけられると、チェリクは大欠伸をしながら席を立った。反省の色は全くと言っていいほど見当たらない。 彼女が退室してから、マンスラムは大きく息を吐いた。 ああ、人は見かけによらないってこの事ね…。 チェリクの第二印象が、それだった。 城長との初顔合わせが終わり廊下に出ると、チェリクはまだそこに立っていた。 顔が横を向いていると睫毛の長さがより際立つ。 身につけている服はマンスラムのそれより質素なものだったが、却って彼女の美貌を引き立てる結果になっていた。 人形のような美少女。 しかし何を考えているのかその表情からは窺い知ることは出来なかった。 「あら」 見つめ続けるマンスラムの視線に気付いて、チェリクが顔を向ける。 「終わったの?じゃあもう帰ってもいいのね」 「いいえ。あなたにはこれから反省文を書いてもらいます」 背後で、それも頭上から声が降ってきて、マンスラムは飛び退いた。 後ろに、恐い顔をした城長が立っていた。 「浮城の民たるもの、落ち着きと誠意なくしては任務を請け負うことは出来ません。チェリク」 城長はマンスラムを素通りして彼女の前に立った。 「あなたはその外見から今まで大切にされて育ってきたのかも知れませんが、ここでは甘えなど一切通用しないという事を覚えておきなさい。さあ、こちらへ」 城長はチェリクの手を掴んだ。 「何すんのよ!」 美しい少女は、その手を思い切り払い除けた。 唖然としているマンスラムと目が合うと、何を思ったのか、彼女に駆け寄って背後に廻り込んだ。 「お願い、助けて!」 驚いたのはマンスラムである。 「え、ちょ、ちょっと……」 うろたえる彼女の背中をぐいぐい押しながらチェリクは叫んだ。 「何とかしてよ、親友でしょっ!」 絶句する。一体いつからそうなったのだ? 「往生際の悪い子ね。いいから早くいらっしゃい」 城長は城長で、マンスラムの存在などまるで無視している。 背後に隠れたチェリクの事しか目に入っていないようだった。 その態度にマンスラムは少し傷ついた。確かにチェリクは生意気で目立つ。教える側にとっては、地味な優等生よりも多少手のかかる子供の方が、可愛く思えるという事も知っている。 しかしそれにしても、二人してマンスラムの存在を壁のように扱うとはあんまりではないか。 「待って下さい、城長様」 だから、彼女は思わず言ってしまった。 チェリクを庇おうとしたのではない。ただ、城長に自分の存在を訴えたかっただけなのだ。 「彼女は長旅の疲れが出てしまったんだと思います。居眠りしたのも、きっと悪気はなかったんです」 赤い顔をしてマンスラムは一気に喋った。憧れの城長と、直接会話をしている。その事実が彼女の胸を高鳴らせていた。 「あなたは?」 城長の青い瞳がマンスラムを見た。間近で見てもやはり綺麗な女性だった。 彼女は両手を広げて、背後に居るチェリクの姿を城長から隠した。 「あたしは……こ、この子の親友ですっ!」 重ねて言っておくが、チェリクを庇おうとしたのではない。マンスラムは城長に憧れていた。彼女のような女性になりたくて、浮城入りを決意したと言っても過言ではない。 それなのにチェリクばかりが城長に構われているのが悔しかった。 だから両腕を出来るだけ広げて、城長の視界いっぱいに自分の姿が映るようにする。あたしもここにいます、と。 「親友?」 城長がうろんな顔をした。 「あなた達は今日が初対面のはずでしょう。 そんな嘘をついてまでこの娘を庇って何の得があるというの?……えーと、あなたは」 「マンスラムです」 彼女は内心肩を落としながら言った。 やはり、まだ名前を覚えてもらってはいないらしい。そんなに自分は、印象が薄いのだろうか。 「何でもいいわ。とにかくその娘を渡しなさい」 手を延ばしてくる。マンスラムは後退した。 「いやです!」 それは明らかに嫉妬だった。 城長に目をかけてもらえない悔しさが、彼女にチェリクを庇うような行動を取らせていた。 「その辺りにしておきなさい」 落ち着いた女性の声に、マンスラムは振り返った。 そこには、小柄で優しそうな、年配の女性が立っていた。髪には白いものが混じっているが、背筋はぴんと伸びて凛々しい。 腰に大振りの刀を差している。それが「破妖刀」と呼ばれるものだとは、彼女はまだ知らなかった。 「シェズラ破妖剣士長、邪魔をしないで。躾というのは最初が肝心なのよ」 城長のきつい口調にも、女性は怯まない。 「彼女が居眠りをしたのはあなたの話がつまらなかったからではないの?相手は子供なのよ。もっと分かりやすく簡潔に話してあげなければ」 城長はふんと鼻を鳴らした。 「破妖剣士長は甘すぎるわ。あたしは父上とは違う。他人の失態を庇うなんて事、絶対にしない」 マンスラムはぎくりとした。城長が一瞬、泣きだしそうな顔をしたように見えたからだ。 「もうおよしなさい、アレン。今回はこの二人の友情に免じて許してあげましょう」 破妖剣士長がすいと前に歩み出た。その顔と変わらぬ優しい声で、マンスラムたちに言った。 「さ、お行きなさい」 「え……でも」 マンスラムは、もっと城長と話がしたかった。 だが破妖剣士長が目でうながすので、しぶしぶその場を離れる事にした。 後ろ髪を引かれる思いというのは、まさにこんな事を言うのだろう。せっかく仲良くなれる機会だったのに。 仕方なく、廊下をすたすた歩いていると、同じような足音が後ろからついてくる。 マンスラムは眉をしかめて振り返った。 「いつまでついてくるわけ?」 チェリクは手を後ろで組んだまま、にこにこ笑っている。 「あらぁ、だってぇ、あたしの部屋もこっちなんだもんね」 マンスラムは懐から一枚の紙片を引きずりだした。 そこには、浮城に引き取られた子供たちが、これから寝泊まりする部屋の割り振りが書かれている。 何と、『マンスラム』の個室の隣には、『チェリク』とあった。悪夢である。 「悪いけど少し離れて歩いて」 早足で歩きながら、マンスラムはそっけなく言った。こんな綺麗な娘と一緒にいるのなんて絶対に嫌だ。引き立て役など御免である。 「そんなあ。あたしたち親友じゃない」 だから、いつからそうなったのだ!? 「あれは成り行きよ、成り行き!」 マンスラムは更に早く歩いたが、チェリクも歩く速度をはやめる。両者の距離は一向に広がらない。 「じゃあどうしてあたしを庇ってくれたの?結構嬉しかったんだけどなぁ。あたし女の子に助けてもらった事ってないから」 でしょうね、とマンスラムは心の中で呟く。 この類い稀なる美しい少女との出会いは、これからの彼女の運命を大きく変えることとなる。 だが、今はまさかそんな事は、予想できるはずもなかった。 「あーあ、もうやんなっちゃうわ」 シーツの上に仰向けに寝そべりながら、チェリクは盛大な溜め息をつく。 口さえ開かなければ大層な美女であるのに、その仕草には慎みのかけらも見いだすことは出来ない。 艶のある長い黒髪、伸びやかに成長した手足はマンスラムの寝台から余裕ではみ出る代物で……同じ女性として嫉ましく思ったのは、しかし最初のうちだけだった。 今ではもう、彼女が部屋に押し掛けてくるのにも、どうでもいい話を一方的にして去っていく事にも慣れてしまった。 「何が気に入らないの?結構な話じゃない」 鏡台の前でマンスラムは髪を梳いていた。 あくまで人事、といった態度を取ったのが悪かったのか、黒髪の美女は不機嫌そうに顔をしかめる。 「だったらあなたがやればいいじゃない、城長!」 「あのね……」 マンスラムは振り返ってため息をついた。 「あなたはアレン様直々にご指名を受けたのよ?光栄な事だとは思わないの?」 出会った頃は予想もつかないことだった。 まさかこの娘が、次期城長に任命される事になるとは。 人間離れした美しさに加え、突出した魅縛の力をも持って生まれた彼女は、しかしそれを鼻にかけるどころか、煩わしく思ってさえいるようだ。 「引き受けてしまいなさいな。あなたほどの力の持ち主が一介の魅縛師に納まっているなんて、勿体ないわよ」 マンスラムにしてみれば、悩む理由の方が分からない。 何しろ、引き受ければ史上最年少の城長の誕生である。 わずか20代で、世界を股にかける独立組織の頂点に立つのだ。いかなる国の王も大臣も、城長には命令できない。それは、この上なく名誉な事であるはずだった。 「マンスラムは疑問に感じないの?この組織の在り方を」 チェリクは、天井を睨み付けたまま言った。 「あたしは時々分からなくなるわ。自分たちがしている事が本当に正しいのかどうか…」 これまでその瞳で数々の魔性を魅縛してきたチェリクの初めての弱音に、マンスラムは驚いて櫛を置いた。 「何を言い出すの…あなたは。そんな事を考えていたの?」 次期城長候補ともあろう者が、浮城を否定するような発言を。 「あたしも昔は、魔性って極悪非道な生き物だとばかり思っていたわ。だけど魅縛師として色んな魔性と関わるようになって…話してみると、みんないい子たちだわ。それぞれ自分の信念を持って行動している。魔性を一概に悪と決め付けてしまうのはどうかと思うの」 「チェリク……」 「やっぱり、あたしは城長の器ではないわね。情に流されてしまって冷静な判断が出来ないわ」 チェリクはぺろりと舌を出した。寝台から半身を起こす。 「愚痴っちゃってごめんなさい。もう帰るわ」 マンスラムも慌てて立ち上がった。 「本当に断るつもりなの?もっとじっくり考えた方がいいんじゃない?」 そう言ってしまった後で、俯く。考える猶予は、チェリクにはないのだ。 城長が病の床に伏せってから、もう半年近くたつ。 余命幾ばくもない城長に代わり、今は破妖剣士長のシェズラが城長代理を務めている。 しかしシェズラは城長よりも遥かに年長であり、既に激務に耐えられる年令ではない事は皆が知っている。 早く次代の城長を立てねば、浮城の存続は危うい。 「候補の名前は他にも幾つか挙がっているしね。そのうちの誰かがなるでしょうよ」 「あたしは、あなたに城長になってもらいたいわ」 チェリクは笑って首を横に振る。 「器じゃないって言ってるでしょ?」 マンスラムは拳を握った。 「どうして……あなたはいつもそうなの?何もいらないって顔をして、そのくせ何もかも持っている」 嫉妬は醜い。解っていても止められるものではなかった。 「マンスラム?」 怪訝そうに尋ねる友の声が、ひどく神経に障った。 「何故あなたなの。何故、次期城長に選ばれたのが、あたしではなくてあなたなの?」 チェリクは息を飲んで彼女を見た。 「あたしが必死で努力しても手に入れられないものを、あなたは生まれつき手中にしていて……なのにそれを要らないと言い切るのね。それがどれだけ傲慢な事か、あなたは理解している?」 「マンスラム、あたしは」 チェリクが何か言い掛けたが、構わず続けた。 「美貌も、力も、城長様の愛情も。全て独り占めしておいて、その責任も取らずに逃げ出す気なの」 チェリクは唇を噛んだ。 彼女はプライドの高い女だった。罵倒される事にただ耐える性格ではない。 「逃げたりなんてしてないわ。あたしには荷が勝ちすぎると言ってるの」 しかしマンスラムも引かなかった。 「いい、自分の力を疑うということは、あなたを推薦したアレン様のお目を疑う事でもあるのよ」 チェリクは唇の端を歪めた。 「マンスラムは、アレン様命だものね。あたしの意志より城長のそれが大事なのよね」 マンスラムがこの時もう少し冷静であれば、チェリクの口調に僅かながら淋しさが含まれていた事に気付いただろう。 しかし頭に血が昇っていた彼女に、チェリクの心情を汲み取る余裕などなかった。 「そうよ。城長様より大切な人はいないわ」 チェリクは目の前に立つ友人を睨みつけた。 「なら、あたしが城長になればあたしを一番大切に思ってくれるわけね?」 「な……!」 余りにも突拍子もないことを言い出すチェリクにマンスラムは絶句したが、美しい友人は意を決したように告げた。 「解ったわ。そこまで言うのなら、アレン様ともう一度話をしてみるわ」 「来てくれたのね……」 城長は寝台に横たわったまま力なくチェリクを見た。美しかった顔には病魔の影が落ち、声からも以前のような張りが失われている。 このあたしが母上と同じ病にかかるなんて、と弱々しく呟いて、彼女は目を伏せた。 「城長さまはどうして、お子様を残さなかったんですか」 チェリクは彼女の枕元で手拭いを絞りながら尋ねた。 「子供が……後継者がいれば、わざわざあたしなんかを指名することもなかったのに……」 絞った手拭いをそっとアレンの額に当てる。城長はふうと息を吐いた。 「そうね。確かにあたしは、父上と母上……そしてシェズラから城長の地位を譲り受けたわ」 チェリクは入城の際に習った、歴代の城長の系図を思い浮かべる。 アレンの母親は33代城長フレンダ、父親は34代城長のアルス・テノールだ。 彼女はこの二人の間に生まれた、まさに純血種の城長と言えよう。 「滅魔の力は遺伝するもの……もちろん、子供がいればその子に後を継がせたでしょう。でも、産む相手がいなかったのだから仕方がないわ。父以上の男性が現れるのを待っていたら、いつの間にかこんな齢になってしまった…」 ふうん、とチェリクは呟いた。 「やはり、あの噂は本当だったのですね。アレン様がご結婚なさらないのは、今もお父様に恋焦がれているからだと」 アレンは苦笑した。 「まあね。とんでもない頑固親父だったけど…母上をとても深く愛していたわ」 チェリクは椅子に腰掛けて足を組んだ。 「あたしにはまだよく解りません、そういうの。人を好きになった事がないんです」 口先だけで愛を語る男たちには、いい加減嫌気がさしていた。かと言って仕事一筋に生きるほどの熱意もない。 美貌の才媛ともてはやされ、何事も要領よく、そつなくこなしてきたチェリクだったが、時々ふと虚しさを感じる事がある。自分には何かが欠けていると思うのだ。胸を熱くさせるような、夢中になれるような何かが。 「でも、マンスラムの事は好きでしょう?」 唐突に言われ、チェリクは面食らった。 「それは…好きですけど」 お人よしの、マンスラム。あの生真面目さ、穏やかさにチェリクはどれだけ癒されてきたことか。 だが改めて口にすると何やら照れる。アレンはくすくす笑いながら続けた。 「なら、その気持ちを大切になさいな。失ってからでは遅いのよ、何もかもね」 確かにもう遅いかも知れない。 いつもチェリクの愚痴に黙ってつきあってくれていたマンスラムが、今回初めて憤りの感情をぶつけてきたのだ。 いや、本当は以前から怒りたかったのかも知れない。 昔からしつこくつきまとうチェリクを欝陶しく思っていたのかも知れない。 それを思うと、胸が引き絞られるように苦しくなる。 「あなたは本当は誰かに認めてもらいたいのよ。美貌や力でなく、生身のチェリクという人間を愛してくれる人を求めているのでしょう。違う?」 チェリクは俯いた。 「そうかも知れない。でも、あたしには人の上に立つような資質はないと思います」 「ならば名目上の城長でも構わないわ。一刻も早く伴侶を見付けて、その人に指揮を取ってもらうことね…あたしの母上のように」 33代城長はその実権の殆どを夫に委ね、自分は着飾って外交の場に現われ、その美貌を利用して首相たちを次々に陥落させていたという噂だが、事実は定かではない。 「あたしにも、そんな人が見つかるでしょうか」 深く、愛されたい。そして愛してみたい。願望は絶えず胸のうちにあった。 それを表に出すほど愚かではなかったが、ひょっとしたら今からでも遅くないかも知れない。 「城長になってから探すのも悪くないでしょう?世界は広いわ。外に出ていかなければ掴めない事だってある……」 アレンはそろそろ話すのも苦しそうだった。 咳き込みながらチェリクの手を求め、強く握る。 「お願いよ…父と母の残してくれたこの浮城を、こんな所で沈ませたくない……シェズラが元気なうちに、彼女から出来る限りの事を教わって欲しいの。次代の城長に、どうか……」 握った手が小刻みに震え始める。 「アレン様っ!」 チェリクは強くその手を握り返した。城長は天井を仰いで苦しげな息を吐いた。 「大丈夫よ……ね、お願い」 傍らにいた医師がチェリクに目で退室を促す。これ以上の会話はもう無理だ。 彼女はそっとアレンの寝台を離れた。 「また、来ますね……」 部屋を出ると、チェリクは俯いたまま歩き始めた。 確かにアレンの言った事は正しい。彼女は自分の存在を認めてもらいたいのだ。 けれどチェリクが努力すればするだけ人は遠ざかる。 チェリクは特別だから、他の人とは違うから、と皆は口を揃えて告げる。最初から彼女と勝負しようとさえしないのだ。 この上城長の地位を得てしまったら、ますます敬遠されてしまうのではないだろうか? それとも、責任ある仕事に就くことで、新たな道が開けるとでも? 部屋の前に友人が立っているのを認め、チェリクは驚いて駆け寄った。 「どうしたの」 マンスラムは申し訳なさそうに目を逸らす。 「その。さっきはごめんなさい。八つ当たりをしてしまって……」 チェリクは首を横に振った。彼女が謝る必要などない。いつも迷惑をかけているのは、こちらなのだ。 「ううん、あたしこそ、ごめんなさい」 何ともいえない沈黙がおりる。 考えてみれば、もう十年以上一緒にいるのに、まともな喧嘩などしたことがなかった。 チェリクが愚痴り、彼女は黙ってそれを聞く。当たり前のように彼女に甘えてきた自分に気づき、チェリクは心から申し訳ない気持ちになった。 先に口を開いたのはマンスラムの方だった。 「ねえ、あたしは本当に、あなたにアレン様の後を継いで欲しいと思っているのよ」 その瞳に、迷いはない。彼女の声は細く、優しく、とても透き通っていた。 分かってる、とチェリクは頷いた。 「解っているわ。あなたは私と違って冷静な人だもの。任務のためなら、私情を抑える事の出来る人だものね」 チェリクは今までずっとそんな彼女の優しさに支えられてきた。だからこれからは、きっと自分の番だ。 「あたし、城長やってみるわ。うまくいくかどうか自信ないけど」 扉を叩く音がして、マンスラムは日記を書いていた手を止めた。顔だけをそちらへ向けて返事をする。 「どうぞ。開いてるわよ」 きい、と扉が開いた。 現れたのは目を瞠るような美女だった。 城長の要職に就いてからは生来の美貌に加えて凄味も増してきた。けれどマンスラムにとっては昔と何ら変わりない友の姿だ。 「どうしたの、こんな遅くに」 チェリクのために椅子を引いてやりながら、マンスラムは尋ねた。 「また長たちと衝突でもしたの?」 城長チェリクの手には蒸留酒の瓶が握られていた。 栓は開いている……中身はもう三分の一ほどしか残っていない。 少し顔色が悪いのは、飲みすぎたせいだろうか。チェリクは出された椅子に腰掛けると、俯いて頭を抱えた。 「ねえ……マンスラム。信じられる?」 日記を机の中にしまいながら、彼女はチェリクの垂れた黒髪を見た。 俯いているためその表情は伺えないが、震えているようにも見えた。 前城長とその補佐役の女性たちは、既にこの世にはいない。 城長を支える三人の長は、現在は全員男性である。 チェリクはどうやら最近彼らとうまくいっていないらしく、夜になると酒に酔ってはマンスラムの自室を訪れ、昼間の欝憤を晴らすのだった。 「何が?」 マンスラムは彼女と向き合って穏やかな口調で尋ねた。 城長として多忙を極めるチェリクの支えになってやれるのは、自分しかいない。 気性の激しさやプライドの高さなどから誤解を受けやすいけれど、この美女が見た目ほど強くはないことを、マンスラムはよく知っている。 チェリクは俯いたままぽつりと言った。 「……魔王を見たわ」 聞き慣れない言葉にマンスラムは眉を潜めた。 「魔王?」 彼女は妖鬼以上の魔性を見たことがなかった。 漆黒の色彩を纏う上級魔性の存在は知識としてはあったが、人の力をもってしては対抗出来ないとされている彼らについて考えを巡らせるのは恐ろしく、浮城の住人もよほどの事がない限り話題に持ち上げる事はしない。 だが、今確かにチェリクは『魔王』と言ったのだ。 魔王とは即ち魔性の王であり、数多の魔性の頂点に君臨する者である。 妖貴の中でも突出した力を持ち、漆黒の色彩さえ凌駕するほどの鮮やかな色を纏い、それぞれ固有の能力を操ることが知られている。 彼らは『妖主』と呼ばれ、人前には滅多に姿を現さない。浮城の文献を紐といても、妖主に関する記述はごくわずかだ。 唯一『柘榴の妖主』と呼ばれる存在だけは、浮城の長い歴史の上で頻繁に姿を見せている。 だがその彼にしても謎が多い。 妖主が本気で浮城を潰そうと思えば容易いことなのだ。なのに彼らはそれをしない。人間の細やかな抵抗など端から相手にしていないということだろうか。 だからこそ現在の浮城があるのだ、ともいえる。 「魔王って……」 マンスラムの問いにチェリクは頷いて言った。 「信じられないでしょう?……あたしも初めて見たわ。恐ろしかった。今まで見た誰よりも綺麗な男だった」 「男?どんな」 マンスラムは身を前に乗り出した。 「蜂蜜を陽光で溶いたみたいな、鮮やかな金色の髪をしていたわ。瞳も同じ色。でも空虚なの。何も映していなかった」 チェリクは黒髪を掻き毟り、深く長く息を吐いた。 「化け物じみた美貌。何の感情も映さない、冷酷な瞳……あれが魔王なのね。あんなのと対峙していたあたしに乾杯だわ。飲みましょうマンスラム」 言ってチェリクは頭上に酒瓶を掲げた。けれど中身は彼女が殆ど空けてしまっている。 マンスラムは苦笑した。 「酔っているのね、チェリク」 「これが酔わずにいられますか!」 酔いが襲ってきたのか、彼女はろれつの回らない口調で叫んだ。 「おかげで、さっきまで捕縛師長たちの小言がうるさかったのよ。あたしが何かしでかすんじゃないかって、決め付けてるのよね。もう、頭にくるったらないわ」 妖主の性格については不明だが、魔性の王なのだから極めて残酷な性質であることは疑うべくもない。 そういう輩と対峙してしかも無傷で帰ってくるとは、強運だけでは片付けられない問題だ。 マンスラムは膝をすすめた。 「一体何を話したのよ?大丈夫だったの?」 チェリクはいつものチェリクだった。魔性の気配は感じられないし、ひどい事をされた様子もない。 こちらの心配をよそに、彼女は、目元を赤らめてにやりと笑った。 「一月後、同じ時、同じ場所で」 「え?」 問い返すマンスラムの背中を、チェリクはばんばんと叩いた。 「あはは、なーんでもないわよー。こっちの話」 かなり酔っている。 その晩、酔いつぶれて眠ってしまった彼女を部屋に泊めることになったのは、言うまでもない。 彼女はそれからも頻繁に、魔王と会っているようだった。遅く帰ってくるチェリクを問い詰めるのは、いつもマンスラムの役目だった。 「この事、長たちに報告はしたの?」 「してないわ」 「駄目じゃないの。あなたは城長なのよ、もう少し自覚を持って頂戴。もしあなたの身に何かあったら、わたしは……」 チェリクは少し笑った。 「大丈夫よ。もう、マンスラムってば心配症なんだから。あたしには旺李もいるし、ちょっとやそっとの事じゃ死んだりしないわ」 言い切ったチェリクの笑顔にほんの少し陰りが見え始めたのはその頃からだった。 初めの頃は魔王の悪口ばかり言っていたが、ある時を境に、彼女は急に無口になり、考えに沈むことが多くなった。 「ねえ、マンスラム……あたし、旅に出ようかしら」 いつものようにマンスラムの寝台を独占しながら、チェリクは天井を見上げてぽつりと呟いた。 彼女の甘えだと判っていたので、マンスラムはぴしゃりと言った。 「疲れているのはわかるけど、逃避はいけないわよ。旅に出るのは次の代の城長を決めてからにしなさい」 すると、チェリクはくすっと笑った。 「そうね。後継ぎを決めて自由になったら…その時はマンスラム、一緒にいかない?」 チェリクの誘いを、彼女は少し考えた後断った。 「遠慮しておくわ。わたしにはとても、あなたのような生き方は真似できない」 世界を回り、美しい花を見て、涼やかな風を見て、温かい人を見て。規律に縛られない自由。 憧れるがマンスラムはやはり『安定』を求めてしまう。 帰る場所のない生活、明日の保障のない人生など耐えられないだろう。 「でも、その代わり。あなたが旅に疲れて帰ってきた時は、いつでも迎えてあげるわ」 マンスラムはそう言って美しい友を見た。チェリクは驚いて彼女を見返す。 「わたしはここを離れて暮らすことは出来ないけれど、あなたがもし羽根を休めたい時は、必ず浮城に戻ってくるのよ。約束よ」 沈んでいたチェリクの顔に、ゆっくりと笑みが戻ってくる。 泣きそうな表情にも見えた。 「そうね。約束するわ」 起き上がった彼女はマンスラムに向かって手を伸ばした。 マンスラムもそれを受けて手を差し伸べる。 小指と小指が、空中で優しく絡み合った。互いの温もりを指先に感じる。 「約束よ。どこにいても何をしていても、必ずわたしの所に戻って来るって」 マンスラムはもう一度念を押した。 チェリクはいつもの彼女らしからぬ小さな声で、「ええ」と呟いた。 城長が忽然と姿を消したのは、それから約一年後の事であった。 あの時の混乱を、マンスラムは今でも脳裏に思い描く事が出来る。 檻の中に捕らえられて尋問を受ける旺李、当時の長たちに掴まれた肩の荒々しい感触と、彼らの血走った瞳。 「マンスラム、城長と一番親しくしていたのはお前だ。何か聞いていないか」 魔王の事が瞬時に頭に閃いた。 だがマンスラムの理性がそれを否定する。 「いいえ……いいえ。わたしは何も!」 檻の中の旺李と目が合った。彼女は首を横に振っていた。 お願い、何も言わないで。目が語っていた。 ああそうか、とマンスラムは思う。 旺李は多分全てを知っていて、チェリクを逃がしたのだ…。 ならば自分も口をつぐもう。 チェリクが再びマンスラムの前に姿を現し、全てを話してくれる時まで、ここで彼女の帰りを待っていよう。 それから、長い時が経った。 帰ってこない友を待ち続けるマンスラムは、城長に就任していた。 山のような書類を前にうんざりしていると、不意に執務室の扉がノックされた。 「はい、どうぞ」 帰ってきたのは落ち着いた青年の声だった。 「執務中申し訳ありません。捕縛師のセスランです。城長さまにお話が」 仕事に出掛けていた部下が帰ってきたのだ。マンスラムは書類を机の右端に寄せた。 「どうぞ。入っていいわよ」 扉が開き、ブロンズの髪が印象的な青年が姿を見せた。 マンスラムは穏やかに微笑みながら尋ねた。 「長旅、ご苦労だったわね。あら……?」 マンスラムは眉を潜めた。青年の背中に隠れている小さな少女の存在に気付いたのだ。 「セスラン。その子は……?」 顔から笑みが消えていくのに、さほど時間はかからなかった。 青年の服にしがみつくようにして震えているその少女の体は、ひどく痩せている。黒髪は乱れて艶がなく、大きすぎる印象を与える琥珀の瞳は、やや怯えたようにマンスラムを見上げていた。 相似があったわけではない。あの輝かしい美貌の友とは、似ても似つかない。 なのに、何故だろう。気が付けば、マンスラムは椅子を蹴飛ばすようにして駆け寄っていた。 「チェリク……!」 少女がびくりとして身を引いた。 マンスラムは絨毯の上に膝をついて、少女と目線を合わせた。 腕を伸ばし、胸の中に抱き締める。 「あ…」 少女がわずかに反応して声を洩らす。その光景を見守りながら、セスランが静かに言った。 「旅先で見つけた子です。魅了眼の素質がありますから、ぜひ浮城に……」 痩せた少女の体を抱き締めながら、マンスラムはこみあげてくる涙を抑えることが出来なかった。 少女はどうしたらよいか分からないらしく、ただ抱擁に身を任せている。 『約束よ』 唐突に、チェリクの言葉が思い出された。 『必ずあなたの所に戻ってくるわ』 友との約束は、守られた。チェリクは確かに戻ってきたのだ。形を変え姿を変えて。 マンスラムは嗚咽を洩らした。困惑する少女を抱き締めながら。 セスランは黙って二人を見ている。 「説明してちょうだいな、セスラン」 涙を拭いたマンスラムは、既に毅然とした城長に戻っている。少女を体から離し、これから自分がするべきことを真摯に考え始めている。 そんな彼女に、セスランは深く頷いた。 「そうですね。何からお話しましょうか……」 そうして、また新たな物語が始まる。 チェリクの忘れ形見である少女と、破妖刀紅蓮姫の辿る数奇な運命が。 ──おわり── 戻る [*前] | [次#] ページ: TOPへ |